心のオアシス
心のオアシス 2011年5月8日
ある青年の証です。
彼は教会には通っていましたが、ずっと暗い過去を背負っていました。母親を早くに失い、毎晩ウィスキーを飲んで、寂しさをまぎらし、過去の辛い思い出を忘れようとしていました。ある日、教会の牧師が彼に尋ねました。「過去の出来事で、何が一番心の傷になっていますか?」すると青年は答えました。「母と卵を売り歩いたひとです。」雪の北海道で少年は、母親について、一軒一軒、卵を売り歩きました。しかしどこへ行っても、「いらないよ」「間に合ってるよ」と冷たく追い返されました。幼いながらも、そういう母親の姿を見て、可哀想になり、みじめにも思えてきました。そして「自分がこうなったのは、母親のせいだ!」と裁き当たるようになりました。やがては母親のイメージは、すっかり崩れてしまいました。そして母親の死に直面したのです。
牧師はそんな青年に言いました。「君が思い出したくない、その情景を、イエス様の前に開いてお見せしてごらん・・・」冬の北海道での、あの辛い情景を回想しているうちに、青年の顔がゆがんでいきました。しばらくして、滝のように涙を流し始めたのです。長い時間が経過しました。彼は涙を拭ってこう言いました。「牧師先生・・・イエス様が母の卵を全部買ってくれました。」
青年の心の傷は、この時を境にして癒されていきました。そして母親に対するイメージが変わり、優しく温かなものに回復していったのです。「お母さん、ありがとう。」青年は、そんな母親を持ったことを感謝し、誇りに思うように変えられたのです。
人間同士の問題は、身内であっても他人であっても、なかなか修復するのは難しいと思います。なぜならお互い自分が正しいと思っているからです。それが罪の姿なのです。そして人間はこの罪のトゲによって相手を刺してしまい傷つけ合うのです。人間が直接的に人と触れ合うと、自分の持っているトゲの故に、相手を傷つけてしまいます。しかし間にイエス・キリストを挟んで媒介的に近づくと、痛みも和らぎますよ。
心のオアシス 2011年5月1日
一度も愛されたことがない人物が、他者を愛することはできるのでしょうか?
イスラエルを旅したときに、私は一人の初老の黒人がこのような話をするのを聞きました。「私は生まれてすぐに、両親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいったのです。彼は親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはないでしょう。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています。」そう語る男性は、柔和で、穏やかで、愛されている人の顔そのものでした。
70年近い人生を過ごしてきて、一度も親の顔を見たこともなく、愛を受けたこともなく、抱かれたこともない人生とは一体、どのようなものであったのでしょうか。私はショックでした。このような人物を、誰がどのような言葉をもって励まし、慰めることができるでしょうか?
しかし私が驚いたことは、そのような人がイエス・キリストと出会った時から変えられ、愛と希望に満ちた人生へと変えられている事実でした。
どんな人でも変えられます!癒されます!満たされます!
心のオアシス 2011年4月24日
社会に出て、ある程度落ち着き始めた何人かの大学の卒業生たちが、同窓会をすることになり、今は引退した教授の家を訪ねることにしました。大学時代の思い出話に花を咲かせていたのですが、だんだんと自分たちの仕事や人生のストレスに対する愚痴をこぼすようになりました。
教授はキッチンへ行き、ココアを入れた大きなポットと、色々な種類のカップを持ってきました。カップには、陶器のものやガラス製やプラスチック製、いくつかは質素で、いくつかは高価なものもあり、また、いくつかは上品で美しいカップもありました。めいめい好きなカップでココアをついで飲めるように置きました。みんながそれぞれ好きなカップをとってココアを注いで手に持った時、教授は言いました。「見てください。質素なカップや、安っぽいカップを残して、みんな美しく高そうなカップを手に持っています。あなたが、自分の最高だけを求めている間は、それがあなたの問題になり、ストレスになります。どのカップを使ってもココアの品質には何の影響も与えません。高価すぎる器に気を取られて、飲んでいるものが何なのか、わからなくしてしまっていることだってあります。みんなが本当に欲しいのは、ココアであって、カップではないのです。考えてみてください。人生はココアです。そして、みんなの仕事やお金や地位はカップです。それらは人生を支える道具にしかすぎません。あなたが持っている器は、あなたの人生の質を限定したり変えたりするものではありません。時々、カップばかりに気が取られてしまって、神さまが私たちに備えてくださっているココアを楽しむことができないことがあります。神さまはココアを作られ、人はカップを選びます。最高に幸せな人は、全てに最高を求めない人です。彼らは今持っているものを最高のものとしているのです。質素に生き、惜しみなく愛し、最大限に助け、優しく話しなさい。そしてあなたのココア(人生)を楽しみなさい。」
私たちも現実に縛られないで、神さまが与えてくださっている人生を楽しもうではありませんか! ハッピーイースター。
心のオアシス 2011年4月17日
一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。死ぬ時期も近いある夜に、消灯時間が過ぎても寝付かれないでいるその子のために、若い看護師が本を読んであげたそうです。やがて静かな寝息をたて始めましたが、その看護師は、なお30分近くもベッドサイドに寄り添ってあげていたそうです。その子どもの死後、母親はその看護師にこう語りました。「あの子がその夜、ふと、薄目を開けてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためだけに本を読んでくれる人が多いのに、本当に嬉しかった』と言っておりました。」
大病を患う心細い病床で、人の出入りが少なくなり寂しくなる病院で過ごす夜に、一緒にいてくれる人がいたら、どれだけ心強いでしょうか。
ブランデンという詩人が「祖先たち」という詩の中でこう唄っています。「記録にもとどめられず 世に知られないで 人は死んで行く・・・君達の生活のほんの一瞬間もとどめられてはいない・・・」
なんと虚無に満ちた詩でしょうか。これが現実ならば、人間の生は、何の意味も持たず、ただ虚しく現れては消えて行く霧のようなものであります。
イエス・キリストは語ります。「わたしはいつもいつまでも、あなたと共にいます。」神は30分どころではなく、いつもいつまでもご一緒してくださるというのです。このお方とご一緒する人生には、安心があり、生き甲斐があります。
虚無の詩とは対照的な河野進さんの詩をご紹介します。
わたしが病むとき 主イエスさまも病んでくださる
わたしが苦しむとき 主イエスさまも苦しんでくださる
わたしが喜ぶとき 主イエスさまも喜んでくださる
十字架にかかってまでも愛してくださる
おお 主イエスさま み名をさんびするありがたさ
心のオアシス 2011年4月10日
私の神学校時代の同級生の中に青木かのゑさん(現在86歳)という私とは母親以上に年の離れたご婦人がおられます。数年前にご自分の壮絶な人生を綴った証集を出されましたが、その中でも、結婚秘話には驚かされました。その内容はこうです。
1950年ごろから「クリスチャンを与えてください。」と祈り3年後、教会の牧師を通してある青年の方とのお話がありました。(本人曰く、「自分の好みのタイプではなく、到底受け入れがたい男性だった」とのこと)そんなことでなかなか先生にご返事することができませんでした。祈る度に心に残る御言葉は、「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえにわたしたちもまた兄弟のために命を捨てるべきである」(Ⅰヨハネ3の16)の聖書の言葉でした。そこで「祈って与えられた機会だから、私もこの人のために命を捨てよう」と決意して結婚したのです。ところが結婚して2ヶ月後、そのご主人が肺結核になり肋骨9本を取り、片肺摘出の大手術を受けました。ご主人が働けませんから生活は貧しい状況でしたので、かのゑさん自身が働きなんとか生活しました。身内からは、「結婚するまで病気のことを、あの人は隠していたんだ。お前は騙されていたのだから今なら別れても誰もお前を批判するものはいないぞ。」彼女はもっともなことだと思いましたが、その危機の中でも愛は冷えることはありませんでした。なぜならその愛は感情とか好き好みに土台したものではなく、「この人のために命を捨てよう」という決意のよるものだったからです。
それから不思議なようにしてご主人は回復され54年間の結婚生活が守られたとのことでした。
神が人を愛するというとき、聖書の原文には「アガペ」という言葉が用いられています。これは感情によるものではなく、条件付きでもない、何ができるできない関係なく、神を知っていても知らなくても、ただ一方的な決断による「愛」なのです。世の愛も物資も不安定です。しかし神の愛は変わりません。あなたも愛の安定供給受けてみませんか?
心のオアシス 2011年4月3日
若い男女がひょんなことから顔見知りになり、いつの間にか二人の間に恋がめばえ、結婚するに至ったというケースがいくつかあります。
ゴンベイ先生こと内越正俊牧師は、学生時代に聖書を読み、初めて教会の門をたたいた。教会に入ると、受付の女性が「名前と住所をここに記入してください。」と言ったので、「いやです。」と断りました。なぜなら、後で入信させられたりしたら困るからです。そうするとこの女性は、「そうですか。名前がないなら名無しのゴンベイですね。」と言いました。それで先生のニックネームはゴンベイとなりました。そしてその時の女性が今の奥さんだそうです。
もう一つ紹介します。母教会の大川牧師の母校・青山学院大学の0教授のケースである。学生時代のある日、横浜駅のプラットホームを急ぎ足で走っていた。あまりあわてたので前にいた女学生にぶつかり、なんと、ハカマの中に足を突っ込み、いっしょに階段を転げ落ちてしまった。恥ずかしくて、何とお詫びをしてよいのやら、ほうほうのていで逃げ帰った。次の日、駅で昨日の女学生と会ってしまい、「昨日はどうもすいません。」と少し離れたところからお詫びした。一週間ぐらい経って、また駅で再会。「先週は失礼しました。」と謝る。一ヶ月ぐらいすると、また駅で会ってしまい、顔を赤らめながら、「先月はどうも失礼しました。」と詫びる。その「ハカマの女性」は、今の奥さんだそうです。
「人生は出会いで決まる」と言われますが、結婚のパートナーだけではなく、どのような人に出会うかによって、良くも悪くもその人の人生が大きく左右し、影響を与えていくものです。そして日々出会う全ての人は、神さまから送られてきた存在として受け留めるならば、苦手な人でも、少しは優しくなれるのではないかと思います。
本日、洗礼を受けられるご夫妻も、沢山の不思議な出会いの中で、牧師と出会い、そしてイエス様とお出会いなさいました。イエス・キリストとの出会い、そのお方とご一緒するならば、必ずその人の人生に平安と安息が与えられることを保証します。God bless you!
心のオアシス 2011年3月27日
聖ルカ病院の日野原重明先生は、99才の現役です。先日、朝日新聞(3月3日)のオピニオン欄に書かれた文章です。
『挑戦する限り老いない』今年私は100才を迎えます。これまでの人生は助走段階で、さあ、これからジャンプだという感じですよ。
日本では50才代で肩たたき、60才で定年です。しかし、米国の大学では、やる気と実力があればテニュア(終身在職権)を取得し、生涯働き続けられる。実力さえあれば学外から研究費を獲得し、大学に貢献もでき、定年はない。 私などは100才に近づくほど、だんだん音が大きくなるクレッシェンドのようになる。講演の数が年々増え、より生産的になってくる。これまでの人生で、引退して悠々自適に過ごそうと思ったことはありません。業を終えるという意味での卒業や定年は、私にはない。現在も病院の理事長をはじめ、さまざまな財団や学会、学校の理事や会長など90近くの役職に就いていますが、多くがボランティアです。困った人を助けるボランティアの仕事は無限にある。報酬が発生しない自由な立場でリーダーシップを持ってボランティアの仕事をやるときの生きがいは大きい。人は生きがいを感じながら年を重ねれば、いつまでも若くいられる。皆さんにもぜひ、ボランティアをやってほしい。
それと、歳を取ったから引退するのではなく、それまでにやったことのない未知のものに挑戦してほしい。やったことがないからできないというのは、能力がないのではなく、ただ単にそれまで能力を発揮する機会がなかっただけなんです。やったことがないから、なんて言わずに、とにかくやってみようとポジティブに生きる。哲学者のマルチン・ブーバーは「人は創(はじ)めることを忘れない限り、いつまでも老いない」と言っています。いくつになっても前向きな気持ちで、新しいことに取り組めば、できるんですよ。(後略)
自分の年齢や能力や環境などを盾にして逃げ腰余生を送る人たちも沢山いますが、99才の先生に言われると言い訳できません。私も体は衰えるでしょうけれども、気持ちはいつも若者たちの模範であり続けたい。
心のオアシス 2011年3月20日
ここ数ヶ月の間に聖書入門セミナーを受けられた数名の方々から、「自己実現と神実現のお話を通して、今までの疑問が解決しました。」と言われました。自分を中心に物事を考えるから、さまざまな歪(ヒズミ)が人生や社会、人間関係に起こるのだということに納得いくというのです。
「聖書に隠された成功法則」(松島修著)の抜粋ですが・・・現代科学では、天動説が間違いで地動説が正しいとされています。物理的には、視点(座標)の違いによる表現の違い、見方の違いであり、どちらも正しいともいえます。地球に住む人にとっては、つまり地球を中心に考えるのであれば天動説より地動説のほうが圧倒的に楽で分りやすいので、現在では地動説を基準にして天文学ができています。地球中心で考えるのではなく、宇宙全体から考えるほうが本来の見方だからです。
天動説とは、太陽や月や星や空が動いている、すなわち地は固定されていて、天が動いているのだという昔考えられていた説だそうです。地球を中心に考えるとその通りだと思います。地動説は、地球の方が動いていて、星が動いているように見えるという考え方です。
私たちの人生も同じく、自分を中心に考えることもできますが、神の視点から物事を考え見ることもできます。生まれつき不自由な人を見てイエス様の弟子達がこのように質問しました。「この人がこうなったのは、本人のせいですか? それとも両親の責任ですか?」それに対してイエス様は、「これは本人でも両親でもない。神の栄光があらわれるためですよ。」とおっしゃいました。これは神視点で考えるとそうなるのです。
「東日本大震災は何故起こったのか?」と専門家は分析したり、ある知事の「日本人の物欲・肉欲を一掃するために起こったんだ」と心無い発言も飛び出ました。しかし私がした最近のメッセージに、全ての出来事は神さまが救い主だというサイン(しるし)だと考えるなら、この災害を通してどんな人間も無力であることを悟り、救いを神に求める為のサインだと考えるべきです。被災された人々の犠牲が無駄にならないように、それ以上にキリストの十字架の死が無駄にならないようにと祈ります。
心のオアシス 2011年3月13日
CGNTVに、「毎日幸せになる時間」という番組があります。その中でハーヨンジョ先生がこのような詩を朗読しておられました。
私たちは時々、神さまが約束を守らずに、遅らせていると考えます。
しかし、神さまは、約束を忘れることも、遅らせることもありません。
アブラハムの生涯を通して、このような事実を学ぶことができます。
神さまがアブラハムに与えようとされた信仰の時間は25年でした。
しかし、彼はその期間を耐え抜けずに、何度も倒れました。
失敗し、疑い、挫折しました。
しかし、神さまは、一度もそのご計画や時間を変えることなく、アブラハムを激励し、悟らせながら、信仰の人として造り変えました。
あなたは放棄しても、神さまは放棄なさいません。
あなたは忘れても、神さまは忘れません。
私たちを通して計画されたことを、必ず成し遂げられます。
これまで信仰の眠りについていたなら、たましいの目を覚まし、信仰が回復されますように願います。
神さまのタイミングと私たちのタイミングは違います。なぜなら、私たちは過去・現在・未来という時空の中に生きていますが、神様は四次元以上の永遠という時空に存在されているので、それは私たちにとっての千年は一秒のような感覚でしょう。そのような神さまがあえて時間を創造されたことには深い意味があるということです。待ち、耐える時間を通して、実は私たちは訓練され育まれているということなのです。
目に見える現実の世界では時間がかかっても、神さまは、確実に私たちの人生を導いてくださっています。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」
(イザヤ書49章15節)
心のオアシス 2011年3月6日
先日、心温まるある人の体験談を聞きました。
関空から羽田まで飛行機で移動するため、ある航空会社のカウンターでチケットを買おうとしていました。シートの値段を見るとエコノミー料金に千円足せばスーパーシートというグレードアップされた席に座れることがわかり、その席を取りました。機内に入ってみると、何とエコノミークラスの席よりスーパーシートの方が混んでいる状況でした。指定の席に座って回りを見ると、隣に小さな男の子が座っているではありませんか。「小学生のくせにスーパーシートに座るなんて・・・」と思っていると、男の子は斜め前の席に座っている母親らしき女性に手を振ったり、向こう側に座っている人に目配せして合図したりで、どうも一家族全員がスーパーシートに座っているのがわかりました。やがて飛行機は離陸しましたが、途中乱気流に入ってしまいシートベルトをしていなければ、天上にぶつかるほどの酷い揺れでした。悲鳴をあげる人、後ろでは吐いている人の気配がしたりと、今まで経験したことのない揺れに機内は騒然としました。ふと、隣の少年を見ると、身動きせず、乱れることなく平然と席に座っていました。乱気流から脱し、やがて羽田空港に着陸するアナウンスがあり、機長から特別なメッセージが発せられました。「今日は、私の最後のフライトでした。パイロットとして、今まで一度も事故がなく安全に飛べたことが私にとって最も嬉しいことです。これからも当社を応援してくだされば幸いです。本日はありがとうございました。」すると、隣に座っていた男の子が大きな拍手をしました。それにつられるようにして、皆が拍手しました。「大した小学生やな~」と思っていたのですが、着陸してからわかったことは、この男の子は機長の孫だということでした。この男の子の「僕のお爺ちゃんは失敗することなく必ず安全に運んでくれる」という全幅の信頼によって、乱気流の中でも平静でいることができたのです。
私たちの人生の機長はイエス・キリストです。乱気流があろうと、何が起ころうと大丈夫! 一度委ねてみられたらいかがですか?