礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年7月10日

ガッツ石松さんは、伝統のプロボクサーです。1974年に世界チャンピオンになってから、5度目の防衛線の時でした。慢心してしまい暴飲暴食のため、体重がどんどん増えていきました。防衛戦3ヶ月前は、なんと体重が19キロもオーバー。さすがに反省し、過酷な減量を開始しますが、10日前にまだ10キロもオーバー。飲まず食わずのロードワークなどで、1日1キロ落としていきました。2・3日前になると、階段を上る力もなくなるほど苦しみました。口が渇き、唾液が飲み込めず苦しむと、付き添いの若者が背中をさすりながら泣いていました。「彼も俺に夢を託している」と実感し、その後、計量をパスして右アッパーによる14回KOでベルトを守りました。彼は言います。「一人ではチャンピオンにはなれない。みんなの支えがエネルギーになりました。」
ガッツ石松さんは、子供の頃は自分勝手なガキ大将だったそうです。体の弱い父親は定職がなく、母親が力仕事で家計を支えていました。兄弟は4人、家は貧しくいつも腹をすかせていました。周囲のさげすみの目に怒りをもち、食べるために他人の畑から野菜を盗みました。転機となったのは、中学2年のときに問題を起こし、家庭裁判所に父親と行った帰り道の出来事です。生まれて初めてラーメン店に入りました。父と子、2人で1杯だけ頼んだラーメンを、このとき自分一人で食べてしまいます。すると、父が残りのスープに水を足して飲み干したのです。「あっ!・・・」父親の空腹にさえ気付かない無神経さに腹が立ち、泣きたくなりました。そして、この時に少年は決意するのです。「悪さをやめて、両親を貧困から救ってやる!」それがボクシングを志す動機となりました。ガッツ石松さんがチャンピオンになれたのは、家族、ジムの人たち、みんなの支えがあったからなのです。
 私たちも夢がかなうとしたら、それは誰かが支えていてくれるからです。ここに私たちが存在することさえも、天地万物を造られた神が支えてくださっているからこそなのです。是非、造り主なる神を知る人生を選び取られることをお勧めいたします。

心のオアシス 2011年7月3日

私の幼い頃は、戦争ごっこをよくしたものです。ところが、不思議にも、私はいつも負けていました。こてんぱんに殴られて、いつも目に涙をためて家に帰ったものです。こういう場合、一般的に母親の反応はどのようなものでしょうか。「男の子のくせにやられてばかりで!」とどなるでしょう。「恥ずかしくないの?」と叱ったり、子どもを殴った相手の家に行って怒ったりする母親もいるでしょう。アメリカのファーストレディーであったヒラリーの母親は、ヒラリーにいつもこのように言ったそうです。「やられたら、やり返しなさい!」しかし、私の母は決してそのように教えはしませんでした。母は、殴られて返って来た私に言いました。「友だちに負けたくないでしょう? おまえが友だちに勝つ方法は、ただ一つよ。それは、イエス様をしっかりと信じることだよ。イエス様をしっかりと信じることが、戦いに勝つ方法なのよ。」
 イエスをしっかりと信じることが勝つ方法なら、友だちと戦争ごっこをするときも、イエスのように反応することが正しいことではないでしょうか。殴られたからといって殴り返したり、戦争ごっこはいやだからと言って友だちを遠ざけることではありません。今まで、母の教えのおかげで、私は他人に負けることが苦にならずに生きてきました。世俗的な価値観とはまったく違った聖書的な価値観を持っていた母の教えのおかげで、私は全世界に多くの友人がいます。
(パク・スウン著「私たちパパとママになりました」より抜粋)

 私はこの世の価値基準の中で苦しんだ時代がありましたが、聖書に触れてから徐々にに価値観が変わりました。そして苦しみがいつのまにか消えていたのです。そして自分の子どもたちがこの世の基準で苦しまないように、こう教えてきました。「学歴やお金があってもなくても問題ではないよ。もし自分が誇るためのものになるのならそんなものはない方がいい。もし神さまのために用いるのであれば得てもいいでしょう。」
勝ち組とは誰でしょうか?イエスを神の子と信じる人です。(Ⅰヨハネ5:5)

心のオアシス 2011年6月26日

ニューヨーク在住のリカルドという一人の男性の実話です。
この街には様々なモラルの乱れがあります。男性が女装して売春するということが盛んに行なわれるような地域もありました。リカルドは、ホルモン療法で、喉仏以外は女性にしか見えない男性で、商売上の名前は「サラ」で通っていました。その街にある教会が伝道計画を立てたところ、女装したリカルドが教会へ来るようになりました。彼は仲間の内で一番のワルで、年下の仲間全員にコカインや売春を教え込んでいました。十年以上もそんなことを続けた彼は虚しさを感じ始めました。彼は明け方近くまでかけて400~600ドル(約5万円)稼いで、それを一晩で全てコカインにつぎ込んでしまうのです。橋の下でまどろんで、朝目覚めると食べ物を探しにゴミ箱をあさり、日が暮れるとまた同じことを繰り返すだけの生活・・・ 
彼は教会の礼拝をかさねるごとに、自分は変わることができるかもしれないと思うようになりました。このイエス・キリストという方なら、麻薬から自分を解放し、ひょっとすると、中途半端な女男ではなく、本物の男にしてくれるかもしれないと思うようになったのです。彼は子どもの頃から女の子のように見えることを、からかわれてきました。母親は彼にホモであることから脱却するように懇願して、彼自身も努力はしたのですが、上手くいきませんでした。何度挑戦しても意志が弱いために失敗したのです。しかし、彼は神には偉大な力があって、本当に自分を内側から変えることができると考えるようになりました。そして神の言葉に耳を傾け続け、ひと月もするとイエス・キリストを心に委ねるようになりました。劇的改心があったわけではなく、徐々に内側で変化が起こっていったのです。そして3ヶ月後、古いリカルドは過ぎ去り、確かに新しく生まれ変わりました。
チャールズ・スポルジョンは言いました。「宝石は黒いベルベットの上に置いて展示する。黒を背景に宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行なわれる。」

心のオアシス 2011年6月19日

生涯に5000以上の讃美歌を作詞したファニー・クロスビーは、医者のミスによって生後6週間で視力を失いました。何も見ることができない暗闇の世界の中で、クロスビーは8才の時に聖書の言葉に触れ、イエス・キリストにあって喜ぶという決心をしました。
 彼女が30才になる頃、失明の原因となった医師が、まだそのことで今も悩んでいることを聞いて、彼に手紙を書きました。「どうか私のことで悩まないでください。それはあなたにとっては失敗だったかもしれませんが、神さまにとっては大成功だったのです。他の人なら見過ごしてしまう神さまの恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいることでしょう。」
 愛する友人や、自分の子どもが幼くして亡くなったときも、彼女は神への讃美を作り続けました。そして92才の誕生日には明るくこう言いました。「もし私よりも幸せな人が世界のどこかにいたら、是非お会いして握手をしたいものです。」
 世を呪い神を呪いながら人生を歩んでも許されるようなこの人物が、自分の目が見えなくなったことは、神にとっては大成功だったなど、誰が言えるでしょうか? ここで学ばされることは、私たちの視点がどこにあるかによっては、たとえ困難な中にいても、問題の中にいても、幸せでいることはできるということなのです。豪邸に住み、高級車を乗り回し、世界中を自由に旅することが一般に想像される成功者像ですが、聖書が教える成功者像には、そういう類いのものはありません。なぜならたとえこの世の全ての富を持っていたとしても、それによって苦しみ、心配事が山のように積まれて悩んでいる人は多いからです。地位があってもなくても、お金があってもなくても、問題があってもなくても、環境が良くても悪くても、能力があってもなくても、生産性があってもなくても、その人が幸せで、喜んで生きていける人こそ本当の成功者です。
 真の成功者は、今を喜び、今を楽しみ、今を満足します。そしてそれが将来へのステップに繋がっていくのです。God is so good all the time.

心のオアシス 2011年6月12日

「天国の特別な子ども」

会議が開かれました 地球からはるか遠くで
また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ
天においでになる神さまに向かって 天使たちは言いました
この子は特別な赤ちゃんで たくさんの愛情が必要でしょう
この子の成長は とてもゆっくりに 見えるかもしれません
もしかして一人前になれないかもしれません
だからこの子は下界で出会う人々に とくに気をつけてほしいのです
もしかして この子の思うことはなかなか分ってもらえないかもしれません 何をやっても 上手くいかないかもしれません
ですから私たちは この子がどこに生まれるか 注意深く選ばねばなりません この子の生涯が幸せなものとなるように
どうぞ神様 この子のために素晴らしい両親を探してあげてください
神様のために 特別な任務を引き受けてくれるような両親を
その二人はすぐには気付かないかもしれません
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割りを
けれども天から授けられたこの子によって
ますます強い信仰と豊かな愛をいだくことになるでしょう
やがて二人は自分達に与えられた特別な神の思し召しを悟るでしょう
神から送られたこの子を育てることによって
柔和で穏やかな この尊い授かりものこそ
天から授かった特別な子どもなのです

これは障害を持った子どもたちを育てる親たちに向けて書かれた詩です。でもただの励ましではなく真実です。神さまの前に大きい小さいはありません。どんな人も細かく緻密に計画された神の創造であり、愛のご配慮の元で生まれた神の作品なのです。

心のオアシス 2011年6月5日

世界中を飛び回っているある韓国人いて、その人は英語やドイツ語、フランス語など、何ヶ国語も身につけた語学の達人のような存在であります。日本語もかなり使えるようになってから、日本を旅行するたびに、日本語の前向き、積極的な表現に出会って、うならされてしまうことが多いという。
日本滞在中のこと、ある日、早めに昼食をすませようと、一人でレストランに入ろうと思い入り口に近づくと、店の前に「準備中」という小さな看板が下がっていて、午前11時半開店とあった。そこに着いたときは11時ごろだったので、少し待てば食事をすることができると思い、そのまま待つことにしたそうです。よその国では、「閉店」とか「営業していない」といった意味をあらわす表示をしていることが多いが、「準備中」という肯定的な表現の看板に感心したというのです。
また、沖縄の空港ロビーで、時計が故障していた時にはこのような表示がされてあったという。修理している様子はまったくないのに「修理中」。これも素晴らしい表現であると思ったそうです。この場合、正確には「修理の準備中」なのだろうけれども、とにかく「修理中」といえば、「もうすぐ直る」、「もうすぐ直しますよ」ということで、見るものに希望が残るが、「故障中」ならば、その場は絶望的ともいった気分になる。
当事者は「準備中」とか「故障中」という表現を、この外国人が感じ取ったようなニュアンスの意味で使ったわけではないのであろうけれども、日本語の表現にはおのずと積極的、肯定的な思想がにじみ出ていると褒めてくださっているのです。
私たちの人生は、「修理中」です。天国に入るための「準備中」でもあります。すべてが完成するのは、天国に入った時です。その時まで、焦らず、諦めず、神さまに委ねるのです。ゆっくりゆっくり神さまのペースで治してくださっているのです。重要なことは、故障している自分の人生を神さまの前に持って行くということです。そして繋がりつづけるということ。                 今日も良い一日を!

心のオアシス 2011年5月29日

「世界に一つだけの花」という歌の歌詞は、聖書からのメッセージと思わせるような内容が含まれている。競争社会の中で、多くの人たちに励ましを与えていることでしょう。以下に歌詞の一部をご紹介します。

No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

神さまが創られている壮大な歴史は、様々な個性の持ち主を用いて形成しておられる。パズルの1ピースに様々な形があって一つの作品ができています。好きな形状ではないからといってそのピースを用いないわけにはいなかいでしょう。又、一つの絵の中に色々な色が用いられています。黒い色は嫌いだと思っていても、絵の中で使わないわけにはいかないでしょう。神さまは、この世界を導くために様々な個性を用いておられることがわかります。だから争わないで、それぞれ神さまから与えられた個性を受け止め、他者との違いを認め合い受け入れあって、許しあってこそ本当の平和が与えられるのでしょう。
わかっていてもなかなかできないのが現実かもしれません。まずは自分を受け入れることから始めてみてはいかがでしょうか。
神はこう語りかけています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

心のオアシス 2011年5月22日

ユダヤ人の古いことわざに、「他人よりすぐれようと思うな、他人と違った人間になれ」というのがある。他者と比べて優越感に浸ったり、劣等感をいだいたりが、社会の現状です。資本主義社会は、他者と比べて競争することによって刺激しあって成長するという構図があります。   
1990年代後半以降、多くの日本企業が人事評価制度に成果主義を導入した。しかし社員のモチベーションが低下して、多くの問題が噴出し、見直しを余儀なくされた大手企業が出てきました。しかし問題が指摘されながらも現在でも上場企業の8割以上は、まだ何らかの形で成果主義に基づいた人事評価をしているのが現実です。そのような背後で疲れてしまい、多くの人たちが心病むようになったのです。
ある家族が、田舎に小さな家を建てて幸せに住んでいました。何年かしてから他の家族が隣の土地を買って、大きな家を建てました。それまで何の問題もなかったのですが、隣の家を見て奥さんはご主人に言いました。「お隣の家は大きくて立派な家を建てたね・・・うちは小さくない?」「小さな家でいいからと、同意してここに引っ越してきたんじゃなかったか? 今更何を言ってるんだ!」と喧嘩になりました。子供は隣に引っ越してきた子が新しい自転車に乗っているのを見てお母さんに言いました。「どうして僕はずっと古い自転車に乗らなきゃいけないの? 新しいの買ってよ!」お母さんは言います。「お隣の子は、勉強よくするし成績がいいでしょ!」
今まで何も愚痴も不満もなく幸せだったのに、隣を見て比べ始めてから家族の中に不和が生じたという話です。
私たちの人生は他者と比べるためにあるのではありません。神さまがあなたに与えてくださった人生を楽しむことを神さまは望んでおられるのです。ペテロがイエスさまに質問しました。「主よ、この人はどうなのですか?」それに対する答えは、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」
神さまは、一人一人に最高の人生をすでに与えてくださっています。

心のオアシス 2011年5月15日

東日本大震災では、多くの町が津波によって壊滅的な被害を受けました。アメリカでも、過去に何度かハリケーンによる洪水で町が水没するという災害に遭ったことがあります。当時のアメリカ国内でのテレビニュースのインタビューで被災者の多くは、不満を訴えていました。「政府の対策が遅い・・・エアコンが水に浸かってしまって壊れて、暑くて大変だ・・・下水が臭くて、病気も蔓延している・・・」など、現実の厳しい状況を描写した内容でした。しかし、誰が見てもその顔が輝いている一人の被災者の女性にマイクが向けられたとき、驚きの答えが返ってきたのです。インタビュアーが女性に問いました。「何か問題はありますか?」すると、「いいえ、問題はありません。命守られ、家族も守られ、今、こうやって健康でいることができることを嬉しく思います。」そして突っ込んで聞きました。「エアコンがなかったら暑いんじゃないですか?」女性は答えます。「いいえ、私の家は全部流されましたから、そんなものは何もありませんよ。でも、私にこの聖書がある限り、何ものをも私の平安と喜びと希望を流すことはできません。私は心から神さまに感謝しています。これさえあれば大丈夫なのです!」大柄なその女性は聖書を掲げながら輝いて答えていました。
マザーテレサは、自分が願っている方向へなかなか物事が進んでいない時、「私たちは急いでいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」又、経済的な問題と直面したときには、「お金なら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったということです。」と言ってのけました。
これらの告白は、一体何なのでしょうか? これが信仰の力なのです。信仰が人の中に入ると、驚くような力が与えられるのです。誰もが天国に住みたいと思っています。でも、今すぐにでも自分の心の中に天国をつくり出すこともできるのです。
「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスになって守るであろう。(ピリピ4の7)

心のオアシス 2011年5月8日

ある青年の証です。
彼は教会には通っていましたが、ずっと暗い過去を背負っていました。母親を早くに失い、毎晩ウィスキーを飲んで、寂しさをまぎらし、過去の辛い思い出を忘れようとしていました。ある日、教会の牧師が彼に尋ねました。「過去の出来事で、何が一番心の傷になっていますか?」すると青年は答えました。「母と卵を売り歩いたひとです。」雪の北海道で少年は、母親について、一軒一軒、卵を売り歩きました。しかしどこへ行っても、「いらないよ」「間に合ってるよ」と冷たく追い返されました。幼いながらも、そういう母親の姿を見て、可哀想になり、みじめにも思えてきました。そして「自分がこうなったのは、母親のせいだ!」と裁き当たるようになりました。やがては母親のイメージは、すっかり崩れてしまいました。そして母親の死に直面したのです。
牧師はそんな青年に言いました。「君が思い出したくない、その情景を、イエス様の前に開いてお見せしてごらん・・・」冬の北海道での、あの辛い情景を回想しているうちに、青年の顔がゆがんでいきました。しばらくして、滝のように涙を流し始めたのです。長い時間が経過しました。彼は涙を拭ってこう言いました。「牧師先生・・・イエス様が母の卵を全部買ってくれました。」
青年の心の傷は、この時を境にして癒されていきました。そして母親に対するイメージが変わり、優しく温かなものに回復していったのです。「お母さん、ありがとう。」青年は、そんな母親を持ったことを感謝し、誇りに思うように変えられたのです。
人間同士の問題は、身内であっても他人であっても、なかなか修復するのは難しいと思います。なぜならお互い自分が正しいと思っているからです。それが罪の姿なのです。そして人間はこの罪のトゲによって相手を刺してしまい傷つけ合うのです。人間が直接的に人と触れ合うと、自分の持っているトゲの故に、相手を傷つけてしまいます。しかし間にイエス・キリストを挟んで媒介的に近づくと、痛みも和らぎますよ。