礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年9月9日

マルチン・ルターは、宗教改革を行なう度に極度の心配と精神的な苦痛を味わいました。一人の神父が、ヨーロッパを掌握する教皇を相手に宗教改革を行なったのですから、ものすごい圧力を受けたことでしょう。
そんなある日、小鳥が餌を食べ、木の枝の上で安心して寝ているのを見て、大きな悟りが与えられました。「あの小さな鳥は、明日の朝に食べる物も、明日の夜に寝る場所も、何も心配していない。鳥でさえ神にすべてを委ねて何の心配もせずに寝ているのに、なぜ私はこれほど多くの心配をしているのだろうか。神が一羽の小さな鳥を顧みられるならば、ご自分の子供をどれほど大切にして守られるだろうか。」その後、ルターは、自分もその小さな鳥のように神を信じ、すべての心配を神にゆだねることを決心しました。
こうしてルターは勇気と力を得て、教皇を相手に勝利し、宗教改革をなすことができたのです。
確かに鳥を見ていると、お気軽に生きているように感じます。明日の心配もしていません。毎日毎日を、精一杯生きているだけです。鳥たちが明日の食物のことや、将来のことを心配し始めたら、一体どんな鳥社会になるでしょうか? 明日のことを何も考えていない鳥たちでも神さまは養っていてくださっているのですよね。であるなら、私たちを養ってくださらないはずがないでしょう?! 神さまは語りかけています。「空の鳥を見なさい!野の花を見なさい!何か思い煩っていますか?」

マザー・テレサの言葉です。
与えるものが何もない時は、神に、その“無そのもの”を差し出しましょう。できる限り自分が空っぽでいられるように。そうすれば、神が私たちを満たしてくださいます。たとえ神様でも、もうすでにいっぱいになっているものを満たすことはできません。神は決してご自分を私たちに押しつけたりなさいません。あなた方は、神が与えてくださった愛でこの世界を満たしているのです。

心のオアシス 2012年9月2日

サーカスで活躍している巨大な象がいますが、この象はとてつもない力を持っています。しかし、その裏側で繋がれているのは、地面に打ち付けられた30センチほどの杭に細いロープだけなのです。ロープがピンと張り詰める範囲内で歩き回っていますが、少しでもロープに引っ張られると止まってしまうのです。あの巨大な足でちょっとはじけば、杭なんていとも簡単に吹き飛ばすことができるのですが、決して試そうとはしないのです。
世話係の人の説明によると、象が、まだ幼く体も小さい時に、地面に深く打ち込んだ頑丈な杭に縛り付けておくと、象は何度強く引っ張っても、いっこうに杭を動かすことができないので、ここから逃げ出すのは無理だと思い込んでしまうそうです。そのうち、象は試みることさえしなくなるというのです。いつしか象は成長して体も大きくなりますが、心ではこの限界を感じたままでいます。こうなると、世話係は地面に小さな杭を打ち付け、象の足に普通のロープを縛り付けさえすれば、象はどこへも行こうとしなくなるのです。何故でしょうか? それは、象が逃げ出せないと信じているからです。大きな動物が、物事を小さく考えるように調教されてしまったのです。
私たちも似たようなところがあると思います。この世の現実の社会で、「こうやれば、こうなる。これ以上にはならないし、それは現実的にはありえない・・・」ということが自己の経験や学習から刷り込まれていて、なかなか本当の信仰の世界を受け入れることができないのです。自分の頭の中で、神様の力=自分の頭で理解できる範囲という方程式を作り限界をつけているところがあると思います。偉大な神さまを、小さな弱い存在にしてしまっているのは私たち自身なのです。
先日ある方が言いました。「神さまが諦めておられないのに、どうして私たちが諦めるのですか?!」まさにその通りだと思います。私たちの家族の救いを諦めてはならないのです。病の癒やしを諦めてはならないのです。自分自身に諦めてはならないのです! 主は我が力です!

心のオアシス 2012年8月26日

私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
 その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから聖書に出会う前の私は、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったあら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。 (クリスチャン新聞の福音版5月号より)

心のオアシス 2012年8月19日

私のビフォーアフター(S.Iさんの場合)
 私は韓国のクリスチャン家庭で生まれました。しかし成長と共に教会から遠ざかるようになり、今から20年前、日本に来てからは完全に神さまとは無関係の自分中心の生活に入りました。そのような中で子どもが生まれることで全てのことが滅茶苦茶になり暗闇の中にさまようようになりました。
 10年前に引越しすることになり、そこで教会に戻る決心をしてから1年後の2003年に洗礼を受けました。それからは、ただイエスさまだけを求めて歩み始めるようになり、現在は今までのどの時期よりも喜びと聖霊充満で忠実な教会生活を送ることができるようになりました。
 (証文の一部抜粋・編集)
 
 この方の息子さんは自閉症です。今はまだましになりましたが、数年前まで、突然家を飛び出しては、自分では家に帰れないし言葉が話せないので夜中に警察から呼び出しがくることがしばしばあったようです。夜、寝付くまで、ひと時も目が離せない生活をしておられました。でも、この息子さんがいたからこそ自分の力の限界を感じて、教会へ戻ろうと思われたのです。証文の中で息子さんのことを、「本当に可愛い子、私を救いの道に導いた伝道者」と表現しておられました。そして今では、自分たちが中心の生活から、他者に捧げる生活へ変化したとのことです。

榎本保郎先生の書物の中に、「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。」神と共に歩む人生は勇気100倍!

心のオアシス 2012年8月12日

私のビフォーアフター(N.Sさんの場合)
私は転勤で東大阪に来て、慣れない育児と慣れない土地、そして主人のことなど、不安で叫びたいけど、無理やり心にフタをして我慢して過ごす日々が続いていました。叔母から紹介されて教会へ来るようになりました。娘もまだオスワリ状態で皆様にもご迷惑だったにもかかわらず、心よく受け入れてくださり、救われました。最初はただ心の拠り所ができて安心しただけでしたが、そのうちに神さまより平安をプレゼントされました。幼い頃から思っていた「人間とは・・・」の部分も解決され始め、消し去りたかった過去の醜い罪を許してくださることも知りました。「自分でもいっぱいなのに人の為に何かしなくてはいけないのかなぁ? すべて理解してからクリスチャンにならないと・・・」などと思っていましたが導かれました。委ねた方がいいのだとわかったのです。  
今では、悪いことも良いことも、どれだけこの人生を神さまは楽しませてくれるのかと毎日ニヤニヤしています。主に感謝します。もし最初に来たところが教会堂だったらずっと通ってなかったと思います。マンションの集会室だったから気兼ねせずに行けました。小崎牧師だったから心開くことができました。(かなりレベルをさげて接してくださるので!)なんなのでしょう・・・これをハレルヤと言うのですよね?! 
(証文の一部抜粋・編集)

人々の魂の救いと人生の変化を確認し、祈りの答えを体感し、この地上においても明るく、元気で、のびのびと生きることができるようになりましたという声を聞くことができるのは牧師の特権であります。ですからこの世的な報いはなくても、牧師を辞めるわけにいかないのです。これに勝る喜びは他にはありません。
イエスさまは、「あなたがたは私の証人となる」と言われました。イエス・キリストが生きておられることを、私たちの人生の中で感じ、証しできたら、どれだけ多くの人に感動を与えることができるでしょう!

心のオアシス 2012年8月5日

ハ・ヨンジョ先生の言葉です。

人生を歩んでいると、予想もしなかった嵐に襲われる場合があります。一生懸命にイエスを信じているのに、突然人生に恐ろしい嵐が襲うのです。神にすがりますが、何の応答もありません。まるで、神が眠っておられるかのようです。私たちは、イエスを信じればすべてうまくいくと考えますが、イエスを信じたからといって、病気が治るでしょうか? すべてがうまくいくでしょうか? そういかない時のほうが多いかもしれません。イエスを信じればすべてがうまくいくという程度の信仰から、もう一歩進まなければなりません。イエスを信じれば、祝福も受けますが、苦しみもあります。まことの苦しみがあった後で、まことの祝福が来ます。その前の祝福は単なる祝福であり、この世からいくらでも得ることのできる祝福です。人生には、いつも嵐が襲います。大切なのは、その嵐をどのように耐えるかです。それをどのように理解し、どのように受け取り、それによってどのように勝利するかが大切です。主がともにおられても、嵐が来ることがあります。嵐が来るとき、主が眠っておられるかのように感じることもあるでしょう。それでも、状況を恐れずにイエスを信頼することが信仰です。状況に左右されるのは、信仰の人ではありません。うまくいく時も高ぶらず、苦しい時でも落ち込まない人、いつも主を信頼する人、恐れのない人、天の平和が心の中にある人、そのような人が信仰の人です。

先週は、次回からの集会場所を変更しなければならない事態に追い込まれました。しかし大したことはありませんでした。ただ神さまが洗礼式と転入会式を、「教会堂」で行うことを望んでおられただけのことでした。誰が午前中礼拝をしていない教会堂が近くにあるなんて想像できましたか? そしてそれを貸してくださる教会があるなんて・・・。神さまが計画して動かれたら、問題は問題でなくなるのです。

心のオアシス 2012年7月29日

娘が当時小学校の2年生であった年のクリスマス・シーズンでの出来事です。クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車(マウンテンバイク)を頼んだ」と言うのです。
実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私に要求してきたのです。
私は、家計の予算の関係上、自転車のプレゼントは全く考えていませんでしたが、娘は諦めていませんでした。私は自転車のことは全く眼中になかったのですが、クリスマスの10日ほど前に、ある場所でマウンテンバイクが、なんと半額で売られているのを見つけて注文しました。
そのことを知らない娘は、私に何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。
 届いた自転車を当時のアパートの荷物置きになっていた部屋の奥に隠しておきました。クリスマス3日前、2日前になっても、娘は私が、自転車を注文した素振りも見せないので諦めはじめました。そしてサンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言うのです。そしてクリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。
そして、当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、娘が寝ている部屋の隅に置きました。その朝、どのような歓声が上がったかは想像できますよね?!
人間の親は、子どもに最善を願い、期待に応えたいと願うものですが、失望させてしまうこともあるでしょう。でも、天の父なる神さまは、絶対に外すことはありません。私たちにとって最善をしてくださるのです。
私たちが祈っている祈りの答えは、すでに霊的な隣の部屋にはあるのです。それを霊の目で見て、満足することを「信仰」と言うのです。
「信仰とは、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル1:1)あなたの信仰の世界を広げたら人生もっと楽しくなりますよ!!

心のオアシス 2012年7月22日

マザー・テレサの言葉

 私たちはだれひとりとして、
絶対に必要な存在であるなどと
思ってはなりません。
 神はご自分のなさり方や方法をお持ちです。
 才能ある人や力量のある人の手を使って、
すべてのことを引っくり返すことを
お許しになるかもしれないのです。
 愛が織り込まれていなければ、
その働きは無駄なのです。
 神は、今までに何冊の本を読んだのか、
などとはお聞きにならないでしょう。
 けれども、神の愛のために
最善を尽くしたことがあるかどうかを
お尋ねになるでしょう。

 神の前には、全ての人は絶対に必要な高価で尊い存在です。でも、自分の才能や力量に酔いしれて、自分が世界を動かしているなどと高慢に思ってはならないというアドバイスでもあるでしょう。
 確かに歴史を調べてみるとリーダーシップや才能があっても、高慢になってしまった人々によって、間違った方向へ社会や政治を導いていったケースが数知れずあります。自分たちの力を過信して、天にまで届く塔を作ろうとした人々は、ことごとく散らされてしまいました。
 うぬぼれたり、人に厳しかったり、わがままでいるのはとても簡単なことですが、私たちは、もっと素晴らしいことのために創られました。
 私たちは、神さまに用いられるための道具です。与えられた人生で何をしたかではなく、どれだけ愛を込めて生きてきたかが問われるのです。

心のオアシス 2012年7月15日

先日は、「絶対得する先行投資」というタイトルで、「神さまのために費やす人生は必ずお得ですよ」とメッセージさせていただいたが、よく考えてみると、先行投資しておられるのは神さまの側であることに気付きました。私たちの持てる全て(肉体、経済、知恵、知識、健康、仕事etc.)は、私たちがこの地上で生きることができるように神さまから与えられているもの。すなわち神さまからの私たちに対する先行投資だということなのです。それをどのように神さまのために管理していくかが問われるのであります。預かりものを「自分のもの」として使っているならば、そこからは何も残りません。しかし、神さまのために用い始めるならば、神さまからのボーナス(祝福)が注がれるのです。この世界を、口でどう説明しても説明しきれない部分で、実際に自分が飛び込んで体験してみなければわからないものであります。  
マザー・テレサの映画の中で、私は多大な影響を受けたシーンがある。マザーの働きが外部に知られるようになって、いろいろな団体から献金が届くようになった。彼らはまず集まった小切手を、他の困っている宣教団体や診療所などへの献金として仕分けして、最後に自分たちが建設しようとしている平和の村のための取り分にしようとしたのですが、自分たちが受け取る小切手は一枚も残っていません。そこでその中の一人がこう言います。「2千ドルを送ろうとしている団体は急がないので後回しにして、まずは私たちの必要に用いましょう。」しかしマザーは、「そのまま送ってください。神さまはせっかちなお方ではないから。」
私たちの教会は開拓なので、支援してもらいたい立場ではありますが、他者を支援することによる祝福を実践し今年の4月からイスラエルへの新移民であるルベン&ナターリア・ベシャダさんたちを、B.F.P.Japanを通しサポートし始めた。どうなったと思いますか? 教会への献金額が支援を始めたその月から毎月1.5倍増えたのです。去年の3月には、まるまる3月分の献金を被災地へ送ると、次の月に受洗者が2名与えられ東大阪での集会が始まりました。神に捧げる人生こそが本当の豊かさです。

心のオアシス 2012年7月8日

この地上における私たちの時間、エネルギー、知性、機会、人間関係、そして財産などはすべて、神から大切に管理するように任されている賜物です。私たちは、これらを管理する立場にあるわけです。この管理という概念は、神がいっさいのものの所有者であられるという認識に基づいています。聖書によれば、「世界とその中にあるすべてのものは主のものである。地球とその中に住むものはすべて主のものである」のです。
この地上にいるわずかの間、私たちが本当の意味で所有しているものなど何一つありません。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生まれる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。
       「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著より抜粋

人生は預かりものです。私たちが、この地上で生きていくために必要なものを貸し出してくださっているのです。それは、ある人が旅に出るとき、しもべに財産を預けておくようなものです。ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けました。それをどのように管理するかを試すようなものです。
私たちは、神さまから預かった人生を、その人生の管理者として、神さまのために有効活用することが求められています。ノルマはありません。ただこれは神さまからの預かり物だという意識があるかないかが重要なのです。もし、自分の人生は自分のもので、自分で働いて、自分が儲けて、自分のために使って何が悪いというならば、それは神から与えられたものを地の中に隠しているような人生だということが言えるでしょう。
私たちが、この地上での人生が終わったときに、清算する時があると聖書は教えます。神に投資する人生は絶対ハズレがありません。神さまから預かった「わたし」を大切に使いましょう!