心のオアシス
心のオアシス 2013年1月20日
神が置いてくださった所で咲きなさい。
仕方ないとあきらめないで咲くのです。
咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。
咲くというのは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだ、ということを、示して生きることなのです。
神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。
置かれていた所で、精一杯咲くと、それがいつしか、花を美しくするのです。
神が置いてくださっている所で咲きなさい。
(ラインホルド・ニーバー)
人生を悟りきった人は、「運命だから仕方ない」と諦めます。諦められない人は、「どうして?」と不平も漏らします。しかし神を知っている人は、「神がここに置いてくださった」と、神のご摂理に従い、それを喜ぶことができます。そして精一杯咲こうと努力するのです。そしてどのような花が咲くかは神に任せます。それが「委ねる」の意味です。
先週の成人の日に京都で行われた新年聖会に出席しました。知人牧師の計らいで世界最大のプロテスタント教会、ヨイド純福音教会堂会長のリー・ヨンフン牧師とお話もできました。何よりも感動させられたことは、博士号を持っておられる頭の良い先生方が本気で、「神さまには不可能はない!」と信じておられ、祈ることを最優先しておられる姿だった。「ミーティングを長くしてもリバイバルは起こりません。教会は祈るところです!」と、新宿に15億円の8階建てのビルを会堂献金のアピールなしで購入することができたというお話しをされていた。それを聞きながら励まされました。「同じ神を信じる私たちにも不可能はない!」
心のオアシス 2013年1月13日
No.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
人それぞれ好みはあるけど どれもみんな綺麗だね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で 一番になりたがる?
そうさ僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one
これは「世界で一つだけの花」というヒット曲の歌詞です。日本の教育や社会は、綺麗な方が良いとか、偏差値が高い方が良いとか、仕事の成績が良い方に価値があるかのように教えています。そしていつの間にか私たちも、そういった考え方が頭にインプットされていくうちに他者と比べて優越感に浸ったり、劣等感を感じたりしながら生きています。これは神の目から見たら間違いです。神さまは、あなたをあなただけしか持っていない独特なユニークな存在として造ってくださいました。世界で特別なオンリー ワンなのです。人生とは、精一杯オンリー ワンを輝かせることです。
子供達もそのような価値観の中で成長していって欲しいと願います。
心のオアシス 2013年1月6日
私は大学を卒業してから、帰国してから大阪で就職しました。仕事をしながら、様々な現実を前にして、次第に下ばかり、現実ばかりを見て、心は砂漠状態になり苦しんでいました。何か長いトンネルに入っているようで、いつまでもそこから抜け出そうにない感覚にさえなっていました。そんなある日、それは私が留学時代に、その大学のキャンパスでアルバイトをしていたときの上司であったリース・ロジャースから一通の手紙が届きました。その手紙に大変励まされて今でも時々思い起こしては、励まされることが度々あります。
その手紙の内容の一部を抜粋します。
「これで、ペンを置きます。もし主が、この地上で、我々を再会させる機会をくださらなかったとしても、この地上での人生が終わった時、もう一つの場所、天で会うことができます。それは、我々が待ち望んでいる所です。又、一緒になることができるのですから、主が来られるその日のことを考えていてください。それまでKeep looking up(上を見上げて歩んでください)神様の恵みによって、そこでお会いしましょう。 キリストにあって リース」
昔、「上を向いて歩こう」というフレーズの曲が流行りました。この曲は大ヒットしました。多くの人たちは前向きに生きようと励まされましたが、その助けがどこから来るのかを知っている人はほとんどいませんでした。前向きに生きた結果、日本は経済大国になりました。しかし自分たちが築き上げた文明・文化によって、やがては自分たちの首を絞めることになっていったのです。私が言いたいことは、永遠の天国に繋がる神の助けでなければ、本当の助けにはならないということです。例えこの地上において報われないようなことがあったとしても、最終ゴールは、世の成功ではなく、天国にあることを知っているならば、希望に満ちた幸せな人生を送ることができます。この地上にて再会の希望がなくても、天での再会に希望を託せるなんて何と幸いなことでしょうか。
心のオアシス 2013年1月元日
新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。
関西カルバリーフェローシップ
牧師 小崎淳広
昨年のクリスマスイブ礼拝では、「あなたには夜がある」というタイトルでメッセージさせていただいた。このタイトルは私の恩師である大川従道師が、何十年も昔にされたメッセージタイトルであった。
確かに多くの人たちは、大きな不安から目をそらして、誤魔化しながら生きてきた。心の闇を闇と認めないし、認めたくないのである。これさえあれば安心だというものを求めて旅をしている。しかしそれを手にしても、そんな安心なんて一時的な気休めみたいなものであって、永続的な安心には繋がらないことを悟るのである。
そして今年の初詣礼拝のメッセージタイトルを「あなたにも朝は来る」とした。対照的ではあるが、そうやってバランスを考えているのである。人生の夜に気づかない人がいる一方、闇の中を迷走して、自分には希望はないと諦めている人たちもいる。そのような人たちに、「あなたにも必ず朝は来る!」ということを知って欲しいのである。出口のないトンネルはありません。神さまは、私たちに耐えられないような試練にあわせることはないというのが聖書の約束である。あなたにはすでに希望はありますが、雲霧が多くて、それが見えないこともあるでしょう。その時には是非、上を見上げてください。あなたの人生を握っておられるお方が誰であるのかを考えてみて欲しいのです。そこに答えがあります。
今年の教会の聖書箇所です。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。・・・・・昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」(詩篇121篇1~3・6~8節)
心のオアシス 2012年12月30日
「足跡」
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。
ひとつはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは砂の上の
足跡に目を留めた。
そこには一つの足跡しかなかった。
わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みに
ついて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従う決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、ひとりの足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛し
ている。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(マーガレット・パワーズ)
今年はどのような年でしたか? 振り返って見ると必ずしも嬉しいことや楽しいことばかりではなかったでしょう。辛いことも悲しいことも人生にはつきものです。でも主が、私たちからひと時も離れないで、共に歩んでくださった足跡を見つけることのできる人は幸いです。何回、ひとりの足跡しかなかったことがありましたか? それはイエス様から背負われた回数です。感謝しつつ新しい年を迎えましょう!
心のオアシス 2012年12月23日
1897年、バージニアという8歳の少女から、「サンタクロースって本当にいるの?」いう手紙を受け取った「ニューヨーク・サン新聞」の記者は、それに対する答えを新聞社の顔ともいうべき社説に、その答えを出しました。それが、世界中で大反響を呼び、世界で最も有名な社説のひとつとなり、本にもなりました。大まかなやり取りです。
ニューヨーク・サン紙さま
わたしは、8才の女の子です。私の友だちは「サンタクロースなんていない」と言います。パパに聞いたら「もしサン新聞の記者さんに聞いて、サンタクロースが本当にいると言われたら、そのとおりだと思うよ」と言いました。だから本当のことを教えてください。サンタクロースは、本当にいるんですか? バージニア・オハロン 西495番街115番
バージニアへ
君の友だちは、まちがっていますよ。その子たちはきっと、疑い病にかかっているんだと思います。人は自分に見えるものだけしか信じないし、自分の小さな心で理解できないことは何でも否定してしまいます。
もし、サンタクロースがいないとするならば、あなたは手に触れられるもの、目に見えるもの以外で、幸せを感じたことはないですか? 目に見えなくても、手に触れられなくても、幸せって感じられるはずです。ひょっとすると、それがサンタクロースなのかもしれませんね」
1897年12月24日 ニューヨーク・サン紙
神様は目で見えなくても、手で触れることができなくても、たとえその存在を否定しても、どのような人の中にも、確かに共に生きて働いておられます。そして、クリスマスは、その存在が明らかにされた日です。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章11節)
心のオアシス 2012年12月16日
先日こんな投稿を見つけて考えさせられた。
俺が23歳の頃、就職1年目の冬、俺の誕生日の日のこと。職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に「今日は遅くなるよ。ご飯いらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と俺が言うと、いつもは温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさ、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。家にはその春から胸膜炎で療養中の母と、その父。食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキが3つ。「なんでわざわざ帰らせたの?! 俺だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でも良かったね。」と涙ぐんだ。俺は言い過ぎたな、と思った。でも謝れず、黙々と冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめん。」とつぶやいた。呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに「○男に迷惑をかけてしまった。」とあった。ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。4、5日して母は亡くなった。仕事を辞めて、看病していた父も数年前に亡くなった。父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。母にとっては最後だったのに・・・。
切ない話ですね。主人公抜きのクリスマスは、たとえ沢山の人たちが集まってパーティーをしても本当は寂しいものなのです。クリスマスは神さまが準備してくださった、私たちへの愛と救いの証なのです!
心のオアシス 2012年12月9日
これは「みやざき中央新聞」の社説に掲載された内容の一部抜粋です。
食肉加工センターの「坂本さん」という実在の人物が登場する。坂本さんの職場では毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合うたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。ある夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。「明日の牛か・・・」と坂本さんは思った。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。荷台を覗いてみると、10歳位の女の子が、牛のお腹をさすりながら「みいちゃん、ごめんねぇ・・・」と話し掛けている。女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、売らんと、お正月が来んとです。」坂本さんは思った。(もうできん。もうこの仕事はやめよう)明日の仕事を休むことにした。家に帰ってから、そのことを息子のしのぶ君に話した。じっと聞きながらしのぶ君は言った。「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」しかし休むと決めていた。翌日、小学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。「お父さん、今日は行かなんよ!」心が揺れしぶしぶと仕事場へ。他の牛同様、角を下げて威嚇ポーズをとった。「ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが、「じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。牛の涙を坂本さんは初めて見た。
私たちは奪われた命の意味も考えず、毎日肉を食べています。自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の苦悩も知らず・・・
それ以上に天の父なる神の苦悩と御子イエス・キリストの犠牲の故に私たちが生かされているって知っていましたか?
心のオアシス 2012年12月2日
ある医師の遺言・・・
ある村に有名な医師が住んでいました。村の人たちは病気になると、みんなこの医師の所へ行って治療を受けました。彼は患者の顔色と、歩く姿を見るだけで、どこが悪いかを見極めて薬を処方することができる名医でした。そのような彼も年をとり、余命いくばくもないある日、村の人たちが医師のもとへ集まってきました。臨終を前にして、彼は人々に話しました。「私よりはるかに立派な3人の医師を紹介しておきます。その医師の名前は食べ物、睡眠、運動です。食べ物は腹八分目で、決して食べ過ぎないでください。夜中前には寝て、日が昇れば起きてください。そしてよく歩くならば、多くの病気は良くなるでしょう。」
話をしていた医師は、苦しくなったのか、しばらく無言になりました。そして再び話を続けました。「ところで食べ物と睡眠と運動は次の3種類の薬を共に服用する時、効果があります。」人々は先ほどよりもさらに耳を傾けました。「肉体と共に魂の健康のために必ず必要なのは瞑想と祈りと愛です。肉体だけ元気なのは片方の健康です。魂と肉体の両方が等しく元気になってください。瞑想の薬は毎日一定の時間に一生たゆまず服用しなければなりません。祈りは副作用が全くない万病に効く薬です。緊急な出来事がある時は、たくさん服用してもかまいません。愛は常備薬です。いつも服用してください。最も重要な薬です。
医師は、自身が生きている間に悟った重要な事柄を、人びとに分かち合った後、平安な姿で静かに目を閉じました。
私たちは、お金もかからないこの薬をどれくらい摂取していますか?
人はこの地上での問題解決や命を延ばすために必死に生きています。でも人間の死亡率は100%です。死んだ後の永遠を、どこで過ごすのかを真剣に考えて備えなければ、この地上での本当の解決はないのです。
心のオアシス 2012年11月25日
「おまえは他人を救ったが、自分自身は救わないのか?」これは、十字架にかかるキリストに投げかけられたののしりの言葉でした。しかし、この言葉を良く読んでみると未だかつて聞いたことのない、ののしりの言葉だと思いました。多くの人たちは「自分は救えたが、他者は救えなかった」と言うのが常です。今の政治の世界も、「自分たちの生き残りのために、国民(他者)を犠牲にするのか?!」という批判の声をよく耳にします。そう考えるときに、キリストに対する批判の声は、栄誉あるののしりであると思いました。キリストが、この地上に来られた目的は、まさに人々を救うためであって、自分を救うためではなかったからです。人々は、「十字架から降りて来い!」と叫びました。しかし、キリストにとっては十字架から降りることは、いとも簡単なことであったにも関わらず、あえて降りることをしなかったところに奇跡があるのです。人間の考える奇跡と、神の奇跡とには、大きな違いがあることを知らなければ、大きな間違いや勘違いをしてしまうことでしょう。
私たち一人一人の生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあるでしょう。そこから冷たいすきま風が吹くことだってあります。それは病気かもしれませんし、大切な人の死であるかもしれません。他者とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さや浅さも様々です。全てが、ずっと順風満帆な人生などありえません。その穴を埋めることも大切ですが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から覗いて見ることも生き方として大切なことだと思います。開いた穴からでしか見ることができない世界が必ずそこにあるはずだからです。
キリストは、弟子たちの裏切りという穴を通して、自分が創った愛する人々からの、ののしりという穴を通して、十字架での苦しみという穴を通して、希望を見出されていたのです。「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍んだ」(へブル12の2)