礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年6月30日

先日、ハンディを背負いながら生活をしておられるクリスチャン夫婦のお証を読みました。とても考えさせられる内容でしたので、本人の許可を得て抜粋します。
私たち夫婦が結婚して、8年になります。残念ながら、子はまだ主から預かっておりません。結婚後3年で、妻が入院。ずっと大変な状況が続いていますから、もしかしたら子がいなかった方がよかったのかもしれません。妻は子をもうけることを、少しためらっていました。妻:「むっちゃん、いいの?」 私:「何が?」 妻:「生まれてくる赤ちゃん、障害者だよ。いいの?」 妻は自分が「知的障害者」であることを気にしていました。子に遺伝するのではないかと。しかし、「知的障害」が遺伝するなんて話、聞いたことがありません。それに妻は、子どもの頃の虐待による脳の損傷が、「知的障害」の原因である可能性が高いのですから。問題は、私の側です。「骨形成不全症」。遺伝子の病で、骨が極端に弱い病気。しかも私の場合、「優性遺伝型」ですから、私の子は必ず「骨形成不全症」になります。ただし、どれくらいの「症状」なのかは、生まれてこないと分かりません・・・ しかし私は即答しました。私:「いいに決まってるじゃないか」 妻:「どうして?」 私:「じゃあ聞くけど、みきちゃんは自分が障害者だから、不幸だって思ったことある?」 妻:「ううん、ない」 さすがは、我が妻! 即座に、キッパリ言い切ったところが、素晴らしい! 私:「じゃあ・・・そういうことだよ。子どもが障害者だと、育てるのが大変だと思ってるの? 親が子にしてやれることは、祈ること、ただそれだけだよ。親は神さまに祈ることしか、子には何一つしてやれないんだよ」 妻:「ふーん・・・」 障害者だから不幸だ・・・。そんなこと、誰が決めつけたのでしょうか?  
神が与えてくださった人生は、どんな状況でも幸せになれるのです。
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9章3節)

心のオアシス 2013年6月23日

時間に愛をこめることを、私は修道院に入って教えられた。アメリカで修業中のある日のこと、昼食が済み、夕食の準備として配膳をしていた時のことである。百数十名のために、長テーブルの椅子の前に一つひとつ皿やコップを並べていた時のことである。「何を考えながら仕事をしていますか」と突然、後ろから声をかけられた。私は咄嗟に、「別に何も」と答えていた。すると、その年長の修道女はきびしい表情で、「You are wasting time.(あなたは時間を無駄にしている)」と言うではないか。
手早く、一心不乱に皿並べをしている私には不可解なコメントであった。けげんな面持ちをする私に、その人は静かに、さとすように教えてくれたのである。「同じお皿を並べるのなら、夕食にそこに座るであろう一人ひとりのために、祈りながら置いてごらんなさい」
ロボットでも並べられる皿、それを、ロボットと同じに置いてはいけない、人間には人間にしかできないことがあるのだということを、その日、私は習ったのである。そして、時間の無駄とは何なのかということも。           (「愛をこめて生きる」渡辺和子著より抜粋)

信仰と社会の両立はできないと考える人たちがいますが、聖書はそうは教えていません。ローマ書において「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」とは勧めながら、「世に存在している権威は、すべて神によって立てられたものである・・・この世に対して、義務を果たしなさい」とも教えています。この世で義務を果たすことは、神さまが私たちに与えられた、この地上での務めなのです。ですから、この地上における一分一秒も神の栄光のために生きることを意識しなければならないのです。この社会の中にも家庭の中にも神さまはおられて、私たちが神の栄光を表す機会として与えてくださっているのです。
人間にしかできない「愛をこめて生きる」を心がけたいと思います。

心のオアシス 2013年6月16日

3年前の6月6日(日)は、関西(旧・奈良)カルバリーフェローシップがスタートした日です。石の上にも3年と言いますが、あっという間に過ぎていきました。何故か、苦労したとか大変だったという記憶が全くないのは、私が鈍感だからでしょうか? 毎週が奇跡の連続で、次はどんな不思議が起こるのだろう?と期待感に満ちていました。そして今もそれは継続しています。以下はスタートした日の週報・心のオアシスです。

今日は「奈良カルバリーフェローシップ」の誕生日です! この歴史的なスタートにお立会いくださったみなさまは幸いだと思います。大げさなことを言っているようですが、そうでもありません。世界に影響を与えるような大国であっても、また人の目には留まらないようなどんな小さな群れであっても、また有名人でも目立たない人であっても、天地宇宙を造られた神様のお許しがなければ、その存在はありえないからです。この集まりは神様の壮大な歴史の一部分を担うために誕生しました。スタートは小さくても、大きな働きです。ただ委ねて前進するのみです。
私が与えられているフェローシップのビジョンは、聖書のことを知らない初心者でも安心して参加でき、何かわからないけれども元気をもらって、癒され、チャレンジを受け、希望をもって帰っていける心のオアシスのような場所をつくるということです。ここで力を得た人たちが、今度は外でこの喜びを分かち合うことができれば最高ですね。そのことのためにシンプルなプログラムと、たとえ難解な聖書箇所でも初心者にわかりやすくお話しできるよう努力します。将来的には平日の「学び会」などを通して、聖書の世界を深めていけるような会も考えています・・・

「ダビデを助ける者が日に日に加わって、ついに大軍となり、神の軍勢のようになった。」(歴代志上12章22節)教会を助ける人たちが加わり、ついに神の軍勢のようになることを期待し祈り続けます!

心のオアシス 2013年6月9日

イスラエルを旅したときに、私は一人の初老の黒人がこのような話をするのを聞きました。「私は生まれてすぐに、両親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいったのです。彼は親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはないでしょう。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています。」そう語る男性は、柔和で、穏やかで、愛されている人の顔そのものでした。
70年近い人生を過ごしてきて、一度も親の顔を見たこともなく、愛を受けたこともなく、抱かれたこともない人生とは一体、どのようなものであったのでしょうか。私はショックでした。このような人物を、誰がどのような言葉をもって励まし、慰めることができるでしょうか?
しかし私が驚いたことは、そのような人がイエス・キリストと出会った時から変えられ、愛と希望に満ちた人生へと変えられている事実でした。
このお証は、私自身が恵まれるので度々メッセージや文章に使わせていただいています。私自身もキリスト体験をした者として声を大にして言いたい。「イエスさまは、昨日も今日もとこしえまで変わりません!」

心のオアシス 2013年6月2日

私はアサガオが大好きで堺の集会へ行くときには、初夏から一日中咲いている野生の西洋アサガオを見ることが楽しみの一つとなっています。今年は大輪朝顔の種をいただいたので、自分で育ててみようと100円ショップで容器や土やネットを準備して育て始め、今は双葉が出てぐんぐん成長しています。ネットでアサガオの育て方を調べていたら、非常に興味深い内容を目にしたのでご紹介します。
植物が生きていく上で非常に大切なのが「根」の存在なのです。植えられた植物を見ると、人は表土よりも上を見てその植物の評価をしますが、植物を育てるという面では、根を上手く育てる事がいちばん大事なのです。根が上手く育てられなければ花を咲かせることは勿論の事、苗も貧弱なものとなり、見た目も悪い植物となってしまいます。根を育てるためにあえて小鉢という狭い空間で育てるのです。これを面倒がっていきなり大きな鉢に植えるとどうなると思いますか? 根は障害物が無ければ伸ばせるだけ伸ばそうとする性質を持っている為、直線的な根を生やす事になります。とにかく一直線にドンドン伸びて行き、突き当たりを目指すのです。そのため途中の空間には根が出ず、ただ長いばかりで根の量が少ないのです。こういう苗は当然弱々しいものとなり、肥料の吸収も十分できないためヒョロヒョロな苗になってしまいます。こうならない為に小さな鉢に植えるのです。根が一直線に伸びていこうとすると鉢が小さいためすぐに根が行き場を失ってしまいます。それでも根は伸びようとして鉢の中をグルグルと回るようにして根を出すため小鉢の中は根でいっぱいになります。根が鉢いっぱいに張ってから本鉢に移せば限られた空間を有効に使って根が生えるのでガッシリとした苗ができるのです。
子どもの将来を本気で考える親は過保護には育てません。神さまもあなたに対して本気です。「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」(聖書)

心のオアシス 2013年5月26日

「人間がどう行動するかは神があらかじめ定めている」と言うことと、「人間には自由があり、各自の判断による行動に対して責任が生じる」という互いに矛盾する内容を、聖書は両方とも真実であることを前提にしています。しかし予定説や自由説を強調するそれぞれの学者たちによる論争が長い間あって、今なお決着はついていません。川端光生師が「スッキリわかるキリスト教」の中でその辺をバランスよく解説されている。
① この問題は神の領域に属する
人間の理性に不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳に収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。人間の理解を超えたことは神秘として受け止める勇気も、時には必要です。
② 神の時空を越えた大権と人間の時空の中での自由
神は、時間と空間を越えた存在ですが、人間は、三次元の時空間に閉
じ込められた存在です。神はその三次元の世界の外側から、人間の過去・現在・未来の自由な営みを、同時にご覧になることができます。人間がその自由を使って何をしているかを見て、その自由を越えて個人の人生や人類の歴史に介入されるのではないかと思います。
③ 神の大権と人間の自由は相互補完的である
自分が自分の決断においてキリストの神を選んで自分の神としたと
いうだけにとどまるなら「人間中心の信仰」にすぎません。自分の存在の根拠づけや意味づけのための神を信じる信仰、自分に奉仕してくれる神を信じてやる信仰、いわば御利益信仰です。そんな信仰は、人間側の新たな体験や疑いや感情の変化や心の疲れなどによって揺らぎ続けます。その信仰が「神中心の信仰」に切り替えられないかぎり、キリスト信仰は確立しません。自分の自由意思で選んだが、神の大権によって自分は選ばれていたことを悟って初めて、キリスト信仰は成り立つのです。

心のオアシス 2013年5月19日

人間は否定的な言葉(つらい、悲しい、つまらない、イヤだ、嫌いだ、疲れた)愚痴、泣き言、悪口、文句、恨み言葉、憎しみ言葉、呪い言葉・・・だけを毎日言ったり浴びたりしていると、心身ともにダメージを受け、エネルギーをダウンしてしまうそうです。健康な人でも、肯定的な言葉を一切言わないで、ただひたすら否定的な言葉だけを言っている、あるいは浴びていると、三ヶ月ほどでうつになるようです。しかしながらある心理博士が言うには、「うれしい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイている」という肯定的な言葉だけを言いつづけ、否定的な言葉を言わないでいると、3ヶ月ほどで元気になる可能性が大だと言うのです。実際にことのようなことがあったそうです。講演会の後で一人の女性が質問してきたそうです。「実は私は十年間、うつなんです。うれしいとか、楽しいとか、幸せなどという言葉は出てこないし、いくらそういう言葉がよいと言われても、言いたくありません。笑っている人がいると、その笑顔を見たくありません。笑い声を聞くのもイヤです。喫茶店では笑顔の人が視界に入らないように席を移動します。耳をふさぎます。耳をふさいでもまだ笑い声が聞こえてしまうときは、その人を排除したくなります。私みたいな人はどうしたらいいんですか・・・」その博士はこう答えました。「私の話は、何かがうつを治してくれるとか、何者かが人を幸せにしてくれるというものではありません。物事の法理法則をお教えしましたが、最終的にはそれをやるのは本人です。」それを聞いたその女性は、無表情のまま「そうですか」と言って帰っていきました。それから一週間後、彼女から電話がかかってきました。「実は、あれから帰って、教えていただいた肯定的な言葉を3千回言ってみました。それで10年間苦しんでいたうつ病が1週間で治りました!」
良い話を聴いても人任せだと変わりません。本人の決断と実行しようとする勇気が変化を与えます。いつやるんですか? 今でしょう!

心のオアシス 2013年5月12日

理想主義に燃える若者にとっては、世の中は「不条理」で出来上がっている、ということは認めにくいかもしれません。しかし、汚職まみれの政治家が何度も当選したり、人を不幸にしながら成功していく企業がある、ということは理不尽ですが、世の中は、その理不尽によって成り立っています(少々語弊があるかもしれませんが、そういう「理不尽」な仕組みがまかり通って、現実の社会が構成されているのだ、ということを認める必要があります)。自分たちが思っている、ある種の「正義」なり「道義」なりのとおりに世の中ができているのではありません。
自分が、ある「正義」や「道義」をもっているのは自由ですが、必ずしも、自分以外の人たちも同じ考えをもっているとはかぎりません。では、そのような「理不尽」なことをしている人を見かけたときに何も糾弾しなくていいのか、ということになりますが、実は「人を裁かない」「人を糾弾しない」ということは、とても重要なことに思えます。では何もしないのか、という話にまた戻りますが、何もしないのではなく、「ああいうことは、自分はしない」と決意することが、たぶん最も重要なことなのでしょう。
世の中は「不条理」に満ちている、「不条理」がたくさん集まってできているのだ、と認めること、その「不条理」が、自分にとって許せないものであるならば、「不条理」の中にいる人を糾弾するのではなく、「自分自身はそういう生き方をしない」と固く決意し直すこと・・・それが遠回りのようでも、結局は温かで穏やかな社会をつくっていくための近道のような気がします。 (「き・く・あ」の実践・小林正観より抜粋)

私はこの内容に同感します。そして聖書的エッセンスを加えるならば、「不条理」とは、私たちを最高の人生へと導くために神が準備された壮大な計画の一部分であります。必ず乗り越えられます!

心のオアシス 2013年5月5日

私は今でも娘や息子が幼い時に私に書いてくれた手紙や絵などを大切に持っています。他者に見せたり家に飾ることはできないようなレベルのものもありますが、私にとっては何万円であっても値踏みすることのできない宝物なのです。恐らく世の中に出るとゴミ箱行きでしょう。他者にとってはゴミ同然の作品を私は何故大切にしているのでしょうか? それは親子という「関係」の故です。神さまと私たちの関係は、地上での親子の関係に反映されています。たとえこの世の中からは捨てられるような存在であったとしても、誰からも評価されない人生であったとしても、それでもあなたをVIP(Very Important Person)とても大切な存在として、神さまが受けとめているのです。
神さまの側は、あなたとの関係を決して切ることはありません。しかし私たちの側が、その「関係」に無関心であったり、切っているならば、それは完全な関係とは言えません。私たちの手首を掴まれているように、私たちも神さまの手首を掴み続けるなら、それは人生におけるどのような荒波にも耐えることができる平安が与えられるものです。
フェイスブックにある青年がこのような書き込みをしておられました。「父が天に召されて16年が経ちました。振り返ると、よくグレないでここまできたなと思う。」私はこの青年が中学生の時代から知っていて、お父様の葬儀の司式もさせていただきました。それからも人知れぬ苦労や辛い経験を何度もされて今は29歳。私も祈ることしかできませんでしたが、彼女が最悪の状況でも神さまとの関係を切らなかったことが大正解でした。弱さの故に教会に行けなくなった時期もありましたが、インターネットでも繋がっていたいというその心を神さまは見ておられたのだと思います。そしてこの度、教会に戻ることができただけではなく、ご友人を救いにお導きすることができました。先週も私にとっては忘れられない洗礼式となりました。He is good to us all the time!

心のオアシス 2013年4月28日

クリスチャンである彼女から関西カルバリーフェローシップのインターネット礼拝を紹介されたことがきっかけで、信じる決心をされた一青年の証の一部をご紹介します。
ある時、新宿のクリスチャンブックストア「オアシス」を訪れました。そこで「あしあと」という作品が目に留まりました。「砂浜に一つしかない足跡はイエスさまが一番苦しかった時の私を背負って歩かれている」との言葉にとても感動しました。私は「あしあと」が書かれたポストカードを買って帰りました。次の日・・・インターネット礼拝で、なんと小崎先生が「あしあと」を用いて説教をしてくださいました。ただの偶然とは思えない衝撃に私はとても感動しました。先生のお話が、ちょうど今まさに、私が抱えている問題を救ってくださる、そんな経験がその後も立て続けに起こりました。先生のお話は初心者の私でも非常に分かりやすく、丁寧で、ユーモアもあり、かつとても熱いものがあります。東大阪と横浜で離れた場所にいながら、常に小崎先生に励まされ、明日への活力がふつふつと湧いてくる、そんな経験を何度も何度も体験することができました。昨年の4月末に小崎先生を訪ね、そこで礼拝に参加することができました。そこに集う方々と交わりを持つことができ、皆様から神様との繋がりや数々のお話を伺うことができました。これらの一つ一つのことを振り返ってみると、全てのピースは神様が導いてくださった一本の道として繋がっているように感じます。そう感じた時に、私は神様の大きな懐に包まれているようでした・・・(A.K.)
「人生は出会いで決まる」と言いますが、私たちの人生は全て神さまのお取り計らいの中にあります。「あしあと」の詩のように、私たちが知らない間も不思議な出会いや助け舟を送って、直接的に間接的に私たちを背負って歩いてくださっているのが神さまです。
「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)