礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年6月9日

イスラエルを旅したときに、私は一人の初老の黒人がこのような話をするのを聞きました。「私は生まれてすぐに、両親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいったのです。彼は親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはないでしょう。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています。」そう語る男性は、柔和で、穏やかで、愛されている人の顔そのものでした。
70年近い人生を過ごしてきて、一度も親の顔を見たこともなく、愛を受けたこともなく、抱かれたこともない人生とは一体、どのようなものであったのでしょうか。私はショックでした。このような人物を、誰がどのような言葉をもって励まし、慰めることができるでしょうか?
しかし私が驚いたことは、そのような人がイエス・キリストと出会った時から変えられ、愛と希望に満ちた人生へと変えられている事実でした。
このお証は、私自身が恵まれるので度々メッセージや文章に使わせていただいています。私自身もキリスト体験をした者として声を大にして言いたい。「イエスさまは、昨日も今日もとこしえまで変わりません!」

心のオアシス 2013年6月2日

私はアサガオが大好きで堺の集会へ行くときには、初夏から一日中咲いている野生の西洋アサガオを見ることが楽しみの一つとなっています。今年は大輪朝顔の種をいただいたので、自分で育ててみようと100円ショップで容器や土やネットを準備して育て始め、今は双葉が出てぐんぐん成長しています。ネットでアサガオの育て方を調べていたら、非常に興味深い内容を目にしたのでご紹介します。
植物が生きていく上で非常に大切なのが「根」の存在なのです。植えられた植物を見ると、人は表土よりも上を見てその植物の評価をしますが、植物を育てるという面では、根を上手く育てる事がいちばん大事なのです。根が上手く育てられなければ花を咲かせることは勿論の事、苗も貧弱なものとなり、見た目も悪い植物となってしまいます。根を育てるためにあえて小鉢という狭い空間で育てるのです。これを面倒がっていきなり大きな鉢に植えるとどうなると思いますか? 根は障害物が無ければ伸ばせるだけ伸ばそうとする性質を持っている為、直線的な根を生やす事になります。とにかく一直線にドンドン伸びて行き、突き当たりを目指すのです。そのため途中の空間には根が出ず、ただ長いばかりで根の量が少ないのです。こういう苗は当然弱々しいものとなり、肥料の吸収も十分できないためヒョロヒョロな苗になってしまいます。こうならない為に小さな鉢に植えるのです。根が一直線に伸びていこうとすると鉢が小さいためすぐに根が行き場を失ってしまいます。それでも根は伸びようとして鉢の中をグルグルと回るようにして根を出すため小鉢の中は根でいっぱいになります。根が鉢いっぱいに張ってから本鉢に移せば限られた空間を有効に使って根が生えるのでガッシリとした苗ができるのです。
子どもの将来を本気で考える親は過保護には育てません。神さまもあなたに対して本気です。「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」(聖書)

心のオアシス 2013年5月26日

「人間がどう行動するかは神があらかじめ定めている」と言うことと、「人間には自由があり、各自の判断による行動に対して責任が生じる」という互いに矛盾する内容を、聖書は両方とも真実であることを前提にしています。しかし予定説や自由説を強調するそれぞれの学者たちによる論争が長い間あって、今なお決着はついていません。川端光生師が「スッキリわかるキリスト教」の中でその辺をバランスよく解説されている。
① この問題は神の領域に属する
人間の理性に不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳に収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。人間の理解を超えたことは神秘として受け止める勇気も、時には必要です。
② 神の時空を越えた大権と人間の時空の中での自由
神は、時間と空間を越えた存在ですが、人間は、三次元の時空間に閉
じ込められた存在です。神はその三次元の世界の外側から、人間の過去・現在・未来の自由な営みを、同時にご覧になることができます。人間がその自由を使って何をしているかを見て、その自由を越えて個人の人生や人類の歴史に介入されるのではないかと思います。
③ 神の大権と人間の自由は相互補完的である
自分が自分の決断においてキリストの神を選んで自分の神としたと
いうだけにとどまるなら「人間中心の信仰」にすぎません。自分の存在の根拠づけや意味づけのための神を信じる信仰、自分に奉仕してくれる神を信じてやる信仰、いわば御利益信仰です。そんな信仰は、人間側の新たな体験や疑いや感情の変化や心の疲れなどによって揺らぎ続けます。その信仰が「神中心の信仰」に切り替えられないかぎり、キリスト信仰は確立しません。自分の自由意思で選んだが、神の大権によって自分は選ばれていたことを悟って初めて、キリスト信仰は成り立つのです。

心のオアシス 2013年5月19日

人間は否定的な言葉(つらい、悲しい、つまらない、イヤだ、嫌いだ、疲れた)愚痴、泣き言、悪口、文句、恨み言葉、憎しみ言葉、呪い言葉・・・だけを毎日言ったり浴びたりしていると、心身ともにダメージを受け、エネルギーをダウンしてしまうそうです。健康な人でも、肯定的な言葉を一切言わないで、ただひたすら否定的な言葉だけを言っている、あるいは浴びていると、三ヶ月ほどでうつになるようです。しかしながらある心理博士が言うには、「うれしい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイている」という肯定的な言葉だけを言いつづけ、否定的な言葉を言わないでいると、3ヶ月ほどで元気になる可能性が大だと言うのです。実際にことのようなことがあったそうです。講演会の後で一人の女性が質問してきたそうです。「実は私は十年間、うつなんです。うれしいとか、楽しいとか、幸せなどという言葉は出てこないし、いくらそういう言葉がよいと言われても、言いたくありません。笑っている人がいると、その笑顔を見たくありません。笑い声を聞くのもイヤです。喫茶店では笑顔の人が視界に入らないように席を移動します。耳をふさぎます。耳をふさいでもまだ笑い声が聞こえてしまうときは、その人を排除したくなります。私みたいな人はどうしたらいいんですか・・・」その博士はこう答えました。「私の話は、何かがうつを治してくれるとか、何者かが人を幸せにしてくれるというものではありません。物事の法理法則をお教えしましたが、最終的にはそれをやるのは本人です。」それを聞いたその女性は、無表情のまま「そうですか」と言って帰っていきました。それから一週間後、彼女から電話がかかってきました。「実は、あれから帰って、教えていただいた肯定的な言葉を3千回言ってみました。それで10年間苦しんでいたうつ病が1週間で治りました!」
良い話を聴いても人任せだと変わりません。本人の決断と実行しようとする勇気が変化を与えます。いつやるんですか? 今でしょう!

心のオアシス 2013年5月12日

理想主義に燃える若者にとっては、世の中は「不条理」で出来上がっている、ということは認めにくいかもしれません。しかし、汚職まみれの政治家が何度も当選したり、人を不幸にしながら成功していく企業がある、ということは理不尽ですが、世の中は、その理不尽によって成り立っています(少々語弊があるかもしれませんが、そういう「理不尽」な仕組みがまかり通って、現実の社会が構成されているのだ、ということを認める必要があります)。自分たちが思っている、ある種の「正義」なり「道義」なりのとおりに世の中ができているのではありません。
自分が、ある「正義」や「道義」をもっているのは自由ですが、必ずしも、自分以外の人たちも同じ考えをもっているとはかぎりません。では、そのような「理不尽」なことをしている人を見かけたときに何も糾弾しなくていいのか、ということになりますが、実は「人を裁かない」「人を糾弾しない」ということは、とても重要なことに思えます。では何もしないのか、という話にまた戻りますが、何もしないのではなく、「ああいうことは、自分はしない」と決意することが、たぶん最も重要なことなのでしょう。
世の中は「不条理」に満ちている、「不条理」がたくさん集まってできているのだ、と認めること、その「不条理」が、自分にとって許せないものであるならば、「不条理」の中にいる人を糾弾するのではなく、「自分自身はそういう生き方をしない」と固く決意し直すこと・・・それが遠回りのようでも、結局は温かで穏やかな社会をつくっていくための近道のような気がします。 (「き・く・あ」の実践・小林正観より抜粋)

私はこの内容に同感します。そして聖書的エッセンスを加えるならば、「不条理」とは、私たちを最高の人生へと導くために神が準備された壮大な計画の一部分であります。必ず乗り越えられます!

心のオアシス 2013年5月5日

私は今でも娘や息子が幼い時に私に書いてくれた手紙や絵などを大切に持っています。他者に見せたり家に飾ることはできないようなレベルのものもありますが、私にとっては何万円であっても値踏みすることのできない宝物なのです。恐らく世の中に出るとゴミ箱行きでしょう。他者にとってはゴミ同然の作品を私は何故大切にしているのでしょうか? それは親子という「関係」の故です。神さまと私たちの関係は、地上での親子の関係に反映されています。たとえこの世の中からは捨てられるような存在であったとしても、誰からも評価されない人生であったとしても、それでもあなたをVIP(Very Important Person)とても大切な存在として、神さまが受けとめているのです。
神さまの側は、あなたとの関係を決して切ることはありません。しかし私たちの側が、その「関係」に無関心であったり、切っているならば、それは完全な関係とは言えません。私たちの手首を掴まれているように、私たちも神さまの手首を掴み続けるなら、それは人生におけるどのような荒波にも耐えることができる平安が与えられるものです。
フェイスブックにある青年がこのような書き込みをしておられました。「父が天に召されて16年が経ちました。振り返ると、よくグレないでここまできたなと思う。」私はこの青年が中学生の時代から知っていて、お父様の葬儀の司式もさせていただきました。それからも人知れぬ苦労や辛い経験を何度もされて今は29歳。私も祈ることしかできませんでしたが、彼女が最悪の状況でも神さまとの関係を切らなかったことが大正解でした。弱さの故に教会に行けなくなった時期もありましたが、インターネットでも繋がっていたいというその心を神さまは見ておられたのだと思います。そしてこの度、教会に戻ることができただけではなく、ご友人を救いにお導きすることができました。先週も私にとっては忘れられない洗礼式となりました。He is good to us all the time!

心のオアシス 2013年4月28日

クリスチャンである彼女から関西カルバリーフェローシップのインターネット礼拝を紹介されたことがきっかけで、信じる決心をされた一青年の証の一部をご紹介します。
ある時、新宿のクリスチャンブックストア「オアシス」を訪れました。そこで「あしあと」という作品が目に留まりました。「砂浜に一つしかない足跡はイエスさまが一番苦しかった時の私を背負って歩かれている」との言葉にとても感動しました。私は「あしあと」が書かれたポストカードを買って帰りました。次の日・・・インターネット礼拝で、なんと小崎先生が「あしあと」を用いて説教をしてくださいました。ただの偶然とは思えない衝撃に私はとても感動しました。先生のお話が、ちょうど今まさに、私が抱えている問題を救ってくださる、そんな経験がその後も立て続けに起こりました。先生のお話は初心者の私でも非常に分かりやすく、丁寧で、ユーモアもあり、かつとても熱いものがあります。東大阪と横浜で離れた場所にいながら、常に小崎先生に励まされ、明日への活力がふつふつと湧いてくる、そんな経験を何度も何度も体験することができました。昨年の4月末に小崎先生を訪ね、そこで礼拝に参加することができました。そこに集う方々と交わりを持つことができ、皆様から神様との繋がりや数々のお話を伺うことができました。これらの一つ一つのことを振り返ってみると、全てのピースは神様が導いてくださった一本の道として繋がっているように感じます。そう感じた時に、私は神様の大きな懐に包まれているようでした・・・(A.K.)
「人生は出会いで決まる」と言いますが、私たちの人生は全て神さまのお取り計らいの中にあります。「あしあと」の詩のように、私たちが知らない間も不思議な出会いや助け舟を送って、直接的に間接的に私たちを背負って歩いてくださっているのが神さまです。
「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)

心のオアシス 2013年4月21日

CMなどでも起用され、世界で最もよく歌われている讃美歌といえば、Amazing Grace「驚くばかりの恵みなりき」が有名です。この詞を書いたジョン・ニュートンは元奴隷商人でした。彼が生きた18世紀は、奴隷商売が盛んな時代で、当時は“Triangle Trade”(三角貿易)と呼ばれていました。その名称の由来は、イギリス本土からアフリカへ何下して奴隷たちを船いっぱいに乗せて北アメリカ大陸へと運び、そして奴隷たちを金品と交換してイギリス本国へ帰るという航路が、ちょうど三角形を描いていたことから、そう呼ばれるようになりました。ジョン・ニュートンは荒くれ者で、奴隷に対しても冷酷な男でした。しかしある日、大きな嵐に遭遇して、死に直面したとき初めて「神さま、助けてください!」と叫んだのです。幸い命は助かり、その後、彼が7歳の時に亡くなった母親が残した聖書を読み始めて、クリスチャンになり生まれ変わり、献身して牧師になる決心をしました。その時の年齢は23歳でした。
「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救ってくださった」という恵みを歌ったのがこの讃美歌だったのです。
 82歳で死ぬまで、彼は自分の生涯をあれほどドラマチックに変えてくださった神さまの憐れみと恵みとを語り続けました。それこそ彼の毎回するメッセージの主要なテーマでありました。彼は召される少し前のメッセージの中でこう語りました。「私の記憶は、ほとんど失われました。しかし、私は二つのことはハッキリと覚えています。一つは私が大いなる罪人であること。そしてもう一つはキリストが大いなる救い主であることです。」
 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ書5章8節) 私たちの存在は神の愛の表われです。あなたが存在しているというだけで喜ばれているのです! Amazing Grace!

心のオアシス 2013年4月14日

1979年に起こった銀行強盗の事件をご存知でしょうか?
猟銃を持った男が、大阪のある銀行に押し入り、人質をとって立てこもり、4人が犠牲となり、42時間後、犯人は射殺されるという、悲惨なものでした。
私も当時中学生でしたので、今まで考えられなかったような事件が生中継されているテレビを見ながら、早期解決を期待しながら見守っていました。
犯人の母親が説得に当たった時に、ニュースレポーターが言った言葉が、心に残りました。「母親の説得は功を奏しませんでした。全てのものを敵に回して立てこもる犯人。母親はそれでも、ただ一人、自分だけでも息子の理解者となり味方になってやりたいと、説得を終えて引き上げる後ろ姿が語っているようでした。」
とんでもない事件を起して、犠牲者まで出ているのに、そんなことがよくぞ言えるものだと私は思いました。しかし、今、親の立場になってみて、その犯人の母親の気持ちを、少し理解することができるようになりました。
無条件の愛・・・それは神さまが人間の親に与えた神様のご性質の表われであろうと思います。悪いものは悪いし、処罰されなければならない存在だけれど、世界中の全ての人を敵にまわして憎まれていても、自分だけはその存在を理解し味方になってやりたい・・・神さまは、私たちに一人一人に対して、そのような気持ちを持っておられるのです。何かをした結果ではなく、ただ一方的な恵みと愛の故です。人間の親には限界があります。しかし神様は、イエス・キリストを通して、私たちの罪の罰を解決して、信じるだけで救われるという世界を実際に成就してくださいました。私たちを苦しめる罪を憎み、私たち自身は救いたいと願われ、その両面の解決をイエス様の十字架が見事に実現したのです。まさに十字架は私たちの罪を取り除くフィルターです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」(マタイ11の28)

心のオアシス 2013年4月7日

「わたしたちの人生というドラマの中で、サタンはその役割を演じる俳優であるかもしれません。しかし、神は依然として監督なのです。」
            マーリン・キャロザース著「賛美の力」より

 この数週間は、今までの私の人生の中でも上位に入るぐらいの試練の時でした。息子が韓国留学しましたが、急な環境の変化や言葉の違いなどのストレスなどが重なり、やる気満々だったにも関わらず学校へ行けなくなりました。当初はサタンにやられてしまったのではないかと心配するほどでしたが、私には確信がありました。それはサタンは神の許可なしには誰ひとり攻撃できないということ、そして、神は私たちの人生を最善に導くために、あえてサタンを利用されることもあるということです。ですから、私は試練の中でも、ある種の平安がありました。
 私が関西地域で開拓伝道を始めてから、毎日が奇跡の連続でした。そして今もそれは継続しています。長く通っておられる人たちは紅海が分かれて、乾いた地を歩いて渡るというようなできごとを何度も見てきたのでおわかりでしょう? 私たちの集会場所が追い出されて、どうすることもできない壁にぶつかる度に、場所がグレードアップしていきました。日曜日の礼拝の為に、奈良ではカトリック教会、東大阪では東大阪福音教会のご好意によって、無償で会堂を貸していただけるなんて考えられますか?(勿論、献金はさせていただいています) 開拓教会は、家賃の支払い能力がないことをご存知の上で、そのような場所を与えてくださっているのです。しかも毎回グレードアップしています。
 このようなことを考えていると、今回の様々な出来事も、教会を整えるために必要なことを主はされておられるのだという思いが与えられました。仕事などでなかなか日曜日に教会へ顔を出すことができなかった家内も来ることができました。主はあなたの道を創られます!