心のオアシス
心のオアシス 2014年1月26日
「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
この八つの風は、毎日のように色々な形で私たちに向けて吹いています。これらの風に心揺すぶられながら生きているのが私たちです。有頂天になったり、劣等感に陥ったりで、心もけっこう忙しいです。でも、その振り幅が大きくなりすぎると、高慢になったり、病気になってしまったりするわけです。私たちが八つの風に吹き飛ばされないために、心がけていなければならないことは、自分の立場をわきまえるということなのです。
大津波がきた時に、水が建物に上がってきているのを目の当たりにしながらも、最後の最後まで冷静に津波警報のアナウンスを続けた役所の職員のことがテレビで紹介されていました。死が迫っているのに、どうしてパニックになって逃げなかったのでしょうか? それは自分の立場とその使命をわきまえているから動じなかったのでしょう。
新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。自分の栄光ではなく、神の栄光をあらわすために生きるなら、心の振り幅が最小限に抑えられます。共に実践してきましょう。栄光在主!
心のオアシス 2014年1月12日
長距離トラックの運転手が、自分の体験を新聞に投書していました。「その日、自分は夜っぴて運転し続けて、あと少しで目的地に到着す
るはずでした。朝の七時頃だったでしょうか、目の前を一人の小学生が、黄色い旗を手にして横断歩道を渡り始めたのです」運転手は疲れもあってでしょう。いまいましく思い、急ブレーキをかけてトラックをとめました。ところが、その小学生は渡り終えた時、高い運転台を見上げて、運転手に軽く頭を下げ、「ありがとう」といったのだそうです。「私は恥ずかしかった。そして決心したのです。これからは横断歩道の前では徐行しよう。そして、もし道を渡る人がいたら、渡り終わるまで待ち、笑顔で見送ろう」
ほほえみ、優しさ、愛は、このようにつながってゆき、溢れてゆくのです。運転手に笑顔で見送られた人は、嬉しくなって、多分、言葉も、態度も、その日一日優しくなったことでしょう。
マザー・テレサがいわれました。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴なしに大海は成り立たないのですよ」さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つひとつに、大きな愛をこめることはできます」。
小学生の笑顔と、「ありがとう」の一言は、それ自体は小さな行いです。しかし、それが次の人につながっていって、相手の心を優しくし、その優しさが溢れていって、社会に、家庭に、平和を作り出してゆくのではないでしょうか。 (渡辺和子著「面倒だから、しよう」より引用)
私たちは一攫千金を夢見、大きな何かをしたいと願います。そして小さなことは無駄だとか、面倒だと考える傾向にあります。でも、結局は小さな積み重ねが大きなことに繋がっていくのだと思います。関西カルバリーフェローシップの開拓3年半も小さな働きでしたが、それが今日に繋がり、毎日毎週のコツコツがリバイバルに繋がると確信しています。 「管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(1コリ4の2)
心のオアシス 2014年1月5日
私の次女が高校1年生のとき、受験のストレスでとても苦しんでいました。車で学校へ送っていく途中、娘が車の中で激しく泣き出しました。私は娘のために祈りました。「神様、私の娘が、主がともにおられることを知ることができますように。」切に祈り終えた後、今度は娘がこのように言って泣きました。「お父さん、お父さんはイエス様が本当に心におられるのが信じられるの? 私は信じられない!」私は娘を抱きしめて祈ってあげることしかできませんでした。信じられないと言っているのに、私に何ができるでしょうか。
それから2年ほどが経ったある日、学校に送っていく途中の車の中で、娘が突然こう言いました。「お父さん、私、お父さんがいなかったら神様を信じることができなかったと思う。」その間、インターネットでキリスト教に対する批判的な記事を読んだそうですが、正直、その批判にも一理はあるかもしれないと思うことが多かったそうです。ですから、神はおられないのではないかと思いもしましたが、私の姿を見ると、本当にイエスが心におられるように見えたそうです。学校に着いて車から降りた娘が言いました。「お父さん、もう信じられるよ。イエス様が私の心におられるのを確かに。どうもありがとう。」お父さんのおかげで信仰を守ることができたと、主に出会えたと言ってくれた娘の言葉が嬉しくて、今度は私が泣きました。
「あなたは私を愛しているか」ユ・ギソン著より抜粋
私たち関西カルバリーフェローシップは、開拓3年半の間に数々の奇跡を主が見せてくださいました。「恵みは朝ごとに新しい」とあるように、毎年同じはなく、新しい何かをしてくださいました。神様は2014年でしかない恵みの世界を用意しておられます。期待しましょう!
「あなたを見ているとイエス様が生きて働いておられるのが、よくわかりました。」と言わしめるような者へと成長したいと願わされています。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(哀歌3章23節)
心のオアシス 2014年1月元旦
「年始あるある」を集めました。初笑いになるかもしれませんが、これを参考に成長もしたいものです・・・
○思えば「新年の抱負」を実行できたためしがない・・・
あるある46.0% そうでもない54.0%
○新年の抱負を立てるため、昨年の抱負を振り返るものの内容を思い出せない・・・あるある54.0% そうでもない46.0%
○新年にはいつもダイエット宣言をするが、毎回お雑煮の魅力に負けてすぐ終了(29歳・女性)
○毎年、実家で新年の抱負を言わされるのが嫌だ(28歳・男性)
○面倒だから健康に過ごすことを抱負にしてしまう(34歳・男性)
○今年って平成何年だっけ?と年明け早々わからなくなる・・・
あるある49.5% そうでもない50.5%
○「もう出さなくていいか・・・」とやめた相手に限って、真っ先に年賀状が届き、気まずい思いをする・・・
あるある34.5% そうでもない65.5%
○年賀状のやりとりしかない人の事を1年に1回思い出す(30歳・男性)
○年賀状でしかやりとりしかない知人の近況が分かるから、年賀状は止められない(34歳・女性)
※ネオマーケテイング調べ 2013年10月25~28日 全国20~34歳男女200人
人は、いかにいい加減に生きているかということですね。でも主は、
約束されたことを必ず実行されます。そして神の計画が着々と進められ
て行くのです。神さまに期待して今年も恵まれた一年となりますように。
今年の関西カルバリーフェローシップの年間聖句は・・・
「 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ書43章19節)
心のオアシス 2013年12月29日
ある相談員が、小学4年生の男の子から手紙で、「僕のお母さんに元気になってほしくてプレゼントをあげたいんだけど、お小遣いは329円しかありません。この値段で買えて女の人が喜ぶ物は何ですか?」という相談を受けました。その子の母親はガンで長く生きられないのですが、その男の子はその事実を知りません。その相談員は後日、男の子を連れてデパートに行きました。男の子はお母さんのことを心配しながらいろいろなことを話しました。「お母さんダイエットしてるのかな~? ご飯全然食べないし無理して笑ってるみたいなんだ。300円ぐらいでダイエットのやつ買えるかな? 靴買えるかな? お花買えるかな? でも枯れたら悲しいから、サボテンにしようかな? 手袋買えるかな? でも冬しか使えないよね・・・キャビア食べたいって言ってた! 買えるかな?」その子の母を思う言葉一つ一つに涙をさそいました。
「僕、靴にする!お母さんといろんな場所に行きたいんだ!」靴なんて、とても300円程度では買えません。相談員はその子がトイレに行っている間に靴売り場に行き事情を話して300円で買えるようにお願いしました。もちろん、後から足りない分は、その相談員が払うつもりでした。店員は快く了解してくれました。その子を連れて靴売り場に行くと、300円均一と紙に書いてありました。急いで作ったのか雑でしたが胸が熱くなりました。「これにする!」選んだのは白いヒールの靴でした。後で払おうとしたら「300円ですから、ちょうどです」と笑顔で言われました。感謝の気持ちで胸がいっぱいになったそうです。
今年一年間、表面には見えなくても様々な支えの中で生かされてきました。ある時には人を通し、仕事や出来事を通し、励ましや勇気が与えられました。指を折りながらこの一年の感謝を数えましょう。更に感謝の数が増えることを期待しつつ新しい年を迎えたいと願います。
「またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」(詩篇65篇11節) 良い年をお迎えください✩
心のオアシス 2013年12月22日
アメリカでの笑い話です。
小さな男の子が、初めて教会の日曜学校のクリスマス会に参加して、そこでクリスマス・ストーリーの新しいイメージを持って、家に帰ってきたそうです。この子は、東方の博士たちが、赤ちゃんイエスさまに贈り物を持ってきたということを、劇を通して学びました。2千年前の世界で最初のクリスマスで起こった出来事を知って、早く両親に伝えたくて仕方ありませんでした。そして家に着くなり話し始めました。「僕ね~、今日、教会の日曜学校で、世界で最初のクリスマスについて学んだの~ えっと、今から2千年前には、サンタクロースがいなかったらしくて、ラクダに乗った3人の痩せた男たちが、オモチャを運んでたんだって。でもね、赤いお鼻のトナカイさんには、まだ明るい光を放つお鼻がなくてさぁ、空から大きなスポットライトで、彼らの行く道を照らしてたみたいだよ~ 昔は、オモチャを運ぶのも一苦労だったみたい~」
キリストの誕生ストーリーが、いつの間にか、この男の子の頭の中で2千年前の子どもたちに贈るオモチャの運び方がどうであったかということにすり替えられてしまったらしい・・・ 私たちは、笑ってしまうかもしれないけれど、果たして本当のクリスマスを理解している人たちがどれくらいいるでしょうか? クリスマス(Christmas)は、Christ(キリスト)とmas(礼拝)が結合して作られた言葉です。ですから、本来の意味は、「キリスト(救い主)を礼拝する日」または「キリストの誕生をお祝いする日」ということになります。このシーズンは、街もクリスマス一色になります。クリスマスケーキや、プレゼント交換、クリスマスツリー・・・楽しい気分になります。でも、本来何をお祝いしているのか忘れ去られています。クリスマスの主人公はイエス・キリストです。主役のいない誕生会なんてありえないですよね? このお方を知れば知るほど、驚くばかりの恵みの数々を体験していくことができるでしょう。
「今日ダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。」
心のオアシス 2013年12月15日
ビリーグラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い労働をしていた一人の男性が救われました。貧しさのゆえに荒れた生活をしていた彼は、その時を境にして、生活ぶりが全く変わりました。教会へも日曜日ごとに忠実に出席しはじめ、仲間に会うと、誰かれとなく教会へ一緒に行こうと誘うようになりました。
ある日、仕事場で顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうけれども、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組んで仕事をしはじめました。二人は昼食時になり、ガレキの山に腰をおろし、ポツリポツリと世間話を交わしていましたが、彼は「今度、教会へ行かないかい?」と勧めました。突然のことに刀傷の男は「この俺が?」と自らを指しながら驚いた様子でした。しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、こう言いました。「俺なんかダメさ・・・こんな醜い傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ・・・」そうすると彼は言いました。「いいや、俺たちをな、迎えてくれるお方がいるんだよ。そのお方は、お前より、もっと酷い傷が体中に、顔に手足にあるんだよ。」
私たちの顔や体に傷はなかったとしても、目に見えない心の傷はけっこうたくさんあるものです。しかし、この地上で全ての苦難を通られたイエス・キリストが、私たちを理解し迎え入れてくださるなんて本当に有難いことです。
今から2千年前に、キリストは家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされていました。この貧しい幼子に何ができる?と思えるようなお姿でした。でも神共におられるならば、境遇は関係ありません。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエル『神われらと共にいます』と呼ばれるであろう」。(マタイ1の23)
心のオアシス 2013年12月8日
榎本保郎先生が、かつて同志社の神学生であった時、牧師に連れられて路傍伝道へ行かれたときの体験したことを書いておられます。祭りの夜であったせいか大勢の人たちが町に出てきていました。牧師が街角に立って説教をしますが、誰一人足を止めて聞く人はいません。その後、今度は若き榎本神学生がお話をすることになりました。大きな声で「皆さん!」と叫びましたが、やはり誰も足を止めてはくれませんでした。話が終わり何とも言えない気持ちで教会へ引き上げました。その時は、恥ずかしさと信仰に耳をかさない人々に対する怒りで腹が煮えくり返っていたそうです。そんな神学生の傷口にでも塩を塗るかのようにして、前をちょろちょろしていた子供たちが「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかいました。振り向いてにらめつけてやったとのこと・・・ 教会へ帰ると牧師はすぐに感謝祈祷をしようと言われましたが、またそれに腹が立ちました。「何が感謝や! 腹が立ったら腹が立ったっていいじゃないか! そのほうがよほど正直や!」と内心思いましたが、そこで歌った讃美歌536番の歌詞「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや。水の上に落ちて流されし種も、いずこの岸にか生いたつものを。浅き心もて、ことを計らず、み旨のまにまにひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、思わぬ木陰に人もや宿さん。」歌いながら自分の信仰のなさを恥じたと告白されています。
その20年後、榎本先生は牧師になっておられました。ある日、先生の教会に同志社の神学部の新卒生が派遣されてきて、彼と面接しながら住所を見たところ、かつていた教会の近くだったので、当時の路傍伝道の苦労をお話しされました。彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言いました。「先生、あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししておられます。
先週は、何年も祈られ、私も訪問してきた80歳の女性がイエス様を受け入れ、洗礼を受けました! 人の時ではなく、主の時を感じました。
心のオアシス 2013年12月1日
「自分を振り返る鏡」というタイトルのお話です。
ある町に不満ばかりを言っている人がいました。誰も彼の不満や愚痴から逃げることはできませんでした。ある日、彼は道で旅人に出会いました。やはりその旅人も、彼の隣人に対する不満を聞かされました。「今まで、これほど醜い人たちは初めてですよ。町の人たちはみな、人を助けることを知らず、利己的です。何より悪いのは、互いに中傷するのを止めないんですよ。」
実は、その話を聞いていた旅人は天使でした。天使が聞きました。「それは本当ですか?」 男は答えました。「私の言うことが信じられませんか?」 するとその男が続けて言いました。「ほらほら、向こうから歩いてくるあの男を見てくださいよ。名前は知らないけど、顔は知っていますよ。あの小さくて切れ長の目、唇には貪欲があふれ、背中を丸めて、ずる賢くペコペコしていますよ。歩いているというより、こそこそと這っているようですね。」 天使が言いました。「あなたはすべてを把握していますね。大変頭の良い方ですね。しかし、あなたには一つ見えていないことがあります。あれは鏡なのですよ。そして、あなたが非難していたあの男は、あなた自身なのです。」
「他人は自分を映す鏡」と言われます。他者が自分のことを大切にしてくれないと感じる時、実は自分も他者を大切にしていない。また他者の対応に不満を持つ時、実はその対応こそ自分が相手にしている対応であることが多いそうです。
マザーテレサの愛した祈りの中に、「慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりは愛することを」というのがあります。私たちは誰かから慰められること、理解され、愛されることを求めています。でも、本当は他者に与えていく人生の方が、幸せなのでしょうね。私たち自身の総点検をしなくてはいかなければ・・・。
「受けるより与える方が幸いです。」(使徒行伝20章35節)
心のオアシス 2013年11月24日
ある病院での出来事・・・
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていました。お互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外を眺めて、外の世界について詳しく話をしだしました。「今日は良い天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。向かいにある公園の桜が咲き始めたところですよ。」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスを踊っているようですよ~」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に語って聞かせてあげていたのです。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日毎日、心が慰められました。そして、自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うのでした。しばらくして、窓際の男性は退院することになりました。もう一人の男性は喜びました。「やった! これで、自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入り患者に話して聞かせてやろう。」看護師にベッドを窓際に移すように頼むと、すぐに聞き入れてくれました。しかし心躍らせて窓の外に目をやった彼は、愕然としました。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかったのです。それから彼は考えました。あの窓際の男性は、一体何を見ていたのでしょう? 彼の目に見えていたのは灰色の壁でした。しかし想像の力で、その向こうにあるものを見ようとしていたのです。そして、ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしているルームメイトのために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのです。同じ壁を見て、ある人はその壁だけを見ます。しかし信仰の人は、その先にある「希望」を見ます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12章2節) 私たちには揺るがない希望があります!