礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年10月27日

「俺の人生は、ヤツに救われた」という投稿された文章です。
一番古い記憶でも、幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので、本ばかり読んでいた。大学は地元を離れた。今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人きりだった。たまたまクラスが同じになり、たまたま俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。しかしヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもって黙っていてロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、ヤツの勧めで同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後、ヤツからメールが来た、「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今、何とか真っ当に生きていられるのだから。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・
イエス様とつるんでいれば、万事OK! 何とかなります!

心のオアシス 2013年10月20日

劇作家のウィリアム・シェイクスピアは、「人生は舞台だ。誰もが役者だ。おのおのが自分の役を演じきるのだ」と言いました。
私たちの人生が舞台であるならば、ある人は学生として、ある人はサラリーマンとして、ある人は親として、子どもとして、政治家として、医療関係者として、パートさんとして、植木屋さんとして、男として女として、それぞれの立場で輝いていることによって、神の栄光をあらわすことになるのです。そして舞台総監督は神さまです。そして一人一人が神の歴史の台本を創っているのです。演劇の中にも主役がいて脇役がいます。台本通りにやっていたとしても脇役が出過ぎた演技をすると、その舞台は台無しになるでしょう。また主役が目立っていなければ、それは良い劇とは言えません。たとえ通行人Aであっても、それを控えめに精一杯表現することによって、舞台が引き立つわけです。もし、脇役が、自分は主役になりたかったと言っても、監督があなたを通行人Aにされたわけで、それは必要ない役ではなく、舞台を盛り上げるためには、その役も必要であり重要な存在なのです。
同じように、私たちは、「どうして私は、あの人のようではなかったですか?」「あの人のようであったら、もっと人生楽しめたのに・・・」と言うならば、それは演劇の役に不満足である役者さんのように、舞台監督である神さまに文句を言っているようなものです。神さまが私たちにしかできない必要な「わたし」という存在を与えて、環境を与えたのですから、その中で全力で楽しみながら、喜びながら生きるのです。
マーリン・キャロザース先生の「賛美の力」という著書の中で、こう書いておられます。「わたしたちの人生というドラマの中で、サタンはその役割を演じる俳優であるかもしれません。しかし、神は依然として監督なのです」人生を楽しむためには、わたしたちの総監督が誰であるかを押さえておくことがポイントですね。サタンではなく神さまです!

心のオアシス 2013年10月13日

ある方が投稿された文章です。
12年前に亡くなったおじいちゃんの部屋から、当時小学6年生だった私と一緒に折った紙飛行機が見つかった。懐かしくて手に取ったら、紙が茶けててボロボロで、破れた隙間から何か文字が見えたので広げて見ると、おじいちゃんが当時の私に書いたものだった。
「かなこや、おまえはかわいい わ(わ→私)のたからじゃき だいじに だいじに おおきゅうなるまっで じいちゃが だいじにしたるきな じいちゃは かなこがだいすきじゃ おまんが じいちゃのこと いらんゆうとも さみしいけんど じいちゃは かなこがだいすきじゃきな あんま きらわんとってな かなこが・・・(ここから先読めない)」当時の私はおじいちゃんが好きになれなくて平気で目の前で「いらん」「死ね」って言っていました。こんなに愛されていたなんて、こんなに大切にされていたなんて全然知らなかった。ごめんな、おじいちゃん・・・。
聖書に「神はそのひとり子を賜った(プレゼントする)ほどに、この世(わたしたち)を愛して下さった。それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)という箇所があります。私たちが「神なんていらない」「宗教なんて嫌いだ」と言っている時にも、神は「あなたがわたしのことをいらないと言っても、わたしはあなたを愛しています。」とメッセージを送り続けています。
おじいさんのラブコールが孫へ届いて、その孫がその愛に気付いて応答することは宗教ではありません。同じように、神が私たちにラブコールをしておられて、私たちがそれに気付き受け入れることを、「宗教」とは呼びません。私はこれを神さまとの「愛のキャッチボール」と呼びたい。神さまから愛を投げても、私たちがそれを受けて投げ返さなければキャッチボールは成立しません。
楽しい人生は、神さまとのキャッチボールから始まります!

心のオアシス 2013年10月6日

行き倒れの人を連れて帰ってきて手当てをしているマザー・テレサに向かって、「あなたのしていることは水の一滴のようなことだ。どうしてあなたは、もっと力のある社会に働きかけて、インドという国を良くしないのですか?」と尋ねる人がいました。その人に対してマザーは、「海の水も一滴の水から成り立っているのですよ」と答えたそうです。この言葉は、私にとって勇気と励ましを与える言葉となっています。
一匹一匹のアリの作業を観察していると、とても大きなことはできないように思えます。砂の一粒を運んでいるアリ、パンくずをどこかで見つけて運んでいるアリ・・・でも、その積み重ねによって、地中に深く穴を掘り、いくつもの部屋を作り、そこで食べて生きているのです。神さまの目から見るならば、私たちの毎日の生活は、どのように映っているのでしょうか? 自分は大きな仕事をしていると思っていても、もしかしたら、神さまの目には、小さな砂の一粒を動かしているほど小さく映っているかもしれません。また自分は何もできない小さな存在だと思っていても、知らない間に、神さまの大きな御業の一旦を担わせていただいていて、神さまが応援してくださっていることだってありえるのです。その小さな存在と小さな働きがなければ、大きな御業は起こらないということなのです。
まさに聖書には、無名でありながら、イエスさまの働きに大いに貢献している人たちが大勢出てきます。国や社会を動かすことも、小さな一人に施すことも、それは神の目には小さなことでしょう。でも、そのそれぞれの小さな存在と働きがなければならないのです。
私たちの毎日の祈り、生活、学び、仕事、何気ない会話も、小さなことですが、その積み重ねが、大きな働きへと変わるのです。教会は2千年間、コツコツと礼拝を守ってきました。しかしそれは次の世代への信仰の継承には、とても大切なことでした。毎日を大切に生きましょう!
「だから明日のことを思いわずらうな。」(マタイ6章34節)

心のオアシス 2013年9月29日

“トムとジェリー 仲良くケンカしな♪”というテーマソングの漫画をご存知でしょうか? 私も小学生時代にテレビで観ていた覚えがあります。猫のトムが、小さなネズミのジェリーを追っかけては、痛い目に遭うというストーリーです。最終回の内容を文章で読みました。ジェリーが大人になった頃、トムはもうこの世にいませんでした。トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、こっそりジェリーの前から姿を消しました。トムがいなくなったのに気付いたとき、ジェリーは悲しみはしませんでしたが、退屈になるなと思いました。そんなある日、ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで体も小さい猫です。喧嘩相手がいなくなって寂しかったジェリーは、この猫を喧嘩相手にしようと考えました。そこでジェリーは、いつもトムにしていたように、穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、その猫に罠をかけることにしました。ジェリーは物陰に隠れて、待っていました。そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。ジェリーは「いつものように、自分がねずみ取りに引っかかるふりをして、逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ!」手か尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快になりました。でも、その猫はトムではありません。猫はチーズの近くまで来たとき、隠れているねずみの匂いに気付き、目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかりました。トムよりのろまなはずの猫にすぐ追いつかれてしまい、体をガブリと噛まれました。ジェリーも噛みつき返しましたが、トムより体が小さいはずの猫は平気です。血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、本当はねずみが猫と喧嘩して勝てるわけがないことと、いつもトムは「してやられた」ふりをして、わざとジェリーを捕まえないでいたことを知ったのです。その時初めてトムの大きな優しさと友情に気付いたというのです。
イエス様の十字架は、人類に対する敗北ではなく、愛の表れです!

心のオアシス 2013年9月22日

1980年代、韓国中を驚かせた事件がありました。当時韓国の民主化を目指す新党が結成されたのですが、その結党式を、当時の独裁政権に頼まれた200人のやくざが襲撃したのです。そのやくざのボスが、キム・ヨンナムさんでした。彼は逮捕され、2年の刑を受け、その名は一躍有名になりました。刑務所から出てきたキムさんは貧しく、その生活が大変でしたが、その時、近所に住んでいたクリスチャンのジョさんと知り合いました。キムさんはジョさんの親切さを悪用しようと企み、彼の教会に行き始めたのです。しかし、この悪巧みはジョさんと牧師の愛の前に負け、キムさんは自らの罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じたのです。「イエスは私みたいな者のために死んでくださった! イエスは私みたいな者を赦してくださった!」この喜びと感動が、彼の人生を180度変えました。彼は聖書全巻を何度も書き写しました。さらに30年間持っていた病気がいやされる奇跡も体験しました。そして、彼はどこをどう見ても以前やくざのボスだった人には見えない、教会の温かい執事へと変えられたのです。
今、キムさんは不良青年たちを正しい道に導き、伝道する働きに遣わされています。あるインタビューで彼はこう語っています。「やくざは義理というものを主張しますが、それも自分の義で、自己満足に過ぎません。しかし、イエス様はこんな私みたいな者のために死んでくださったのです。それを考えると涙しか出てきません」
韓国人なら誰でも知っているやくざのボス、キム・ヨンナムさんは、今もイエス様の無条件の愛の証人として、神様に用いられています。
(幸いな人2013年9月号より)
全ての人に、神さまの愛は注がれています。それは一方的で、私たちがどのような存在であっても変わりありません。その愛にどのように応答して生きていくかが私たちに委ねられていることなのです。

心のオアシス 2013年9月15日

第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて強制収容所に送られ、ガス室で殺されるかもしれない恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、オーストリアのビクター・フランクルという精神科医がいます。彼が書いた「世の霧」「死の愛」という著書の中に、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、「希望」の有る無しだったと言うのです。それは決して、体の頑強さではありませんでした。「この戦争はいつか必ず終わって、妻子に再び逢える」という希望や、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望。その時代、戦争が終わって自分たちが解放されることなど、到底考えることができないような状況の中で、そのような希望を胸に生きていた人たちは生き続けることができたというのです。フランクルは、この事実から、人間を生かすものは「意味」であることに気付き、ロゴセラピーという心理療法をあみ出したそうです。つまり、自分が生きていることに意味を見い出せている間は、人は生きてゆく強さを持つことができるけれども、その意味を喪失した時、人は生きる希望と勇気を失ってしまうということなのです。
私たちはどうでしょうか? 人生における自分の存在目的を知っておられますか? どうして自分は生まれ、何のために学び、仕事をしているのか? この世における目先の目標や希望を持っている人は少なからずいますが、永遠(死後の世界)に対する希望を持っている人はどの位いるでしょうか? 天国に行ける確信をもって、それを希望に生きている人は、この世における様々な混乱に、そんなに動揺しません。なぜなら「死」という人間最大の問題の向こうに希望を持っているからです。
「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠です」(聖書)

心のオアシス 2013年9月8日

先日、娘とスカイプでしばらく話すことができました。彼女は、韓国の大学で勉強しながら、ヨイド純福音教会のインターン伝道師にさせていただき、英語部の日曜学校の担当を任されたり、翻訳や英語・日本語などを教えるアルバイトなどをしながら、自給自足の生活をしています。親がそういう生活を強いたわけではないのですが、足りない部分の穴埋めをしてくれています。そんな娘の口から、次から次へと感謝な出来事の報告が出てきました。私はその一つ一つを聞きながら、「色々な苦労があるだろうに、韓国でのこの4年間、本当に不思議なようにして道が開かれたり、助け手が与えられたりして、何とかやってこれたよね~」と言うと、娘からすぐに「それは、お父さんは、昔から私が行き詰ったりしたときに、『神さまが何とかしてくださるから大丈夫!』と、全く不安を煽るようなことを言わなかったから、それが今の自分の身についていて、本当にいつも神さまに助けられるから感謝なの~」と、思いもかけない返答が返ってきて驚きました。子どもたちが行き詰っていたら、親として心配するのは当然でしょう。私も心配がないわけではありません。でも、子どもに対してアドバイスするというよりも、自分に言い聞かせるようにして「神さまが何とかしてくださるから大丈夫!」と言った言葉が、実は子どもたちにも大きな影響を与えていたということに嬉しく思いました。
家族の中では、あまり深く考えずに言動することが多いですが、言葉は周りに大きな影響を与えていると考えたとき、信仰の発言はとても重要だと感じました。世の中は、不安を煽るようなニュースでいっぱいです。そのような言葉を聞いて成長している子どもたちは、やはり心配する大人になっていくでしょう。そういう意味においても日曜学校(キッズクラス)の働きがますます盛んになりますようにお祈りください!
私たちの発する言葉が、いつも肯定的、建設的でありますように。

心のオアシス 2013年9月1日

木を使う楽器は、その木によって音の良し悪しや、その値段に大きな差が出てきます。私が持っている6弦ギターは、中学時代に購入したものですが、今の何十万円もするギターよりも良い音が出ます。一昔前のアコースティックギターは、生音中心でしたから、使っている木の材質や製作工程などにこだわらないと、すぐ音に反映しました。今はドラムにさえマイクを立てる時代になってしまい、エレアコ(エレクトリック・アコースティックギター)と呼ばれるマイクを内蔵したものが主流になりました。ですから生音よりも電気的に増幅される音の良し悪しが問われるようになって、こだわる部分が変わってきたのです。
バイオリンやチェロなどの弦楽器は生音中心ですから、その音ですぐ見破られます。特に名器と言われるものは、痛みに耐えた木で作られます。ロッキー山脈の海抜3000メートルには森林限界線があって、その木々は、風が冷たく厳しいため、まっすぐ育たず、ひざまずいたような姿だそうです。それは厳しい環境の中で生き延びるため、必死で耐え忍ぶためにそうなったのですが、世界で一番美しく鳴る名器のバイオリンは、このひざまずいた木で作られるのです。痛みに耐えた木で作った楽器は、美しい音を奏でます。苦しみに耐えた木によって、苦しみに耐えられる音を出すバイオリンが作られるのです。
美しい魂で、絶妙な旋律を奏でる人は、何の苦しみもなく生きてきた人ではなく、さまざまな逆境や痛みを通ってきた人なのです。痛みが大きければ大きいほど、神さまは、あなたを最高の作品として、この世で輝かせようとしておられるということです。
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(コリント15章58節) 今週もご一緒してくださる主と前進いたしましょう!

心のオアシス 2013年8月25日

シェークスピアは、「人生は芝居なのだ。舞台の上で王様をしたから良い役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではない。大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたか。」と話しました。
私たちはそれぞれ国籍が違います。能力や体力、学力にも差があるでしょう。与えられている環境や仕事、家族、立場はそれぞれ違います。ある人は贅沢な暮らしをすることができるかもしれません。ある人は質素な生活を一生強いられることもあるでしょう。しかし一生の終わりに神さまから問われるのは、あなたが何をして成功したかではなく、神さまから与えられた役柄を、人生という舞台の上で、どれだけそれをフル活用して生きたかということなのです。もし、私たちに関わる全てが、神さまから私にだけに特別に与えられた預かり物だと考えることができれば、優越感や劣等感はなくなるでしょう。他者と比べる必要もなくなるのです。
マザー・テレサの言葉にそのような人生を送ることができるヒントを見い出すことができます。
「イエス様のご命令でなければ、今していることはできません。私は何の手柄もたてていません。私が今までしてきたことは神のご意志です。私は神の手に握られた小さな鉛筆です。お書きになるのは神なのです。」 
自分が願っている方向へ物事が進んでいない時にも、「神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」 
経済的な問題と直面したときには、「お金なら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みでなかったということです。」
私たちが悩むとき、これらの言葉を思い巡らせて、神さま主体の生き方をしたら楽になりますよ!(体験談)