心のオアシス
心のオアシス 2014年6月15日
アルバート・アインシュタインは4歳になるまで言葉を話しませんでしたし、本を読み始めたのも7歳になってからでした。彼の担任教師の一人は、彼のことを「知的障害で、人付き合いを好まず、愚かな夢を追って途方に暮れてしまっている」と決めつけていたそうです。
まだトーマス・エジソンが少年であったころ、何人かの教師は彼について「彼はあまりにもバカで、何も学ぶことができない」と批評していました。
ウィンストン・チャーチルは、6年生の時に落第して、挫折と敗北を生涯の中で繰り返し、シニアシチズン(65歳以上)になって、ついて英国の首相になりました。
何度も倒産を重ねた末、やっと勤めた地元の新聞社の編集長から「お前はアイデア不足だ」と言われクビにされた男の名はウォルト・ディズニーでした。
世の中のあなたに対する評価は、神さまのあなたに対する評価ではないことを知らなければなりません。たとえ自分の過去や生い立ちのゆえに成功できないと思っている人や、自分の現実の姿を見て、全く希望を持てないでいる人がいたとしても、神さまはあなたの傷を無駄にはなさいません。逆にあなたの小ささに価値を見いだし、あなたという存在を用いられるのです。天国での驚きはこれです。「え? こんな私が、この世界の歴史の一旦を担わしてくださっていたのですか?! どうしてこの私が?」私たちには到底理解できない神さまの恵みがそこにあります。この地上の生活は、仮の宿であり天国で快適に過ごすための予備校のようなもので、イエスさまに迎え入れられるときが本番スタートです。私たちの本番が始まるまで、この地上での生涯、神さまのために全力で駆け抜けていきたいと願います。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16章33節)
心のオアシス 2014年6月8日
今年の6月で、関西カルバリーフェローシップ(KCF)は4周年を迎えます。2010年6月6日より関西でゼロ開拓をスタートしました。まだまだヨチヨチ歩きの教会ですが、以下がその歴史です。
2010年6月6日の日曜日に奈良市・学園前にて午後礼拝スタート。
2011年4月3日より東大阪市・枚岡において午前礼拝スタート。
2012年8月5日、東大阪福音教会のご好意により会堂をお借りし、
日曜日の午前と午後の礼拝場所を石切チャペルへ移し、現在に至る。
この4年間に11名の方々が受洗され、私が想像もしなかったような驚くばかりの出会いや不思議が次々と起こりました。必要な時期に必要な人たちが与えられました。まだまだ小さな群れですが、今与えられている人たちは全員、神さまがKCFのために選ばれた最強チームです。
今年は教会が整備されていく年だと確信しお祈りしてきました。この度、神さまの導きにより教会メンバーの二名の方々を、それぞれ「長老」「協力伝道師」として任命いたしました。私たちの教会メンバーとして2年以上、謙遜に忠実に神さまに仕えてこられた方々です。これから益々用いられることを期待し祈ります。教会の利便性から肩書のようなものが与えられはしますが、KCFに繋がる全員が「信徒伝道者」あるいは「教会の模範的な存在」として神さまから任命されています。これはお世辞ではなく、それぞれがそれぞれの個性を用いて神さまのために良い味を出しておられるからです。神さまはそれを喜んでおられるでしょう。
ハワイのウェイン・コディーロ先生が、ベビーシッターに声をかけました。「神さまの福音宣教を宣べ伝えるお手伝いをしてくださってありがとう!」するとシッターさんは、「私が宣教のお手伝いを?」続けてコディーロ先生は言います。「そうです。あなたが子どもたちを見ることによって、その親は安心して神さまの言葉に集中することができるから、あなたのしていることは大切な宣教の働きなのですよ!」
テーブルをふくことも、マイクのコードを巻くことも、唯一なる神さまのためにしていることは全て重要な宣教なのです。
心のオアシス 2014年6月1日
先週は「愛の安定供給」というタイトルでメッセージさせていただきました。我ながら良いタイトルをつけたものだと自画自賛していました。
「愛」という言葉は、日本語では、一つしかありません。ところが新約聖書が書かれたギリシャ語では、それぞれの場面によって、「愛」という言葉の使い分けしているのを発見しました。実はギリシャ語には、複数の日本語では「愛」と訳される言葉が存在するのです。基本的には、エロース(男女の愛)、フィリア(隣人愛・友情)、ストルゲー(家族愛)、アガペー(真の愛・無償の愛)の4つあります。最後のアガペー以外の愛は、ギブ・アンド・テイク(条件付き)であります。すなわち、「良い子だったら愛する」とか、「自分を満足させてくれるから愛する」という関係です。いずれも自分にとって都合の良い相手は、大切にして愛するけれど、そうでなければ、愛は保証されていないのです。このような「愛」は、不安定で、いつも相手の顔色を見ながら、愛される努力をしなければならないのです。
アガペーの「愛」は、私たちが何度裏切ろうと、無礼をしても、無視しても、変わらずに流し続けられる愛を表しています。そんなことがありえるのでしょうか? 旧約聖書を読むと、イスラエルの民は、神に導かれて最善の道が開かれたにもかかわらず、何度も神を裏切り、失敗しました。もう呆れられてもおかしくはない彼らを、失敗する度に次の新しい方法で彼らを救おうとなさっている歴史を見ることができます。また新約聖書には、弟子たちがイエスの期待を裏切るような言動を何度も行ないました。そして最後にはイエスを見捨てて逃げ去ってしまう弟子たちを、最後まで愛し通されたという記録が記されています。
このように聖書全体を通して、神がアガペーの愛(無償・無条件の愛)で人間を愛してくださっていることを発見することができるのです。私たち人間は、神のやり方に委ねることができないで、自分のやり方で人生を切り開いて行こうとするところに、様々な歪みが生じてくるのです。
アガペーの愛は安定しています。人はこの中で安息できるのです。
心のオアシス 2014年5月25日
フィリップ・ヤンシー先生の書かれた本の一部抜粋です。
ジャン・ピエール・ド・コサードは、「毎分、毎秒の中に神の国があり、御国の糧を含んでいる。だから、どうでもいい瞬間は存在しない」と何度も強調しています。神はすべてのことを通して働かれます。「聖なることかどうかを問うのではなく、その中にある神の御手を求めなければなりません」と繰り返し主張しています。それだけでなく、時間そのものが神の働きなのだといいます。時間は「神の働きを記録する歴史」であるからです。「今立っているところで神を求めなさい」という教えはいつでも嬉しいものではありません。未来の瞬間は、挑戦的であり刺激的で、報いは大きいだろうと考えながらも、「今」という時間に捧げるべき礼拝を、ただ無視してしまいたいことがいかに多いことでしょう。しかし、覚えておかなければならないことは、主が恵みを注いでくださる場所は、まさに今立っているところなのだということです。
イエスさまは「今はわからなくても、あとでわかるようになる」とおっしゃいました。これは、「あなたの頭で理解できなくても、神が考えておられるタイム・スケジュールがあるのだから、今起こっている出来事を受け止めなさい。後の日に神のあなたに対する素晴らしい計画の全貌がわかるようになるから」と解釈しても許される内容だと思います。そうすると「どうでもいい瞬間は存在しない」し、「今立っているところで神を求めよ」というメッセージが現実的なものになっていきます。「今」の現実は、受け入れられない、あるいは何も起こらない無意味な時間だと考えることがあるかもしれません。しかし、神さまは、その時間さえも用いて、あなたの人生を最善に導こうと考えておられるというのです。
このことを信仰によって受け止めるならば、一日一日を、「今」という瞬間を、大切に、味わいながら歩んでいきたいと願わされるようになります。天に私たちの住所を移した時に、この地上で理解できなかった諸々のことが、神さまの恵みとして理解できるようになるのです。
心のオアシス 2014年5月18日
新聞やネットで、「世界で一番大変な仕事」という人材募集の広告を見た人が、その仕事に興味を持ち、ビデオチャットで面接を受けるのですが、その条件を聞いて驚きました。その仕事内容とは・・・
役職は現場総監督です。でも仕事上の責任はとっても広範囲で、とても流動的です。さらにほぼ全ての時間、立って作業をします。立ち作業とかがんだ姿勢で作業し、とても体力を必要とします。労働時間は、週に135時間かそれ以上で、基本的に週7日、毎日24時間で、決まった休憩時間はありません。しかしこの仕事は合法的です。ランチは食べることはできますが全ての同僚が食べ終わった後にとります。この職位は交渉力と交際力が求められます。そして私たちが求めているのは、医学と金融学と栄養学に通じている人です。しかも複数の役職を兼任することが求められます。常に周りに注意を払い、時には同僚と徹夜ということもあります。大変な仕事ですから、あなたの私的な時間は諦めてもらいます。事実上、休みなしです。特に感謝祭、クリスマス、正月などの祝日は、仕事量がもっと増えます。寝る時間はほとんどありません。一年365日、何でもさせられるということです。あなたが作る人間関係や同僚を助けるといったことは、お金に換算されません。ところで、あなたがこの役職で得られる給料は、完全にゼロです。完全無給です。しかし現実に今、この職についている人が何十億といるのです・・・。
そこで面接を受けている人が聞きました。「それは一体誰ですか?」すると面接官は答えます。「お母さんですよ」・・・
これは「母の日キャンペーン」のために、アメリカのカードストアAmerican Greeting社によって制作された動画の内容です。
母親のしていることは、ハードな仕事の割にあまり感謝されません。当たり前のように思われています。それ以上に神さまは、あなたの一瞬一瞬を見守り導いてくださっています。神さまのされていることがあまりにも大きすぎて、私たちはスルーして毎日を過ごしています。是非、この機会に、静まりて神さまの恵みを数えて感謝してみましょう。
心のオアシス 2014年5月11日
イエスさまがパリサイ人の家で食事の席についておられた時に、その町で「罪の女」で知られていた一人の女性が泣きながら入ってきて、イエスさまの足元に寄り、涙で足を濡らし、自分の髪の毛でそれを拭い香油を塗りました。その場にいた人たちは冷ややかな目でそれを見ながら思いました。「イエスが預言者なら、この女が誰で、どんな女であることがわかるはずだ!」
ある聖書解説者がこの箇所をこのように解説していました。「私には、この女性が何故泣きながら入ってきたのかは、想像でしかわかりませんが、確かにイエスさまは、この女性の涙が一滴足に落ちた瞬間から、その女性が誰であって、どんな過去を経験してきたかを悟りました。この罪の女性は、恐らくイエス・キリストの話しに耳を傾けながら、ふと幼年時代のことが心に浮かんできたのだろう。それは、自分を金で買った養父に叩かれ、泣きながら夜をあかした日のこと。しばらくしてその養父に売られて卑しい仕事を始め苦しんだ日のこと。そして体中に吹き出物をつくって足を引きずりながら、子どもたちに石で追われながら村から村、町から町をさまよい、やがて荒野で死んでいく広場で見た売春婦であった老婆のように、自分も同じような運命をたどるであろうことを想像しました。しかし、もはやこの罪の仕事をしていく以外に生きていく方法はないと、自分の身も心も傷つけながら今日まで生きてきたのであろう。しかしイエスさまは、この女性の落とした涙を通して不幸な半生を全て理解されました。そしてこの女性に対するイエスさまのかけられた言葉は、『あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。』でした。」
人は自分を理解して欲しい故に、色々な態度や言葉で人に伝えようとしますが、それがかえって誤解を生んだり相手を不快にしたりすることがあります。誰も理解してくれなくても、一滴の涙だけで、すべてを理解してくださるお方がいて、身を預けることができたら、他は何もいりませんね。そのお方が今日も語っておられます。「安心していきなさい」
心のオアシス 2014年5月4日
先週の「論より証拠」というメッセージに応答して、嬉しいメールが届きました。本人の許可を得て以下に一部抜粋します。
今日(4月28日)は、私にとって大切な日です。ちょうど一年前の今日。小崎先生が洗礼を授けてくださった時です。この一年を振り返ると、本当にあっという間だったのですが、私の人生で一番濃厚な年でした。生まれ変わり、祝福をいただき、結婚して幸せを実感したり、新しいことに挑戦したり、挫折を味わい苦悩したり・・・いろんな経験をしました。でも、これまでと違うのは、「いつも心の中心に神さまがいてくださり、私一人で歩いているのではない。」ということです。また、困難な時に「神さまならどうなさるだろうか?」と考えることもこれまでと大きく異なると思います。神さまを証明することは私にはできませんが、信仰によって私の人生は大きく変えられたのです。ハレルヤ!! 主に感謝します。ありがとうございます。栄光在主 A.K.
日本人がどうしてなかなか聖書の神を受け入れることができないのか? いろいろな理由があると思いますが、その中の一つは、賢くなりすぎたということだと思いました。アダムとエバが神から離れたキッカケとなったのは、「善悪を知る知識」を求め食べた時からでした。人は神を頭で理解したいと知識を求め、人の頭の大きさに神を押し込めてしまい、全治全能なる神の力を体験できなくなってしまったのです。神の存在は知識や理屈で理解できるものではありません。本気で信じ受け入れたときから自分の内側に起こる変化を実感できるのです。
ヨハネ福音書9章の中に、人々が、「癒した人は、誰なのか? 本当に目が見えなかったのか? 癒した人は、罪人だ!」などと問うてきたとき、かつて目の不自由だった男の言葉がパワフルです。「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは目が見えませんでしたが、今は見えるということです。」
私も言います。神の存在のあるなしを証明することはできません。でも一つ言えることは、信じてから私の人生が変わったということです!
心のオアシス 2014年4月27日
とても寒いある冬の日に、ある若い死刑囚が死刑台に立ちました。その周りには4人の執行官が刑執行時間を知らせる鐘の音を待っていました。しかし、時間が過ぎても鐘の音が聞こえてこないので、一人が確認のために鐘塔(しょうとう)へと向かいました。そこには一人の女性が鐘をつかんだまま死んでいました。その女性は死刑囚の姉でした。
この女性は、毎日死刑囚である弟のもとへ行って、死ぬ前にイエス・キリストを信じて悔い改めて救われるように勧めましたが、弟は全く悔い改めませんでした。彼女は刑が執行される前日、鐘のところへ行って「神さま、私の弟が悔い改めるまではこの鐘がなりませんように」と祈り続けました。厳しい冬の寒さの中で何時間もそうしているうちに、彼女はその場で凍え死んでしまったのです。鐘をつかんだまま完全に凍りついてしまった彼女のからだのせいで、鐘が鳴らなかったのです。この事実が知らされると、姉の愛に感服した裁判官は刑執行を取りやめ、死刑囚だった弟は悔い改めてイエスを受け入れ、新しい人生を歩んだそうです。
イエスがむち打たれ、茨の冠をかぶり、十字架につけられたのは、死んで当然である私たちを生かすためでした。私たちはイエスの犠牲によって刑執行を取りやめてもらった者たちなのです。さばかれるべき私たちが地獄の刑罰から赦免され、天国の民として生きていく祝福を与えられたのですから、どれほど感謝なことでしょう。
「十字架の福音」イ・ジョンギュ著より抜粋
イエス・キリストが十字架にかかられたことは歴史的事実です。そしてそれは私たちの罪の身代わりでした。この事実を知らないまま何も感じないで人生を終えないで欲しいのです。私たちは皆、神の家族、キリストに属する者です。ただ戻るべき場所を見失っている迷える子羊なのです。失われた人々を家に連れ戻すために神なるお方が肉体をとって地上に来てくださいました。本来いるべき場所に帰ると安心ですよ!
心のオアシス 2014年4月20日
ある未開の土地に住む原住民には、興味深い風習があります。狩りに出かける途中、棒きれを地面に立てて「獲物を捕ることができますように」と祈願して道を進んで行きます。その日、収穫があれば帰り道に、その棒きれの神さまにお礼を言って帰りますが、収穫がなければ、その棒きれを踏んだり蹴ったりして、挙げ句の果て川に投げ込んで帰るというのです。そしてまた新たな棒きれの神を立ててお祈りするのです。
日本には八百万(やおよろず)の神々がいると言われますが、どうして八百万体もの神々が必要なのでしょうか? それはこの未開の原住民と同じく、自分の願いを叶えてくれなければ、その神を捨て新しい神を作るということを繰り返しているうちに、八百万にも神口(じんこう)が増えてしまったという現実があるようです。又、神さまにも得意分野と不得意分野があるようで、人間の必要用途によって神さまたちが使い分け利用されているようです。そればかりか利用できる神々と、つまらない神々の仕分け作業も行われているというのです。
私はすべての分野において得意とされる神さまに出会うことができたことは、本当に幸いなことだったと思っています。お一方だけで全ての願いに対する必要を満たしてくださるお方なのです。しかもこの地上でのことだけではなく、死後の永遠の世界における行き先の問題までも解決してくださるのです。そして現に私の人生は明るく元気でのびのびとしたものに変えられました。
世界の人々の共通する悩みとして、空白感、孤独感、死に対する恐怖、罪責感が挙げられています。たとえ億万長者になったとしても、有名人になったとしても、地位や名誉が与えられても、この悩みは変わらないそうです。私も14歳の時から、全てにおける解決が与えられました。勿論、日々出てくる様々な問題がないわけではありませんが、平安なのです。生殺与奪の権を主に委ねたら楽になれます。これは本当です!
「空の鳥、野の花を見よ・・・だから、あすのことを思い煩うな」(聖書)
Happy Easter!
心のオアシス 2014年4月13日
東京ディズニーランドにある若い夫婦が訪れました。そして、中にあるレストランで彼らは「お子様ランチ」を注文しました。勿論それは9歳以下とメニューにも書いてあります。子供のいないお客さんにはお断りすることになっています。キャストはマニュアルにある内容以外に一歩踏み出して尋ねました。「失礼ですが、お子様ランチは誰が食べられるのですか?」「私たちにはなかなか子供が授かりませんでしたが、やっと待望の娘が生まれたのです。一緒にディズニーランドへ行こうと願っていましたが、1歳の誕生日を待たずに神さまのもとへ召されました。そこで召天1年目を記念して夫婦でここへ来ました。お子様ランチがあったので、思い出に・・・」そう言って夫婦は目を伏せました。キャストの青年は、「そうですか。どうぞ召し上がってください」と応じて、この夫婦を4人席の家族テーブルに移動させて子供用イスを一つ用意しました。キャストは「子供さんは、こちらに」と、まるで亡くなった子供が生きているかのように小さなイスに導いたのです。しばらくして、運ばれてきたのは3人分のお子様ランチでした。そして「ご家族でゆっくりお楽しみください」と挨拶して、その場を立ち去りました。若い夫婦は失われた子供との日々を噛みしめながら、お子様ランチを食べました。後日、この夫婦からディズニーランドに手紙が届きました。「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているようにして家族団欒を東京ディズニーランドでさせていただけるとは、夢にも思いませんでした。これから、二人で涙を拭いて生きて行きます。また来年も来ます。そしていつかこの子の妹か弟を連れて遊びに行きます!」
このキャストがした行動はマニュアル違反です。しかし、先輩も同僚も彼の行動をとがめなかったばかりか、ディズニーランドでは賞賛されました。マニュアルは基本でしかありません。それを超えるところに感動が潜んでいるのです。私たちの罪の代価は私たちが支払うのが当然です。しかしそれを超えたご配慮をしてくださったのがイエス様の十字架での身代わりでした。今週はイエス様の受難週。神の愛に感動です。