礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2014年8月24日

 私たちの神学校では、説教者と牧会者コースがあります。そのカリキュラムは、さまざまな科目によって構成されていて、その中には学生達が嫌うギリシャ語、ヘブル後、組織神学などがあります。科目自体も難しいのに、教授まで厳しいとさらに嫌になってしまいます。たとえば、ある組織神学の教授は非常に厳しいので「組織のボス」というあだ名をつけられました。実際、これらの科目の勉強は簡単ではありません。とても苦しい時間を経なければなりません。しかし、学生たちはその事実を知った上で受講しているので、なぜそのような科目があるのかと不平を言ったりはしません。むしろ、その大変な科目がなければ、まともな説教者や牧会者になることができないことを知っているため、自ら志願し、喜んでその訓練を受けているのです。
 神は、私たちをイエスに似た者へと変えようとされます。それが主の関心事なのです。神は私たちの幸せよりも聖さに関心を持っておられます。ですから、時には苦しみや問題の中に私たちを置かれたりもするのです。今日、クリスチャンがちょっとした苦しみに会っただけで簡単に喜びを失ってしまうのは、このカリキュラムを理解できないからです。イエスを信じるということは、十字架を負って歩まれた主の後に従って行くという意味です。その過程には苦しみもあり、難しさもあります。それが神のカリキュラムです。何をするにしても、どんな状況でも、神の観点から物事を見るようにしましょう。
イ・ジェギ牧師著「天の光・喜び」より抜粋。

 先週のメッセージをインターネットで聴いた方から、「今は、本当に時間がなくて、忙しく息を休める暇もないほど、通常では対処できないことまで対応してきたことは、この神さまのカリキュラムがあって今の知識や技術や能力が磨かれ、今の自分を作り上げて完成へと向かっていることを知り、苦しいほど感謝が溢れ出しそうな気持ちとパワーをもらいました・・・」とメールをいただき私も力をいただきました。栄光在主!

心のオアシス 2014年8月17日

最近、日曜礼拝のメッセージは旧約聖書の人物を取り上げてお話させていただいています。先週の創世記28章は私の好きな箇所でした。
ヤコブはお兄さんの怒りをかい、命の危険が迫る中、追いやられるようにして、500キロ離れた土地への旅を余儀なくされました。出発してから間もなく、ある場所で石を枕として寝ていたときに、天と地を結ぶはしごを、天使が上り下りしている夢を見ました。そして主が近くに立ってこう言われたのです。「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」 一人ぼっちの寂しく、また様々な危険も伴う旅でした。しかしその言葉にヤコブは励まされてこう言いました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった! これは神の家である。これは天の門だ!」この後、ヤコブは長い旅を経て、叔父ラバンの下で、長い期間、無報酬の労働をしなければならなかったのですが、この主の言葉にしがみつきながら乗り越えることができたのです。ヤコブにとっては、神を感じることができないような場所で、精神的にも肉体的にも限界を感じている状況の中に、神がすぐそばにおられるということに気づいて驚きを覚えたのです。ですから「神がこんなところにいてくださっていたなんて知らなかった」と告白しているのです。

「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Ⅰコリント10章13節)とあるように、神さまは前もって、必要な力と知恵と励ましを与えてくださっているのです。

ナチの強制収容所に入れられ、奇跡的に生還したコーリ・テン・ブーンが、ナチに捕まる前の父子の会話に励まされます。「お父さん。私はこれから起こる試練に耐えられるかどうかわかりません」お父さんは言いました「汽車に乗る時、お父さんは、いつコーリに切符を渡したかな?」「乗る前よ」「その通り! 天の父なる神様も同じように、私たちが迫害や苦しみを受ける前に、それに耐えうる十分な恵みを、既に与えてくださっているのだよ」 日々の歩みの中で神さまを発見してみましょう!

心のオアシス 2014年8月10日

神の存在を否定すれば、人間の尊さの根拠はなくなってしまいます。進化論を教える日本の現代社会でも「命は地球よりより重い」と唱えています。しかし、神を否定しながら「命は地球より重い」ことの客観的な根拠を提示できるのでしょうか? 地球上にあった物質から偶然に進化してきただけの生き物が、「自分は尊い」などと宣言はできないでしょう。それは人間社会でいい慣わしてきた通念か、人間の単なる願いであり、根拠もなくそう思っているだけの共同幻想だと言えます。

以前に私の友人牧師が語っていた内容です・・・人間は「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いなどとはいえません。それは人間が自己尊厳を正当化するために考え出したことにすぎません。それは白人が「我々は背が高く、色が白く、文化が進んでいるから尊い」と優越意識を持ち、有色人種を蔑んできたのと同じです。それが許されるなら、チーターは「早く走れるから」、ハヤブサは「空を早く飛べるから」尊いと、勝手に主張することができます。誰が、命は尊いと決めたのですか? 人間です。人間は何を根拠に命は尊いと決めたのですか? それはただ、死ぬのが怖いからです。自分自身のかわいい命を守るために、命は尊くあらねばならないのです。とにかく命は尊いものであってほしいのです。それ以上の根拠はありません。学校教育でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から化学進化し単細胞生物から進化を遂げた存在であるかぎり、白々しいだけです・・・

そう考えると、私たちの存在価値を示すことができるのは、「神」という存在があってからこそなのです。創造者である「神」が、人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるからこそ、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣告されていること、これ以外に、人間が尊いとされる絶対的な根拠はありません。
先日、生産性も記憶力も乏しく、人から介護されなければならない、世から見れば価値なしと言われるような施設のご高齢の方々に「あなたは高価で尊い存在です!」(イザヤ43章)と確信をもって語ってきました。

心のオアシス 2014年8月3日

先日、子どもが収入の十分の一を遥かに超える額の献金をしようとしていたので、「安月給なのにそんなにして大丈夫なのか?」と、無謀にならないように諭すつもりで質問すると、「何倍にもなって返ってくるんでしょ?」との返事。牧師である私は、それに何の返答もできず、ただ祝福を祈りました。「信仰」と「無謀」は紙一重で、よく吟味することがバランスある信仰だと思っている私に、一石を投じるような内容の文章を、つい先日読んで考えさせられています。これがその一部です。

うちの末っ子は、小学生の頃から数年間、歯の矯正をしました。子どもは歯医者に行く日が大好きでした。家から地下鉄に乗ってその歯医者に行くにはとても時間がかかるので、帰りに何か買って食べるよう母親がお金をあげたからです。その日も5千ウォン(約5百円)をもらって歯医者へ向かいました。しかしちょうど地下鉄駅の階段のところにホームレスの老人がいて、物乞いをしていました。おじいさんの前にある入れ物には、小銭がいくつか入っているだけでした。それを見た子どもは千ウォン(約百円)札を一枚入れました。その次は、地下鉄の中で、賛美歌の流れるカセットプレイヤーを首に掛けた視聴障がいのおばあさんに会いました。その人の入れ物にも小銭が数個しかありませんでした。また心に負担を感じた子どもは千ウォンを渡しました。最後に、子どもが降りた駅で、物乞いのおじいさんに会い、三枚目の千ウォン札を渡しました。その日の夜、子どもの話を聞いて、私は「本当によくやったね」と誉めてあげました。「そんなに非現実的に生きたら、後々、どうやって自分の家族を食べさせていくんだ?!」と批判する人もいるかもしれません。しかし、私には信じていることがあります。主は、そのような聖なる負担を感じる人を必ず用いられるということです。私たちが持っているものが、からし種ほどにもならないものであったとしても、それが置かれた所は、ほかでもなく主の御手であるということを忘れないでください。世の人が愚かだと思うことでも、主が用いられるなら、それは奇跡の始まりとなるのです。(「成熟者クラス」イ・ジェチョル著より引用)

心のオアシス 2014年7月27日

「神はなぜ沈黙を続けているのか。キリストが十字架にさらされたときも、神のために自らの命をささげようとしている人がいるときも、神はなぜ黙ったままなのか? そして神はいるのか?」このような問いを自らに語りかける宣教師の姿を通して、キリスト教の弾圧と信仰とは何かについて描いた遠藤周作の小説「沈黙」というのがある。

私たちは人間主体に考えるならば、神が自分のために何もなさろうとしていない時間は、疑問形でしかない。「どうして神は働いていないのか?」「何故神は私を助けてくださらないのか?」「私から遠くに離れておられるのではないか?」

旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」で有名なノアは、40日40夜雨が降り、方舟の中で不安な日々を過ごしましたが、「神は、ノアと箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられていた」と記されています。私たちにとって、神が沈黙されておられるような時も、決して忘れておられるのではないということなのです。

かつてある青年が、「癒しの集会」に出たときに、たくさんの病気の人々が癒される姿を目の当たりにしました。集会が終わって青年が出口から出ようと人の列の流れにいると、車椅子を押している女性の姿に目が止まりました。そしてその車椅子の子を見ると、頭が異常に大きくて、歩くことのできない子供が乗っていました。すぐにこう訴えました。「神様! この子は、今日癒しが必要だったのに、どうして、癒してくださらなかったのですか?」それから長距離バスに乗って帰る途中、青年は、夢を見ました。それは集会が終わって、出口のあたりを歩いていると、あの頭の大きな子と、その車椅子を押している母親の姿と、「どうして、この子を癒してくださらなかったのですか?」と怒っている自分自身の姿もありました。しかし、その後ろにイエス様が立っておられて、その車椅子の子の頭を抱きかかえながら「私は、この子を忘れているのではありません。忘れたことはありません。」と語っておられる姿を見ました。

「私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49章)

心のオアシス 2014年7月20日

ペテロがイエスさまに、「あなたはこれからは、行きたくない所へ連れていかれるようになるだろう。」そうするとペテロは、自分のライバルである他の弟子を指して言いました。「主よ、この人はどうなのですか?」それに対するイエスさまの答えは、「たとえわたしが彼にずっと生き残ることを望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」でした。

ある家族が、田舎に小さな家を建てて幸せに住んでいました。何年かしてから他の家族が隣の土地を買って、大きな家を建てました。それまで何の問題もなかったのですが、隣の家を見て奥さんはご主人に言いました。「お隣の家は大きくて立派な家を建てたね・・・うちは小さくない?」「小さな家でいいからと、同意してここに引っ越してきたんじゃなかったか? 今更何を言ってるんだ?!」と喧嘩になりました。子供は隣に引っ越してきた子が新しい自転車に乗っているのを見てお母さんに言いました。「どうして僕はずっと古い自転車に乗らなきゃいけないの? 新しいの買ってよ!」お母さんは言います。「お隣の子は、勉強よくするし成績がいいでしょ!」・・・今まで何も愚痴も不満もなく幸せだったのに、比べ始めてから家族の中に不和が生じたという話です。

人は、他者との比較に生きています。そうすることによって優越感を抱いたり、劣等感を持ったりしながら一喜一憂することになります。しかし聖書は、神が与える人生の舞台での役割は、みんな違っていて、それぞれに必要な場所に配置されていて、あなたでしかなれない配役が与えられているというのです。あなたはあなたに与えられた個性と摂理を大切にしながら、今のあなたを精一杯生きるのです。それはワガママになるということではありません。神さまが他者に与えられた賜物は、認めつつ調和していくのです。一年にも春夏秋冬があるように、一人一人にも人生の四季があるでしょう。それぞれの季節を楽しんで過ごしていきたいものですね。その季節でなければ発見できない神さまの恵みがあるはずです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(Ⅱコリント12:9)

心のオアシス 2014年7月13日

日本では大雨による洪水や土砂災害が報道されています。世界各地で様々な災害が報道されると心痛みます。アメリカでは、過去に何度もハリケーンによる洪水で町が水没するという災害がありました。当時のアメリカ国内でのテレビニュースのインタビューで被災者の多くは、政府の対応の遅さの不満を訴えていました。そして「エアコンが水に浸かってしまって壊れて、暑くて大変だ・・・下水が臭くて、病気も蔓延している・・・」など、現実の厳しい状況を訴えていました。その現状を見聞きして、当時私もボランティアとしてアメリカへ行きたいほどでした。インタビュアーが被害者たちの声を聞いて回っていましたが、その中で、顔が輝いている一人の女性にマイクが向けられたとき、驚きの答えが返ってきたのです。インタビュアーが尋ねました。「何か問題はありますか?」するとその女性は、「いいえ、問題はありません。命守られ、家族も守られ、今、こうやって健康でいることができることを嬉しく思います。」意外な返答に続けて質問しました。「エアコンがなかったら暑いんじゃないですか?」女性は答えます。「いいえ、エアコンどころではありません。私の家は全部流されましたから、何もありませんよ。でも、私にこの聖書がある限り、何ものをも私の平安と喜びと希望を流すことはできません。私は心から神さまに感謝しています。これさえあれば大丈夫なのです!」女性は聖書を掲げながら輝いて答えていました。

私たちがこの地上での幸せを求めるとき、自分の願いの実現や、条件が整うことが「幸せ」だと考えています。「誰もが天国に住みたいと思っています。しかし、今すぐにでも自分の心の中に天国をつくりだすこともできるのです。」とはマザーテレサの言葉ですが、環境とか状況に関係なく天国はつくれる、幸せになれるというのです。このようなことも言っておられます。「私たちは問題解決を急いでいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・お金は神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったということです・・・」神さまにある人生って、幸せですね。

心のオアシス 2014年7月6日

「人生を導く5つの目的」リック・ウォレン師著からの抜粋です・・・「クリスチャンたちが犯している最も典型的な間違いというのは、神ご自身を求めるよりも、何らかの体験を求めていることです。彼らは、ある種の感情的体験を求めています。そして、感情的体験を求めています。そして、感情的な高まりを経験することで礼拝した気分になっているのです。しかし、それは間違いです。実際、神はしばしば私たちの感情を取り除いて、私たちがそれに依存することのないようにされます。感情を求めること、またキリストとの親密な感覚を求めることさえ、礼拝とは言えません。あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えてくださったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」

これは私がクリスチャンになってから疑問に思っていたことに答えられている内容です。人は感情とか気分を重要視します。そして感情を高めたり、気分を良くしてくれる所へ集まります。感情も神さまが人間に対する楽しみを感じる感覚として与えてくださったものなので否定はしませんが、神さまが触れてくださったとか、聖霊が働いてくださっているという根拠を「感情」や「気分」に頼るならば、それは間違いです。イエスさまに出会って間もない頃は、それでも良いですが、成長したら、そのような感覚から離れて信仰に立つことを求められるのです。感じなくても神さまは、あなたのすぐ傍に立っておられます。心が砂漠状態であったとしても、神はあなたを背負いながら歩いておられるのです。

クリスチャンが主にあって、どんな時も平安でいることができるのは、感情や気分による愛や赦しではなく、神と人との契約に基づいたものだからです。私たちが裏切っても神は裏切られないのです。私たちにとって、あまりにも都合良すぎませんか? でも、この条件なしの一方的な愛(アガペ)でしか本当の安心はないのです。

心のオアシス 2014年6月29日

 私が以前にイスラエルを旅したとき、一人の初老の黒人男性がこのような話をするのを聞き衝撃を受けました。「私は生まれてすぐに、親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいきました。親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはありません。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています!」
涙を流しながら語るその男性は、柔和で、穏やかでした。奥様と旅をしておられましたが、おしどり夫婦でした。

 私は思いました。人はどんな過去があっても、どんな心の傷があっても、やり直すことができるものなのだと。それは頑張るのではなく、委ねるだけで変えることができるのです。枝は、幹から離れているならば、どんなに努力しても実を結ぶことはできませんが、繋がっているならば、自然と実を結んでいくようにできています。私たちは本来、キリストに繋がって生きるように造られたのですが、そこから離れて生きることが「自由」だと勘違いして、幹から離れた枝として実を結ぶことのない人生を歩むようになりました。  
 
 キリストに繋がっているだけで人生が変わるなんて深イイ話です!

心のオアシス 2014年6月22日

 私たちの教会メンバーの今澤麗子さんが、6月10日早朝天に召されました。享年80歳でした。先日、私が葬儀の司式を執り行いました。  
 不思議な神さまの導きにより、約2年前に病院でお会いしました。麗子さんは仏教徒でしたが、何故か自分の娘さんをミッション系のノートルダム清心学園付属の幼稚園・小学校へ通わせたそうです。理事長でありシスターである渡辺和子さんのことをよくご存知で、尊敬しておられるということで、私も書いておられる本を何冊も読み講演も聴いたことがあるので、共通した話題から話しが弾みました。それから定期的にお見舞いに行くようになり、かなり心は開かれるようになったのですが、今までの仏教の様々なしがらみがあって、クリスチャンになるまでは無理といった様子でした。しかし、長い話を短くすると、去年の12月に明確にイエスさまを信じ受け入れて病床で洗礼を受けられました。受洗してからの麗子さんは、明らかに変化がありました。私がお見舞いに行く度に様々な不平不満や痛みを訴えておられたのですが、イエスさまを信じてから感謝を口にするようになり、痛みのことを言われなくなったのです。私が牧師としてそのようなご指導をさせていただいたわけではありません。ただ信じただけなのですが、変わっていかれたのです。これは内に働かれる聖霊さまによって浄化されていたのだと確信します。

 渡辺和子さんの著書の中から良い文章をお分ちします・・・「いつまでもあると思うな親と金」といいますが、失ってしまう前に、当たり前の価値に気付いてほしいのです。今、有るものは有り難い、有ることの難しいものだと気付いてほしいのです。そうすると人間幸せになります。幸せとは、良いものに囲まれている時に存在するからです。そして幸せは、客観的に何があるか、どういう状況にあるかだけでなくて、それを有り難いと見るかどうかにかかっています。当たり前でなくて、有り難いものだと気付けば、幸せの度合いは高まります。

 「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい」(聖書)