礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2015年1月4日

 当時小学2年生であった娘が、クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車を頼んだ」と言い出しました。実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私にお願いをしてきたのです。私は、家計の予算の関係上、自転車をプレゼントすることなど、全く考えていませんでした。ところがクリスマスの10日ほど前に、ある場所で娘がほしがっているマウンテンバイクが、なんと通常の半額の値段で売られているのを発見しました。私は意を決して注文しました。家に届くのはクリスマスの3日前。娘のいない時間帯に運んでいただくことにしました。そのことを知らない娘は、何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。そしてクリスマスの3日前に、自転車が届き、当時の家の一部屋は「開かずの間」になっていて、そこに自転車を隠しておきました。3日前、2日前になっても、娘は私が自転車を注文した様子もないし、自転車が届いている様子もないので、諦めはじめました。そして、サンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言い始めたのです。クリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。もうサンタさんに対する夢も希望も信頼も期待感も全くない状態になりました。当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、部屋の隅に置きました。
いよいよ娘が目を覚まして、枕元に置いてある小さなプレゼントの箱に気付いて開けました。自転車のチェーンを出して、「今の自転車につけることができるからこれでいい・・・ありがとうサンタさん」と言うのです。まだ気付いていない娘にあれを見なさいと促すようにして指差すと、娘は欲しかった自転車に気付き、感激のあまり号泣しました。
 
私たちの信仰の部屋には、すでにオーダーしたものが置いてあるとするならば、私たちは何も憂えることはないのです。ただ見えないのが残念なのですが、信仰の目は、それをしっかりと見ることができるのです。

心のオアシス 2015年1月元日

「健全な笑い」の土台は「健全な喜び」である。
「健全な喜び」の土台は「健全な意志」である。
「健全な意志」の土台は「健全な霊」である。
「健全な霊」こそが「健全な意志」をもって、いかなる状況においても喜ぶことを選択させる。
 喜びから自ずと笑顔と笑いが生まれてくる。

 韓国の学者の調査によると、子どもが一日に笑う回数は平均400回、大人は平均わずか6回という。
 笑いは創造主が人間に与えてくれた大切な能力である。
 笑いは、神経を鎮め、緊張をほぐし、怒りをなだめ、創造性を高め、愉快な気分にさせてくれる。
 笑いは生活をさわやかにする清涼剤であり人間関係を円満にする潤滑油である。
 笑いは苦しみを和らげる強力な鎮痛剤である。
 笑いは呼吸機能を強め、エンドルフィンやドーパミン等の免疫ホルモンを活発に生み出し、NK細胞等の免疫細胞を増やし、ストレスを軽減し、内臓を刺激して血流をよくする。
 「一日百笑」を心がければ、笑いが笑いを生み出し、何回でも笑うことができるようになる。あなたが笑えば相手も笑う。相手が笑えばあなたも笑う。笑いには循環的な伝染力がある。
 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(聖書・ピリピ4:4)
 (人気ブログ「ドントウォーリー」より) http://ixsasaki.ti-da.net/

私たちは大人になって、どれほど笑わなくなったことでしょうか。心配しても解決にならないなら、主にあって「笑う」を選択してみては?

心のオアシス 2014年12月28日

 日本でも一躍ベストセラーになった「チソン、愛してるよ」は、皆様の記憶にあると思います。チソンは、美しい外見と知性を兼ね備えた女性でした。大学へ進学しましたが、不幸にも交通事故に遭い、体中に重度の火傷を負い、皮膚が損傷して歩くこともままならなくなり、顔も見るに無残なケロイド状になってしまいました。しかし、この女性は極度の絶望的な状況の中でも、「苦しみ」には同意しませんでした。その代わりに、このような決心をしました。「私の経験を本にして、似た境遇にいる人たちを慰めよう。」フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーであるエレノアさんが言った有名な言葉は、「あなたの同意なしでは、誰もあなたに苦しみを抱かせることはできません。」この言葉を裏返して解釈すると、「今あなたが苦しい理由は、あなた自身が苦しみに同意しているからです。」
 私たちは、自分の周りにある状況や環境のせいで不幸なのだと思い込んでしまうことがあります。しかし、現実がどうであっても、幸せに生きることは可能なのです。逆に人目には恵まれた環境にいても不幸せな人たちも沢山います。それは、エレノアさんの言う「苦しみに同意している」からです。
 イエス様が生まれた時の状況は、人間的には最悪でした。出産間近なマリヤには泊まる宿もありませんでした。そしてようやく与えられた場所は、家畜の糞尿の匂いのする不衛生な家畜小屋でした。ヨダレがついた汚い餌箱がイエス様の寝かされる場所でした。すぐにヘロデから2歳以下の男の子を殺せとの勅令がくだり、エジプトへ逃げなければなりませんでした。神の子を出産するための特別待遇は全くといっていいほどありませんでした。それでもヨセフもマリヤも自分たちが不幸だとは思いませんでした。なぜならそれを「苦しみ」として同意したのではなく、「神さまから与えられた特権」と認識していたからです。
 
 今年も一年間、神さまが私たちに最高の人生を歩ませてくださったことを心から感謝しています。よいお年をお迎えください。シャローム☆

心のオアシス 2014年12月21日

 東京の日暮里という町に、さっちゃんという小学校5年生の女の子が住んでいました。ある日、学校から帰ってきたのですが、何も言わずにすぐ部屋に閉じこもってしまいました。お母さんは心配して部屋行って、声をかけました。するとさっちゃんは怒りながら言いました。「学校の友達は、『さっちゃんのお母さんはお化けだ』って言うのよ! もう学校のPTAにも授業参観にも来ないで! お母さんと一緒に歩くのもイヤ!」実は、さっちゃんのお母さんの頬から首、肩にかけて醜い火傷の跡があったのです。お母さんは悲しそうな顔をしながら、昔のアルバムを持ってきて結婚前の写真を指差しながら言いました。「この女の人は誰だと思う?」さっちゃんは、「知らない女の人」と答えました。そこでお母さんは言いました。「これはね、お母さんなのよ。結婚前は、こんなに綺麗な顔をしていたの。どうして火傷の跡ができたか教えてあげるね。結婚してからさっちゃんが生まれてから、ハイハイするようになった頃のある日、居間でぐっすり眠っていたので、その間に台所の洗い物をしていたのよ。少ししてからさっちゃんの様子を見に行ったら、何と目を覚ましてハイハイしてストーブに手をかけようとしていたの。ストーブの上には煮えくり返ったやかんが置いてあったので、お母さんは驚いて、さち子を助けるためにストーブに体当たりして・・・でも、その時、沸騰したやかんのお湯を浴びてしまってね・・・当時の手当も良くなくて、こんな醜い顔になってしまったの。何度も死にたいと思ったけど、さっちゃんのために生きているのよ・・・」
 さっちゃんは、お母さんの火傷の跡は、実は自分を助けるためであったという本当の理由を知り、泣きました。その時から「ごめんなさい」と謝るだけでなく、お母さんを誇り思うようになったそうです。
 
 熱湯をかぶって娘の命を助けた母親の姿に感動しますが、それ以上に、罪のゆえに滅び行く私たちを救うために、神なるお方(イエス・キリスト)が地上に来られて、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。クリスマスは、神の愛の表れです。メリークリスマス!

心のオアシス 2014年12月14日

 私のアメリカ留学時代にお世話になった、アルバイト先の私のボスであったリース・ロジャースさんの思い出話です。
クリスマスシーズンは、アメリカではどこの家庭でも家族親戚が集まってパーティーをします。その年のクリスマスは、私は行き場所がなく、一人寮でクリスマスを過ごす予定だったのですが、ボスが「行くところがなければ、ウチに来なさい」と声をかけてくださいました。急な誘いでしたので、何も用意しないで手ぶらで訪問しました。そこには30名近くボスの家族や親戚が集まっていました。楽しく食事やおしゃべりが終わって、プレゼント交換の時間になりました。ツリーの下には、みんなが持ち寄ったプレゼントがおいてあって、家族親戚の名前が書かれていました。勿論私は飛び入り参加ですし、ないことはわかっていました。
 プレゼントイベントが始まりました。みんな誰からのプレゼントが当たるかワクワクしながら名前を呼ばれるのを待っていました。私は彼らがワイワイ喜んでいる姿を見ながら楽しんでいました。やがてそのイベントが終わって、みんなが片付けや帰りの準備を始めた、そのドサクサの中で、遠くにいたボスが、ウィンクしながら、自分に渡されたプレゼントを私のポケットの中に突っ込んできたのです。私は「え?? これはあなたの・・・」と言いかけると、人差し指を口元にもっていって、「黙って受け止めなさい」というサインを私に送って、何もなかったようにして向こうへ去って行きました。私は、ボスのプレゼントがなくなってしまった・・・という複雑な思いと、一方的な愛の行為に、私は帰りの車の運転をしながら涙が溢れました。
 
 私はこのようなボスの元で4年間働くことができたことは、本当に幸せでした。いかに仕事をさぼるかということを考えている人たちがいる中で、私は自分の損得関係なしに、ボスのために仕事をしました。本当に充実した毎日でした。
 神さまは、一方的に私たちに愛を注いでくださっていて、私たちがその愛に気付いて、それに応える生き方ができれば、本当に幸せですよ!

心のオアシス 2014年12月7日

 ホラティオ・G・スパフォードが作詞した讃美歌の中に、世界的に歌われている聖歌476番When peace like a river「やすけさは川のごとく」があります。1800年代に活躍した裕福な弁護士であり、実業家でもありました。彼には奥さんと4人の娘さんがおりましたが、その娘さんたちが船に乗って大西洋を横断しているとき、この船が別の船と衝突事故を起こして沈没して、娘さん全員を失ってしまうとういう大変辛い経験をしました。彼は奥様からこの悲報を電報で受け取りました。悲しみに暮れている奥さんに会うために、大西洋を横断する船に乗りました。丁度、彼の娘さんたちが亡くなった辺りを船が差しかかったときに、ジッと渦巻いている波を見つめているのを、その船の船長が気付きました。その夜に、「やすけさは川ごとく」の歌詞を作詞したのです。
 一番の歌詞は「安けさは川のごとく 心満たす時 悲しみは波のごとく わが胸満たす時 すべて 安し み神 共にませば」これは日本語訳でありますが、もう少し丁寧に訳すとこうなります。「川のような平和が伴うときもあります。また悲しみが海のうねりのように渦巻くときもあります。たとえ自分の運命がどのように見えたとしても、神様、あなたは私に「安らいでいなさい」と教え諭してくださいます。私の心は安らかです」
 
 時々、私たちは、自分の人生に起こる様々な重荷に潰されそうになります。それは、仕事のトラブルであったり、人間関係のストレスであったり、病気であるかもしれません。それらの問題は、とても大きく私たちの生きる気力を失わせる壁になっていることさえあります。しかし、私たちの運命が、どのように見えたとしても、神様のご計画は、私たちが考えているようなちっぽけなものではないことをスパフォードの詞を通して学び勇気づけられます。歌詞の中にある「すべて安し」とは、自分が基準であるならば、そうは思えないでしょう。でも、偉大なる神さまの手の中に自分は生き、動き、存在していることを信じることができるならば、そう思えてくるのです。キリストの平和がありますように!

心のオアシス 2014年11月30日

 「アルコール依存性の詩」後藤光代著からの抜粋です。
 私は、お酒を憎んできました。お酒漬けの夫を憎んできました。お酒が憎いのか、夫が憎いのか、そのどちらも憎いのか自分でも分からないくらい、すさまじいエネルギーを流し続けてきました。「そのすさまじいエネルギーがあなたですよ。そのことに気付きなさい。」夫のアルコール依存症が、自分に自分が伝えるメッセージであったなどとは、おそらく、心を見るという学びに繋がらなければ、絶対に思いもしないことだったと、私は思っています。・・・今の私は、幸せなんです。自分のすさまじいエネルギーを周りにぶちまけてきた結果が、これまで自分自身が味わってきた苦しみ、悩み、憂いだったことを、私はほんの少し感じているからです。夫ではなかったし、子供でもなかったのです。やはり、彼や彼女たちは、私にとってはかけがえのない家族でした。アルコール依存症の夫が、酒を絶ってくれたなら、私は幸せになれる、万事うまくいく、そう思い込んで、そのために東奔西走してきた自分でした。精一杯生きてきたと自画自賛してきたけれど、結局、私は、一番大切なことを見落として頑張ってきたのです。自分が頑張ることが、さらに新たな苦しみを生んでいくとは、私には、なかなか分かりませんでした。今は、「そんな私もみんな受け入れたよ」って、自分に言ってやれる余裕が出てきています。夫の心の叫び、そして、自分の心の叫びを真正面から聞く優しさに欠けてきた自分でした。ただ、酒が好きなだけ、そう夫に言わせるその心の底をくみ取る優しさに欠けていたのでした。自分がまず幸せだったと気付くこと、何がなくても、もう自分はすでに幸せだったことに気付くこと、これでした。幸せになろうではなく、幸せにしてくださいではなく、私は幸せな存在でしたと、ほんの少しでも心で感じられて、そして、私の人生の幕引きができれば最高だと思っています。人って優しいなあ、私って優しいなあ、チラリとでも本当にそのように思える日が来るのを楽しみに、日々を過ごしてまいります。
 
 「いつも喜べ。絶えず祈れ。すべての事に感謝せよ。」(Ⅰテサロニケ5章)

心のオアシス 2014年11月23日

 世界的に有名な曲「驚くばかりの恵みなりき」Amazing Graceの詞を書いたジョン・ニュートンは、神様の恵みによって、その人生が大きく変えられた人物の一人です。彼は奴隷船の船長で、人を売買し奴隷を人間扱いしない冷酷な血も涙もないような人間でした。ある時、大嵐の中で、船が木の葉のように揺れて、命を落とすかもしれないという状況の中で、彼は一冊の信仰書を通して、神様の恵みに触れました。それから彼はイギリスに帰ってから、奴隷船の船長を辞め神様に仕える者となりました。そして牧師になって、神様がどれだけ自分に恵みを注いでくださったかを宣べ伝えるようになったのです。そのことが、彼の歌の中にも表れています。「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れるわれに」
あまりにも有名な曲ではありますが、残念ながら日本語訳の歌の歌詞には、作詞者の思いの半分も伝えられていないのが現状です。英語の直訳は「アメイジング グレイス『驚くばかりの恵み』とは、何と美しい響きでしょうか。私のような者までも救ってくださり、道を踏み外し、さまよっていた私を神は救い上げてくださり、今まで見えなかった神の恵みを、今は見出すことができるのです」

 私は自分が何のために存在し、生きているのかわからないまま生きていました。自分という存在が、この世から消えたとしても、それで何の影響があるのだろうか? とも考えていました。中学2年生の時、教会の門をくぐり、神様に生かされていることを知り、神様の恵みなしに生きることはできないということを悟ったとき、私の中に変化が起こりました。「見るもの全てが美しい」という感覚で、同じものが生き生きと見え始めたのを覚えています。劣等性でしたが、神様の恵みは、何ができるとか、成績が良いからではなく、どんな愚かさも包み込む懐の広さがあることを知り、私の人生は全く変えられたのです。私の「今」は、神さまの恵み以外何もありません。それは弱さの中にある強さだと自負しています。神さまの恵みは、どんな人をも変える力を持っているのです。

心のオアシス 2014年11月16日

 C.S.ルイスは著書 「偉大なる奇跡」の中で、次のように述べています。「ある建物の中に、どれだけかの人がいるとします。半分の人たちは、そこをホテルだと思っており、もう半分の人たちは刑務所だと思っています。そこをホテルだと思っている人は、我慢できないひどい所だと言い、刑務所だと思っている人は、思いのほか快適な場所だと言います。」
 人生の捉え方は、その人が人生をどういうものだと思っているかによって、ずいぶん違ってきます。ルイスは、ホテルと刑務所という対比を使って、そのことをうまく説明しました。彼は言いました。「この世は自分が幸せになるためにあると考えるなら、そこは我慢できないひどい場所かもしれません。一方、この世は訓練と矯正の場だと考えるなら、それほど悪くはない場所だと思えるでしょう。」
 私たちは、この世が訓練と矯正の場だとは考えたくもないでしょう。そればかりか、人生は苦労のない幸せなものであるべきだと考えます。しかし、そのような思いとは裏腹に、幸せだとは思えない出来事が次から次へと出てきます。自分の基準が、何の問題もない「幸せな人生」であるならば、それらの出来事にストレスを覚え、耐えることができなくなってしまうこともあります。聖書を調べてみると、どこにもこの世は住み心地の良い場所とは書かれていません。そればかりか、イエス・キリストは「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言いました。その他、聖書には様々な箇所に、この世は、良い時も悪い時もあって、霊的に成長するための場所であることを記しています。   
 霊的に成長するとは、どういうことでしょうか? それは、この世が混沌とした世界であっても、その中で天国に住んでいるかのような生き方をすることができるということです。辛いできごとや悲しいできごとの向こう側に、希望があることを信仰の目で見て生きるのです。
 
 神は主権者です。ご自分の計画にしたがって、すべてを治め、指揮しておられます。ですから私たちは、人生の浮き沈みに際しても、心に平安を保つことができるのです。この世はそんなに悪くはないですよ。

心のオアシス 2014年11月9日

7月上旬頃の事です。普段は仕事から帰り、一緒にご飯を食べ、一緒にお風呂に入り、家の用事をして、それから子ども達と触れ合う時間を持っていました。しかし疲れている時は、自分の時間を持つために子ども達に録画したアニメ番組を見せ、子ども達もテレビを見る事が当たり前になっていました。これはよくない!と日頃から感じていました。その日、一人で事務所にいた時に、「イエス様、このままで良いのでしょうか?」と祈りました。わたしは家族の祝福を心から願っています。しかしイエス様の助けなしに子育てというものはできるものではないと思っています。その為に、まず親として、子の模範でなければならない!と考えたのです。いつもテレビや自分の好きな事に時間に費やす姿を見せるのではなく、イエス様を第一にする姿勢で、聖書を読み、一緒にお祈りをしていこうと思いました。今までケーブルテレビで好きな番組を録画して、好き放題に見れる環境がありましたが、すぐにケーブルテレビを解約しました。それから私もしばらくテレビは見ないで、聖書を読む時間に費やそうと決断しました。朝早く起きて、家の用事をする前にまず聖書を読む、祈る。そして仕事を終えて、自分の部屋に入ったら、今まで自分の好きなことをしていましたが、聖書を読むことを優先する。夜読むことは、今まで自分にできていなかったことです。そしてさらに土曜日や日曜日の午後の昼間も時間を作り、聖書を読む工夫をしました。すると心が平安になるのです。時に怒る時もありますが、仕事も家事も子育ても、余裕をもって何事にも取り組めるようになりました。これは神様が与えてくださった祝福であると信じています。聖書を読む時間が増えていくと、聖書の世界が自分の中で広がってきて、恵みが豊かになる感覚が増えてきました。子ども達とも毎晩一緒にお祈りするようになり、長男は新約聖書を通読することができました。(文責:道本賢司)

「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)