心のオアシス
心のオアシス 2014年8月3日
先日、子どもが収入の十分の一を遥かに超える額の献金をしようとしていたので、「安月給なのにそんなにして大丈夫なのか?」と、無謀にならないように諭すつもりで質問すると、「何倍にもなって返ってくるんでしょ?」との返事。牧師である私は、それに何の返答もできず、ただ祝福を祈りました。「信仰」と「無謀」は紙一重で、よく吟味することがバランスある信仰だと思っている私に、一石を投じるような内容の文章を、つい先日読んで考えさせられています。これがその一部です。
うちの末っ子は、小学生の頃から数年間、歯の矯正をしました。子どもは歯医者に行く日が大好きでした。家から地下鉄に乗ってその歯医者に行くにはとても時間がかかるので、帰りに何か買って食べるよう母親がお金をあげたからです。その日も5千ウォン(約5百円)をもらって歯医者へ向かいました。しかしちょうど地下鉄駅の階段のところにホームレスの老人がいて、物乞いをしていました。おじいさんの前にある入れ物には、小銭がいくつか入っているだけでした。それを見た子どもは千ウォン(約百円)札を一枚入れました。その次は、地下鉄の中で、賛美歌の流れるカセットプレイヤーを首に掛けた視聴障がいのおばあさんに会いました。その人の入れ物にも小銭が数個しかありませんでした。また心に負担を感じた子どもは千ウォンを渡しました。最後に、子どもが降りた駅で、物乞いのおじいさんに会い、三枚目の千ウォン札を渡しました。その日の夜、子どもの話を聞いて、私は「本当によくやったね」と誉めてあげました。「そんなに非現実的に生きたら、後々、どうやって自分の家族を食べさせていくんだ?!」と批判する人もいるかもしれません。しかし、私には信じていることがあります。主は、そのような聖なる負担を感じる人を必ず用いられるということです。私たちが持っているものが、からし種ほどにもならないものであったとしても、それが置かれた所は、ほかでもなく主の御手であるということを忘れないでください。世の人が愚かだと思うことでも、主が用いられるなら、それは奇跡の始まりとなるのです。(「成熟者クラス」イ・ジェチョル著より引用)
心のオアシス 2014年7月27日
「神はなぜ沈黙を続けているのか。キリストが十字架にさらされたときも、神のために自らの命をささげようとしている人がいるときも、神はなぜ黙ったままなのか? そして神はいるのか?」このような問いを自らに語りかける宣教師の姿を通して、キリスト教の弾圧と信仰とは何かについて描いた遠藤周作の小説「沈黙」というのがある。
私たちは人間主体に考えるならば、神が自分のために何もなさろうとしていない時間は、疑問形でしかない。「どうして神は働いていないのか?」「何故神は私を助けてくださらないのか?」「私から遠くに離れておられるのではないか?」
旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」で有名なノアは、40日40夜雨が降り、方舟の中で不安な日々を過ごしましたが、「神は、ノアと箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられていた」と記されています。私たちにとって、神が沈黙されておられるような時も、決して忘れておられるのではないということなのです。
かつてある青年が、「癒しの集会」に出たときに、たくさんの病気の人々が癒される姿を目の当たりにしました。集会が終わって青年が出口から出ようと人の列の流れにいると、車椅子を押している女性の姿に目が止まりました。そしてその車椅子の子を見ると、頭が異常に大きくて、歩くことのできない子供が乗っていました。すぐにこう訴えました。「神様! この子は、今日癒しが必要だったのに、どうして、癒してくださらなかったのですか?」それから長距離バスに乗って帰る途中、青年は、夢を見ました。それは集会が終わって、出口のあたりを歩いていると、あの頭の大きな子と、その車椅子を押している母親の姿と、「どうして、この子を癒してくださらなかったのですか?」と怒っている自分自身の姿もありました。しかし、その後ろにイエス様が立っておられて、その車椅子の子の頭を抱きかかえながら「私は、この子を忘れているのではありません。忘れたことはありません。」と語っておられる姿を見ました。
「私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49章)
心のオアシス 2014年7月20日
ペテロがイエスさまに、「あなたはこれからは、行きたくない所へ連れていかれるようになるだろう。」そうするとペテロは、自分のライバルである他の弟子を指して言いました。「主よ、この人はどうなのですか?」それに対するイエスさまの答えは、「たとえわたしが彼にずっと生き残ることを望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」でした。
ある家族が、田舎に小さな家を建てて幸せに住んでいました。何年かしてから他の家族が隣の土地を買って、大きな家を建てました。それまで何の問題もなかったのですが、隣の家を見て奥さんはご主人に言いました。「お隣の家は大きくて立派な家を建てたね・・・うちは小さくない?」「小さな家でいいからと、同意してここに引っ越してきたんじゃなかったか? 今更何を言ってるんだ?!」と喧嘩になりました。子供は隣に引っ越してきた子が新しい自転車に乗っているのを見てお母さんに言いました。「どうして僕はずっと古い自転車に乗らなきゃいけないの? 新しいの買ってよ!」お母さんは言います。「お隣の子は、勉強よくするし成績がいいでしょ!」・・・今まで何も愚痴も不満もなく幸せだったのに、比べ始めてから家族の中に不和が生じたという話です。
人は、他者との比較に生きています。そうすることによって優越感を抱いたり、劣等感を持ったりしながら一喜一憂することになります。しかし聖書は、神が与える人生の舞台での役割は、みんな違っていて、それぞれに必要な場所に配置されていて、あなたでしかなれない配役が与えられているというのです。あなたはあなたに与えられた個性と摂理を大切にしながら、今のあなたを精一杯生きるのです。それはワガママになるということではありません。神さまが他者に与えられた賜物は、認めつつ調和していくのです。一年にも春夏秋冬があるように、一人一人にも人生の四季があるでしょう。それぞれの季節を楽しんで過ごしていきたいものですね。その季節でなければ発見できない神さまの恵みがあるはずです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(Ⅱコリント12:9)
心のオアシス 2014年7月13日
日本では大雨による洪水や土砂災害が報道されています。世界各地で様々な災害が報道されると心痛みます。アメリカでは、過去に何度もハリケーンによる洪水で町が水没するという災害がありました。当時のアメリカ国内でのテレビニュースのインタビューで被災者の多くは、政府の対応の遅さの不満を訴えていました。そして「エアコンが水に浸かってしまって壊れて、暑くて大変だ・・・下水が臭くて、病気も蔓延している・・・」など、現実の厳しい状況を訴えていました。その現状を見聞きして、当時私もボランティアとしてアメリカへ行きたいほどでした。インタビュアーが被害者たちの声を聞いて回っていましたが、その中で、顔が輝いている一人の女性にマイクが向けられたとき、驚きの答えが返ってきたのです。インタビュアーが尋ねました。「何か問題はありますか?」するとその女性は、「いいえ、問題はありません。命守られ、家族も守られ、今、こうやって健康でいることができることを嬉しく思います。」意外な返答に続けて質問しました。「エアコンがなかったら暑いんじゃないですか?」女性は答えます。「いいえ、エアコンどころではありません。私の家は全部流されましたから、何もありませんよ。でも、私にこの聖書がある限り、何ものをも私の平安と喜びと希望を流すことはできません。私は心から神さまに感謝しています。これさえあれば大丈夫なのです!」女性は聖書を掲げながら輝いて答えていました。
私たちがこの地上での幸せを求めるとき、自分の願いの実現や、条件が整うことが「幸せ」だと考えています。「誰もが天国に住みたいと思っています。しかし、今すぐにでも自分の心の中に天国をつくりだすこともできるのです。」とはマザーテレサの言葉ですが、環境とか状況に関係なく天国はつくれる、幸せになれるというのです。このようなことも言っておられます。「私たちは問題解決を急いでいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・お金は神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったということです・・・」神さまにある人生って、幸せですね。
心のオアシス 2014年7月6日
「人生を導く5つの目的」リック・ウォレン師著からの抜粋です・・・「クリスチャンたちが犯している最も典型的な間違いというのは、神ご自身を求めるよりも、何らかの体験を求めていることです。彼らは、ある種の感情的体験を求めています。そして、感情的体験を求めています。そして、感情的な高まりを経験することで礼拝した気分になっているのです。しかし、それは間違いです。実際、神はしばしば私たちの感情を取り除いて、私たちがそれに依存することのないようにされます。感情を求めること、またキリストとの親密な感覚を求めることさえ、礼拝とは言えません。あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えてくださったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」
これは私がクリスチャンになってから疑問に思っていたことに答えられている内容です。人は感情とか気分を重要視します。そして感情を高めたり、気分を良くしてくれる所へ集まります。感情も神さまが人間に対する楽しみを感じる感覚として与えてくださったものなので否定はしませんが、神さまが触れてくださったとか、聖霊が働いてくださっているという根拠を「感情」や「気分」に頼るならば、それは間違いです。イエスさまに出会って間もない頃は、それでも良いですが、成長したら、そのような感覚から離れて信仰に立つことを求められるのです。感じなくても神さまは、あなたのすぐ傍に立っておられます。心が砂漠状態であったとしても、神はあなたを背負いながら歩いておられるのです。
クリスチャンが主にあって、どんな時も平安でいることができるのは、感情や気分による愛や赦しではなく、神と人との契約に基づいたものだからです。私たちが裏切っても神は裏切られないのです。私たちにとって、あまりにも都合良すぎませんか? でも、この条件なしの一方的な愛(アガペ)でしか本当の安心はないのです。
心のオアシス 2014年6月29日
私が以前にイスラエルを旅したとき、一人の初老の黒人男性がこのような話をするのを聞き衝撃を受けました。「私は生まれてすぐに、親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいきました。親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはありません。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています!」
涙を流しながら語るその男性は、柔和で、穏やかでした。奥様と旅をしておられましたが、おしどり夫婦でした。
私は思いました。人はどんな過去があっても、どんな心の傷があっても、やり直すことができるものなのだと。それは頑張るのではなく、委ねるだけで変えることができるのです。枝は、幹から離れているならば、どんなに努力しても実を結ぶことはできませんが、繋がっているならば、自然と実を結んでいくようにできています。私たちは本来、キリストに繋がって生きるように造られたのですが、そこから離れて生きることが「自由」だと勘違いして、幹から離れた枝として実を結ぶことのない人生を歩むようになりました。
キリストに繋がっているだけで人生が変わるなんて深イイ話です!
心のオアシス 2014年6月22日
私たちの教会メンバーの今澤麗子さんが、6月10日早朝天に召されました。享年80歳でした。先日、私が葬儀の司式を執り行いました。
不思議な神さまの導きにより、約2年前に病院でお会いしました。麗子さんは仏教徒でしたが、何故か自分の娘さんをミッション系のノートルダム清心学園付属の幼稚園・小学校へ通わせたそうです。理事長でありシスターである渡辺和子さんのことをよくご存知で、尊敬しておられるということで、私も書いておられる本を何冊も読み講演も聴いたことがあるので、共通した話題から話しが弾みました。それから定期的にお見舞いに行くようになり、かなり心は開かれるようになったのですが、今までの仏教の様々なしがらみがあって、クリスチャンになるまでは無理といった様子でした。しかし、長い話を短くすると、去年の12月に明確にイエスさまを信じ受け入れて病床で洗礼を受けられました。受洗してからの麗子さんは、明らかに変化がありました。私がお見舞いに行く度に様々な不平不満や痛みを訴えておられたのですが、イエスさまを信じてから感謝を口にするようになり、痛みのことを言われなくなったのです。私が牧師としてそのようなご指導をさせていただいたわけではありません。ただ信じただけなのですが、変わっていかれたのです。これは内に働かれる聖霊さまによって浄化されていたのだと確信します。
渡辺和子さんの著書の中から良い文章をお分ちします・・・「いつまでもあると思うな親と金」といいますが、失ってしまう前に、当たり前の価値に気付いてほしいのです。今、有るものは有り難い、有ることの難しいものだと気付いてほしいのです。そうすると人間幸せになります。幸せとは、良いものに囲まれている時に存在するからです。そして幸せは、客観的に何があるか、どういう状況にあるかだけでなくて、それを有り難いと見るかどうかにかかっています。当たり前でなくて、有り難いものだと気付けば、幸せの度合いは高まります。
「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい」(聖書)
心のオアシス 2014年6月15日
アルバート・アインシュタインは4歳になるまで言葉を話しませんでしたし、本を読み始めたのも7歳になってからでした。彼の担任教師の一人は、彼のことを「知的障害で、人付き合いを好まず、愚かな夢を追って途方に暮れてしまっている」と決めつけていたそうです。
まだトーマス・エジソンが少年であったころ、何人かの教師は彼について「彼はあまりにもバカで、何も学ぶことができない」と批評していました。
ウィンストン・チャーチルは、6年生の時に落第して、挫折と敗北を生涯の中で繰り返し、シニアシチズン(65歳以上)になって、ついて英国の首相になりました。
何度も倒産を重ねた末、やっと勤めた地元の新聞社の編集長から「お前はアイデア不足だ」と言われクビにされた男の名はウォルト・ディズニーでした。
世の中のあなたに対する評価は、神さまのあなたに対する評価ではないことを知らなければなりません。たとえ自分の過去や生い立ちのゆえに成功できないと思っている人や、自分の現実の姿を見て、全く希望を持てないでいる人がいたとしても、神さまはあなたの傷を無駄にはなさいません。逆にあなたの小ささに価値を見いだし、あなたという存在を用いられるのです。天国での驚きはこれです。「え? こんな私が、この世界の歴史の一旦を担わしてくださっていたのですか?! どうしてこの私が?」私たちには到底理解できない神さまの恵みがそこにあります。この地上の生活は、仮の宿であり天国で快適に過ごすための予備校のようなもので、イエスさまに迎え入れられるときが本番スタートです。私たちの本番が始まるまで、この地上での生涯、神さまのために全力で駆け抜けていきたいと願います。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16章33節)
心のオアシス 2014年6月8日
今年の6月で、関西カルバリーフェローシップ(KCF)は4周年を迎えます。2010年6月6日より関西でゼロ開拓をスタートしました。まだまだヨチヨチ歩きの教会ですが、以下がその歴史です。
2010年6月6日の日曜日に奈良市・学園前にて午後礼拝スタート。
2011年4月3日より東大阪市・枚岡において午前礼拝スタート。
2012年8月5日、東大阪福音教会のご好意により会堂をお借りし、
日曜日の午前と午後の礼拝場所を石切チャペルへ移し、現在に至る。
この4年間に11名の方々が受洗され、私が想像もしなかったような驚くばかりの出会いや不思議が次々と起こりました。必要な時期に必要な人たちが与えられました。まだまだ小さな群れですが、今与えられている人たちは全員、神さまがKCFのために選ばれた最強チームです。
今年は教会が整備されていく年だと確信しお祈りしてきました。この度、神さまの導きにより教会メンバーの二名の方々を、それぞれ「長老」「協力伝道師」として任命いたしました。私たちの教会メンバーとして2年以上、謙遜に忠実に神さまに仕えてこられた方々です。これから益々用いられることを期待し祈ります。教会の利便性から肩書のようなものが与えられはしますが、KCFに繋がる全員が「信徒伝道者」あるいは「教会の模範的な存在」として神さまから任命されています。これはお世辞ではなく、それぞれがそれぞれの個性を用いて神さまのために良い味を出しておられるからです。神さまはそれを喜んでおられるでしょう。
ハワイのウェイン・コディーロ先生が、ベビーシッターに声をかけました。「神さまの福音宣教を宣べ伝えるお手伝いをしてくださってありがとう!」するとシッターさんは、「私が宣教のお手伝いを?」続けてコディーロ先生は言います。「そうです。あなたが子どもたちを見ることによって、その親は安心して神さまの言葉に集中することができるから、あなたのしていることは大切な宣教の働きなのですよ!」
テーブルをふくことも、マイクのコードを巻くことも、唯一なる神さまのためにしていることは全て重要な宣教なのです。
心のオアシス 2014年6月1日
先週は「愛の安定供給」というタイトルでメッセージさせていただきました。我ながら良いタイトルをつけたものだと自画自賛していました。
「愛」という言葉は、日本語では、一つしかありません。ところが新約聖書が書かれたギリシャ語では、それぞれの場面によって、「愛」という言葉の使い分けしているのを発見しました。実はギリシャ語には、複数の日本語では「愛」と訳される言葉が存在するのです。基本的には、エロース(男女の愛)、フィリア(隣人愛・友情)、ストルゲー(家族愛)、アガペー(真の愛・無償の愛)の4つあります。最後のアガペー以外の愛は、ギブ・アンド・テイク(条件付き)であります。すなわち、「良い子だったら愛する」とか、「自分を満足させてくれるから愛する」という関係です。いずれも自分にとって都合の良い相手は、大切にして愛するけれど、そうでなければ、愛は保証されていないのです。このような「愛」は、不安定で、いつも相手の顔色を見ながら、愛される努力をしなければならないのです。
アガペーの「愛」は、私たちが何度裏切ろうと、無礼をしても、無視しても、変わらずに流し続けられる愛を表しています。そんなことがありえるのでしょうか? 旧約聖書を読むと、イスラエルの民は、神に導かれて最善の道が開かれたにもかかわらず、何度も神を裏切り、失敗しました。もう呆れられてもおかしくはない彼らを、失敗する度に次の新しい方法で彼らを救おうとなさっている歴史を見ることができます。また新約聖書には、弟子たちがイエスの期待を裏切るような言動を何度も行ないました。そして最後にはイエスを見捨てて逃げ去ってしまう弟子たちを、最後まで愛し通されたという記録が記されています。
このように聖書全体を通して、神がアガペーの愛(無償・無条件の愛)で人間を愛してくださっていることを発見することができるのです。私たち人間は、神のやり方に委ねることができないで、自分のやり方で人生を切り開いて行こうとするところに、様々な歪みが生じてくるのです。
アガペーの愛は安定しています。人はこの中で安息できるのです。