心のオアシス
心のオアシス 2015年5月24日
主の御名を賛美します!! 主をお父様と呼べる喜びがどれ程大きな幸せなのか、日々感謝の連続です。良いお知らせがありますので、ご報告させていただきます。今日、糖尿病の検査の結果、数値が平常戻り糖尿病の薬が減りました! タバコの件で経験したお祈りの力を信じて教会の皆様にお願いした事は、やはり大当たりでした! ハレルヤ!アーメン! こんなに幸せで良いのでしょうか~?? 誠に感謝、感謝します! (N.F.)
これは先週届いたメールです。人の人生が変えられていく姿を見ると牧師を辞められなくなります。この方は、中学3年生の時から、なんと35年近くもタバコを吸い続けていました。3年前に洗礼を受けてからも、なかなか止めることができずにいましたが、今年になって自分の力で止めることを諦め、祈り委ね始めてから、不思議と匂いが嫌になり、そのままタバコから完全に解放されました。そして1年前から糖尿病で苦しんでいましたが、3月から始まった24時間連鎖祈祷の輪に加わってから、祈り祈られてこの癒しが起こりました。この方は、他にも沢山の肉体的な弱さを抱えておられるのですが、そのことに焦点を当てるのではなく、神さまがしてくださっていることに感謝しておられる姿に私は感動しています。
アメリカのある新聞に15歳の少女がこのような投稿をしました。「私は不幸です。自分の部屋も持ってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服も持っていません。私の将来は真っ暗です」この投稿を読んだ13歳の女の子が、新聞社にこのような文を送りました。「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことはできませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています」
辛い時に「辛い」と言うのは当たり前のことですが、辛い時に「感謝!」と言うと辛さが薄れていくことをご存知でしたか?!
心のオアシス 2015年5月17日
先週のメッセージを聴いた方からのメールの一部をご紹介します。
5時から男の朝6時から夕方5時までの心境に着目した説明に新しい発見をしました。ありがとうございました。私は、クリスチャンであることに少々重荷を感じていました。死ぬ間際に神さまを信じていたら、楽だったのになぁ・・・と、ず~と思っていました。その考えがやや方向転換しました。午後5時から雇われた男は、始業時間の朝6時から夕方5時は収入不安の時間でした。つまり、その間は、神さまを知らない時間で、早朝から職にありつけた男は、朝6時から収入の不安がない。つまり、神さまを信じていた時間だったのですね。
私も神さまに何だかんだと文句をたれていますが、神さまのおかげで、精神的に相当助けてもらっています。15年前に、教会に行ってなかったら、頭がおかしくなっていたかも?(今でも、充分おかしいかも?)
まあ色々不自由はありますが、神さまを信じている方がまだ楽だと思います。
私は今までに、苦難に直面され乗り越えられた方々から「神さまを信じていて本当に良かったと思います!」という声を何度も聞いてきました。それは心からの真実な声だと思います。私自身も振り返ってみて、「あの時に神さまを知らなかったら、今ごろ自分はどうなっていたのだろう?」と、恐ろしくなることさえあります。私は朝の9時ごろ雇い主に出会ったような者ですが、早目にお会いできて良かったなと本気で思っています。恐らく、午後6時少し前に雇われたかったと考えている人は、自分の思い通りに生きることが自由で楽だと考えておられるのでしょうね。確かに、聖書に出てくる放蕩息子も羽を伸ばせて、さぞ楽しかったと思います。でも、この地上での楽しみや満足感は、ほんの一時的です。自分を満たしてくれる真実を求めて、ずっとさまよいながら歩くことになるでしょう。しかし、私には、弱めるときのいと近き助けがおられます。このお方なしの人生なんてありえません!
心のオアシス 2015年5月10日
「世界で一番大変な仕事」という人材募集の広告を見た人が興味を持ち、ビデオチャットで面接を受けに来ました。しかしその条件を聞いてびっくり。その驚きの仕事内容とは・・・
「まずは仕事の内容からお伝えします。役職は現場総監督です。でも実際はこの役にとどまりません。仕事上の責任はとっても広範囲です。さらにほぼ全ての時間、立って作業をします。立ち作業とかがんだ姿勢で作業し、とても体力を必要とします。労働時間は週に135時間かそれ以上で、基本的に週7日、毎日24時間で、決まった休憩時間はありません。しかしこの仕事は合法です。ランチは食べることはできますが、全ての同僚が食べ終わった後にとります。この職位は交渉力と交際力が求められます。そして私たちが求めているのは、医学と金融学と栄養学に通じている人です。しかも複数の役職を兼任することが求められます。常に周りに注意を払い、時には同僚と徹夜ということもあります。ひと時も寝ることなく、大変な仕事ですから、あなたの私的な時間は諦めてもらいます。事実上、休みなしです。特に感謝祭、クリスマス、正月などの休日は、仕事量がもっと増えます。やりがいのある仕事でしょう? 寝ている時間もありません。1年365日なんでもやらされるということです。あなたが作る人間関係や同僚を助けるといったことは、お金に換算されません。ところで、あなたがこの役職で得られる給料は、完全にゼロです。完全無給です。現実に今もまさに、この職についている人が何十億といます。」そこで、面接を受けている人が聞きました「それは誰なのですか?」すると面接官は答えました「お母さんですよ」
お母さんのしていることは、あまり感謝されないハードな仕事で、しかも当たり前のように思われています。それ以上に神さまは365日、ひと時も休むことなく私たちを導いてくださっています。神さまのされていることがあまりにも大きすぎて、私たちは見過ごしていることがいかに多いことでしょう。母の日に、静まりて神の恵みを数えましょう。
心のオアシス 2015年5月3日
メトロ・ミニストリーズというニューヨークの貧民街で伝道をしている団体のリーダーのビル・ウィルソン牧師は、毎週2万人以上の子供たちが集まる日曜学校を行なっています。先生は、子どもの頃、母親に置き去りにされました。シングルマザーであった母親が、「もうダメだわ、やっていくことはできない・・・」そういって、通りの消火栓の前で「ここで待っていなさい」と言い残したまま姿を消しました。彼は、その消火栓に座ったまま3日間待ち続けました。しかし、母親は帰ってきませんでした。3日目に、クリスチャンの男性が、消火栓にずっと座っている少年を見つけて家に連れ帰り、食べ物を与え、クリスチャンの子どもキャンプへ参加させました。そこには各地からたくさんの子どもたちが集まっていました。慣れない場所に来たビル少年は、隅の方に座っていました。その夜の集会で牧師が話し終わり、最後に招きがありました。「もしイエス・キリストを信じたいなら前に出てきてください」 ビル少年は、聖書の話は初めてだったのですが、何か引き付けるものがあって前に進み出ました。決心した子どもたちが集まると、カウンセラーが出てきて、一人一人の子どもたちの所へ行き、一緒に話したりお祈りをしたりし始めました。しかしビル少年のところには、誰も来てくれなかったのです。恐らく、母親に置き去りにされた時の汚い服、やぶれたズボンを履いた子どもの所には行きたくなかったのでしょう。ビル少年は、一人でこう祈りました。「神さま。僕を導いてください。」カウンセラーは来てくれませんでしたが、イエス様が来てくださいました。彼はその時、大きな恵みの衝撃を受けました。神さまの愛で包まれました。そして、今、誰もできないような大きな働きをしておられます。彼は大きなミニストリーの長になっても、未だに町の子どもたちを乗せるためのスクールバスを運転しています。彼はこう言います。「捨てられた自分を拾ってくれた人がいます。そして今日があるのです。自分が子どもたちを拾うときに、あの捨てられた自分を思い出し拾い上げています。」
境遇は違いますが、私も同じ気持ちで福音を宣べ伝えています。
心のオアシス 2015年4月26日
1989年12月上旬のある朝、私はサラリーマンとして東京の新宿で働いていました。当時、神奈川県の海老名というところに住んでいて、小田急線の海老名駅から新宿行きの急行に、その日の朝も乗っていました。その電車は、毎朝のことですが、新宿に着くまでの1時間、全く体制を変えることができないような超満員でした。そんな満員電車の中での、私の唯一の楽しみは、ウォークマンで牧師のメッセージを聴くということでした。その日、テープはルカによる福音書8章から「向こう岸へ渡ろう」という内容のメッセージが流れていました。私は、いつか牧師になりたいと願っていましたが、結婚もしていましたし、今、会社を辞めるわけにもいかない状況がありました。来年には子供も与えられるし、経済的にも、今は無理だと思っていたのです。しかし、流れてくるメッセージの内容に心揺すぶられました。「どんなに嵐がきて、水が舟の中に入ってきても、弟子たちの乗った舟は絶対に沈没しない理由があります。それは、イエス様が『向こう岸へ渡ろう』と言われたから、この舟は、途中でどんなことが起こっても、向こう岸へ行くことができるのです。そしてもう一つの沈没しない理由・・・それは、同じ舟にイエス様が乗っておられるからです。」このメッセージを聞いたときに、「自分は、経済の荒波や、生活に暴風雨が吹いて、沈没してしまうと思っているけれど、主が促されておられるのならば、また主が同じ舟に乗っておられるのならば、絶対に沈むことはない」という確信が与えられ献身を決意したのです。
私は自分自身の内側にある思いも含めて、常識とか、環境とか、状況という現実の声に耳を傾けて、岸を離れることができませんでした。しかし、主からの「向こう岸へ渡ろう」という声に、従った時に与えられた恵みは、数えることができないほどです。私の舟は沈むことはありませんでした。そして、今もその時と同じ信仰によって関西で開拓伝道しています。毎日が奇跡の連続です。確かに主が同じ舟に乗っておられることを実感しながら毎日を過ごしています。ハレルヤ主よ感謝します!
心のオアシス 2015年4月19日
私は留学時代に、キャンパス内で芝刈りなどをする部署でアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を、その部署のボスが大学に提出することになっていました。ある日、私のボスが私を呼んで、その評価表を大学へ持っていって欲しいと言いました。私が事務所へ行くと、まだ採点をしているところだったので、その場から離れようとすると、机の前にあるイスに座れというので、そのイスに座って採点する様子を見ていました。一人の生徒につき、仕事ぶりの項目が10ぐらいあったのですが、ボスは、ほとんどに平均的、もしくは努力が必要というところにチェックを入れていました。私は「評価が厳しいな・・・」と内心思っていましたが、そうこうしている内に、私の名前の書いてある評価シートが机の上に置かれました。私は、リースがどんな評価をしてくれるのか、興味津々でした。みんなと同じ「平均的」がほとんどだろうと予想していましが、採点している様子を見て、私は目を疑いました。誰に対しても「平均的」が最高評価だったのに、なんと私の評価には、最高のエクセレント(大変良い)の所にチェックを付け始めたではないですか。ほぼオール5状態でした。そしてコメントの欄には「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています」と書いてくれたのです。たとえ、私が見ているからといっても、過剰な評価でした。
今から考えると、小さな島国の日本からアメリカに渡って、苦労している私を、えこひいきするかのようにして、様々な心遣いをしていただいたのですが、あれは愛情評価だったのだと気付きました。私は、そのような身に余る光栄な評価をしていただいて、言うまでもなく、他の学生たち以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。
どのような人でも、もし本当の愛に触れたら、強いられてではなく、本心からその愛に応えるような生き方がしたいと願い始めるものです。
世の中には条件付きで気まぐれな愛が満ちています。どこに行けば裏切らない愛があるのでしょうか? それはイエスさまから溢れています。
心のオアシス 2015年4月12日
渡辺和子さんの著書の一部を紹介します。
毎日生活していく上で「どうして私だけが、こんな損をしていないといけないのか?」と思うことがある。私は若い時から不公平ということに人一倍敏感であった。他人に不公平にならないよう気をつける反面、他人なり自分が不公平に扱われることに激しい憤りを覚えるところがあった。修道院に入ってからも「自分」は、そんなに変わるものではない。たまっている生ゴミ、焼却炉に持っていくべきクズの山を見ると心の中に戦いが起きる。「何もいつも私が捨てに行くことはない。他のシスターがしたらいい」結局はまた自分が捨てに行くことになって、心の中には「不公平、ずるい」という、はしたない思いが生まれてくることがある。こんな小さなことと人は言うかもしれない。でも人の一生は、こんな小さなこと一つ一つでしか成り立ってゆかないのだ。
物事は反対から考えてみると納得できることがあるものだ。何か「損した」と思うようなことを、それではもし自分がしなかったとしたら何を「得したのか」と考えてみることである。ゴミを捨てに行く時、確かに損しているように思うことがある。では、自分が見て見ぬふりをして捨てに行かなかった時、一体何の得をしたのだろうかと考えると、やはり、して良かったと思うものである。それは、自分が自分に向かって「良かったね」という密やかな、したがってささやかな満足感、幸せ感である。他人のレベルまで下がってはいけないとしみじみ思う。それでは、あまりに自分がみじめではないか。他人は他人、自分は自分、自分が心に定めた生き方を貫いて生きたい。損だ、得だというけれど、ジェラール・シャンドリーが言うように「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」
人は絶えず損か得かを考えながら生きています。自分にとって面倒なことを他人がしてくれるを得だと思い、自分がそれをするのは損だと考えます。しかし、損する生き方の方が、神さまに近い気がします。
心のオアシス 2015年4月5日
「ビジネスを支える聖書のことば」より聖心セレモニー取締役社長・ 疋田さんのお証です。
私は現在、葬儀の仕事をしております。これは神の召しによるものです。どのような商売でも、あるいは事業でもそうでしょうが、召命感がなくてはならないと思います。すべてクリスチャンは、それぞれ神より召命感を持って事を行なっていると思います。私もそうです。15年前、神に示されてこの仕事をするようになりました。神に示されたからといって、順風満帆の日々であったかというと、とんでもない、何度も何度もピンチに陥りました。あるときは仕事が全く来なくて、蓄えもなくなり、借金をして、それもなくなり、明日はどうなるのだろうかと思ったりしたこともありました。またある時は人に裏切られて、この時もまた大ピンチでした。そのような苦しい時に神が与えてくださったのが「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12章32節)の御言葉でした。「恐れるな、小さい群れよ」ある時は真夜中、布団の上に起き上がって祈り、あるときは車で遠いところへ行き、誰もいない公園に行ってベンチに身をかがめて祈ったものでした。「この仕事は神が与えてくださった仕事なのだ。必ず全うさせてくださるに違いない」だから「恐れるな、小さい群れよ」と。あれから15年。今は従業員を使って仕事は順調にいっております。けれども、このまま順調な人生が続くとは思っておりません。人生には何が起こるか分かりません。人生は生涯、戦いであると私は覚悟しております。「恐れるな、小さい群れよ」この御言葉こそ、私の力です。今後とも、私はこの御言葉に支えられて生きていくでしょう。聖書は真実であり、御言葉は神の力であると私は確信しているのです。
神さまは私たちの中に何も頼るものが失くなった時に、最終手段を人間に与えてくださいました。それが「祈り」です。しかしそれはこの世のどんな力よりも強力なツールです。主は死から甦られました!
心のオアシス 2015年3月29日
かつてインドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生のお話です。
ある経営者がいて、その奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても全く聞く耳を持ちませんでした。とても頑固な人で、自分は何でも知っていると思っていました。経営する会社は、海外にも支店がいくつかあって、インドネシアにある支店に訪れたときに、ボルネオのジャングルに行きたいとのことで、そこに当時住んでいた安海宣教師が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていきました。
しばらくしてから、安海先生は手紙を受け取りました。それはあの頑固な社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたというのであります。その経緯はこのようなことでした。この社長さんの会社は海外にもあって、駐在員を派遣しているけれども、その家族と会って話しをすると、大きな家が与えられていても治安が悪いと不満を言い、お手伝いさんがついていても盗みがあるなどと不平しか聞いたことがありませんでした。しかし、3日間、安海先生と過ごして、何もない所で、先生は朝から歌を歌い、喜んでいる姿を見ました。日本に帰って考え込んだというのです。自分はすでに50歳代で、一応すべてのことを知っていたつもりでしたが、まだ知らない世界があるのだと思いました。そして奥さんから聖書をもらって読み始めて、神の国の世界を知ったというものでした。
神さまが、日々私たちを最善に導いておられることを信じることができれば、環境とか状況に左右されずに感謝することができるようになります。愚痴や不満が出るのは、私たちの人格が整えられていないか、神さまに委ね切ることができない人間の姿なのです。ある牧師先生は、「恐れの反対語は信仰です。」と言われました。丸木橋を渡るときに崩れるのでは?と思うと、恐れが起こりますが、木の中に鉄筋がくい込まれているのを見たら、何の恐れもなく渡れるでしょう。私たちの人生を喜び溢れたものにしてくれるのは、神さまに対する全き信仰です。
心のオアシス 2015年3月22日
私が大和カルバリーチャペルでご奉仕していた時期にお祈りしていた一青年のプログからです。
タイトルは、「愛する人を探す人」
「地震が起こって、私が死んでも心配しないでね。天国にいるから。」
親しい友にこう言ってきた。すると、友が、「探しに行く。」と言った。
私は、瓦礫の中で、わたしを必死に探す友の姿を思い浮かべたら、心が締め付けられるようにくるしくなった。
先日見たテレビが忘れられない。妻を探すために潜水士になった人のことを。その方は、3.11の地震の時に、愛する妻を津波で失った。数日後に、瓦礫の山から見つかった妻の携帯に、届かなかった最後のメッセージが残っていた。「帰りたい。」彼は胸が張り裂けるようだった。「自分の手で妻を家に連れて帰る」そうして、彼は潜水士の国家資格を取得した。3年近く行方不明である妻を海の中から見つけるために。 「冷たい海の底に沈んだままでいるのはとてもかわいそうだ。私にメールで『帰りたい』と言っていたので私の手で妻を探し必ず家に連れて帰りたい」と話した。
彼はどんな思いで、海の底を探しているだろう。冷たい海の中を。行けども、行けども、気が遠くなるほど広い海。必ず妻を連れて帰るという決心。被災地の海には、今もなお、津波がのみこんだ遺留品が多く沈んでいる。彼は、それらを、一つ一つ丁寧に拾っている。
イエス様は、どんな思いで、罪の海に飛び込まれただろう。冷たく汚れた海。失われた魂を探すために。命をかけて。私を、あなたを探すために。
「人の子(イエスキリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10