心のオアシス
心のオアシス 2015年6月14日
アメリカに住んでいた友人の話です。夜中にテレビをつけると、フットボールの試合がテレビで生中継されていました。彼は夜中に一人でそれを観ていたのですが、応援しているチームは前半、大差で負けていました。もう勝ち目がない試合でしたが、なんと後半ギリギリで、歴史的な逆転勝利をおさめたのです。彼は興奮しながら、明け方、床に就きました。朝に目覚めてリビングへ降りて行くと、自分の両親、兄弟たちが、自分が夜中に生中継で観ていたフットボールの試合の再放送を観ていました。試合は、丁度、前半の大差で例のチームが負けている時でした。そこで彼は家族にこういいました。「10ドル賭けようか? 僕は今負けているチームが勝つと思うよ」すると家族は「こりゃ~もう無理でしょう・・・でも、そこまで言うなら賭けよう」と言って、彼以外の家族は全員、今リードしているチームに賭けました。しかし、友人は、自分のチームがどれだけ点を取られても、全く焦らないし、心配もしませんでした。どうしてでしょうか? それは、応援しているチームがすでに勝利することを知っていたからです。
クリスチャンライフとは、まさにこのようなものです。「わたしは、たぶん勝利できるでしょう・・・」と未来形で言われたのではなく、「わたしは既に世に勝っている!」と、完了形で言われたお方に信仰の賭けをしているようなものなのです。目に見えるところに生きるならば、不足が出ると不安になります。問題が発生すると、焦ります。あるべきものがなくなると落ち込みます。しかし、既に世に勝っていると言われたお方がご一緒ならば、現実がどうであろうと、世に負けることはないのです。ですから信仰に生きる人の心の起伏は穏やかな傾向にあります。
私たちはキリスト教会の右から左まで理解しつつバランスを大切にする福音派に属する教会です。極端と思える中にも神の働きはあることをわきまえながらも、常識を外れたり狂信的になり人々をつまずかせるほど偏ることはしません。しかし、既に勝者である神さまに賭ける生き方だけは貫いていきたいと願っています。
心のオアシス 2015年6月7日
聖書には、主人がしもべに、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けて旅に出るという話が出てきます。5タラントと2タラント預かった者は、それで商売をして倍儲けたが、1タラント預かった者は、地の中に隠して主人のものを用いようとしませんでした。結局、主人が帰ってきたときに、前者は褒められ後者はおしかりを受けることになるのですが、神さまは私たちにノルマを課せられることはありません。ただ、神さまが与えてくださった人生を、主のために管理しているかということが問われるのだと思います。「自分の人生だから自分が好きに生きて何が悪い。自分の努力で得た地位、自分の力で得た財産は、自分の血と汗と涙の結晶だ」と考えている人は、その頑張りは素晴らしいものであると認めます。でもそれは1タラントの人生なのです。このような生き方をする人は、必ず失うことを恐れるようになります。しかし、自分の家も車も仕事も友人、家族、自分自身も、神さまからの預かり物と考える人は、不安や心配がかなり激減します。
以下は、「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著からの抜粋です。
人生は神さまからの預かりもの・・・この地上における私たちの時間、エネルギー、知性、機会、人間関係、そして財産などはすべて、神から大切に管理するように任されている賜物です。私たちは、これらを管理する立場にあるわけです。この管理という概念は、神がいっさいのものの所有者であられるという認識に基づいています。聖書によれば、「世界とその中にあるすべてのものは主のものである。地球とその中に住むものはすべて主のものである」のです。
この地上にいるわずかの間、私たちが本当の意味で所有しているものなど何一つありません。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生まれる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。
心のオアシス 2015年5月31日
私たちは、自分たちが欲しいと願っているものを手に入れたら幸せになれるし満足することができると考えています。確かに一時的には嬉しいでしょうし、心は満たされるかもしれません。しかし人間の欲求は次なる刺激を求め始めます。向上するためにはハングリー精神が必要です。「今のままで満足していたら成長はない」と社会では教えられますが、「何のための成長なのか?」を問い直す必要はあると思います。戦後、日本は経済発展してきましたが、どこまでいけば満足できるのでしょうか? 「今」を幸せに生きることが大切なことだと思います。
アメリカのカントリーミュージックで有名なリック・バンシェルトンは、TV番組でこのような話をしていました。
「1990年前後から、大きな賞を4度も受賞してから、毎回出すアルバムは必ずベスト10入り、収入もうなぎ上りになりました。私は次々に入ってくるお金で、どこへでも行けるし、どんな物でも手に入るし、したいことは何でもできました。しかし、アルコール依存症になりました。次第に私生活は荒れていきました。家にも帰らなくなりました。そして家族も離れていきました。あの当時の私はそれだけの収入を得ていながら、いつも死にたいと思っていたのです。お金は悪いものではありません。しかしその使い方を間違うと人生を破滅へと導いていきます。物があふれていても幸せは心にはなかったのです。ある日、家族のいない家に久しぶりに帰りました。ソファーに座って、何気なくテレビのスイッチを入れると、キリスト教番組が放映されていました。ある牧師が礼拝で賛美を導いていて、それを聴いているうちに涙が溢れてきました。そしてこう祈ったのです。『主よ、私を助けてください。あなたに人生を委ねます・・・』その瞬間に、自分が変わるのがわかりました。救われたのです。クリスチャンであった妻も私が救われたなんて初めは信じませんでした。しかし、確かに私は変わったのです。そして私が確かに変化した様子を見て、家に戻ってきました。今までは自分の願いの実現のために生きていましたが、今は、神が願っておられることが私の願いとなりました。」
心のオアシス 2015年5月24日
主の御名を賛美します!! 主をお父様と呼べる喜びがどれ程大きな幸せなのか、日々感謝の連続です。良いお知らせがありますので、ご報告させていただきます。今日、糖尿病の検査の結果、数値が平常戻り糖尿病の薬が減りました! タバコの件で経験したお祈りの力を信じて教会の皆様にお願いした事は、やはり大当たりでした! ハレルヤ!アーメン! こんなに幸せで良いのでしょうか~?? 誠に感謝、感謝します! (N.F.)
これは先週届いたメールです。人の人生が変えられていく姿を見ると牧師を辞められなくなります。この方は、中学3年生の時から、なんと35年近くもタバコを吸い続けていました。3年前に洗礼を受けてからも、なかなか止めることができずにいましたが、今年になって自分の力で止めることを諦め、祈り委ね始めてから、不思議と匂いが嫌になり、そのままタバコから完全に解放されました。そして1年前から糖尿病で苦しんでいましたが、3月から始まった24時間連鎖祈祷の輪に加わってから、祈り祈られてこの癒しが起こりました。この方は、他にも沢山の肉体的な弱さを抱えておられるのですが、そのことに焦点を当てるのではなく、神さまがしてくださっていることに感謝しておられる姿に私は感動しています。
アメリカのある新聞に15歳の少女がこのような投稿をしました。「私は不幸です。自分の部屋も持ってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服も持っていません。私の将来は真っ暗です」この投稿を読んだ13歳の女の子が、新聞社にこのような文を送りました。「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことはできませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています」
辛い時に「辛い」と言うのは当たり前のことですが、辛い時に「感謝!」と言うと辛さが薄れていくことをご存知でしたか?!
心のオアシス 2015年5月17日
先週のメッセージを聴いた方からのメールの一部をご紹介します。
5時から男の朝6時から夕方5時までの心境に着目した説明に新しい発見をしました。ありがとうございました。私は、クリスチャンであることに少々重荷を感じていました。死ぬ間際に神さまを信じていたら、楽だったのになぁ・・・と、ず~と思っていました。その考えがやや方向転換しました。午後5時から雇われた男は、始業時間の朝6時から夕方5時は収入不安の時間でした。つまり、その間は、神さまを知らない時間で、早朝から職にありつけた男は、朝6時から収入の不安がない。つまり、神さまを信じていた時間だったのですね。
私も神さまに何だかんだと文句をたれていますが、神さまのおかげで、精神的に相当助けてもらっています。15年前に、教会に行ってなかったら、頭がおかしくなっていたかも?(今でも、充分おかしいかも?)
まあ色々不自由はありますが、神さまを信じている方がまだ楽だと思います。
私は今までに、苦難に直面され乗り越えられた方々から「神さまを信じていて本当に良かったと思います!」という声を何度も聞いてきました。それは心からの真実な声だと思います。私自身も振り返ってみて、「あの時に神さまを知らなかったら、今ごろ自分はどうなっていたのだろう?」と、恐ろしくなることさえあります。私は朝の9時ごろ雇い主に出会ったような者ですが、早目にお会いできて良かったなと本気で思っています。恐らく、午後6時少し前に雇われたかったと考えている人は、自分の思い通りに生きることが自由で楽だと考えておられるのでしょうね。確かに、聖書に出てくる放蕩息子も羽を伸ばせて、さぞ楽しかったと思います。でも、この地上での楽しみや満足感は、ほんの一時的です。自分を満たしてくれる真実を求めて、ずっとさまよいながら歩くことになるでしょう。しかし、私には、弱めるときのいと近き助けがおられます。このお方なしの人生なんてありえません!
心のオアシス 2015年5月10日
「世界で一番大変な仕事」という人材募集の広告を見た人が興味を持ち、ビデオチャットで面接を受けに来ました。しかしその条件を聞いてびっくり。その驚きの仕事内容とは・・・
「まずは仕事の内容からお伝えします。役職は現場総監督です。でも実際はこの役にとどまりません。仕事上の責任はとっても広範囲です。さらにほぼ全ての時間、立って作業をします。立ち作業とかがんだ姿勢で作業し、とても体力を必要とします。労働時間は週に135時間かそれ以上で、基本的に週7日、毎日24時間で、決まった休憩時間はありません。しかしこの仕事は合法です。ランチは食べることはできますが、全ての同僚が食べ終わった後にとります。この職位は交渉力と交際力が求められます。そして私たちが求めているのは、医学と金融学と栄養学に通じている人です。しかも複数の役職を兼任することが求められます。常に周りに注意を払い、時には同僚と徹夜ということもあります。ひと時も寝ることなく、大変な仕事ですから、あなたの私的な時間は諦めてもらいます。事実上、休みなしです。特に感謝祭、クリスマス、正月などの休日は、仕事量がもっと増えます。やりがいのある仕事でしょう? 寝ている時間もありません。1年365日なんでもやらされるということです。あなたが作る人間関係や同僚を助けるといったことは、お金に換算されません。ところで、あなたがこの役職で得られる給料は、完全にゼロです。完全無給です。現実に今もまさに、この職についている人が何十億といます。」そこで、面接を受けている人が聞きました「それは誰なのですか?」すると面接官は答えました「お母さんですよ」
お母さんのしていることは、あまり感謝されないハードな仕事で、しかも当たり前のように思われています。それ以上に神さまは365日、ひと時も休むことなく私たちを導いてくださっています。神さまのされていることがあまりにも大きすぎて、私たちは見過ごしていることがいかに多いことでしょう。母の日に、静まりて神の恵みを数えましょう。
心のオアシス 2015年5月3日
メトロ・ミニストリーズというニューヨークの貧民街で伝道をしている団体のリーダーのビル・ウィルソン牧師は、毎週2万人以上の子供たちが集まる日曜学校を行なっています。先生は、子どもの頃、母親に置き去りにされました。シングルマザーであった母親が、「もうダメだわ、やっていくことはできない・・・」そういって、通りの消火栓の前で「ここで待っていなさい」と言い残したまま姿を消しました。彼は、その消火栓に座ったまま3日間待ち続けました。しかし、母親は帰ってきませんでした。3日目に、クリスチャンの男性が、消火栓にずっと座っている少年を見つけて家に連れ帰り、食べ物を与え、クリスチャンの子どもキャンプへ参加させました。そこには各地からたくさんの子どもたちが集まっていました。慣れない場所に来たビル少年は、隅の方に座っていました。その夜の集会で牧師が話し終わり、最後に招きがありました。「もしイエス・キリストを信じたいなら前に出てきてください」 ビル少年は、聖書の話は初めてだったのですが、何か引き付けるものがあって前に進み出ました。決心した子どもたちが集まると、カウンセラーが出てきて、一人一人の子どもたちの所へ行き、一緒に話したりお祈りをしたりし始めました。しかしビル少年のところには、誰も来てくれなかったのです。恐らく、母親に置き去りにされた時の汚い服、やぶれたズボンを履いた子どもの所には行きたくなかったのでしょう。ビル少年は、一人でこう祈りました。「神さま。僕を導いてください。」カウンセラーは来てくれませんでしたが、イエス様が来てくださいました。彼はその時、大きな恵みの衝撃を受けました。神さまの愛で包まれました。そして、今、誰もできないような大きな働きをしておられます。彼は大きなミニストリーの長になっても、未だに町の子どもたちを乗せるためのスクールバスを運転しています。彼はこう言います。「捨てられた自分を拾ってくれた人がいます。そして今日があるのです。自分が子どもたちを拾うときに、あの捨てられた自分を思い出し拾い上げています。」
境遇は違いますが、私も同じ気持ちで福音を宣べ伝えています。
心のオアシス 2015年4月26日
1989年12月上旬のある朝、私はサラリーマンとして東京の新宿で働いていました。当時、神奈川県の海老名というところに住んでいて、小田急線の海老名駅から新宿行きの急行に、その日の朝も乗っていました。その電車は、毎朝のことですが、新宿に着くまでの1時間、全く体制を変えることができないような超満員でした。そんな満員電車の中での、私の唯一の楽しみは、ウォークマンで牧師のメッセージを聴くということでした。その日、テープはルカによる福音書8章から「向こう岸へ渡ろう」という内容のメッセージが流れていました。私は、いつか牧師になりたいと願っていましたが、結婚もしていましたし、今、会社を辞めるわけにもいかない状況がありました。来年には子供も与えられるし、経済的にも、今は無理だと思っていたのです。しかし、流れてくるメッセージの内容に心揺すぶられました。「どんなに嵐がきて、水が舟の中に入ってきても、弟子たちの乗った舟は絶対に沈没しない理由があります。それは、イエス様が『向こう岸へ渡ろう』と言われたから、この舟は、途中でどんなことが起こっても、向こう岸へ行くことができるのです。そしてもう一つの沈没しない理由・・・それは、同じ舟にイエス様が乗っておられるからです。」このメッセージを聞いたときに、「自分は、経済の荒波や、生活に暴風雨が吹いて、沈没してしまうと思っているけれど、主が促されておられるのならば、また主が同じ舟に乗っておられるのならば、絶対に沈むことはない」という確信が与えられ献身を決意したのです。
私は自分自身の内側にある思いも含めて、常識とか、環境とか、状況という現実の声に耳を傾けて、岸を離れることができませんでした。しかし、主からの「向こう岸へ渡ろう」という声に、従った時に与えられた恵みは、数えることができないほどです。私の舟は沈むことはありませんでした。そして、今もその時と同じ信仰によって関西で開拓伝道しています。毎日が奇跡の連続です。確かに主が同じ舟に乗っておられることを実感しながら毎日を過ごしています。ハレルヤ主よ感謝します!
心のオアシス 2015年4月19日
私は留学時代に、キャンパス内で芝刈りなどをする部署でアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を、その部署のボスが大学に提出することになっていました。ある日、私のボスが私を呼んで、その評価表を大学へ持っていって欲しいと言いました。私が事務所へ行くと、まだ採点をしているところだったので、その場から離れようとすると、机の前にあるイスに座れというので、そのイスに座って採点する様子を見ていました。一人の生徒につき、仕事ぶりの項目が10ぐらいあったのですが、ボスは、ほとんどに平均的、もしくは努力が必要というところにチェックを入れていました。私は「評価が厳しいな・・・」と内心思っていましたが、そうこうしている内に、私の名前の書いてある評価シートが机の上に置かれました。私は、リースがどんな評価をしてくれるのか、興味津々でした。みんなと同じ「平均的」がほとんどだろうと予想していましが、採点している様子を見て、私は目を疑いました。誰に対しても「平均的」が最高評価だったのに、なんと私の評価には、最高のエクセレント(大変良い)の所にチェックを付け始めたではないですか。ほぼオール5状態でした。そしてコメントの欄には「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています」と書いてくれたのです。たとえ、私が見ているからといっても、過剰な評価でした。
今から考えると、小さな島国の日本からアメリカに渡って、苦労している私を、えこひいきするかのようにして、様々な心遣いをしていただいたのですが、あれは愛情評価だったのだと気付きました。私は、そのような身に余る光栄な評価をしていただいて、言うまでもなく、他の学生たち以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。
どのような人でも、もし本当の愛に触れたら、強いられてではなく、本心からその愛に応えるような生き方がしたいと願い始めるものです。
世の中には条件付きで気まぐれな愛が満ちています。どこに行けば裏切らない愛があるのでしょうか? それはイエスさまから溢れています。
心のオアシス 2015年4月12日
渡辺和子さんの著書の一部を紹介します。
毎日生活していく上で「どうして私だけが、こんな損をしていないといけないのか?」と思うことがある。私は若い時から不公平ということに人一倍敏感であった。他人に不公平にならないよう気をつける反面、他人なり自分が不公平に扱われることに激しい憤りを覚えるところがあった。修道院に入ってからも「自分」は、そんなに変わるものではない。たまっている生ゴミ、焼却炉に持っていくべきクズの山を見ると心の中に戦いが起きる。「何もいつも私が捨てに行くことはない。他のシスターがしたらいい」結局はまた自分が捨てに行くことになって、心の中には「不公平、ずるい」という、はしたない思いが生まれてくることがある。こんな小さなことと人は言うかもしれない。でも人の一生は、こんな小さなこと一つ一つでしか成り立ってゆかないのだ。
物事は反対から考えてみると納得できることがあるものだ。何か「損した」と思うようなことを、それではもし自分がしなかったとしたら何を「得したのか」と考えてみることである。ゴミを捨てに行く時、確かに損しているように思うことがある。では、自分が見て見ぬふりをして捨てに行かなかった時、一体何の得をしたのだろうかと考えると、やはり、して良かったと思うものである。それは、自分が自分に向かって「良かったね」という密やかな、したがってささやかな満足感、幸せ感である。他人のレベルまで下がってはいけないとしみじみ思う。それでは、あまりに自分がみじめではないか。他人は他人、自分は自分、自分が心に定めた生き方を貫いて生きたい。損だ、得だというけれど、ジェラール・シャンドリーが言うように「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」
人は絶えず損か得かを考えながら生きています。自分にとって面倒なことを他人がしてくれるを得だと思い、自分がそれをするのは損だと考えます。しかし、損する生き方の方が、神さまに近い気がします。