礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2015年5月3日

 メトロ・ミニストリーズというニューヨークの貧民街で伝道をしている団体のリーダーのビル・ウィルソン牧師は、毎週2万人以上の子供たちが集まる日曜学校を行なっています。先生は、子どもの頃、母親に置き去りにされました。シングルマザーであった母親が、「もうダメだわ、やっていくことはできない・・・」そういって、通りの消火栓の前で「ここで待っていなさい」と言い残したまま姿を消しました。彼は、その消火栓に座ったまま3日間待ち続けました。しかし、母親は帰ってきませんでした。3日目に、クリスチャンの男性が、消火栓にずっと座っている少年を見つけて家に連れ帰り、食べ物を与え、クリスチャンの子どもキャンプへ参加させました。そこには各地からたくさんの子どもたちが集まっていました。慣れない場所に来たビル少年は、隅の方に座っていました。その夜の集会で牧師が話し終わり、最後に招きがありました。「もしイエス・キリストを信じたいなら前に出てきてください」 ビル少年は、聖書の話は初めてだったのですが、何か引き付けるものがあって前に進み出ました。決心した子どもたちが集まると、カウンセラーが出てきて、一人一人の子どもたちの所へ行き、一緒に話したりお祈りをしたりし始めました。しかしビル少年のところには、誰も来てくれなかったのです。恐らく、母親に置き去りにされた時の汚い服、やぶれたズボンを履いた子どもの所には行きたくなかったのでしょう。ビル少年は、一人でこう祈りました。「神さま。僕を導いてください。」カウンセラーは来てくれませんでしたが、イエス様が来てくださいました。彼はその時、大きな恵みの衝撃を受けました。神さまの愛で包まれました。そして、今、誰もできないような大きな働きをしておられます。彼は大きなミニストリーの長になっても、未だに町の子どもたちを乗せるためのスクールバスを運転しています。彼はこう言います。「捨てられた自分を拾ってくれた人がいます。そして今日があるのです。自分が子どもたちを拾うときに、あの捨てられた自分を思い出し拾い上げています。」

 境遇は違いますが、私も同じ気持ちで福音を宣べ伝えています。

心のオアシス 2015年4月26日

 1989年12月上旬のある朝、私はサラリーマンとして東京の新宿で働いていました。当時、神奈川県の海老名というところに住んでいて、小田急線の海老名駅から新宿行きの急行に、その日の朝も乗っていました。その電車は、毎朝のことですが、新宿に着くまでの1時間、全く体制を変えることができないような超満員でした。そんな満員電車の中での、私の唯一の楽しみは、ウォークマンで牧師のメッセージを聴くということでした。その日、テープはルカによる福音書8章から「向こう岸へ渡ろう」という内容のメッセージが流れていました。私は、いつか牧師になりたいと願っていましたが、結婚もしていましたし、今、会社を辞めるわけにもいかない状況がありました。来年には子供も与えられるし、経済的にも、今は無理だと思っていたのです。しかし、流れてくるメッセージの内容に心揺すぶられました。「どんなに嵐がきて、水が舟の中に入ってきても、弟子たちの乗った舟は絶対に沈没しない理由があります。それは、イエス様が『向こう岸へ渡ろう』と言われたから、この舟は、途中でどんなことが起こっても、向こう岸へ行くことができるのです。そしてもう一つの沈没しない理由・・・それは、同じ舟にイエス様が乗っておられるからです。」このメッセージを聞いたときに、「自分は、経済の荒波や、生活に暴風雨が吹いて、沈没してしまうと思っているけれど、主が促されておられるのならば、また主が同じ舟に乗っておられるのならば、絶対に沈むことはない」という確信が与えられ献身を決意したのです。
 私は自分自身の内側にある思いも含めて、常識とか、環境とか、状況という現実の声に耳を傾けて、岸を離れることができませんでした。しかし、主からの「向こう岸へ渡ろう」という声に、従った時に与えられた恵みは、数えることができないほどです。私の舟は沈むことはありませんでした。そして、今もその時と同じ信仰によって関西で開拓伝道しています。毎日が奇跡の連続です。確かに主が同じ舟に乗っておられることを実感しながら毎日を過ごしています。ハレルヤ主よ感謝します!

心のオアシス 2015年4月19日

 私は留学時代に、キャンパス内で芝刈りなどをする部署でアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を、その部署のボスが大学に提出することになっていました。ある日、私のボスが私を呼んで、その評価表を大学へ持っていって欲しいと言いました。私が事務所へ行くと、まだ採点をしているところだったので、その場から離れようとすると、机の前にあるイスに座れというので、そのイスに座って採点する様子を見ていました。一人の生徒につき、仕事ぶりの項目が10ぐらいあったのですが、ボスは、ほとんどに平均的、もしくは努力が必要というところにチェックを入れていました。私は「評価が厳しいな・・・」と内心思っていましたが、そうこうしている内に、私の名前の書いてある評価シートが机の上に置かれました。私は、リースがどんな評価をしてくれるのか、興味津々でした。みんなと同じ「平均的」がほとんどだろうと予想していましが、採点している様子を見て、私は目を疑いました。誰に対しても「平均的」が最高評価だったのに、なんと私の評価には、最高のエクセレント(大変良い)の所にチェックを付け始めたではないですか。ほぼオール5状態でした。そしてコメントの欄には「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています」と書いてくれたのです。たとえ、私が見ているからといっても、過剰な評価でした。
 今から考えると、小さな島国の日本からアメリカに渡って、苦労している私を、えこひいきするかのようにして、様々な心遣いをしていただいたのですが、あれは愛情評価だったのだと気付きました。私は、そのような身に余る光栄な評価をしていただいて、言うまでもなく、他の学生たち以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。
 
 どのような人でも、もし本当の愛に触れたら、強いられてではなく、本心からその愛に応えるような生き方がしたいと願い始めるものです。
世の中には条件付きで気まぐれな愛が満ちています。どこに行けば裏切らない愛があるのでしょうか? それはイエスさまから溢れています。

心のオアシス 2015年4月12日

 渡辺和子さんの著書の一部を紹介します。
 毎日生活していく上で「どうして私だけが、こんな損をしていないといけないのか?」と思うことがある。私は若い時から不公平ということに人一倍敏感であった。他人に不公平にならないよう気をつける反面、他人なり自分が不公平に扱われることに激しい憤りを覚えるところがあった。修道院に入ってからも「自分」は、そんなに変わるものではない。たまっている生ゴミ、焼却炉に持っていくべきクズの山を見ると心の中に戦いが起きる。「何もいつも私が捨てに行くことはない。他のシスターがしたらいい」結局はまた自分が捨てに行くことになって、心の中には「不公平、ずるい」という、はしたない思いが生まれてくることがある。こんな小さなことと人は言うかもしれない。でも人の一生は、こんな小さなこと一つ一つでしか成り立ってゆかないのだ。
 物事は反対から考えてみると納得できることがあるものだ。何か「損した」と思うようなことを、それではもし自分がしなかったとしたら何を「得したのか」と考えてみることである。ゴミを捨てに行く時、確かに損しているように思うことがある。では、自分が見て見ぬふりをして捨てに行かなかった時、一体何の得をしたのだろうかと考えると、やはり、して良かったと思うものである。それは、自分が自分に向かって「良かったね」という密やかな、したがってささやかな満足感、幸せ感である。他人のレベルまで下がってはいけないとしみじみ思う。それでは、あまりに自分がみじめではないか。他人は他人、自分は自分、自分が心に定めた生き方を貫いて生きたい。損だ、得だというけれど、ジェラール・シャンドリーが言うように「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」

 人は絶えず損か得かを考えながら生きています。自分にとって面倒なことを他人がしてくれるを得だと思い、自分がそれをするのは損だと考えます。しかし、損する生き方の方が、神さまに近い気がします。

心のオアシス 2015年4月5日

 「ビジネスを支える聖書のことば」より聖心セレモニー取締役社長・ 疋田さんのお証です。
私は現在、葬儀の仕事をしております。これは神の召しによるものです。どのような商売でも、あるいは事業でもそうでしょうが、召命感がなくてはならないと思います。すべてクリスチャンは、それぞれ神より召命感を持って事を行なっていると思います。私もそうです。15年前、神に示されてこの仕事をするようになりました。神に示されたからといって、順風満帆の日々であったかというと、とんでもない、何度も何度もピンチに陥りました。あるときは仕事が全く来なくて、蓄えもなくなり、借金をして、それもなくなり、明日はどうなるのだろうかと思ったりしたこともありました。またある時は人に裏切られて、この時もまた大ピンチでした。そのような苦しい時に神が与えてくださったのが「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12章32節)の御言葉でした。「恐れるな、小さい群れよ」ある時は真夜中、布団の上に起き上がって祈り、あるときは車で遠いところへ行き、誰もいない公園に行ってベンチに身をかがめて祈ったものでした。「この仕事は神が与えてくださった仕事なのだ。必ず全うさせてくださるに違いない」だから「恐れるな、小さい群れよ」と。あれから15年。今は従業員を使って仕事は順調にいっております。けれども、このまま順調な人生が続くとは思っておりません。人生には何が起こるか分かりません。人生は生涯、戦いであると私は覚悟しております。「恐れるな、小さい群れよ」この御言葉こそ、私の力です。今後とも、私はこの御言葉に支えられて生きていくでしょう。聖書は真実であり、御言葉は神の力であると私は確信しているのです。

 神さまは私たちの中に何も頼るものが失くなった時に、最終手段を人間に与えてくださいました。それが「祈り」です。しかしそれはこの世のどんな力よりも強力なツールです。主は死から甦られました!

心のオアシス 2015年3月29日

 かつてインドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生のお話です。
ある経営者がいて、その奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても全く聞く耳を持ちませんでした。とても頑固な人で、自分は何でも知っていると思っていました。経営する会社は、海外にも支店がいくつかあって、インドネシアにある支店に訪れたときに、ボルネオのジャングルに行きたいとのことで、そこに当時住んでいた安海宣教師が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていきました。
 しばらくしてから、安海先生は手紙を受け取りました。それはあの頑固な社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたというのであります。その経緯はこのようなことでした。この社長さんの会社は海外にもあって、駐在員を派遣しているけれども、その家族と会って話しをすると、大きな家が与えられていても治安が悪いと不満を言い、お手伝いさんがついていても盗みがあるなどと不平しか聞いたことがありませんでした。しかし、3日間、安海先生と過ごして、何もない所で、先生は朝から歌を歌い、喜んでいる姿を見ました。日本に帰って考え込んだというのです。自分はすでに50歳代で、一応すべてのことを知っていたつもりでしたが、まだ知らない世界があるのだと思いました。そして奥さんから聖書をもらって読み始めて、神の国の世界を知ったというものでした。

 神さまが、日々私たちを最善に導いておられることを信じることができれば、環境とか状況に左右されずに感謝することができるようになります。愚痴や不満が出るのは、私たちの人格が整えられていないか、神さまに委ね切ることができない人間の姿なのです。ある牧師先生は、「恐れの反対語は信仰です。」と言われました。丸木橋を渡るときに崩れるのでは?と思うと、恐れが起こりますが、木の中に鉄筋がくい込まれているのを見たら、何の恐れもなく渡れるでしょう。私たちの人生を喜び溢れたものにしてくれるのは、神さまに対する全き信仰です。

心のオアシス 2015年3月22日

私が大和カルバリーチャペルでご奉仕していた時期にお祈りしていた一青年のプログからです。
タイトルは、「愛する人を探す人」  

「地震が起こって、私が死んでも心配しないでね。天国にいるから。」
親しい友にこう言ってきた。すると、友が、「探しに行く。」と言った。
私は、瓦礫の中で、わたしを必死に探す友の姿を思い浮かべたら、心が締め付けられるようにくるしくなった。

先日見たテレビが忘れられない。妻を探すために潜水士になった人のことを。その方は、3.11の地震の時に、愛する妻を津波で失った。数日後に、瓦礫の山から見つかった妻の携帯に、届かなかった最後のメッセージが残っていた。「帰りたい。」彼は胸が張り裂けるようだった。「自分の手で妻を家に連れて帰る」そうして、彼は潜水士の国家資格を取得した。3年近く行方不明である妻を海の中から見つけるために。 「冷たい海の底に沈んだままでいるのはとてもかわいそうだ。私にメールで『帰りたい』と言っていたので私の手で妻を探し必ず家に連れて帰りたい」と話した。

彼はどんな思いで、海の底を探しているだろう。冷たい海の中を。行けども、行けども、気が遠くなるほど広い海。必ず妻を連れて帰るという決心。被災地の海には、今もなお、津波がのみこんだ遺留品が多く沈んでいる。彼は、それらを、一つ一つ丁寧に拾っている。

イエス様は、どんな思いで、罪の海に飛び込まれただろう。冷たく汚れた海。失われた魂を探すために。命をかけて。私を、あなたを探すために。
「人の子(イエスキリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

心のオアシス 2015年3月15日

 先日、複数の体験談メールをいただきましたのでご紹介します。
① (3年前に)洗礼を受けているにもかかわらず未だタバコをふかして
いる(中学3年生の時から30数年間)自分が偽善者に思えて本当に心苦しかったです。うつ病を患い精神科の多量の薬を飲み、時にはアルコールにも手を出しニコチン中毒の生活でした。去年の秋頃から不思議な力が働き気持ちの変化が現れました。真心で礼拝を捧げる者になりたいと思い始めたのです。それからあらゆる方法でチャレンジしましたが失敗を重ね、気が付くとタバコをくわえていました。そこで気が付きました。何一つ出来ないクセに自分の意志でやろうとしている高慢な私がそこに居ることを・・・「天のお父様の娘として恥じないように主よ、助けてください!」と必死に祈りました。そして今は精神科の薬から、ニコチン中毒から完全に解放されました! お祈りの力に驚きを感じます! ハレルヤ!!感謝しますo(^▽^)o

② 高校生の弟が煙草を吸っているのを見て、真似して吸っているうちに
止められなくなりました。36歳で洗礼を受けてからも止められず、しかし洗礼を受けたばかりで、恥ずかしくて教会でも祈ってもらう事ができず、一人で止められるように祈っていました。しかし、なかなか祈りはかなわず、ある時に「イエスさま。煙草を止める決心をしました。あとは助けてください。」このように祈ったところ、翌日よりひどい喉の風邪をひき、はじめは風邪のせいで煙草を吸わなくなったのかと思ったのですが、それからずっと吸っていません。なんで吸わないのかわからず、はじめは戸惑ったものです。
 
③ ある男性からは、「この教会に来るようになって、酒の飲めない身体になりました。小崎牧師さま、信徒の皆様、ありがとうございました。くそ=!」とメールをくださいました。神さまの手にかかってしまえば、自分の思い通りにはならない自覚と悔しさの表現なのでしょうね(笑)。

心のオアシス 2015年3月8日

 故ハ・ヨンジョ先生の言葉は、今でも心に響くものがあります。マタイ福音書10章30節からのメッセージの一部分をお分ちします。
 「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」とあります。神は、毎日抜け落ちる髪の毛まで、どのように数えておられるのでしょうか。神が天地を創造される前に私たちを選ばれたというみことばも、どうにも理解できません。人間の常識ではとうてい理解できません。そのように細やかに徹底して私たちのことを知っておられ、髪の毛の数まで数えておられる方が神なのです。「ですから、心配したり、恐れたりしてはなりません。髪の毛さえもみな数えられる神が、ましてあなたの一挙手一投足をご存知でないでしょうか。あなたの悔しさをご存知ないでしょうか。今、あなたが悔しい目にあっていることを、神はすべてご存知なのです」と言っておられるのです。それにもかかわらず神が沈黙しておられるなら、その沈黙に私たちは同意しなければなりません。神を信じる者であれば、必ず覚えておくべきことが一つあります。世には偶然はないということです。偶然に起こる出来事は一つもないのです。ですから、クリスチャンは、「ついてない」という言葉を口にしてはなりません。すべてのことは必然です。クリスチャンに起こるすべてのことは、神の摂理であり、ご計画なのです。世で悔しい目や苦しみにあう時、神を恨んではなりません。そのようなときは、さらに神に拠り頼まなければなりません。必ず神が私たちを良い道へと導いてくださると信じなければなりません。特に、私たちの人間的な考えでは到底理解できないようなことが、この世にはたくさんあります。そして、自分や自分の環境が困難に陥るとき、私たちはたましいを見る目を持たなければなりません。良い御心が必ずそこにあります。

 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6章26節)

心のオアシス 2015年3月1日

 これは実話です。アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、ベリーさんは失望せず、祈った後、そのコインで種を一袋買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で建物を建てたという言葉が信じられず、農場に建った学校を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
 ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができたのです。どうしてでしょうか? それは現実ではなく、信仰を働かせたからです。小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出すということです。そしてそれは死に対する解決さえ与えるものなのです。

 私たちにも何の足しにもならないコイン一枚のような現実があるかもしれません。それは、経済であるかもしれないし、能力や学力かもしれません。また健康や精神的にも十分でない弱さを覚えることもあるでしょう。でも、それらの現実に対して、私たちは肩を落とすのではなく、主に祈るのです。それは神さまにお委ねするという一粒の種のような信仰の表れです。神さまは不思議な知恵を与え、道を備え、助け手を送ってくださるでしょう。旧約聖書に、カラスがエリヤという人物に肉を運んだという記事がありますが、そんなことが本当にあるのでしょうか? 私は現代でもあると信じています。実際に体験済みです。