心のオアシス
心のオアシス 2016年5月29日
あの日学校からの帰り道、マークの前を歩いていた少年がつまずいた。抱えていた本、セーター、野球バットとグローブ、小型テープレコーダーが、あたりに飛び散った。マークは駆け寄って、落ちたものを拾うのを手伝った。同じ方向に家があるというので、荷物を少し持ってあげ、おしゃべりしながら一緒に帰った。少年の名前はビル。TVゲームと野球が大好きで、歴史以外の科目は苦手だという。ビルの家に着くと、マークはコーラを飲んでいないかと誘われた。二人は、午後の時間をテレビを見たり、笑ったり、おしゃべりして楽しく過ごした。学校でもしばしば顔を合わせるようになり、昼食を共にすることもあった。結局、同じ高校に進学し、そんなつかず離れずのつきあいはずっと続いた。
学校の卒業式を3週間後に控えたある日、ビルがマークの家にやって来て、彼らの最初の出会いを懐かしそうに話しだした。「マーク。あの日、なぜ僕があんなにたくさんのものを持ち歩いていたかわかるかい? 学校のロッカーから中身を全部持って帰ろうとしていたんだよ。僕のものを残したままにしたら、次に使う子が嫌な思いをするだろうと思ってさ・・・。実はあの頃、母さんは睡眠薬を飲んでいてね、僕は少しずつこっそりためていたんだよ。君に初めて会ったあの日、家に着いたらそれを飲んで自殺するつもりだった。でも君に出会って、そのまま一緒におしゃべりしたり、笑ったりしたよね。君が帰った後に、もしあのまま自殺していたら君との楽しい時間も持てなかったし、これから起きるたくさんの素晴らしいことを経験することなく死んでしまうことになると思ったんだ。これでわかっただろう? マーク、君は僕の荷物を拾ったとしか思ってなかっただろうけど、あの日、僕の命も拾ってくれていたんだよ」 (ジョン・W・シュラター)
人のために何かをすることで、誰もが素晴らしい人になれます。大学を出ていなくても、正しい文法で話せなくても、人のために何かをすることができます。ただ、やさしい気持ちがあればいいのです。愛の心があればいいのです。 (マーチン・ルーサー・キング・ジュニア)
心のオアシス 2016年5月22日
戦場でのクリスマスの出来事です。まだ第一次世界大戦が始まったばかりでした。イギリス軍とドイツ軍は、両者共にフランスの平野に何キロも続く溝を掘ってにらみ合っていました。兵士はこの溝から機関銃や迫撃砲を相手に打ち込んでいました。機関銃の発射音が途絶えたときには、敵軍の塹壕から、弾丸を詰める音が聞こえるほどの距離でした。クリスマス・イブの夜もふけ、降り続いたみぞれもこやみになり、気温はぐんぐん下がっていきました。見張りのイギリス兵は、中間危険地帯の向こうから、いつもとは違う音が聞こえるのに気付きました。ドイツ軍の塹壕で、誰かが歌っているのです。それは「きよしこの夜」のメロディーです。彼はそっとメロディを口ずさみ始めます。そして気がつくと、英語で、しかも大声でそれを歌っていました。有刺鉄線の向こう側にいる敵兵とのドイツ語と英語の何とも奇妙な二重唱でした。やがて、ドイツ側でもイギリス側でも、次々と歌声に加わる兵士が増えていきました。砲撃戦の傷跡のすさまじいフランスの平原に、さまざまな声が入り混じって流れました。クリスマスの朝が明けると、それぞれのことばで書かれた「メリー・クリスマス」のサインが、高々と掲げられていました。恐怖にも勝る、ある強い力に引かれて、兵士は一人、また一人と武器を置いて、有刺鉄線の下をくぐり、塹壕の間の危険地域に出て行きました。見る見るうちに数が増え、大勢のイギリス兵とドイツ兵がクリスマスの朝の光の中で顔を合わせたのです。しかし、クリスマスの休戦もここまで、事態を憂慮した高官たちが、兵士達を塹壕に呼び戻したのです。そして発砲が再開されました。両国共に当時の若者の世代の多くが失われました。しかし、生き延びた者の心には、前線で迎えた大戦初めの、あのクリスマスの記憶が残りました。すなわち、クリスマスの日の数時間、彼らにはイギリス国王でも、ドイツ皇帝でもない、仕えるべき別の君主がいたということです。
平和の君と呼ばれる方に堅く立つなら、あらゆる危機の中でも平和を創り出すことができるのです。そのお方の名前は、イエス・キリストです。あなたの人生に豊かな平安がありますように。
心のオアシス 2016年5月15日
仲むつまじく暮らしている家族がいた。この家族は、3坪ほどの狭い部屋に住んでいた。ある晩、家具があちこちに置かれている狭い部屋に、家族4人がやっとからだを重ねながら横になっていた。ところが、縦に並んで寝ると、背の高い父親はまっすぐにからだを伸ばして寝ることができるがひどく狭い。横に寝ると3人はゆったりと眠れるが、父親はえびのように背中を丸めて寝なければならない状態であった。家族は丸くなって座り、皆が楽に寝られる方法を模索した。しばらく悩んだ末、流し台とオーディオの間にある、33センチの空間を発見した。父親がそこに足を伸ばして寝れば、えびのように寝なくても大丈夫であった。父親は足を伸ばして寝ることができる空間があることに感謝した。
今は広い家に引越し、そのようなことで悩む必要はなくなったが、その父親は、小さなことでも簡単に不平を言う自分の姿を省みて、小さなことに感謝しながら幸せに暮らしていたそのころが懐かしいと言う。本当の感謝とは、環境によるのではなく、心がへりくだっている時にささげることができるものなのである。(ジョン・クゥアン著より引用)
私たちはある意味、苦労している時の方が、幸せなのかもしれない。たったの33センチの空間ができただけで、感謝して喜んでいることができるのですから・・・同じように私たちがどん底にいる時には、這い上がるのみなので実は希望があります。小さな光に喜ぶことができます。でも、光が大きくなってくると、それが当たり前になってしまい、光があること自体に感謝をする機会が少なくなってしまいます。そうなると、自分が持っていないことに対する不満ばかりが出てくるようになります。
以前、年配の女性の集まりに参加させていただいた時に、口々に自分の旦那さんと喧嘩した話しをして盛り上がっている最中に、一人の未亡人の方が、心に残りました。「あなたたちには、喧嘩する相手がいていいね~」失ってみて、そのありがたさがわかることが多いでしょう。毎日当たり前だと思っていることに、感謝する心が与えられたらと願います。
心のオアシス 2016年5月8日
以前、B&Bという漫才コンビがいましたが、その一人は島田洋七といいます。島田さんのお父さんは、彼が2歳のとき、広島の原爆のため死去。そのためお母さんは、夜、お店で働き、二人の子どもを育てました。しかし、訳あって、島田さんは小学2年生のときから、佐賀のおばあちゃんに預けられます。このおばあちゃんは、「がばい(すごい)ばあちゃん」でした。彼女は夫に先立たれ、貧乏のどん底暮らしの中、学校の便所掃除の仕事をしながら、7人の子どもを立派に育てたおばあちゃんです。このおばあちゃんは、貧乏ですが、底抜けに明るく、前向きでした。例えば、島田さんが見るも無残な通知表を、おばあちゃんに申し訳なさそうに渡した時の会話・・・「ばあちゃん、1と2ばっかりでごめんね・・・」「大丈夫、大丈夫。足したら5になる!」「えっ?! 通知表って足してもいいの?」「人生は総合力!」そうキッパリ言い切るおばあちゃんだったそうです。
物事を見る視点を変えたら、違う世界が見えてくるものです。私たちの人生にも同じことが言えるかもしれません。現実から、今ある問題を見ると、到底受け止めることができない大きなものに見えても、天地宇宙を創造された神さまの大きさと比べるならば、比べ物にならないほど、その問題が小さく見えてきます。
イエスさまの弟子たちが、5つのパンと2匹の魚を手にして5千人の人々を前にして言いました。「これだけで5千人を養うのは無理です。環境が悪すぎます! もう時間がありません。手遅れです! 私たちには問題が大きすぎます!」とイエスさま訴えました。それが現実における限界であります。しかしイエスさまは何とおっしゃったでしょうか?「5千人に対して、どうにもならないクズ同然のものを私の元に持ってきなさい」 そしてそれがイエスさまの手に入った瞬間から、不思議が起こり5千人全員が食べて余るほどの奇跡がなされました。私たちの弱さや欠点を、イエスさまの元に持って行くのです。山も下から見上げるのと、頂上に登って見下ろすのとでは、随分と景色が違うものです。
心のオアシス 2016年5月1日
巨大な宇宙船は、とても小さなネジ一つのために故障することもあります。小さな一つのネジが決定的な役割をするのです。神さまは、人生を造っていかれるときにも、とても小さなものを大切に用いられます。不必要に見えるものを組み合わせ、人生という作品を完成されます。小さなものを小さなものとみなさない目を持つなら、神さまのみわざを経験することができます。私たちは、小さくてつまらないものは無視して大きなものを狙いますが、神さまは小さくてつまらないものを奇跡の材料とされます。点と点をつなげて線とし、線と線をつなげて偉大な作品を作られます。ほとんどの人が小さなことをつまらないと考えて逃しますが、神さまを信じる人は、小さなことにも最善を尽くします。神さまはこの小さなことを材料とし、私たちの人生を奇跡の人生に変えられます。(イ・ギョヒョン著「人生の風が吹くとき」より)
少年ダビデは、巨人であり軍人であるゴリアテという敵を前にして、どうして後ずさりせず、勇敢であることができたのでしょうか? 彼は羊飼いという、平凡な、誰の目にも止まらない仕事をしていました。しかし、神さまから与えられた使命として、腐ることなく忠実に働いていました。実はその中で、神さまは将来に繋がる訓練を与え、人格を整え、信仰を育てておられたのです。ライオンやクマが羊を襲ってきたとき、彼は逃げることなく、倒すという経験を積むことによって、勇気が与えられました。それは自画自賛ではなく、神が自分を通して働いてくださったという謙遜からくる信仰でありました。故に、ゴリアテを前にして、「お前は剣と槍と投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、イスラエルの軍の神の名によって、お前に立ち向かう。主は、剣や槍を用いることしないで、我々を救ってくださるのを見るだろう。これは自分が戦うのではなく、主が戦ってくださるからだ!」と宣言することができました。
あなたの前に立ちはだかる大きな巨人は何でしょうか? 主が共におられるなら心配無用! 神さまから与えられた毎日を大切に。
心のオアシス 2016年4月24日
手足がない体で生きながらも、人々に感動を与えるニック・ブイチチが最近韓国を訪問しました。彼は小さいころ、自分は大学にも行けない、仕事もできない、結婚もできない、妻となる人に出会って一緒に踊ることもできない、子どもを授かることもできないと思っていたそうです。しかし、彼は大学に行き、美しい日系クリスチャン女性と結婚し、愛らしい息子も授かりました。彼はスケートボードに乗り、1分で43個もの単語をタイピングし、ドラムを演奏し、ヨットを操縦し、スカイダイビングにまでも挑戦しています。彼は、多くの国々を回りながら400万人の前で福音を伝え、毎年270回以上講演しています。
彼が最近出した著書『ニック・ブイチチのフライング(飛翔)』の一部です。「自分の願ったものを、いつでも手に入れることができるでしょうか。そんなことはありません。しかし、主が望まれるものは、いつも手に入れることができます。私にも楽しい日もあれば、悲しい日もあります。しかし、限りなく弱くなる時こそ、神さまの力を体験する時であることを私は知っています。この地の重力に勝てないとき、私は焦点を神さまに合わせます。そうすれば奇蹟が起こります。信仰の翼が生えるのです。信仰を行動に移すとき、神さまの力を経験します。」
「もう一度聞くべき最初の福音」イ・ドンウォン著より
どんなに強い人も、うまくやっている人でも、必ず、落ち込み、不安になり、スランプになる時があります。聖書に登場する勇者たちも同じでした。私も長い間、信仰的に砂漠状態になっていた時期があります。教会には行くし信仰がなくなったわけではないのですが、それが形式的、自己満足的に思えてしまい、心の戦いが起こりました。しかし、失わなかった希望がありました。それは「神さまは、この砂漠時代を通して私に何かを教えようとしておられるのだ・・・」という神さまに対する期待でした。そしてこう祈り続けました。「どうぞ、この荒野で何を私に求めておられるか、私に教えてください。」自分の焦点を神さまに合わせ続ける時に必ず神さまは脱出の道を与えてくださることを学びました。
心のオアシス 2016年4月17日
修道者になってから50年以上になりますが、その間、傷ついたことも、心に痛みを覚えたこともないといえば、嘘になります。よかれと思って、してあげたことに対して、「ありがとう」のひと言もないどころか、かえって悪者にされた時が、何度あったことでしょう。「飼い犬に手をかまれた」思いも、一度ならず味わいました。思い切り仕返しをしたいと思ったこともあります。それをしないですんだのは、幼い時から、相手のレベルに自分を下げてはいけないという、母の教えのおかげであり、「許しなさい」という、キリストの言葉でした。仕返しをしたら、どんなにスッキリするだろうという思いもありましたが、一方、したらしたで、今度は、相手を傷つけたことからくる心の痛みを、味わわなければならなくなることを、苦い経験から習いました。自分の心の痛みを癒すためには、まずは、「思いを断ち切ること」が大切です。いつまでも傷にこだわっていると、その間、私は相手の支配下にあります。人間ですから、きれいに断ち切ることは不可能です。しかし、許すことで、相手の束縛から自由になれるのです。
まだ若く、洗礼を受けて間もない頃、ある方が教えてくださいました。「あなたの心が痛みを感じるのは、茨の冠をかぶったイエスさまが、身近においでになる証拠なのですよ。血が心から流れているとしたら、それは、十字架上のイエスさまのみ傷の返り血だと思いなさい」傷つけられる時にこそ、イエスさまは近くにいてくださる。私の痛みと流す血は、イエスさまのおそばにいる証拠。そう思う時、傷ついても傷んでもいいと思えるようになりました。
(渡辺和子著「傷ついた時こそ心を輝かせるチャンス」より)
私たちの人生の問題の大半が「人間関係」であると言っても過言ではないでしょう。そしてその問題の根源が「自分自身」だと言われます。わかってはいても、見栄やプライドで固められた自分を変えることは、なかなか難しい・・・最後に残される希望は、それでも見捨てずに傷つきながら愛し続けてくださるイエス・キリストです。
心のオアシス 2016年4月10日
ある青年が、沖縄のクリスチャン陶芸家、松田先生の窯元に行った時に、このような説明を受けたそうです。
土には性格があって、言うこと聞かない土を、使えるようにするまで、かなりの時間をかけます。山で、光を見たことのない土を掘り出してきて、洗って根やゴミを取り、沈殿させ、そして、こねて、寝かせて、また、こねての作業・・・。これを「土殺し」と呼ぶのです。手の中で、ぐるぐるということを聞かない土のわがままを殺します。そうしなければ、陶器師が疲れてしまうからです。だから、一番土を作ることに時間と労力を使います。不純物が入っていたら、焼いた時、そこから割れてしまいます。
ある時、松田先生が神様に聞いたそうです。「なぜ、人間を土から造ったのですか?」そうすると神様が、「それは、土は再生できるからだよ。やり直しができるから。」と言われました。先生は、それを一番知っていたから、本当に感動したそうです。土は焼いても、砕けば、また土に帰ります。
ひとつひとつの作品に、どれだけ愛情をもって、大切にしているかということが伝わってきた・・・という感想を、説明を受けた青年は述べていました。そして、どうして聖書の中に神様が陶器師として登場するのかが、よく理解できたとのこと・・・
神さまは、この人生という舞台の上で、私たちを、こねては寝かせ、こねては寝かせしながら、私たちの人格を作り上げ、信仰を育てながら、完成へと向かわせてくださっているのです。そして私たちを、忍耐と寛容と愛をもって、待っていてくださっています。この地上は天国予備校のようなもので、さまざまなテストを乗り越えながら、天国人として相応しくなるための訓練を与えてくださっています。まだ未完成である私たちを、善人であっても悪人であっても、神さまは待ちながら、用いて、神さまの計画を完成へと向かわせておられます。
心のオアシス 2016年3月27日
今日はイースター。イースターとは「復活祭」とも呼ばれ、イエス・キリストが墓からよみがえられたことを記念する日です。教会で、何年もの間、受け継がれてきた心暖まる実話があります。
あるアメリカの教会の日曜学校にスティーブンという8歳で肉体的も精神的にもかなりの弱さを持っている男の子がいました。イースターの前の日曜日に、その日曜学校の先生が自分のクラスの10人の生徒達に、空の卵の形をしたプラスティックの容器を渡しました。次の日曜日に、イースターの話に関連する物をその卵の中に入れてくるようにと課題を出したのです。次の日曜日に、生徒たちが持ってきたそれぞれの卵が開かれていきました。あるものには、命の性質を示す小さな花が入っていました。他のものには、墓からころがった墓石を意味する石が入っていました。他には色紙のチョウチョウが入っていました。それは私たちの中で起こるキリストによる生まれ変わりを表していました。そして先生はスティーブンの卵を開けました。それには何も入っていませんでした。他の9人の生徒はそれを見て笑いました。先生はスティーブンが宿題のことを理解することができないことを知っていましたので、何も言わず、すぐに次の卵を開けようとしました。するとスティーブンはそれに割り込むようにして言いました。「先生、ボクの卵を飛ばさないでください。」先生は答えました。「だけどあなたの卵は空っぽですよ。」その時スティーブンは自信をもって言いました。「その通りです。その卵はイエス様の墓のように空っぽなのです! これは全ての人のための新しい生命を意味しているんです!」その年の夏、スティーブンは体の状態が悪くなって召されていきました。葬儀には何百人という人たちがきましたが、棺に入れられた10個の空の卵の形をした小さな容器の意味を知っていたのは、9人の子供達と日曜学校の先生だったというお話。 (2013年3月31日の心のオアシスより)
ハッピー・イースター!
心のオアシス 2016年3月20日
ある女子大生が、夏休みが明けたある日、先生にこう言ってきたそうです。「この休みの間に、私の人生に穴が開きました」話はこうでした。思いがけず婦人科の手術をしなければならないことがわかり、手術を受けました。手術は成功でしたが、あとで医者から、子供が産めなくなったかもしれないと宣告されました。それを聞いて非常にショックだったのは、結婚を前提に付き合っている男性が、大変子供好きだったからです。隠しておこうかとも思ったそうですが、いつかはわかることだからと覚悟を決めて打ち明けました。するとその男性は、話を聞き終えた後、優しく「心配しなくていいよ。僕は、赤ちゃんが産める君と結婚するんじゃなくて、『君』と結婚するのだから!」そこまで話してから、その女学生は泣きました。そしてこう言ったのです。もし、私の人生に、この穴が開かなかったら、結婚しても一生、相手の誠実さと愛の深さを私は知らないで過ごしていたかもしれません」この学生は、自分の人生に開いてしまった「穴」のおかげで、穴が開くまで見えなかったものを見ることができたのでした。大小さまざまかと思いますが、傷ついてみて初めて見えてくる世界があり、失ってみてわかるありがたさがあり、病んでみて初めて育まれることがあります。
「他人を救ったが、自分自身は救わないのか?!」これはイエスさまが十字架におかかりになった時に、人々が投げかけた言葉でした。でもこれは栄誉あるののしりでした。イエスさまが、この地上に来られた目的は、自分を救うことではなく、人々を救うためだったのです。人々は、「十字架から降りて来い」と叫びました。しかし、イエスさまにとっての奇跡は、降りることはできても、あえて降りることをされなかったところにあるのです。自分のために生きている私たちにとっては、到底理解することができないことです。私たちを生かすために、イエスさまの十字架があるのです。イエスさまの十字架の愛のみが、私たちの人生の穴を埋めることができるのです。もしあなたが墓穴のような暗闇にいても、安心してください! イエスさまは3日後に墓から甦られました!