心のオアシス
心のオアシス 2016年4月17日
修道者になってから50年以上になりますが、その間、傷ついたことも、心に痛みを覚えたこともないといえば、嘘になります。よかれと思って、してあげたことに対して、「ありがとう」のひと言もないどころか、かえって悪者にされた時が、何度あったことでしょう。「飼い犬に手をかまれた」思いも、一度ならず味わいました。思い切り仕返しをしたいと思ったこともあります。それをしないですんだのは、幼い時から、相手のレベルに自分を下げてはいけないという、母の教えのおかげであり、「許しなさい」という、キリストの言葉でした。仕返しをしたら、どんなにスッキリするだろうという思いもありましたが、一方、したらしたで、今度は、相手を傷つけたことからくる心の痛みを、味わわなければならなくなることを、苦い経験から習いました。自分の心の痛みを癒すためには、まずは、「思いを断ち切ること」が大切です。いつまでも傷にこだわっていると、その間、私は相手の支配下にあります。人間ですから、きれいに断ち切ることは不可能です。しかし、許すことで、相手の束縛から自由になれるのです。
まだ若く、洗礼を受けて間もない頃、ある方が教えてくださいました。「あなたの心が痛みを感じるのは、茨の冠をかぶったイエスさまが、身近においでになる証拠なのですよ。血が心から流れているとしたら、それは、十字架上のイエスさまのみ傷の返り血だと思いなさい」傷つけられる時にこそ、イエスさまは近くにいてくださる。私の痛みと流す血は、イエスさまのおそばにいる証拠。そう思う時、傷ついても傷んでもいいと思えるようになりました。
(渡辺和子著「傷ついた時こそ心を輝かせるチャンス」より)
私たちの人生の問題の大半が「人間関係」であると言っても過言ではないでしょう。そしてその問題の根源が「自分自身」だと言われます。わかってはいても、見栄やプライドで固められた自分を変えることは、なかなか難しい・・・最後に残される希望は、それでも見捨てずに傷つきながら愛し続けてくださるイエス・キリストです。
心のオアシス 2016年4月10日
ある青年が、沖縄のクリスチャン陶芸家、松田先生の窯元に行った時に、このような説明を受けたそうです。
土には性格があって、言うこと聞かない土を、使えるようにするまで、かなりの時間をかけます。山で、光を見たことのない土を掘り出してきて、洗って根やゴミを取り、沈殿させ、そして、こねて、寝かせて、また、こねての作業・・・。これを「土殺し」と呼ぶのです。手の中で、ぐるぐるということを聞かない土のわがままを殺します。そうしなければ、陶器師が疲れてしまうからです。だから、一番土を作ることに時間と労力を使います。不純物が入っていたら、焼いた時、そこから割れてしまいます。
ある時、松田先生が神様に聞いたそうです。「なぜ、人間を土から造ったのですか?」そうすると神様が、「それは、土は再生できるからだよ。やり直しができるから。」と言われました。先生は、それを一番知っていたから、本当に感動したそうです。土は焼いても、砕けば、また土に帰ります。
ひとつひとつの作品に、どれだけ愛情をもって、大切にしているかということが伝わってきた・・・という感想を、説明を受けた青年は述べていました。そして、どうして聖書の中に神様が陶器師として登場するのかが、よく理解できたとのこと・・・
神さまは、この人生という舞台の上で、私たちを、こねては寝かせ、こねては寝かせしながら、私たちの人格を作り上げ、信仰を育てながら、完成へと向かわせてくださっているのです。そして私たちを、忍耐と寛容と愛をもって、待っていてくださっています。この地上は天国予備校のようなもので、さまざまなテストを乗り越えながら、天国人として相応しくなるための訓練を与えてくださっています。まだ未完成である私たちを、善人であっても悪人であっても、神さまは待ちながら、用いて、神さまの計画を完成へと向かわせておられます。
心のオアシス 2016年3月27日
今日はイースター。イースターとは「復活祭」とも呼ばれ、イエス・キリストが墓からよみがえられたことを記念する日です。教会で、何年もの間、受け継がれてきた心暖まる実話があります。
あるアメリカの教会の日曜学校にスティーブンという8歳で肉体的も精神的にもかなりの弱さを持っている男の子がいました。イースターの前の日曜日に、その日曜学校の先生が自分のクラスの10人の生徒達に、空の卵の形をしたプラスティックの容器を渡しました。次の日曜日に、イースターの話に関連する物をその卵の中に入れてくるようにと課題を出したのです。次の日曜日に、生徒たちが持ってきたそれぞれの卵が開かれていきました。あるものには、命の性質を示す小さな花が入っていました。他のものには、墓からころがった墓石を意味する石が入っていました。他には色紙のチョウチョウが入っていました。それは私たちの中で起こるキリストによる生まれ変わりを表していました。そして先生はスティーブンの卵を開けました。それには何も入っていませんでした。他の9人の生徒はそれを見て笑いました。先生はスティーブンが宿題のことを理解することができないことを知っていましたので、何も言わず、すぐに次の卵を開けようとしました。するとスティーブンはそれに割り込むようにして言いました。「先生、ボクの卵を飛ばさないでください。」先生は答えました。「だけどあなたの卵は空っぽですよ。」その時スティーブンは自信をもって言いました。「その通りです。その卵はイエス様の墓のように空っぽなのです! これは全ての人のための新しい生命を意味しているんです!」その年の夏、スティーブンは体の状態が悪くなって召されていきました。葬儀には何百人という人たちがきましたが、棺に入れられた10個の空の卵の形をした小さな容器の意味を知っていたのは、9人の子供達と日曜学校の先生だったというお話。 (2013年3月31日の心のオアシスより)
ハッピー・イースター!
心のオアシス 2016年3月20日
ある女子大生が、夏休みが明けたある日、先生にこう言ってきたそうです。「この休みの間に、私の人生に穴が開きました」話はこうでした。思いがけず婦人科の手術をしなければならないことがわかり、手術を受けました。手術は成功でしたが、あとで医者から、子供が産めなくなったかもしれないと宣告されました。それを聞いて非常にショックだったのは、結婚を前提に付き合っている男性が、大変子供好きだったからです。隠しておこうかとも思ったそうですが、いつかはわかることだからと覚悟を決めて打ち明けました。するとその男性は、話を聞き終えた後、優しく「心配しなくていいよ。僕は、赤ちゃんが産める君と結婚するんじゃなくて、『君』と結婚するのだから!」そこまで話してから、その女学生は泣きました。そしてこう言ったのです。もし、私の人生に、この穴が開かなかったら、結婚しても一生、相手の誠実さと愛の深さを私は知らないで過ごしていたかもしれません」この学生は、自分の人生に開いてしまった「穴」のおかげで、穴が開くまで見えなかったものを見ることができたのでした。大小さまざまかと思いますが、傷ついてみて初めて見えてくる世界があり、失ってみてわかるありがたさがあり、病んでみて初めて育まれることがあります。
「他人を救ったが、自分自身は救わないのか?!」これはイエスさまが十字架におかかりになった時に、人々が投げかけた言葉でした。でもこれは栄誉あるののしりでした。イエスさまが、この地上に来られた目的は、自分を救うことではなく、人々を救うためだったのです。人々は、「十字架から降りて来い」と叫びました。しかし、イエスさまにとっての奇跡は、降りることはできても、あえて降りることをされなかったところにあるのです。自分のために生きている私たちにとっては、到底理解することができないことです。私たちを生かすために、イエスさまの十字架があるのです。イエスさまの十字架の愛のみが、私たちの人生の穴を埋めることができるのです。もしあなたが墓穴のような暗闇にいても、安心してください! イエスさまは3日後に墓から甦られました!
心のオアシス 2016年3月13日
東京で育った私にとって、岡山は全く未知の土地であり、さらにこの大学は、初代も2代目もアメリカ人の70代後半の方が学長を務めていました。その大学の卒業生でもなく、前任者たちの半分の年齢にも満たない私が学長になったのですから、周囲もさることながら、私自身、驚きと困惑の渦中にいました。修道院というのは、無茶と思えることでも、目上の命令に逆らうことは許されないところでしたから、私も「これが神の思し召し」として従ったのです。初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけはなれていて、私はいつの間にか、「くれない族」になっていました。「挨拶をしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。岡山という土地に置かれ、学長という風当たりの強い立場に置かれ、四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」私は、かくて「くれない族」の自分と決別しました。私から先に学生に挨拶し、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり優しくなってくれました。 (「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子著より)
心のオアシス 2016年3月6日
子ども向け学習教材に「おうちのかたへ」と書いてある小冊子があり、その内容は、「私たちがまだ小学生・中学生だったころは、ひたすら勉強して、いい高校、いい大学へ入ることで、ある程度の幸せが約束されていると、多くの人が思っていました。そのゴールに向けて、テストが終われば忘れてしまうようなことをも、必死で暗記したことを覚えています。「何のために?」「この勉強は何の役に立つの?」そんな疑問も少しは胸に秘めつつ、答えを出すことを、ずっと後回しにしてきた気がします。今は、どうでしょうか? レールに乗って走ってみても、幸せは必ずしも約束されないのだ、ということは誰もが実感しています。しかし、だからといって、子供たちに「勉強しなくたっていいんだよ」とは言えないこともわかっています。「勉強」の意味自体が問われる時代になったのです。難しい時代、将来が見えにくい時代だからこそ、「自分の道を見つけ出すことができる学び」が必要なのではないでしょうか。それは大人になっても役に立つ学びです・・・
この後も文章は続いているのですが、では何が自分の道を見つけ出すことができる「学び」なのか、については書かれていませんでした。多くの人は、何かがおかしい?と感じながらも、答えがわからないまま過ごしています。そしてその不安を忘れさせる何かを求めて生きています。
私がもし、イエス・キリストに出会っていなければ、何のために勉強し、何の為に仕事をし、何の為に生きているのかという最も重要なことを見逃しながら、ただ目の前にある問題解決ばかりに目を向けて毎日を過ごしていたことでしょう。聖書に出てくるザアカイという人物も「自分の人生はこれでいいのか?」という疑問を持ちながらも、いかに知恵を使って金儲けをして、私腹を肥やすかを考えながら生きていました。そしてキリストに出会い、自分は神に選ばれ愛されていることを知った瞬間に、今までの価値観が全て崩れ、新しい人生へと変えられたのです。
明治の義人と言われた政治家・田中正造がこう言いました。「人は、神に愛育されて、愛の心にあふれる」 「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:16)
心のオアシス 2016年2月28日
人は皆弱さを持っています。あなたも、肉体的、情緒的、知的、そして霊的な弱さや欠点を抱えていることでしょう。また、経済的な問題や人間関係の問題など、自分ではコントロールできない問題に悩んでおられるかもしれません。ここで大切なことは、あなたがこれらの問題にどう対処するかです。通常、私たちは自分の弱さを認める代わりに、自己弁護をしたり、言い訳をしたり、隠そうとしたり、憤ったりします。しかしそれでは、神がその問題を通してなさろうとしておられる働きを妨げることになってしまうのです。神はあなたの弱さに対してあなたとは違った考え方を持っておられます。神は言われます。「わたしの考えは、あなたがたの思いを遥かに越えたものだ。」そのため、神はしばしば私たちの思いとは全く逆のやり方で働かれます。私たちは、神がお用いになるのは私たちの長所だけだと考えがちですが、むしろ、神はそのご栄光のために私たちの弱さをお用いになるのです。主イエスは、自分の必要を素直に認める人を「心の貧しい人」と呼ばれました。これが、神に祝福される人に見られる心の態度です。(人生を導く5つの目的より抜粋)
聖書を読めば、神さまがどれほど不完全な、ごく普通の人間を用いて驚くべき働きをなさるかがわかります。イエスさまの弟子たちを見ると、ペテロは気性が激しく感情的な人でした。トマスは疑い深い人でした。そして会計係にユダという盗人を採用されました。旧約聖書に出てくる人たちも同じです。「勇士」と呼ばれたギデオンはセルフイメージが低く自信のない人でした。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは、一度ならず二度までも、自分を守るために自分の妻を妹だと偽りました。もし、神さまが完全な人しかお用いにならないのであれば、神さまの働きはすぐにストップしてしまうでしょう。なぜなら私たち人間の中に、欠点のない人など一人もいないからです。不完全な人を用いてくださることは、私たちにとって、大きな励ましであります。神さまはあなたの限界によって制限されるお方ではありません。ごく普通の人に神の偉大な力を現されるのです。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(聖書)
心のオアシス 2016年2月21日
あるところに大きな橋がありました。それは長くのびていて川にかかっていました。この橋は、一日何度も上がったり、下がったりして汽車や船を通していました。ある日、交換手が準備していて、時間がきたので、遠くの方を見ると汽車が見えました。スイッチを押して橋をおろして向こう岸につなげようとしましたが、なんと、その日は機械が故障していて、何度やっても動きません。信号も赤に変わらないのです。このままいくと、汽車が橋に衝突して、川に落ちてしまいます。この汽車には、たくさんの人が乗っています。しかし、この交換手は、このような緊急事態には、どう対処すれば良いのか、わかっていました。線路の反対側に、レバーがあって、それを手動で下げて橋を降ろすことができたのです。汽車の振動は近づいてきました。交換手は、必死に走って、そのレバーの所まで行って下げて、橋を降ろすことができました。丁度、その瞬間に「お父さん!」と、5歳になる自分の息子が走ってくるのが見えました。「こっちに来ちゃ駄目だ! もどりなさい!」と叫びました。しかし、その小さな子供の耳にはお父さんの声は入ってきません。子どもの足では、とうてい線路を渡りきることはできません。彼は、レバーを離して子供を助けに行きかけた時、橋がまた上がり始めました。その時、彼は大きな決断をしたのです。汽車は何もなかったかのように、その橋を通過していきました。誰一人として、その子供が死んでしまったことに気付きませんでした。そして、そのレバーに、しがみついて何時間も泣きつづけている父親の姿に、気付く人は誰もいませんでした。
もし、この人の経験したことを理解しようとすれば、きっと天のお父様が、滅びに向かう私たちを助けるために、ご自分の一人子なるイエス・キリストを、天国への橋渡しのために犠牲にしてくださったことが、わかるかもしれません。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになってくださいました。それが十字架なのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
心のオアシス 2016年2月14日
愛とは、相手がうまくいくようにすることであり、相手が喜ぶようにすることです。そして相手が成功すれば、妬ましく思うのではなく、たとえ自分が犠牲になっても心から喜べることが愛の姿です。そのことを表している子どものある発言があります。「親は、苦い味のものが好き。つぶれたイチゴを食べて、ご飯は冷たいのが好き。不思議なことに、自分は焼き魚の腹わただけを食べて、おいしい身は私にくれるの。」親は、おいしいものを知らないのでしょうか? ただ子どもに美味しいものを食べさせたいから自分は残り物を食べるのです。数年前、私も同じような体験をしました。教会の長老さんといっしょにある信徒さんの家庭訪問に行った時でした。いちごが出されたのですが、上に乗っているものだけが新鮮で、下のものはつぶれていました。ところが長老さんは、つぶれたものばかり食べるのです。私にいいものを食べさせるためでした。これが愛の姿です。
栗の村に住んでいるおじいさんの話です。秋になって栗がたわわに実ると、週末に若い男女がやって来ます。若い男女は、大きい実を勧め合うそうです。「大きいから、これ食べて。」すると、残るのは小さい栗だけです。しかし、中年夫婦が来ると、何も言わずに、相手に大きい実を食べさせようと小さいものから食べるので、残るのは大きいものばかりです。これも愛ですね。
十字架は、ただのアクセサリーではありません。命をかけた私たちに対する愛の証なのです。私たちは、死後の世界において自己中心に生きてきた刈り取りをしなければならないのですが、私たちが、永遠の死ではなく、永遠の生命を受けて欲しいと願った神さまが、イエス・キリストとしてこの地上にきて、本来私たちが受けなければならなかった罪の罰を、全部、十字架上で引き受けてくださったのです。それは、私たち人間がうまくいくこと、喜ぶことを、喜びとしてくださった愛の姿です。
私たちは、愛の中に生かされていることを忘れてはならないのです。
心のオアシス 2016年2月7日
アメリカでは、あらゆる犯罪が多発していますが、その中でも聞いて笑ってしまうような事件もあります。実際に新聞に掲載された事件です。
お腹をすかせてスリが、スーパーで皿に盛られているウインナーをつかんで逃げ出しました。ところがそのウインナーは、切れていないもので14メートルも繋がっていたそうです。その男は盗んだのはいいのですが、後から後からそのウインナーがついてくるではありませんか・・・
それに気付いた犯人は、手で巻きつけはじめましたが、ついには腕が動かなくなって警察に御用になってしまった・・・というお話。
私たちの自己中心性は、結局、自分自身に返ってきて、私たちを縛り付けて動けなくしてしまうことになります。聖書のいう「罪」は、まさにそのようなもので、自分の勝手だと考えていた自由行動が、やがては、私たちを縛り付けてしまうことになっていくのです。どうも、私たちが想像し考えている「自由」は、聖書が言っている「自由」と根本的にその概念が違うように思います。私たちは、人に迷惑がかからなければ、自分の好きなことをして、一番楽な道を生きることが「自由」だと考えています。それは枠の中だけではなく、ルールに縛られない生き方です。しかし、聖書には、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31・32節)神さまのルールの中で、本当の自由を得ることができるのだと言うのです。
「クリスチャンは、酒やタバコができないから、自由が束縛されている」と言われる方がいます。(聖書は、酒やタバコを禁止していません)しかし私にとっては、どう考えても、その人は酒やタバコに縛られているように思えます。それらのものが無くても生きることができるのは、果たして自由が束縛された人生でしょうか?
沈みゆく船の上でパーティーをすることは、一時的な不安解消にはなりますが、確実に沈んでいます。罪によって動けなくなる前に、一度、イエス・キリストに自分を預けてみられたらいかがでしょうか?