心のオアシス
心のオアシス 2016年12月4日
「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ちました。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待しました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが作られたのは大きな船ではなく小さな漁船でした。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過して、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れてしまいました。
ある夜、一人の女性が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしていることに気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい突風が吹いて沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時、二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手をその木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木を見る時、神の愛を考えるようになりました。
自分の意のままに生きても一時的な満足しか得られません。幸せは、神の意のままに導かれていることを受け止め、それを喜ぶ時に与えられるからです。同じ人生でも、神実現に生きたら世界観が変わりますよ!
心のオアシス 2016年11月27日
南アメリカの多くの少数部族の中には、30歳にも満たないままで死んでしまう、大変寿命の短い部族があるそうです。学者たちが、原因を調べてみると、土で造った塀に生きている虫が原因であることがわかりました。その虫が毒素を出すので、その毒素を吸いながら住む人々は正常に生きることができないのです。学者たちは、彼らに生きる方法を3つ教えました。その一つは、殺虫剤を使って虫を無くすこと。二つ目は、虫が住んでいる塀を壊すこと。三つ目は、別の所へ移住することです。
しかし、この部族は殺虫剤もまかず、塀もそのままにし、移住もせず住み続けています。彼らは、変化を恐れ、自分の先祖からそのように生きてきたので、自分たちも同じように暮らしたいと言って、以前として短命の道を歩んでいるそうです。
これは変化を恐れているのか、それとも怠慢なのかのどちらかです。一歩前進することに苦痛を伴うこともありますが、その向こうには、より良い生活が待っているのに、それをしたくないというのです。
医学の専門家が言うには、アルコール依存症患者が自分は依存症だと認め、自由と心の平静に対する強い健全な欲求をもったときには、その人はすでに51%まで癒されているというのです。その人が自分の姿を正しい方法で心に描くにつれて、体がそのようになっていくというのです。そのような、問題解決の達成に対する強い健全な欲求の心を持ったら、依存症による震えや喉の渇きなどは、自動的に消えていくそうです。しかし、癒されることを望まない依存性患者には、そのような現象は起こらないということもわかったそうです。
私たちは、より良い自分を思い描き、そのような自分になるように努力する必要があるということだと思います。それは聖書が教える人間の在り方なのです。永遠の世界における「救い」は、イエスさまがしてくださった行ないを受け入れ信じるだけで与えられます。私たちの側は、何もする必要はありません。しかしこの地上での生活における様々な問題解決には、「努力」が必要となります。パウロは、「行ないによって救われることはありません。しかし、問題解決のためには、努力しなさい」と勧めています。そしてその努力も神実現のためであるなら、神さまが実現してくださるし、走ったことも労したことも、無駄にはなりません。
心のオアシス 2016年11月20日
私が何年も前にアメリカのあるブックストアーに行ったときに、一枚のポストカードを手にして、衝撃と感動を覚え購入しました。そこには、作者のトマス・ブラックシェア氏が、描いた絵とその説明がありました。
テーマは「赦し」。右手に木槌を持ち、左手に大きな釘を持った一人の絶望して倒れそうな男が、イエス・キリストによって、後ろからしっかりと抱きかかえられている姿です。その抱えているイエス様の両手には、その男が釘で打ちつけて傷跡が残っています。足元には、イエスさまの十字架で流された血とゆりが咲き乱れています。これはイエスさまが「野のゆりを見なさい。明日は炉に投げ入れられてしまう野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、あなたがたによくしてくださらないはずがないでしょう」とお話された時に用いられた花です。 私たちは、罪人は罪人です。自分がいつも中心であって、制御することはできません。その罪がイエスさまを十字架に釘付けしているのです。でも幸いなことは、そんな私たちを見捨てず、抱き抱えていてくださる神さまの愛があるということです。この愛に応えながら生きることが、人生の目的です。やがて天国において、「あーあなたも神さまの愛の故に、ここに来ることができたのですね!」そんな同窓会が始まります。
心のオアシス 2016年11月13日
アメリカのある教会であった出来事です。大学で行われた、クリスチャンの集会でジムという大学生がイエスさまを心に受け入れました。彼は少し変わった青年で、いつも同じ穴のあいた汚れたジーンズをはいて、いつも同じTシャツを着ていました。頭の髪もグチャグチャでしたが、彼のスタイルだったのです。日曜日に教会へ行くように勧められたので、学校の通りの向い側にある教会へ足を運びました。ところがその教会はとても保守的な堅い教会でした。礼拝に来る人たちは、みな正装していました。ジムが教会へ入った時は、時間ギリギリでしたので満席でした。彼は後ろの方から、空いている席を探しながら前へ進んで行きました。みんなの目がジムに集中しました。なぜなら頭はクシャクシャで、いつもの汚いティーシャツと穴の空いたジーンズ姿で、その場にはそぐわない格好だったからです。とうとう空席が見つからないまま講壇の前まで来ました。そして彼は講壇の前の床に座ったのです。それは大学の講義を受ける時、イスの空きがない時はいつも床に座っていたからです。それを見た、後ろに座っていた80歳位の髪の毛をキッチリと分け、3ピースのスーツを着た長老役員が、立ち上がって前へ歩き始めました。みんなは、その長老が汚い格好の大学生をつまみ出してくれることを期待していました。ところがその長老役員は、大学生のジムの所までくると、一緒に床に座ったのです。ジムはもう一人ぼっちではありませんでした。そこでその教会の牧師は話しました。「今日、私がする説教は数日で忘れるでしょう。しかし、今見たメッセージは一生忘れることはないでしょう!」拍手喝さいでありました。もし腹を立てて長老がジムをつまみだしていたら、彼は一生救われなかったでしょう。
イエス・キリストは、神を知らず滅びへと向かっている私たちを裁くために来られたのではなく、私たちに寄り添うために、この地上に来てくださいました。そして私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けてくださったのが十字架の姿でした。犠牲がなければ本当の平和はありません。そしてそこに愛があるのです。これがHappy Lifeの入口です。
心のオアシス 2016年11月6日
母親をとても憎み、うらんでいる、ある一人の受刑者がいました。その母親は、彼の幼少期に実家に預けたまま再婚してしまったそうです。彼は永い間「母親は俺を捨てて再婚するような冷たい女だ」と思い込んでいました。ところが、刑務所の独房の中で、そういった色々なことを考えているうちに、ふと、こんなことを思い出したそうです。小学校4年の頃、再婚先の母親を訪ねたことがありました。母親は、新しい夫に「太郎が来たから、こずかいやろうよ」と言って硬貨を一枚夫に見せて承諾をとってから彼に渡しました。帰り道、よくよく硬貨を見ると、一枚だと思っていた硬貨が、そうではなくて2枚だったのです。そのコインは、ご飯粒でつけてあって、はがそうと思ってもガチガチにくっついていたそうです。彼は帰り道にあった田んぼの水につけて硬貨をはがしました。こんなことを思い出しているうちに、涙が出てきました。「俺を捨てて再婚したと思ったけど、いつも心の中で俺のことを思い、俺が来るのを待っていてくれたんだ… 飯粒がガチガチになっているのを思うと、相当前から待っていてくれたんだな。新しい夫に気兼ねをしながらも、こっそり2枚もくれたんだ。母は、俺のことをいつも考えていてくれたんだ」その時以来、彼が今まで考えていた母親のイメージは急変し、彼の生き方そのものが変わったそうです。
現実は何も変わらなくても、私たちの心の持ち方次第で、ハッピーライフに変えることはできるのです。同じように私たちの持っている「神」概念を変えると、新しい世界が広がります。私たちは、苦しみや悩みを取り除いてくれるのが、「神」だと考えています。誰がそう教えたのでしょうか? ただ人間が、そういうものを求めている故に、そのような神を造り、神はそういう存在なのだと勝手に決めつけているだけなのです。
聖書の教える神の概念は、私たちの都合通りに動いてくださるお方ではなく、神の都合で動いておられるお方であるという認識を持つと、かなりの数の「何故?」がなくなると思います。そして神は私たちに最善をしてくださるという信頼が、委ねるという信仰に繋がっていくのです。
心のオアシス 2016年10月30日
私は、整理整頓は好きなのですが、いつの間にか資料や手紙や本などの山ができることがあります。ペーパー類を、どのように片付けたら良いのかわからないので、そのままにしてしまうのです。ある時、家内が片付けファイルなるものを作ってくれました。それぞれの大きなファイルに「マニュアル関係」「手紙関係」「教会資料」など書かれたラベルを貼って、そこに山積みになっている資料を仕分けせよというのです。そこで私はそれぞれのファイルに仕分け作業を始めると、みるみるうちに書類の山が減っていきました。しかし、問題が発生しました。どのファイルにも属さない書類が出てくるのです。そのようなものを後回しにしていると、結局、最後には訳のわからない物が残ってしまい、頭が混乱して片付かないのです。そこで「理解できない」というファイルを作ってくれました。それはどこに所属しているのかわからないものを入れるファイルです。そこに残った物を全部入れたら、すべて整理できました。
私たちの人生にも、理解不能な出来事が襲いかかってくることがあります。複雑な人間関係や自然災害やテロなどもそうでしょう。神さまに文句を言いたくなるようなことは、どこにでも転がっています。「どうしてだろう?」「何故、そんなことが起こるのだろう?」と悩み過ぎると、大変なことになってしまいます。もし、私たちの頭の中に、「理解できないファイル」を作って、そこに自分では理解できない事柄を全部入れてしまってみてはいかがでしょうか? そこに入れた物は、自分で解決するのではなく、全て神さまに委ねてしまうのです。そうするとけっこう楽になれますよ。それこそが神さまに信頼する者の姿なのです。
神さまに信頼するとは、自分の思い通り、願い通りに事が進んでいる時だけではなく、想定外、願いとは逆方向の出来事に対しても、受け止めるということです。自分の願いではなく、神さまの願いの通りになっていることを喜ぶのです。これは夢を諦めたり、希望を持つなという意味ではありません。理想へと進むプロセスの中で、期待しつつ祈りながら、「今」という現実は感謝して受け止めるということなのです。
心のオアシス 2016年10月23日
先日、結婚式の司式を頼まれて東京へ飛びました。世界貿易センタービル内の式場で、待ち時間に40階のパノラマ展望台から東京を眺めていました。そこからは、上空の飛行機をはじめ眼下に広がる東京の街(東京タワー・富士山・東京スカイツリー・お台場・レインボーブリッジ・皇居・虎ノ門ヒルズ)やミニチュアのように見える電車や東京湾を行き交う船舶を一望できました。そして日が暮れると、宝石を散りばめたような美しい夜景が広がっています。そのような絶景を観ながら、ふとこんなことを考えました。「これだけの街を作るために、どれほどの英知が集められ出来上がったことだろう? でも、停電が起こっただけで、人々はパニック状態になってしまう・・・これほどの技術力を持っていても、人間はなんと、もろいことか・・・今や人工知能まで開発される時代になったけれど、結局人間は、支配していると思っている文明の利器に、支配されつつあるということに気付かないでいる。これから100年後、世界はどうなっているのだろう?」
私たち個々の抱えている問題は大きくても、上から見下ろすと、豆粒にしか見えない人間がうごめいているだけ。私たちは長くても100年そこそこしかこの地上に存在していません。そしてその短い期間の中に、喜びや、悲しみ、楽しみ、不安、恐れ、怒りなどが凝縮されているのです。私たちにとって、毎日起こる現実は大きなことであっても、実は永遠の世界から見たら、ちっぽけなものなのです。私はこの世で生き抜くための秘訣みたいなものを体得しつつあります。それは永遠の世界から現実を見るということ。そうすると、ほとんどの問題が問題でなくなってきます。神さまが私に最善をしてくださる信仰が与えられたならば、もう何も恐れることはありません。信仰に生きるって、楽すぎます。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)
あなたも、このお得な信仰の世界をあなたも味わってみませんか?!
心のオアシス 2016年10月16日
かつて小学校のPTA役員をしていた時代に、そこで配られていたプリントに掲載されていた文章を紹介します。
ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めた、よりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。学校にその子供たちのために特別クラスを設けて、ある一定期間、教育してほしいと要請しました。条件は、特別なことをしないで、他の普通のクラスと同じカリキュラムで、同じように教えるということでした。先生たちが送り込まれた特別クラスの生徒たちを見ると、どう見ても優秀に見えないような子供もいましたが、専門家が様々な研究と観察から選ばれた子だから、必ず伸びるだろう!と定められた期間、彼らを教えました。その結果、研究者の言う通り、実際にその特別クラスの子供たちの成績は飛躍的に伸びていきました。選ばれた特別な生徒たちであったからこそ素晴らしい結果になったのだと考えられていました。しかし、後でわかったことは、そのプログラムはデタラメで、ただ各クラスからあみだくじで選ぶかのようにして、適当に数名ずつ選ばれて送り込まれたクラスだったのです。そのことは、教師や親たちには一切伝えられていませんでした。何が違ったのかといいますと、先生たちや親たちの、その子たちを見る目や期待感が、他のクラスの子とは違ったというのです。「特別クラスの子たちは普通の子ではない!どんな成長を遂げるのだろうか?」という期待をもって接し、教えていたということでした。
実は、これは神がこの世に与えられた「信仰の法則」なのです。パウロは、問題だらけで、頭痛の種となっていたピリピの教会の人々に、このように書き送っています。「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」(ピリピ1:3~5)
あなたの信仰の目が、個を変え、世界を変えていくのです。
心のオアシス 2016年10月9日
数年前に、アメリカ・アリフォルニアの海岸で一隻の豪華ヨットが沈没する事故が発生しました。沈没する直前、海岸救助隊にSOSが入り、救助隊の通信員が返信しました。「すぐに救助に向かいます。現在のポジションを教えてください。」すぐへ返事が返ってきました。「私は有名な〇〇銀行の頭取だ。」そこで返信が途絶え、結局ヨットは沈没してしまいました。実は英語では、「ポジション」という言葉には二つの意味があって、一つは「位置」、もう一つは「地位」です。ヨットの男性は、「あなたの位置はどこなのか?」と場所を聞いたのに、「地位は何か?」という立場を聞かれたと勘違いしたようです。いくら意味を取り違えたといっても、そんな緊急事態に地位や立場が、何の役に立つというのでしょう? 自分がどこにいるかが重要なのであって、名誉や財産は、男性を助けることはできないのです。この世で生きる上では、ある程度の地位や立場があれば、住み心地は良いかもしれません。しかし、それをもって永遠の世界に入ることはできません。
先日、同窓生との会話の中で、「教会には弱い人が行くものだと思っていた・・・」という話題が出て、一人のクリスチャンが、「教会に行くまで、私もそう思っていたし、自分は強いと思っていたけど、教会行ったら、実は自分は弱い存在だったんだ、ということに気づいた。」と話していました。自分が何でもしていると思っていると、必ず疲れてしまうでしょう。でも、自分を生かし、使ってくださっているお方(神)がいるんだということを知ったら、もっと人生は楽になるでしょう。頑張る力を与えられていることに感謝。能力が与えられていることに感謝。でも、疲れてしまったら休めのサインだと受け止める。神さまがあなたの人生を支え、保証してくださることを知ったら安心です。
所詮、この世の中、頑張っても数十年の人生です。一時的なことに一生懸命になる前に、永遠における解決をしておけば、この世における問題は問題でなくなります。「永遠における解決」、それは神との和解です。
心のオアシス 2016年10月2日
ドイツ南部のバイエルン州出身のリーヴァイ・ストラウスは、1853年にサンフランシスコに移住し、金鉱周辺でテントを作る仕事をしました。ある日、彼に10万個以上の大型テントを軍に納品してほしいという注文が入ってきました。彼は、借金をして工場と職人を増やし、日夜働き、10万個のテントを作りました。ところが、軍への納品の道が閉ざされてしまい、破産寸前にまで追いやられました。頭を悩ませていたある日、彼は金鉱村の鉱員たちが集まって座り、古びたズボンをつくろっている光景を目にしました。金鉱での日課を終えた労働者たちが破れた衣服をつくろう姿は、よくある風景でした。ところが、その瞬間、リーヴァイは、困難な状況を打開する解決策を思いつきました。彼は、厚いテントの布でズボンを作って売り始めたのです。ズボンは飛ぶように売れていき、それが今日、世界的に有名なリーバイスのジーンズになりました。
人生で問題は避けられません。しかし、どんな問題に遭遇しても、大胆な信仰によって前に進まなければなりません。問題ややみの大きさに圧倒され、サタンの脅し文句におびえるのではなく、「問題が大きければ、神さまの答えも大きい」と信じて行動することさえできれば、勝利をつかむことができます。挫折の中でも神さまを見上げて信仰の火を燃やし、大胆な信仰によってその環境を解釈するなら、奇蹟が起こります。「私は必ず勝利する」ナ・グァンホ著より
ワシは、そのひなを育てて、巣立ちすることができるように、訓練を行なうそうです。親ワシは、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせます。親ワシは、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に、自分の翼でひなをキャッチします。これを繰り返して、ひなが空を飛べるように訓練するというのです。
どうして、ひなにとって過酷なトレーニングをするのでしょうか? それは独り立ちできるようにするためです。この訓練がなくては、ひなは生きていけなくなるのです。神さまは、時として手荒い扱いをなさることがありますが、それは全て「愛」が背後にあるということなのです。