心のオアシス
心のオアシス 2016年10月16日
かつて小学校のPTA役員をしていた時代に、そこで配られていたプリントに掲載されていた文章を紹介します。
ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めた、よりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。学校にその子供たちのために特別クラスを設けて、ある一定期間、教育してほしいと要請しました。条件は、特別なことをしないで、他の普通のクラスと同じカリキュラムで、同じように教えるということでした。先生たちが送り込まれた特別クラスの生徒たちを見ると、どう見ても優秀に見えないような子供もいましたが、専門家が様々な研究と観察から選ばれた子だから、必ず伸びるだろう!と定められた期間、彼らを教えました。その結果、研究者の言う通り、実際にその特別クラスの子供たちの成績は飛躍的に伸びていきました。選ばれた特別な生徒たちであったからこそ素晴らしい結果になったのだと考えられていました。しかし、後でわかったことは、そのプログラムはデタラメで、ただ各クラスからあみだくじで選ぶかのようにして、適当に数名ずつ選ばれて送り込まれたクラスだったのです。そのことは、教師や親たちには一切伝えられていませんでした。何が違ったのかといいますと、先生たちや親たちの、その子たちを見る目や期待感が、他のクラスの子とは違ったというのです。「特別クラスの子たちは普通の子ではない!どんな成長を遂げるのだろうか?」という期待をもって接し、教えていたということでした。
実は、これは神がこの世に与えられた「信仰の法則」なのです。パウロは、問題だらけで、頭痛の種となっていたピリピの教会の人々に、このように書き送っています。「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」(ピリピ1:3~5)
あなたの信仰の目が、個を変え、世界を変えていくのです。
心のオアシス 2016年10月9日
数年前に、アメリカ・アリフォルニアの海岸で一隻の豪華ヨットが沈没する事故が発生しました。沈没する直前、海岸救助隊にSOSが入り、救助隊の通信員が返信しました。「すぐに救助に向かいます。現在のポジションを教えてください。」すぐへ返事が返ってきました。「私は有名な〇〇銀行の頭取だ。」そこで返信が途絶え、結局ヨットは沈没してしまいました。実は英語では、「ポジション」という言葉には二つの意味があって、一つは「位置」、もう一つは「地位」です。ヨットの男性は、「あなたの位置はどこなのか?」と場所を聞いたのに、「地位は何か?」という立場を聞かれたと勘違いしたようです。いくら意味を取り違えたといっても、そんな緊急事態に地位や立場が、何の役に立つというのでしょう? 自分がどこにいるかが重要なのであって、名誉や財産は、男性を助けることはできないのです。この世で生きる上では、ある程度の地位や立場があれば、住み心地は良いかもしれません。しかし、それをもって永遠の世界に入ることはできません。
先日、同窓生との会話の中で、「教会には弱い人が行くものだと思っていた・・・」という話題が出て、一人のクリスチャンが、「教会に行くまで、私もそう思っていたし、自分は強いと思っていたけど、教会行ったら、実は自分は弱い存在だったんだ、ということに気づいた。」と話していました。自分が何でもしていると思っていると、必ず疲れてしまうでしょう。でも、自分を生かし、使ってくださっているお方(神)がいるんだということを知ったら、もっと人生は楽になるでしょう。頑張る力を与えられていることに感謝。能力が与えられていることに感謝。でも、疲れてしまったら休めのサインだと受け止める。神さまがあなたの人生を支え、保証してくださることを知ったら安心です。
所詮、この世の中、頑張っても数十年の人生です。一時的なことに一生懸命になる前に、永遠における解決をしておけば、この世における問題は問題でなくなります。「永遠における解決」、それは神との和解です。
心のオアシス 2016年10月2日
ドイツ南部のバイエルン州出身のリーヴァイ・ストラウスは、1853年にサンフランシスコに移住し、金鉱周辺でテントを作る仕事をしました。ある日、彼に10万個以上の大型テントを軍に納品してほしいという注文が入ってきました。彼は、借金をして工場と職人を増やし、日夜働き、10万個のテントを作りました。ところが、軍への納品の道が閉ざされてしまい、破産寸前にまで追いやられました。頭を悩ませていたある日、彼は金鉱村の鉱員たちが集まって座り、古びたズボンをつくろっている光景を目にしました。金鉱での日課を終えた労働者たちが破れた衣服をつくろう姿は、よくある風景でした。ところが、その瞬間、リーヴァイは、困難な状況を打開する解決策を思いつきました。彼は、厚いテントの布でズボンを作って売り始めたのです。ズボンは飛ぶように売れていき、それが今日、世界的に有名なリーバイスのジーンズになりました。
人生で問題は避けられません。しかし、どんな問題に遭遇しても、大胆な信仰によって前に進まなければなりません。問題ややみの大きさに圧倒され、サタンの脅し文句におびえるのではなく、「問題が大きければ、神さまの答えも大きい」と信じて行動することさえできれば、勝利をつかむことができます。挫折の中でも神さまを見上げて信仰の火を燃やし、大胆な信仰によってその環境を解釈するなら、奇蹟が起こります。「私は必ず勝利する」ナ・グァンホ著より
ワシは、そのひなを育てて、巣立ちすることができるように、訓練を行なうそうです。親ワシは、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせます。親ワシは、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に、自分の翼でひなをキャッチします。これを繰り返して、ひなが空を飛べるように訓練するというのです。
どうして、ひなにとって過酷なトレーニングをするのでしょうか? それは独り立ちできるようにするためです。この訓練がなくては、ひなは生きていけなくなるのです。神さまは、時として手荒い扱いをなさることがありますが、それは全て「愛」が背後にあるということなのです。
心のオアシス 2016年9月25日
私が小学生の時に、学校の先生からこのような話を聞きました。それは、「水の中でおぼれている人を見つけたら、しばらくそのままにしておきなさい。そして力尽きた時に、手を出すのですよ。もし、溺れている人が自分の力でなんとか助かろうとバタバタやっている時に他の人が手を出すと、しがみついてきて自分までも溺れてしまうから危険です。溺れている人が、自分は駄目だと思い、もがく力も失ったときに、初めて手を差し伸べることができるのです。」というお話しでした。
私がクリスチャンになってから、これは神さまの救いの法則にも適用できる例話だと思いました。私たちが自分で何とかできると考えている間は、神さまが入る余地がありませんが、自分の力では、どうすることもできない自分に気付き、降参した時に、神さまが出動してくださり、希望の光を見出すことができるのです。この真理に目が開かれた人は、神さまが満たしてくださる世界を体験していくのです。
あのマザーテレサは、このような祈りをしておられます。
主よ、私は信じきっていました 私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく 他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました 私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて 真実が分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました 自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。実は思いあがりとねたみとの心に 私がふくれあがっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。私の中で天の国と この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき あなたの中にのみ 真の幸福と力添えとを見いだしますように。
心のオアシス 2016年9月18日
大きな橋がありました。長くのびていて向こう岸にかかっていました。この橋は、一日に何度も上がったり、下がったりして土手をつないでいました。船がくると船を通し、汽車が来ると橋を岸にかけて、汽車を通していました。そのために交換手がいて、この橋の上げ下げを操作していました。ある日、彼が準備をしながら時間を確認して、遠くを見ると汽車が近づいているのが見えました。いつものようにスイッチを押して橋を下ろそうとするのですが、故障していて動きません。信号も青のままです。このまま汽車が進むと橋に衝突して川に落ちてしまいます。たくさんの人たちが汽車に乗っています。しかし、この交換手は、このような非常事態には、どうすれば良いのかわかっていました。線路の反対側にレバーがあって、それを手動で下げて、橋を下ろして固定することができたのです。汽車の振動は、近づいてきました。彼は、全力で走って、そのレバーの所まで行って、そのレバーを下げて、橋を下ろすことができました。ちょうど、その瞬間に「パパ~」と、5歳になる自分の息子が走ってくるのが見えました。「こっちに来ちゃ駄目だ! もどりなさい!」と叫びました。しかし、その小さな子供の耳には声は届きません。そして、到底線路を渡り切ることはできません。交換者は、レバーを離して、息子を助けに行きかけたその時、橋が静かに上がり始めました。その時、交換手は一つの決断をしました。その後、汽車は何事もなかったように、その橋を通り過ぎていきました。そして誰も、交換手の息子が犠牲になったことに、気付きませんでした。そのレバーに、しがみついて犠牲になった息子のために泣き続けている父親の姿に、気づく人は誰もありませんでした。
天の父なる神さまは、私たちが罪によって滅びないために、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。そして私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかり死なれました。私たちは汽車の乗客のように当たり前のように生きていますが、実はキリストによって生かされているのです。この愛に応えながら生きることが、人生の目的なのです。
心のオアシス 2016年9月11日
第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医がいます。著書に「世の霧」「死の愛」がありますが、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、決して健康であるとか体が頑強であるというのではなかったと述べています。では、何がその人を強め、または弱めたのでしょうか? それは「希望」の有る無しだと言うのです。「この戦争はいつか必ず終わり、妻子に再び逢える」という希望、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望・・・それは、収容所の中にいて、ほとんど夢のようなもの、実現不可能と思えるものでした。にもかかわらず、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。
一人の囚人は、何度か高圧電流が走っている鉄条網に自ら触れて自殺してしまいたい衝動にかられました。この人がその衝動に打ち勝てたのは、彼が結んでいた「天との契約」に他なりませんでした。「天との契約」、それは、自分の苦しみ、死さえも、意味あるものとしたいという切なる願いの表れでした。この囚人は神と契約を結んだのです。「私は、収容所での苦しみを喜んで苦しみますから、その代わりに、私の愛する母親の苦しみを、その分だけ和らげてやってください。もしガス部屋へ送られて死なねばならないとしたら、どうぞ私の命の短くなった分だけ、どこかの収容所に入れられているだろう母親の命を長らえさせてください」自分の苦しみの死も無意味なものとならないという希望に支えられて、この人は終戦までの地獄のような日々を生き続けることができました。
私たちには、神様の与えてくださっている希望があります。この地上で起こる周期的な陣痛の後には、それにも勝る喜びがくるのです。
心のオアシス 2016年9月4日
日本人は、「神が人間を創造した」という話を聞いても、違和感をもたれる人たちが多くいます。なぜなら、小学生のときから「人間は進化した」と教え込まれていて、それが当然のように考えているからです。
進化全体を説明する唯一の要因は「偶然」です。揺り返す原子のスープから「偶然」にアミノ酸が作られ、その「偶然」の繰り返しによってDNAが合成され、さらなる「偶然」によって生命を持つ細胞が形成され、後はその生物がひたすら「偶然」によって進化を遂げていきました。この「偶然」は、箱の中に車の全ての部品を入れて、揺すぶっていたら車が完成しましたという計算上不可能としかいいようのないほど小さな確率を次々と突破して進化していったというのです。しかし「偶然」は「無目的」です。学校でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から偶然に化学進化した存在であるかぎり、説得力は全くありません。物質から生まれ、長くても100年そこそこ生きて、やがて無に帰っていくだけの存在の何が尊いのでしょうか? 人間は「コンピューターを作る」「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いとは言えません。それは自己尊厳を正当化するために考え出した人間の主張にしかすぎません。鳥が「空を飛べるから人間より尊い」と主張しているのと変わりません。何を根拠に人間の命は尊いと決めたのでしょうか? それは、ただ死ぬのが怖いからです。自分の命を守るために命が尊くあってほしいのです。それ以上の根拠はありません。
では聖書は人間の存在価値について、どのように説明しているのでしょうか? 人間は神に似た人格を持つ最高の存在として造られ、神に愛されていること、これが人間という生き物の始まりで、神の目には「極めて良い」という完璧な人格と体をもってスタートしたのです。創造主が人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるから、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣言されること以外に人間価値の絶対的な根拠はありません。
“あなたは、わたしの目には高価で尊い”(イザヤ書43章4節)
心のオアシス 2016年8月28日
私が最近、考えていることは、私たち一人一人の毎日、瞬間瞬間は、神さまの奇跡の連続であるということ。勿論、神さまの側では、それは「奇跡」ではなく、「業」であろうと思います。私の人生を振り返ると、必ずポイントポイントに、色々な形で助けてくださった人たちがいました。ずっとお付き合いをしているわけではありませんが、一時的にでも、その人がいなければ、どうなっていたかわからないようなことが沢山ありました。どう考えてみても「偶然」という言葉では片付けられないようなことが多々あります。あれもこれも神さまの奇跡と考えるならば、世界観が変わってきます。
こんな話を聞きました。あるとき、駐車場で混み合っていて、駐車スペースが全然見つからなかったそうです。そこで、じれてしまって、思わず神さまに文句を言いました。「神さま! 停める場所を下さったら、これから、毎週礼拝に出かけますよ!」ちょうどその時、目の前で、車を動かそうとしている人が見つかりました。すぐさま、その場所に車を停めることができました。すかさず、こうお祈りしたそうです。「神さま。大丈夫です。お気になさらないで。今、場所が見つかりましたから!」神さまは、心躍るような素晴らしい体験は、数多く与えてくださっているはずです。しかし、私たちはそれを「ラッキー」の一言で片付けてしまうのです。人間中心の罪の世界に生きていますから、必ずしも良いことばかりが起こるわけではありません。しかし神さまは、絶妙のタイミングで門戸を開いてくださいます。私たちの人生で起こる一つ一つのことは、神さまの指揮棒さばきで、奏でられているのです。「私は、子供の更生のために2年間も祈ってきましたが、まだ何も起こりません」「経済の祝福のために祈っていますが、実際の収入は減る一方です」このような声を耳にすることがありますが、恐らく神さまが全ての物事の背後で、指揮棒を振っておられることを、ご存知ないのだと思います。目に見える形が何もないからといって、神さまが働いておられない訳ではないのです。目に見える部分は氷山の一角にしか過ぎません。神さまの働きは、その何倍もあるのです。
心のオアシス 2016年8月21日
シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたからいい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしてたかではなくって、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんながかしずいてくれる。それに比べて、自分が乞食の役だったとしたらば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしてなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかも知れないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるんですから。
(渡辺和子著書より抜粋)
「どれだけの物を手に入れたか?」「どれだけの成功をおさめたか?」ということに注目が集まってしまうこの世の中で、私たちはもう一度、それで本当にいいのか?ということを問わなければならないと思う。「役に立たない障がい者は生きている価値はない」という理由で人を殺すという事件が最近発生しました。でも実際に殺人はしなくても、同じように考えている人間がいるという現実に唖然とします。不公平に思えますが、神さまは、個々に違うタラントを与えられました。ところが、それぞれの違うタラントが、支えあって人間社会が成り立っているということに不思議を感じます。神さまは、それぞれの人間に「役」を与え、その人らしい生き方で神さまの栄光を現したかをご覧になっておられるのです。
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
心のオアシス 2016年8月14日
メキシコでの話です。夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。さらに近づくと、それはヒトデでした。男は、引き潮で波打ち際に取り残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。「やぁ、こんばんは。さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」「ヒトデを海に帰してやってるのさ。見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。俺がこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」「そりゃぁ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな?! それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けても、何にもならないと思うがな」これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾い上げ、海に投げ入れました。「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ、海に向かって投げ入れました。
たとえ、私たちがこの世界の歴史の一部分を担っているとは言えども、一人一人の役割は微々たるものに思えます。自分という存在に価値はない、いてもいなくても同じだと考える人もいることでしょう。しかし、大海の水も一滴一滴が集まって成り立っているように、そのどうでもよさそうな一滴がなければ海にはなりえないのです。私たちは、神の歴史の一旦を担うために、必要な存在として、この時代に創造され置いておられるのです。誰も意味のない人はいません。誰の目にも留められないようなあなたの存在や、与えた小さな愛や親切も、天においては大きなことなのです。
「あなたはわたしの目には高価で尊い」(イザヤ43:4)