心のオアシス
心のオアシス 2017年2月12日
ある村から、一人の若者が隣の村に住むために移動していました。
途中で一人の老人に会いました。この若者は、この老人に聞きました「私が今から行こうとしている隣の村には、どんな人が住んでいますか?」老人は、それを聞いて逆に問いました「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人が住んでいましたか?」すると若者は言いました「あの村には、もう二度と入りたくありません。とても不親切な人ばかりで、嘘はつくし、友達なんて一人もできませんでした。とんでもない村でしたよ・・・」そうすると老人は答えました「今からあなたが行こうとする村も、同じような人々が住んでいますよ・・・」30分ぐらいして、前の若者と同じ村から別の若者が出てきて、やはり隣の村へ行こうとしていました。その若者は、途中で老人に出会いました。そして前の若者と同じ質問をしました「今から隣の村へ行こうとしているのですが、そこにはどんな人々が住んでいるのですか?」老人は逆に質問しました「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人が住んでいましたか?」そうするとその若者は言いました「あの村には、本当に良い人たちばかりで、親切な人たちばかりでした。親しい友人もたくさんできました。とても名残惜しいのです。」そうすると老人は言いました「今からあなたが行こうとする村も、同じような人々が住んでいますよ・・・」
この話は、私たちの心の目の状態によって、その人の人生は大きく変わるのだということを教えていると思います。
アメリカの有名な発明王トーマス・エジソンは、「失敗すればするほど、我々は成功に近づいている。失敗なんかしちゃいない。うまくいかない方法を700通り見つけただけだ。」と言いました。この地上という同じ土俵の中で同じ境遇の中にいても、幸せだと感じる人もいれば、不幸せだと感じている人もいます。考え方一つで、私たちは人生の途中の辛いプロセスさえも楽しみながら生きることができるのです。
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(聖書)
心のオアシス 2017年2月5日
ある牧師が、聖書の時間に質問を受けたそうです。「イエス様は、どうしてイスカリオテのユダのような人を弟子にされたのでしょうか?」この突然の質問に、牧師は適切な答えができず、少し研究してから答えると口をにごらせました。その後、その牧師はみことばを詳しく読み、注解を読み、祈ったりしましたが、満足のいく答えが得られませんでした。そんなある日、この問題についてもう一度黙想していたとき、ふと他の質問が心に突き刺さりました。「なぜ主は、私のような人間を主のしもべとして選ばれたのだろう。」牧師は、自分に対するこの衝撃的で挑戦的な質問に言葉を失いました。溢れ出る涙を抑えることができませんでした。忠誠を尽くせず、最善も尽くせなかったことへの後悔が一度に押し寄せてきて、胸が張り裂けそうでした。名誉やお金や人気に染まった自分の姿は、まさにイスカリオテのユダの姿でした。イスカリオテのユダを非難の対象にしている時は、答えが得られなかったのに、自分にその非難の目を向けたとき、ようやく悟りました。主が間違って選ばれたのではなく、選ばれた者が罪と咎によって生きていることが問題だったのです。
その日以来、この牧師は変化し始めたそうです。自分の改革から始めると、周りも変わり、ついに教会全体が変わったそうです。
私たちは、球場の観客席に座って、プレイヤーのミスを指摘し、非難する毎日を送っています。世の中は、それがエンターテインメントのようになっています。毎日のようにして、芸能人や政治家批判をしています。評論家は、全く非の打ち所のない人生を歩んでいるのでしょうか? 売春で捕まった一人の女性が、イエスさまの前に引き出されました。人々は石を握って言いました。「法律では、『このような者は、石で打て』とありますが、あなたならどうしますか?」イエスさまの返答は、「この中で罪のない者が打ちなさい」その言葉を聞いた人々は、年寄りから順に石をその場に置いて去ったと新約聖書に記録されています。
私たちはただ神さまの恵みによって選ばれ生かされているのです。それに応える生き方をしたいですね。まずは自分の改革からスタートです。
心のオアシス 2017年1月29日
1988年に、Drランドルフ・バードが、サンフランシスコ総合病院の心臓病集中病棟の患者393名の協力を得て行った研究で、このようなことがなされたそうです。米国内のさまざまな場所にいるクリスチャンの集団が、指定された病人たちのグループのひとりひとりに対して祈りを行いました。そしてもう片方の患者のグループには、誰も祈りませんでした。そして祈りという要因を除いては、すべての患者は同じハイテクな治療を受けました。これは専門用語では二重盲検法という用語が使われるわけですが、つまり、患者、医師、看護婦のすべてが、誰が祈られ、誰が祈られていないかわからないよう配慮されました。その結果、バード博士は、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的にみて明らかに有意に良くなっていることがわかったということです。
また祈りの距離というものも、祈りの効果を左右する要因にならないことがわかったそうです。すなわち、東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りとまったく同様に効果的だったことがわかりました。
バード博士はこう言います。「もし、なんらかの物理的なエネルギーが送られているのであれば、遠距離より近距離の方が、祈りの力はよりパワフルになるはずである。なぜなら、物理的なエネルギーならば、距離と共に弱まるからである。祈りの効果は、覆って遮断したり、封鎖したりすることができない。とういうことは祈り手から相手に向けてある種のエネルギーが送られているわけではないのである。離れた場所からの祈りがどのように作用するかについては、現在のわれわれの科学は無知であるということからすれば、『神の力がはたらいたのだ』と信じる人々は、自分たちの主張にあらためて自信をもつべきであろう。このような考えは、どのような説にもまして、最良の説明のように思われるからだ。」
何とクリスチャンではない博士の「祈り」の研究によって、クリスチャンたちが励まされることになるなんて滑稽ですが、衝撃です。確信を持って祈ろうではありませんか。私たちの奥の手は「祈り」です!
心のオアシス 2017年1月22日
小学校の劇などでも用いられている「花さき山」というお話があります。アヤという女の子が、祭りが近づいているので母親から山菜を取ってくるように言われて、山の中へ入っていきました。奥のほうへ進んでいくうちに、見たこともないような綺麗な花が、一面に咲いている花園へ来ました。そこでヤマンバと出会います。ヤマンバ「どうしてこの花、こんなに綺麗なのか知ってるかい? この花は、ふもとの村の人間が優しいことを一つすると一つ咲く。ほら、そこにもまた、花が咲いた。そのつぼみは誰かが今咲かせようとしているんだ。そこに、露を乗せて咲きかけてきた小さい青い花があるだろう? それは小さな双子の赤ちゃんの上の子の方が、今咲かせているものだ。その花は兄弟といっても、同じ歳のわずかな後先で生まれたものが、自分は姉ちゃんだと思ってじっと我慢している。妹は、母親のおっぱいを飲みながら、片方も手で押さえて放さない。そのとき上の子は、それをじっと見て、自分は姉ちゃんだから一生懸命、我慢している。目に涙をいっぱいためて・・・その涙がその露だ。この花さき山、一面の花は、みんなこうして咲いたのだ。」
山菜を採りにくる前に、アヤとお母さんの間にこのような会話がありました。母親「今年の祭りもにぎやかになりそうだなぁ」アヤ「私も綺麗な浴衣を着て行きたいなぁ」「そうだね。アヤも大きくなったから、今年は新しい浴衣を買ってやろうか?」「本当に?! 嬉しいなぁ!」それを聞いていた妹が言いました「私もみんなのように赤い浴衣買ってよ~」とダダをこねました。二人には買ってやれないお母さんは困りました。その時、アヤは言いました「お母さん、私はいらないから妹に買ってやって」・・・ヤマンバは言いました「その花は、お前が咲かせた花だ。自分は我慢して、お母さん、私はいらないから妹に買ってやれ、と言ったとき、お母さんは、どんなに助かったか・・・妹はどんなに喜んだか・・・お前はせつなかっただろうけど、あの赤い花が咲いた。あの赤い花は、どんな祭り着の花模様より綺麗だ!」
天に宝を積むとは、これに似た世界があるように思えてなりません。
心のオアシス 2017年1月15日
按手を受けて間もない若い牧師が、ある教会に赴任したそうです。そこで、受け入れ教会では新しい牧師を歓迎する晩餐会が開かれました。ある信徒がその新任牧師に近づいてきて、このように質問したそうです。「先生はなぜ、700人にもなる人々の要求を満足させなければならないような、辛い仕事を引き受けられたのですか?」すると、その牧師はためらわずに答えました。「私がこの教会に来たのは、700人を喜ばせるためではありません。ただひとりの方を喜ばせるために来たのです。神さまが喜ばれるなら、残りのすべては自然にうまくいくでしょう!」
私はこの言葉に「アーメン!」と同意しました。関西カルバリーフェローシップの開拓伝道に対して、ほとんどストレスを感じることなく、むしろ楽しく7年目を迎えることができたのは、ここがポイントだったのではないかと思わされています。もし、私が能力のある牧師であったならば、思うようにいかない現実に挫折してしまうこともあったでしょう。幸いなことは、能力はない、自信もない、経済力もなかった故に、神さま任せにできたということです。自分がすることは、自分が持っているベストを神さまに捧げること。そこで神さまが成されている現実を受け止めるということ。起こっている現実に、多少の感情的な浮き沈みがなかったわけではありましたが、いつも原点に戻ると楽になりました。目の前の会衆が2、3人であることが何ヶ月続いても、神さまが送られてきたこの人たちを感謝するようにしました。少しずつ人数が増えてきたのに何らかの理由で他教会へ移動されるような人たちがでたときには、「神さまが、この人たちを必要としている教会へ動かされているのだ」と思えば、瞬間に割り切ることができました。礼拝は現在約50名の方々が集われるようになりましたが、人数を気にするようになったら牧師として失格だと思っています。たとえ10名に減ったとしても、1名しか残らなかったとしても、神さまのためにベストのご奉仕を続けられるかということだと思います。私たちがそれぞれの場所で、各自が神さまから委ねられたことをしっかり果たすなら、その人生は成功なのです。
心のオアシス 2017年1月8日
2017年の関西カルバリーフェローシップの聖句は、ローマ人への手紙8章31節「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」です。私たちの安心度数は、誰と一緒か、何を持っているか、どこに繋がっているかなどによって左右されます。ですから、絶えず自分の手持ち(人材・能力・体力・健康・財力など)を見て、一喜一憂しながら歩んでいます。でももっと安心できる人生があるとするならば、それは神の手に握られることです。なぜなら、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)からです。
私たちのゼロ開拓伝道は今年で7年目になります。スタートした時点で、教会堂がない私たちは、公民館などを借りて集会をしていました。しかし追い出されるようなこともありました。人材が必要になった時もありました。でも窮地に立たされた時、必ずそれがプラスへと転じていったのです。それは祈りを通して開かれていく世界でした。これらを通して、「神が味方なら何でも可能だ」という信仰が強められていきました。
私たちは、誰の手に握られた人生でしょうか? 本当に仕えるべきお方に握られ、従っているなら、その人の人生は、平安になるでしょう。
昨年の11月、ラブソナタという集会で、NHKの人気韓流ドラマで、美しい主題歌の旋律を奏でるフルーティストのソン・ソルナムさんが、いつも使っている3本の笛を出して、こんな話しをされました。「この中で一番高価なのは、プラチナ製の1千万円以上するフルートです。次に高いのは、銀製の数百万円のフルートです。そして、一番安いのは、この2千円の縦笛です。ボンドで修復しながら使っています。この中で、フルーティストとして今まで一番稼ぐことができたのは、この一番安い2千円の縦笛です。物の値段や価値はあまり関係ありません。誰の手に握られているかが重要なことなのです。」
あなたは失敗ばかりの凸凹人生ですか? 神が味方なら大丈夫です!
心のオアシス 2017年1月元旦
新年明けましておめでとうございます。
皆さまのお祈りに支えられ、開拓伝道7年目に入りました。今年も主のご計画の中で導かれていくことを切に願っています。
お祈りに覚えていただければ幸いです。神さまの祝福を心よりお祈りいたします。
関西カルバリーフェローシップ
牧師 小崎淳広 協力伝道師 道本賢司
一人の女の子が書いた感動の実話を紹介します。
おじいちゃんは老いてから手足が不自由でトイレも1人では厳しい。だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしていた。おばあちゃん以外の人が下の世話をするのを嫌がったからだ。ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。おじいちゃんと留守番してると申し訳なさそうに「モモちゃん、悪いんだがトイレに…」と言った。私は本当に馬鹿だなって思った。おじいちゃんは、一人じゃトイレに行けないことを知っていたくせに気が付いてあげられないなんて・・・孫、それも女の子には言いづらかっただろうなって。トイレに行くとパンパースが小と大で汚れていた。たくさん我慢させてしまった。私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。お風呂場で体を洗ってパンパースつけてホッとした。同時におばあちゃんは毎日これをしてるんだと思うと何とも言えない気持ちになった。そして「悪かったね、ありがとう」って五千円をくれようとした。おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。おしめを変えて育ててくれたのは貴方・おじいちゃんじゃないですか。幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。あれは無償の愛でしょ? 私はおじいちゃんが大好きだよ?だからお金なんかいらないんだよって言った。2人してちょっと泣いた。(「無償の愛」より引用)
この世の中には“条件付きの愛”が溢れています。夫婦の愛、男女の愛、師弟愛・・・どれも自分の好みでいる間や、自分の益になっている間は、受け入れ愛することができますが、条件が整わなくなったら、気分次第で簡単に切ることもできます。私たちの安息は、無条件(無償)の愛の中にのみ見出すことができます。そこには裏切りも恐れも不安もありません。今年は安定した神の愛の腕の中で過ごしませんか?「神は愛なり」
心のオアシス 2016年12月25日
動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては、外の窓越しに眺めていました。ある日、少年の大好きな子犬が6匹入荷したので聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ。」「2万円もするの?」少年の持ち合わせでは買うことはできません。店主が一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていると、一番最後の6匹目の犬は、左の後ろ足が短くて、歩く時バランスを崩していました。少年は聞きました。「おじさん、この犬はいくら?」「君が買ってくれるのなら、この犬は半額にしてあげよう。」しかし少年はニコリともしません。それを見た店主は言いました。「じゃ、それならタダでいいよ。」そうすると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、タダは駄目だよ。」「そうか? じゃ、半額にしておこうか?」そうすると少年は言いました。「半額も駄目だよ。この犬は他の犬と同じように定価で売らなきゃダメだよ。2万円で僕が買うよ。」その言葉に驚いた店主は言いました。「いや~、これは足が悪いんだ。だから半値でも売れないからタダでいいんだよ!」「おじさん! タダも半値もダメだよ。これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対に誰にも譲らないでね!」と言い残して少年は家に帰って行きました。ペットショップの店主が、その少年の帰って行く後姿を見てハッとしました。「今まで、何年も顔は見ていたけれど、そうだったのか・・・あの少年の左足も少し短いんだ・・・」少年の歩く姿を見ていると、ハッキリそうだとわかりました。自分が「半額でいい。タダでいい」と言ったのを少年は「タダなんて駄目だ」と言った意味が初めてわかりました。少年は子犬に障がいがあるから2万円の価値がないとは思わなかったのです。なぜなら自分自身に障がいがあるからといって他の人より価値のない人間だとは思わなかったからです。
クリスマスは、あなたがどんなに罪があっても、この世で評価されなくても、価値ある存在として神さまが見ていてくださる証しです。イエスさまは、十字架で私たちの罪の支払いをするためにこの地上にきてくださった神さまからのプレゼントなのです。 Merry Chrstmas!
心のオアシス 2016年12月18日
ある男性が川辺にいました。大雨が降って川が増水して、人々は避難を始めました。しかし、その男は言いました「私は、神に愛されているから、祈っていれば、どこかへ移されるから大丈夫です。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。そしてボートに乗った人が男に声をかけました「そこの人!避難しなければ危険だぞ! すぐにこのボートに乗りなさい!」しかし男は答えました「私は神に愛されている。祈れば必ず助けてくださる」しばらくしてヘリコプターが飛んできて、メガホンで叫びました「はしごをたらすから、それにつかまりなさい!」しかし男は言いました「神に祈れば、安全な所へ連れて行ってくれるから大丈夫!」やがて男は溺れて死んでしまいました。
その後、彼は天国の門に立ち、神に面会を求めました。「私は、あなたに祈りを捧げましたし、愛されていると思っていました。なのに、どうしてこんな目にあわなければならないのですか?」神は言いました「私はあなたを助けるために、無線の連絡とボートとヘリコプターを差し向けました。なのに、どうしてあなたはここにいるのか?」
もし、この例話の意味を理解することができれば、私たちは、次のレベルへ上がることができます。すなわち、神さまは、一分一秒たりとも、私たちをほったらかしにされることはないばかりか、私たちにとって、いつでも「良い神様」なのです。私たちは、神さまが直接何かをしてくださることを期待し、目に見えなければ、まだ助けられていないと錯覚しますが、実は、私たちの瞬間瞬間は、神さまの御手の中にあるのです。神さまは、直接的よりも他者や様々な出来事を通して、私たちに語りかけておられることの方が多いように思います。
当たり前と思える毎日の中に、感謝すべきことは沢山あります。寝返りをうてるだけでも感謝。食べることができることも感謝。喧嘩する相手がいることも感謝。この神様の内に、生き、動き、存在させていただいている恵みを、もっと敏感に感じるなら、すべてが新鮮で輝いて見えるようになります。「主にあって喜びなさい。」(ピリピ3章1節)
心のオアシス 2016年12月11日
私たちが他者に対して優しくなれる方法があるとするならば、このような意識を持つことが良いのではないかと思われます。それは、「他者は神さまから私に遣わされた存在」と意識することです。
トルストイの「靴屋のマルチン」は、そのことを教えるストーリーです。靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はあなたの家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか・・・」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」その言葉と同時に、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。皮膚病で苦しんでいる人をさすり、死を間近にしている人たちに惜しみなく親切を尽くしたマザー・テレサも、かつてこうおっしゃっておられました。「この仕事は、いくらお金を積まれてもできるものではありません。ただこの人たちを通してイエスさまに触れているという確信がある故に可能なのです。」
神の存在を抜きにして、恵みの人生は絶対にありえないのです。