礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年9月4日

 日本人は、「神が人間を創造した」という話を聞いても、違和感をもたれる人たちが多くいます。なぜなら、小学生のときから「人間は進化した」と教え込まれていて、それが当然のように考えているからです。
 進化全体を説明する唯一の要因は「偶然」です。揺り返す原子のスープから「偶然」にアミノ酸が作られ、その「偶然」の繰り返しによってDNAが合成され、さらなる「偶然」によって生命を持つ細胞が形成され、後はその生物がひたすら「偶然」によって進化を遂げていきました。この「偶然」は、箱の中に車の全ての部品を入れて、揺すぶっていたら車が完成しましたという計算上不可能としかいいようのないほど小さな確率を次々と突破して進化していったというのです。しかし「偶然」は「無目的」です。学校でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から偶然に化学進化した存在であるかぎり、説得力は全くありません。物質から生まれ、長くても100年そこそこ生きて、やがて無に帰っていくだけの存在の何が尊いのでしょうか? 人間は「コンピューターを作る」「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いとは言えません。それは自己尊厳を正当化するために考え出した人間の主張にしかすぎません。鳥が「空を飛べるから人間より尊い」と主張しているのと変わりません。何を根拠に人間の命は尊いと決めたのでしょうか? それは、ただ死ぬのが怖いからです。自分の命を守るために命が尊くあってほしいのです。それ以上の根拠はありません。
 では聖書は人間の存在価値について、どのように説明しているのでしょうか? 人間は神に似た人格を持つ最高の存在として造られ、神に愛されていること、これが人間という生き物の始まりで、神の目には「極めて良い」という完璧な人格と体をもってスタートしたのです。創造主が人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるから、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣言されること以外に人間価値の絶対的な根拠はありません。

 “あなたは、わたしの目には高価で尊い”(イザヤ書43章4節)

心のオアシス 2016年8月28日

 私が最近、考えていることは、私たち一人一人の毎日、瞬間瞬間は、神さまの奇跡の連続であるということ。勿論、神さまの側では、それは「奇跡」ではなく、「業」であろうと思います。私の人生を振り返ると、必ずポイントポイントに、色々な形で助けてくださった人たちがいました。ずっとお付き合いをしているわけではありませんが、一時的にでも、その人がいなければ、どうなっていたかわからないようなことが沢山ありました。どう考えてみても「偶然」という言葉では片付けられないようなことが多々あります。あれもこれも神さまの奇跡と考えるならば、世界観が変わってきます。
 こんな話を聞きました。あるとき、駐車場で混み合っていて、駐車スペースが全然見つからなかったそうです。そこで、じれてしまって、思わず神さまに文句を言いました。「神さま! 停める場所を下さったら、これから、毎週礼拝に出かけますよ!」ちょうどその時、目の前で、車を動かそうとしている人が見つかりました。すぐさま、その場所に車を停めることができました。すかさず、こうお祈りしたそうです。「神さま。大丈夫です。お気になさらないで。今、場所が見つかりましたから!」神さまは、心躍るような素晴らしい体験は、数多く与えてくださっているはずです。しかし、私たちはそれを「ラッキー」の一言で片付けてしまうのです。人間中心の罪の世界に生きていますから、必ずしも良いことばかりが起こるわけではありません。しかし神さまは、絶妙のタイミングで門戸を開いてくださいます。私たちの人生で起こる一つ一つのことは、神さまの指揮棒さばきで、奏でられているのです。「私は、子供の更生のために2年間も祈ってきましたが、まだ何も起こりません」「経済の祝福のために祈っていますが、実際の収入は減る一方です」このような声を耳にすることがありますが、恐らく神さまが全ての物事の背後で、指揮棒を振っておられることを、ご存知ないのだと思います。目に見える形が何もないからといって、神さまが働いておられない訳ではないのです。目に見える部分は氷山の一角にしか過ぎません。神さまの働きは、その何倍もあるのです。

心のオアシス 2016年8月21日

 シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたからいい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしてたかではなくって、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんながかしずいてくれる。それに比べて、自分が乞食の役だったとしたらば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしてなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかも知れないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるんですから。
(渡辺和子著書より抜粋)
 
 「どれだけの物を手に入れたか?」「どれだけの成功をおさめたか?」ということに注目が集まってしまうこの世の中で、私たちはもう一度、それで本当にいいのか?ということを問わなければならないと思う。「役に立たない障がい者は生きている価値はない」という理由で人を殺すという事件が最近発生しました。でも実際に殺人はしなくても、同じように考えている人間がいるという現実に唖然とします。不公平に思えますが、神さまは、個々に違うタラントを与えられました。ところが、それぞれの違うタラントが、支えあって人間社会が成り立っているということに不思議を感じます。神さまは、それぞれの人間に「役」を与え、その人らしい生き方で神さまの栄光を現したかをご覧になっておられるのです。
 「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

心のオアシス 2016年8月14日

 メキシコでの話です。夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。さらに近づくと、それはヒトデでした。男は、引き潮で波打ち際に取り残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。「やぁ、こんばんは。さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」「ヒトデを海に帰してやってるのさ。見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。俺がこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」「そりゃぁ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな?! それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けても、何にもならないと思うがな」これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾い上げ、海に投げ入れました。「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ、海に向かって投げ入れました。
 たとえ、私たちがこの世界の歴史の一部分を担っているとは言えども、一人一人の役割は微々たるものに思えます。自分という存在に価値はない、いてもいなくても同じだと考える人もいることでしょう。しかし、大海の水も一滴一滴が集まって成り立っているように、そのどうでもよさそうな一滴がなければ海にはなりえないのです。私たちは、神の歴史の一旦を担うために、必要な存在として、この時代に創造され置いておられるのです。誰も意味のない人はいません。誰の目にも留められないようなあなたの存在や、与えた小さな愛や親切も、天においては大きなことなのです。
 「あなたはわたしの目には高価で尊い」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2016年8月7日

 ある大学で社会学を学ぶ生徒たちが、ボルチモアのスラム街に住む少年200人を対象に、ひとりひとりの家庭環境と生い立ちを調査しました。そしてこの調査結果をもとに少年たちの将来性についてのレポートを作成しました。するとどの学生も、これらの少年たちには何の将来も期待できないだろうと書いたのでした。それから25年後のこと、ある社会学の教授がこのときの調査研究を見つけ、当時の少年たちがその後どうなったか学生に調べさせました。ところが、引っ越したり、死亡した20人を除いた180人のうち、何と176人が人並み以上の成功をおさめていることがわかったのです。教授はこの報告に大変驚くと共に、興味をそそられ、さらに詳しく調べることにしました。幸い、調査対象になった人たちはまだその地域に住んでいたので、教授は自らそのひとりひとりに会いに出かけ、こう質問したのです。「あなたを成功に導いたものは何だったのですか?」すると、誰もが感慨を込めて、ある先生の名前を挙げたのでした。教授は、まだ健在だというその女の先生に是非会いたいと思い、訪ねていきました。そして、年はとっていても、しゃんとしたその先生に、こう尋ねたのです。「スラム街からあんなに大勢の成功者が出るなんて驚きました。あなたは、一体どんな魔法を使ったんです?」その先生はパッと顔を輝かせ、口元に微笑を浮かべると、こう答えたのです。「とても簡単なことです。私は生徒たちを愛したのです」

 マザー・テレサの言う「行く先々で愛をふりまきなさい。まずは、自分の家から始め、子どもたちに、伴侶に、そして隣の人に愛を与えなさい。あなたに会いに来る人を幸せな気分にして帰しなさい。神の優しさをあなたが身をもって示しなさい。あなたの表情にも、まなざしにも、笑顔にも、心を込めた挨拶にも、神の優しさを宿すことによって。」これをみんなが実践できたら、世界は変わるでしょうね。
 かつて明治の義人と言われた田中正造は言いました。「人は神に愛育されて愛の心にあふれる」私も切に実践できる者になりたいと願います。

心のオアシス 2016年7月31日

 W.ミッチェルは、46歳の時に、オートバイ事故で人相が変わるほどの大やけどを負い、その4年後、今度は彼の操縦する飛行機が離陸に失敗して滑走路に墜落し、脊椎は12箇所もつぶれ、下半身麻痺となった。
 彼は初対面の人にショックを与えるほどの外観と思い肉体的障害をかかえながらも、彼はボートでの急流下りを始め、結婚もした。公共事業管理の修士号を取り、飛行機の操縦も続け、環境問題に取り組み、講演活動も行なってきました。彼はあらゆるテレビ番組にも取り上げられ、多くの雑誌にも特集記事が載った。彼は聴衆にこう語りかけています。「半身不随になる前は、わたしには自分でできることが1万はあったのですが、今では9千に減ってしまいました。しかし失ってしまった1千のことにいつまでもこだわっているより、残った9千のことに力を入れる方が得策です。ご存知の通り、わたしは今までの人生で二度の大きなつまずきを経験しています。でも、だからといって人生をあきらめたりせず前向きに生きてきました。それゆえどんな困難にぶつかった時も、視点を変えると物事が違って見えることを学んだのです。そう、一歩下がってみれば、視野が広がり、『なんだ、結局のところ、たいしたことではなさそうだ』と思えるようになるのです。肝心なのは、自分に何が起こるかではなく、起こったことに対して何をするかということです。」

 とても良い前向きなお話ですが、ただ「考え方を変える」とか「視点を変える」ということだけなら、巷の啓発的な物の考え方と全く同じです。私たちには、考え方や視点を変えることができない弱さもあります。「わかっちゃいるけど変えられない」のです。このような時にこそ、自分で変えようとするのではなく、神さまに変えていただける世界があることも学ぶ必要があるでしょう。「自分は、ただ神さまを信じて心にお迎えしただけなのに、自分の考え方や視点が変わって楽になった!」「このように自分が変わりました!」という人たちのお証を教会の中で聞くことができます。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)

心のオアシス 2016年7月24日

 いくつかの逸話をご紹介します。

☆電球など発明したトーマス・エジソンは、教師に「頭が悪くて何一つ学ぶことができない生徒と酷評されていた。
☆ウィンストン・チャーチルは小学校6年の時に落第。62歳で英国の首相に就任するまでは、挫折と敗北続きの人生だった。大きな功績を残したのは、高齢者と呼ばれる歳になってからでした。(モーセも80歳から大きな仕事をしました。)
☆ピーター・J・ダニエルが小学4年生の時、担任のフィリップス先生は彼の顔さえ見れば口癖のように、「ピーター、あんたはどうしようもないできそこないね。大きくなっても、ろくな人間にはならないでしょうよ」と言っていました。実際、ピーターは26歳になるまで全く読み書きができないままでした。しかし、一晩かかって『ナポレオン・ヒルの巨富を築く13の条件』を友人に読んでもらったことで人生が変わった。今や彼は、かつてよく喧嘩をしていた隣町に土地を所有し、最新作『フィリップ先生、あなたは間違っていた』を出版しました。
☆大リーグで大きな記録を更新し続ける、あのイチロー選手は、少年時代から将来野球選手になって活躍する夢を語ると、いつもみんなに笑われたことを、告白していました。

 映画「天国からの奇跡」は感動でした。私たちの人生には、必ず誰かが関わっていて、良きにしろ悪きにしろ、必ずそこには神さまの手が差し伸べられているということを改めて感じました。思えば私も振り返ると、必要な時に救いの手を差し伸べてくださる人々がいたことを認めざるを得ません。そしてKCFの開拓から今に至るまで、神さまが様々な人々を用いて、教会を助けていてくださっていることを強く感じています。
「通りよき管として、私を用いてください!」これが私の毎日の祈りです。今日も誰かが神さまからの管として私に繋がり、私が助けられ、私も他者に繋がり、神さまの恵みを伝えていく・・・栄光在主。

心のオアシス 2016年7月17日

 ウェストミンスター寺院の地下室には、次のような碑文が刻まれた英国国教会主教の墓がある。

 何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが、年を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。
 だが自分の国も変わらなかった。
 老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。
 だが、悲しいことに、これすらままならなかった。
 今、私は死の床についている。なんと、今になって初めてわかったのだ。変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。自分が変われば、家族も変わっただろう。
 そして家族に励まされ支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。
                          作者不明
 
 多くの人たちは、自分の回りを変えようと必死になっていますが、失望に終わります。なぜなら、他の人もあなたを変えたいと思っているからです。まず変えなければならないのは自分自身だということ。でも、それに気付いても、なかなか変えることができないのも事実です。「自分の最大の敵は自分」という格言にあるように、自尊心と自己愛に満ちている「自分」をどうしたら良いのでしょうか? 結局、神さまに行き着いてしまいます。私たちの創造主に繋がることによってのみそれが可能になるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15章5節)

心のオアシス 2016年7月10日

 ある新人俳優が、一緒に出演していた先輩の俳優について語ったことを聞いたことがあります。当時、その先輩は、自分の撮影の時間がまだまだ先なのに、誰よりも早く来て待っていました。新人の俳優が不思議に思って、どうして時間に合わせて来ないで、毎回、早く来るのかと聞くと、その先輩は「待っている時間は、意味のない時間ではなく、現場の中で考え、準備する時間なんだ。人生というのは、何かを直接する時間よりも、そのことのために待つ時間のほうが多い。待っているうちに、じっくり熟していくってわけだ。人生っていうのは、みなそういうものだ」と答えたそうです。旧約聖書に登場するネヘミヤは、廃墟となった故郷のために4ヶ月祈りました。そして約4ヶ月が過ぎた後、王に助けを求めることのできる機会が与えられました。彼にとって、4ヶ月は血のにじむような時間でしたが、なくてはならない時間でした。事を成熟させる時間だったのです。私たちにもそのような時間が必ずあります。あらゆる思い煩いや不安が続いても、神様はすぐに答えてくださらないときがあります。私たちは待つしかなく、その時間は意味のない時間のように感じられます。あらゆる考えが行き交う中で、挫折と絶望、あきらめなどが深まっていく時間もその時です。その時間を通して、私たちは低くなり、謙遜になります。
 ですから、その時間は神様が私たちをじっくり熟させる時間であって、決して無駄な時間ではありません。後になって初めて、それが最も尊い時間だったことがわかるようになります。いつものように自分の仕事を忠実に行ないながら、待たなければなりません。それは決して無意味な時間ではないのです。   (「祈りが始まりだ」チェ・ヨンシク著より)

 聖書は、絶えず「待つ」ことを教えています。旧約時代には、救い主の到来を待つことが要求されました。そしてイエスさまは、天にお帰りになる前に「エルサレムで、父の約束を待っていなさい」と言われました。神さまからの答えをいただくまでの時間は無駄ではありません。祈りに対する答えは、実は待っている時間そのものなのかもしれません。

心のオアシス 2016年7月3日

 日本人が、他国の人たちから不思議に思われていることの一つが、「自分には特定の宗教はありません」と言いながら、結婚式はキリスト教式で葬儀は仏式、初詣は神社へ行くといった人たちが多いということです。良い言葉で表現するなら、宗教的には非常に寛容だと言えますが、悪く言えば非常にいい加減な国民だと言われています。そしてどの神さまも平等に扱おうとする民主主義の精神が、そんなところにまで行き渡っています。そしてその神々の中から、自分の考え方や経験や感性や好みに合ったものを、その時その場に合わせて自分の神として利用するのです。人間が神に絶対無条件的に仕えるというより、人間が神々に条件をつけて、人間様の要求に神々を従わせているのです。ですから、神々を拝む目的は当然、物理的、精神的ご利益や保護を引き出すためにあります。  
 日本のある村では、七十数カ所もあった神社を経費節減のために4箇所にまとめてしまうという大規模改革が行われました。実際はつまらない神を整理してしまったのです。神々も人間のさまざまな要求に答えなければならないので大変です。要求に答えられなければ捨てられてしまうのです。いろいろな名前をつけられ、木や石、紙や金属の中に閉じ込められ、同じ言葉の繰り返しを聞かされ、人間に奉仕しなければなりません。結局、宗教とは人間の都合に合わせて作られたものと言われても仕方がないようです。
 キリスト教は宗教ではないとクリスチャンたちが言いたがるのは、宗教が人間を起源とする教えだとすると、キリスト教は神ご自身を起源とする神が主役であり、神が中心になっているからです。人間の側に主導権がないことほど不利益はないでしょう。しかし、よく考えてみるならば、この世の不利益は、すべて人間主導の世界から発生しています。アダムとエバがエデンの園から出てこの世に生きるようになったことから、今の時代の様々な問題や争いに至るまでの全ての悪の根源は、人間の自己中心から起こっているのです。そろそろ自分主導を諦めて、神さま主導に切り替えてみられたらどうでしょうか? God is good all the time!