礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年11月13日

 アメリカのある教会であった出来事です。大学で行われた、クリスチャンの集会でジムという大学生がイエスさまを心に受け入れました。彼は少し変わった青年で、いつも同じ穴のあいた汚れたジーンズをはいて、いつも同じTシャツを着ていました。頭の髪もグチャグチャでしたが、彼のスタイルだったのです。日曜日に教会へ行くように勧められたので、学校の通りの向い側にある教会へ足を運びました。ところがその教会はとても保守的な堅い教会でした。礼拝に来る人たちは、みな正装していました。ジムが教会へ入った時は、時間ギリギリでしたので満席でした。彼は後ろの方から、空いている席を探しながら前へ進んで行きました。みんなの目がジムに集中しました。なぜなら頭はクシャクシャで、いつもの汚いティーシャツと穴の空いたジーンズ姿で、その場にはそぐわない格好だったからです。とうとう空席が見つからないまま講壇の前まで来ました。そして彼は講壇の前の床に座ったのです。それは大学の講義を受ける時、イスの空きがない時はいつも床に座っていたからです。それを見た、後ろに座っていた80歳位の髪の毛をキッチリと分け、3ピースのスーツを着た長老役員が、立ち上がって前へ歩き始めました。みんなは、その長老が汚い格好の大学生をつまみ出してくれることを期待していました。ところがその長老役員は、大学生のジムの所までくると、一緒に床に座ったのです。ジムはもう一人ぼっちではありませんでした。そこでその教会の牧師は話しました。「今日、私がする説教は数日で忘れるでしょう。しかし、今見たメッセージは一生忘れることはないでしょう!」拍手喝さいでありました。もし腹を立てて長老がジムをつまみだしていたら、彼は一生救われなかったでしょう。
 イエス・キリストは、神を知らず滅びへと向かっている私たちを裁くために来られたのではなく、私たちに寄り添うために、この地上に来てくださいました。そして私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けてくださったのが十字架の姿でした。犠牲がなければ本当の平和はありません。そしてそこに愛があるのです。これがHappy Lifeの入口です。

心のオアシス 2016年11月6日

 母親をとても憎み、うらんでいる、ある一人の受刑者がいました。その母親は、彼の幼少期に実家に預けたまま再婚してしまったそうです。彼は永い間「母親は俺を捨てて再婚するような冷たい女だ」と思い込んでいました。ところが、刑務所の独房の中で、そういった色々なことを考えているうちに、ふと、こんなことを思い出したそうです。小学校4年の頃、再婚先の母親を訪ねたことがありました。母親は、新しい夫に「太郎が来たから、こずかいやろうよ」と言って硬貨を一枚夫に見せて承諾をとってから彼に渡しました。帰り道、よくよく硬貨を見ると、一枚だと思っていた硬貨が、そうではなくて2枚だったのです。そのコインは、ご飯粒でつけてあって、はがそうと思ってもガチガチにくっついていたそうです。彼は帰り道にあった田んぼの水につけて硬貨をはがしました。こんなことを思い出しているうちに、涙が出てきました。「俺を捨てて再婚したと思ったけど、いつも心の中で俺のことを思い、俺が来るのを待っていてくれたんだ… 飯粒がガチガチになっているのを思うと、相当前から待っていてくれたんだな。新しい夫に気兼ねをしながらも、こっそり2枚もくれたんだ。母は、俺のことをいつも考えていてくれたんだ」その時以来、彼が今まで考えていた母親のイメージは急変し、彼の生き方そのものが変わったそうです。
 現実は何も変わらなくても、私たちの心の持ち方次第で、ハッピーライフに変えることはできるのです。同じように私たちの持っている「神」概念を変えると、新しい世界が広がります。私たちは、苦しみや悩みを取り除いてくれるのが、「神」だと考えています。誰がそう教えたのでしょうか? ただ人間が、そういうものを求めている故に、そのような神を造り、神はそういう存在なのだと勝手に決めつけているだけなのです。
 聖書の教える神の概念は、私たちの都合通りに動いてくださるお方ではなく、神の都合で動いておられるお方であるという認識を持つと、かなりの数の「何故?」がなくなると思います。そして神は私たちに最善をしてくださるという信頼が、委ねるという信仰に繋がっていくのです。

心のオアシス 2016年10月30日

 私は、整理整頓は好きなのですが、いつの間にか資料や手紙や本などの山ができることがあります。ペーパー類を、どのように片付けたら良いのかわからないので、そのままにしてしまうのです。ある時、家内が片付けファイルなるものを作ってくれました。それぞれの大きなファイルに「マニュアル関係」「手紙関係」「教会資料」など書かれたラベルを貼って、そこに山積みになっている資料を仕分けせよというのです。そこで私はそれぞれのファイルに仕分け作業を始めると、みるみるうちに書類の山が減っていきました。しかし、問題が発生しました。どのファイルにも属さない書類が出てくるのです。そのようなものを後回しにしていると、結局、最後には訳のわからない物が残ってしまい、頭が混乱して片付かないのです。そこで「理解できない」というファイルを作ってくれました。それはどこに所属しているのかわからないものを入れるファイルです。そこに残った物を全部入れたら、すべて整理できました。
 私たちの人生にも、理解不能な出来事が襲いかかってくることがあります。複雑な人間関係や自然災害やテロなどもそうでしょう。神さまに文句を言いたくなるようなことは、どこにでも転がっています。「どうしてだろう?」「何故、そんなことが起こるのだろう?」と悩み過ぎると、大変なことになってしまいます。もし、私たちの頭の中に、「理解できないファイル」を作って、そこに自分では理解できない事柄を全部入れてしまってみてはいかがでしょうか? そこに入れた物は、自分で解決するのではなく、全て神さまに委ねてしまうのです。そうするとけっこう楽になれますよ。それこそが神さまに信頼する者の姿なのです。
 神さまに信頼するとは、自分の思い通り、願い通りに事が進んでいる時だけではなく、想定外、願いとは逆方向の出来事に対しても、受け止めるということです。自分の願いではなく、神さまの願いの通りになっていることを喜ぶのです。これは夢を諦めたり、希望を持つなという意味ではありません。理想へと進むプロセスの中で、期待しつつ祈りながら、「今」という現実は感謝して受け止めるということなのです。

心のオアシス 2016年10月23日

先日、結婚式の司式を頼まれて東京へ飛びました。世界貿易センタービル内の式場で、待ち時間に40階のパノラマ展望台から東京を眺めていました。そこからは、上空の飛行機をはじめ眼下に広がる東京の街(東京タワー・富士山・東京スカイツリー・お台場・レインボーブリッジ・皇居・虎ノ門ヒルズ)やミニチュアのように見える電車や東京湾を行き交う船舶を一望できました。そして日が暮れると、宝石を散りばめたような美しい夜景が広がっています。そのような絶景を観ながら、ふとこんなことを考えました。「これだけの街を作るために、どれほどの英知が集められ出来上がったことだろう? でも、停電が起こっただけで、人々はパニック状態になってしまう・・・これほどの技術力を持っていても、人間はなんと、もろいことか・・・今や人工知能まで開発される時代になったけれど、結局人間は、支配していると思っている文明の利器に、支配されつつあるということに気付かないでいる。これから100年後、世界はどうなっているのだろう?」
私たち個々の抱えている問題は大きくても、上から見下ろすと、豆粒にしか見えない人間がうごめいているだけ。私たちは長くても100年そこそこしかこの地上に存在していません。そしてその短い期間の中に、喜びや、悲しみ、楽しみ、不安、恐れ、怒りなどが凝縮されているのです。私たちにとって、毎日起こる現実は大きなことであっても、実は永遠の世界から見たら、ちっぽけなものなのです。私はこの世で生き抜くための秘訣みたいなものを体得しつつあります。それは永遠の世界から現実を見るということ。そうすると、ほとんどの問題が問題でなくなってきます。神さまが私に最善をしてくださる信仰が与えられたならば、もう何も恐れることはありません。信仰に生きるって、楽すぎます。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)
あなたも、このお得な信仰の世界をあなたも味わってみませんか?!

心のオアシス 2016年10月16日

 かつて小学校のPTA役員をしていた時代に、そこで配られていたプリントに掲載されていた文章を紹介します。
 ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めた、よりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。学校にその子供たちのために特別クラスを設けて、ある一定期間、教育してほしいと要請しました。条件は、特別なことをしないで、他の普通のクラスと同じカリキュラムで、同じように教えるということでした。先生たちが送り込まれた特別クラスの生徒たちを見ると、どう見ても優秀に見えないような子供もいましたが、専門家が様々な研究と観察から選ばれた子だから、必ず伸びるだろう!と定められた期間、彼らを教えました。その結果、研究者の言う通り、実際にその特別クラスの子供たちの成績は飛躍的に伸びていきました。選ばれた特別な生徒たちであったからこそ素晴らしい結果になったのだと考えられていました。しかし、後でわかったことは、そのプログラムはデタラメで、ただ各クラスからあみだくじで選ぶかのようにして、適当に数名ずつ選ばれて送り込まれたクラスだったのです。そのことは、教師や親たちには一切伝えられていませんでした。何が違ったのかといいますと、先生たちや親たちの、その子たちを見る目や期待感が、他のクラスの子とは違ったというのです。「特別クラスの子たちは普通の子ではない!どんな成長を遂げるのだろうか?」という期待をもって接し、教えていたということでした。
 
 実は、これは神がこの世に与えられた「信仰の法則」なのです。パウロは、問題だらけで、頭痛の種となっていたピリピの教会の人々に、このように書き送っています。「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」(ピリピ1:3~5)
 あなたの信仰の目が、個を変え、世界を変えていくのです。

心のオアシス 2016年10月9日

 数年前に、アメリカ・アリフォルニアの海岸で一隻の豪華ヨットが沈没する事故が発生しました。沈没する直前、海岸救助隊にSOSが入り、救助隊の通信員が返信しました。「すぐに救助に向かいます。現在のポジションを教えてください。」すぐへ返事が返ってきました。「私は有名な〇〇銀行の頭取だ。」そこで返信が途絶え、結局ヨットは沈没してしまいました。実は英語では、「ポジション」という言葉には二つの意味があって、一つは「位置」、もう一つは「地位」です。ヨットの男性は、「あなたの位置はどこなのか?」と場所を聞いたのに、「地位は何か?」という立場を聞かれたと勘違いしたようです。いくら意味を取り違えたといっても、そんな緊急事態に地位や立場が、何の役に立つというのでしょう? 自分がどこにいるかが重要なのであって、名誉や財産は、男性を助けることはできないのです。この世で生きる上では、ある程度の地位や立場があれば、住み心地は良いかもしれません。しかし、それをもって永遠の世界に入ることはできません。
 先日、同窓生との会話の中で、「教会には弱い人が行くものだと思っていた・・・」という話題が出て、一人のクリスチャンが、「教会に行くまで、私もそう思っていたし、自分は強いと思っていたけど、教会行ったら、実は自分は弱い存在だったんだ、ということに気づいた。」と話していました。自分が何でもしていると思っていると、必ず疲れてしまうでしょう。でも、自分を生かし、使ってくださっているお方(神)がいるんだということを知ったら、もっと人生は楽になるでしょう。頑張る力を与えられていることに感謝。能力が与えられていることに感謝。でも、疲れてしまったら休めのサインだと受け止める。神さまがあなたの人生を支え、保証してくださることを知ったら安心です。
 所詮、この世の中、頑張っても数十年の人生です。一時的なことに一生懸命になる前に、永遠における解決をしておけば、この世における問題は問題でなくなります。「永遠における解決」、それは神との和解です。

心のオアシス 2016年10月2日

 ドイツ南部のバイエルン州出身のリーヴァイ・ストラウスは、1853年にサンフランシスコに移住し、金鉱周辺でテントを作る仕事をしました。ある日、彼に10万個以上の大型テントを軍に納品してほしいという注文が入ってきました。彼は、借金をして工場と職人を増やし、日夜働き、10万個のテントを作りました。ところが、軍への納品の道が閉ざされてしまい、破産寸前にまで追いやられました。頭を悩ませていたある日、彼は金鉱村の鉱員たちが集まって座り、古びたズボンをつくろっている光景を目にしました。金鉱での日課を終えた労働者たちが破れた衣服をつくろう姿は、よくある風景でした。ところが、その瞬間、リーヴァイは、困難な状況を打開する解決策を思いつきました。彼は、厚いテントの布でズボンを作って売り始めたのです。ズボンは飛ぶように売れていき、それが今日、世界的に有名なリーバイスのジーンズになりました。
 人生で問題は避けられません。しかし、どんな問題に遭遇しても、大胆な信仰によって前に進まなければなりません。問題ややみの大きさに圧倒され、サタンの脅し文句におびえるのではなく、「問題が大きければ、神さまの答えも大きい」と信じて行動することさえできれば、勝利をつかむことができます。挫折の中でも神さまを見上げて信仰の火を燃やし、大胆な信仰によってその環境を解釈するなら、奇蹟が起こります。「私は必ず勝利する」ナ・グァンホ著より

 ワシは、そのひなを育てて、巣立ちすることができるように、訓練を行なうそうです。親ワシは、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせます。親ワシは、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に、自分の翼でひなをキャッチします。これを繰り返して、ひなが空を飛べるように訓練するというのです。
 どうして、ひなにとって過酷なトレーニングをするのでしょうか? それは独り立ちできるようにするためです。この訓練がなくては、ひなは生きていけなくなるのです。神さまは、時として手荒い扱いをなさることがありますが、それは全て「愛」が背後にあるということなのです。

心のオアシス 2016年9月25日

 私が小学生の時に、学校の先生からこのような話を聞きました。それは、「水の中でおぼれている人を見つけたら、しばらくそのままにしておきなさい。そして力尽きた時に、手を出すのですよ。もし、溺れている人が自分の力でなんとか助かろうとバタバタやっている時に他の人が手を出すと、しがみついてきて自分までも溺れてしまうから危険です。溺れている人が、自分は駄目だと思い、もがく力も失ったときに、初めて手を差し伸べることができるのです。」というお話しでした。
 私がクリスチャンになってから、これは神さまの救いの法則にも適用できる例話だと思いました。私たちが自分で何とかできると考えている間は、神さまが入る余地がありませんが、自分の力では、どうすることもできない自分に気付き、降参した時に、神さまが出動してくださり、希望の光を見出すことができるのです。この真理に目が開かれた人は、神さまが満たしてくださる世界を体験していくのです。
 あのマザーテレサは、このような祈りをしておられます。
 主よ、私は信じきっていました 私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく 他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
 主よ、私は思いこんでいました 私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて 真実が分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
 主よ、私は信じきっていました 自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。実は思いあがりとねたみとの心に 私がふくれあがっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
 主よ、お願いいたします。私の中で天の国と この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき あなたの中にのみ 真の幸福と力添えとを見いだしますように。

心のオアシス 2016年9月18日

 大きな橋がありました。長くのびていて向こう岸にかかっていました。この橋は、一日に何度も上がったり、下がったりして土手をつないでいました。船がくると船を通し、汽車が来ると橋を岸にかけて、汽車を通していました。そのために交換手がいて、この橋の上げ下げを操作していました。ある日、彼が準備をしながら時間を確認して、遠くを見ると汽車が近づいているのが見えました。いつものようにスイッチを押して橋を下ろそうとするのですが、故障していて動きません。信号も青のままです。このまま汽車が進むと橋に衝突して川に落ちてしまいます。たくさんの人たちが汽車に乗っています。しかし、この交換手は、このような非常事態には、どうすれば良いのかわかっていました。線路の反対側にレバーがあって、それを手動で下げて、橋を下ろして固定することができたのです。汽車の振動は、近づいてきました。彼は、全力で走って、そのレバーの所まで行って、そのレバーを下げて、橋を下ろすことができました。ちょうど、その瞬間に「パパ~」と、5歳になる自分の息子が走ってくるのが見えました。「こっちに来ちゃ駄目だ! もどりなさい!」と叫びました。しかし、その小さな子供の耳には声は届きません。そして、到底線路を渡り切ることはできません。交換者は、レバーを離して、息子を助けに行きかけたその時、橋が静かに上がり始めました。その時、交換手は一つの決断をしました。その後、汽車は何事もなかったように、その橋を通り過ぎていきました。そして誰も、交換手の息子が犠牲になったことに、気付きませんでした。そのレバーに、しがみついて犠牲になった息子のために泣き続けている父親の姿に、気づく人は誰もありませんでした。
 天の父なる神さまは、私たちが罪によって滅びないために、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。そして私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかり死なれました。私たちは汽車の乗客のように当たり前のように生きていますが、実はキリストによって生かされているのです。この愛に応えながら生きることが、人生の目的なのです。

心のオアシス 2016年9月11日

 第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医がいます。著書に「世の霧」「死の愛」がありますが、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、決して健康であるとか体が頑強であるというのではなかったと述べています。では、何がその人を強め、または弱めたのでしょうか? それは「希望」の有る無しだと言うのです。「この戦争はいつか必ず終わり、妻子に再び逢える」という希望、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望・・・それは、収容所の中にいて、ほとんど夢のようなもの、実現不可能と思えるものでした。にもかかわらず、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。
 一人の囚人は、何度か高圧電流が走っている鉄条網に自ら触れて自殺してしまいたい衝動にかられました。この人がその衝動に打ち勝てたのは、彼が結んでいた「天との契約」に他なりませんでした。「天との契約」、それは、自分の苦しみ、死さえも、意味あるものとしたいという切なる願いの表れでした。この囚人は神と契約を結んだのです。「私は、収容所での苦しみを喜んで苦しみますから、その代わりに、私の愛する母親の苦しみを、その分だけ和らげてやってください。もしガス部屋へ送られて死なねばならないとしたら、どうぞ私の命の短くなった分だけ、どこかの収容所に入れられているだろう母親の命を長らえさせてください」自分の苦しみの死も無意味なものとならないという希望に支えられて、この人は終戦までの地獄のような日々を生き続けることができました。

 私たちには、神様の与えてくださっている希望があります。この地上で起こる周期的な陣痛の後には、それにも勝る喜びがくるのです。