心のオアシス
心のオアシス 2017年4月23日
ある学園祭の展示物の中に、クツが何十足もずらっと並べて置いてあるものがありました。そのタイトルは「人生は苦痛(クツー)の連続である」と書いてあったそうな。私は、「人生は奇跡の連続である」と感じています。私たちは、毎日の生活を当たり前のようにして生きています。朝目覚め、トイレに行く。シャワーを浴びる。朝食を食べる。仕事に出かける。他者と言葉を使ってコミュニケートする。日が出て、日が沈み夜となる。そして休む・・・果たしてこれらのことは、当然のことなのでしょか? 同じことをしているように見えますが、その日常さえも奇跡ではないかと思うのです。自分の心臓であっても、その鼓動の回数を自分自身で制御することはできません。でも、生き動いています。どうして、動いているのでしょうか? 呼吸は考えなくてもしています。旧約聖書の創世記2章の中に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と記録されています。まさに「偶然」よりも、「神による必然」しか、人間の生を説明することはできないように思います。そして日々の当たり前は、神の奇跡の連続であると確信しています。もし、このことを信じることができたら、当たり前が感謝と喜びに変わることでしょう。
中国の伝説上の堯邸という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」。この老人が言うことは、もっともらしく聞こえます。しかし、見逃してはいけないポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。皇帝の力の恩恵にあずかっていることに気づいていなかったのです。
私たちは、自分の力で生きていると考え、毎日の出来事が偶然とか運命だと考えるならば、そこには何の希望も見出すことはできません。しかし、神に生かされていると信じることができるなら、どのような現実の中にあっても希望を見出すことができるのです。なぜなら神さまは私たちに最善以下は成されないお方だからです。信頼すれば安心なのです。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)
心のオアシス 2017年4月16日
旧約聖書とは、「古い(旧い)契約(約束)の聖なる書」の略です。ということは、新約は、「新しい契約」であることはお分かりになるでしょう。聖書は、神と人との契約書とも言えるものですが、旧約と新約の違いは何なのでしょうか? 旧約はモーセを通して神がイスラエルと結ばれた契約で、「あなたがたが従うなら、宝の民となる」という内容です。モーセの十戒は、「あなたは~しなさい。」と、主語が「あなた」「人間」なのです。要は「祝福を受ける受けないは、あなた次第ですよ」ということなのです。それに対して、エレミヤが預言した新しい神の契約は、「わたしは、彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」というように、主語が「わたし」すなわち「神」の側が一方的に契約してくださっているのです。私たちは自分で聖くなろうと思っても肉がそうはさせないという作用が働くので、結局自分で自分を救うことはできないことに気づくのです。そして神さまに救いを求めるようになることを、歴史全体を用いて神さまが教えてくださっているのです。では旧約は不要だったのか?と言えば、そうではありません。旧約あっての新約なのです。律法は守らなければならないのですが、守りきることができない私たちは、神さまに委ねるしかないのです。神さまの側は、人を救うために何をしてくださったでしょうか? イエス・キリストを通して自ら十字架にかかり、私たちの罪の代価を支払い旧約を全うしてくださいました。だからこそ、私たちは罪なしとされたのです。私たちは「信じるだけで救われる」という新しい契約の時代に生かされています。ですから私たちがすることは何もないのです。あとはただ神さまが私たちに与えておられる人生の使命、神実現のために生きることを神さまは願っておられます。
イエスさまは、十字架にかかることも重要な使命でしたが、神が人間にとっては最大の壁である「死」さえも御手の内においておられることを示す必要がありました。ですから死んで終わりではありませんでした。墓に納められてから3日後、死より甦り死に勝利されました。これは、信じる者はすべて、キリストにあって死んでも生きる、天国の保証が与えられているということなのです。2千年前から、イエスさまが復活されたことをお祝いするようになりました。それがイースターなのです。
イエス・キリストは今も生きておられます。ハッピーイースター☆
心のオアシス 2017年4月9日
シン・ピルス先生がフィリピンの宣教師訓練院に講師として招かれたときのことを書いておられました。その集会では、聖霊の働きが濃厚で、宣教師候補生たちは、涙を流しながら御言葉に感動していました。講義の後、ある宣教師候補生が先生のところにやって来て、「先生。本当にたくさんの恵みを受けました。お帰りになるときの旅費として使ってください」と言いながら200ドルを差し出しました。先生は戸惑いました。主の命令に従い、宣教のいばらの道を進もうとしている宣教師候補生が、200ドルという大金を差し出したからです。丁重に断りましたが、彼は、本当に深い恵みを受けたのでと言って引かず、そのお金を先生の手に握らせました。「こんな大金をどこに用いたら主が喜ばれるだろうか」とじっくり考えた末、宣教師訓練院の院長のもとに行きました。「院長先生。このお金を宣教師訓練生の中で、最も経済的に厳しい訓練生のためにささげたいのですが・・・」。すると、200ドルを先生に渡したあの宣教師候補生が、経済的に最も厳しい人であったことがわかりました。彼は十字架の恵みに感謝して、神の国のために喜んでささげたのでした。
(「惜しみなくささげます」シン・ピルス著より)
ささげることに無謀になってはいけませんが、神さまが促されたときは、大胆にささげることも必要ではないかと感じています。ささげていることを他者に知らせるは私の意に反しますが、自慢ではなく一つの証として告白します。東日本大震災が起こったのは6年前、教会を開拓し始めて、まだ半年ぐらいのときでした。礼拝に来られている人たちもまだ10人にも満たない、私もアルバイトをしながらでしたが、何か促しを感じ、その月の集会献金一ヶ月分全額を被災した教会へ捧げました。ところが次の月から人数が増えているわけでもないのに、コンスタントに献金額が増えていくのです。それから捧げる恵みを味わった私たちの教会は、自分たちの必要よりも、他教会や、世界の貧困状況にある子どもたちへの援助、被災地など、定期的に捧げるようになりました。気が付くとその度に、教会は次のステージへとバージョンアップされ祝福されていきました。これからも与える教会でありたいと願っています。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール シャンドリ)
心のオアシス 2017年4月2日
私が約30年の牧師としての歩みの中で感じることがあります。それは多くの人たちが間違った信仰観を持っているということです。その一つが、「問題がある人、弱さを覚える人が教会へ行く」という考えです。それらのことが教会へ行くキッカケになることは否定しませんが、本来は、それが教会へ行く目的ではないのです。教会へ人々が行くのは、ズバリ神さまが私たち人間を、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするように造られたからです。ですから、神さまを礼拝するのは人間として当たり前のことなのです。決して問題や弱さがあるからではありません。
コップが作られる目的は何でしょうか? それは飲み物を入れるためであります。製作者は、コップに使命を与えています。たとえそのコップが大きくても、小さくても、陶器であっても、紙であっても、プラスチックであっても、それぞれは同じ使命が与えられています。自分はステンレス製の丈夫なコップだから水を入れる必要はない、などとは言えないのです。同じように人間も、強いとか、弱いとか、能力があるとか、ないとか、そのようなことは関係なく、それぞれがそれぞれの形で、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするために造られているのですから、それ以外の使用目的はないと考えても良いでしょう。使用目的を間違っていると、その個人に、やがては社会に歪みが出てくるようになるのです。
もう一つの勘違いは、「奇跡が起こったら信じよう」という考えです。クリスチャンの信じている神さまは、私たちの願いや計画を実現するために存在しているのではありません。むしろ、神さまの願いや計画が実現されるために、私たちの方が用いられている立場なのです。人間が造ったものには、それぞれの目的があり、製作者が意図した目的のために使用される時に、その物の価値が出てきます。もし目的以外に用いられ始めると、それは凶器にもなりえます。私たちが、「他人に迷惑をかけなければ、自分の好きなように生きて何が悪い?」と言って、創造主が与えてくださった目的に生きないことを、聖書は「罪」と呼んでいます。
「たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。」(ヘブル6:7・8)
神の目的のために生かされたいですね。
心のオアシス 2017年3月26日
遠藤周作さんが、一人の少女の詩を紹介している。
わたしのノドが痛い時 あの子のノドも痛み
わたしが夜 セキをする時 あの子も眼をさましてセキをする
わたしがママから叱られて泣く時
あの子もわたしと一緒に泣いている
夕陽にうつるわたしの影法師のように
あの子はいつもわたしと一緒だ
ここに出てくる「あの子」とは、少女にとってはイエス・キリストだったそうです。ノドの痛みを癒すのでもなく、セキを止めてくれるのでもないが、一緒に痛み、一緒にセキをし、一緒に泣いてくださる。キリストは奇跡を行うことによってではなく、共にいることによって愛を示す姿が、この11歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその寂しい病床で慰め、力づけたことでしょうか。共にいてくださるありがたさであります。
もう一つ星野富弘さんの詩をお分ちします。
誰がほめようと 誰がけなそうと どうでも良いのです
畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです
私たちは世の中からの評価が気になります。注目され、称賛されたいという願望があります。たとえ、世の中の目にも留まらず、誰にも評価されなくても、あなたを唯一称賛してくださるお方がいます。その方こそイエス・キリストです。このお方が、あなたの傍らにいつもいて、あなたという存在に対して「へえっ」と、驚きの評価をしてくださっていることを信じ、それだけで満足できるようになるなら、その人の人生は、本当に大きく変わってくるでしょう。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ書41:10)
心のオアシス 2017年3月19日
1953年4月、神学校で勉強するために地方から出てきた私には、お金がありませんでした。毎週の礼拝献金から、勉強するための本代、日用品を買うお金のために、神学校の裏山へ登って、草の上にひざまずいて、ひたすら神様に祈って部屋に戻ると、いつも奇跡が待っていました。二学期に入る前に、必要な新しい本を買っておくようにと言われました。値段は350円でしたが、私にはその時10円のお金もありませんでした。机の引き出しの片隅に、小さな紙箱があったのを思い出しました。そのころ、教会や、幼稚園の子供会でお話をすることがありましたが、お礼にいただいたお金から十分の一を、神様に捧げて紙箱に貯めていたのです。主の御用のために使っていただくつもりでした。丁度、その箱に400円入っていました。「しめた」と思いました。でも、その時「これは主のために特別に分けておいたお金だから、自分のために使ってはいけない」という声が、心の奥から聞こえてきました。祈っても答えがこない状況の中、待ちくたびれて、ついに神戸にあるキリスト教書店へ出かけて行きました。手にはしっかりとあの400円が握られていました。書店の入り口の戸を開けた時、真っ先に目に留まったのは、日めくりのみ言葉のカレンダーで、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・」と、真っ黒なスミで書いてありました。結局購入を断念して、すごすごと神学校へ戻りました。「神様! どうして、私だけがこんなに、お金のことで苦しまなければならないのですか?!」涙が溢れてきました。重い足取りで部屋へ戻ってきた時は、日がすっかり落ちて、薄暗くなっていました。ベッドにひっくりかえって、ぼんやりと天井を眺めていると、祈って送り出してくれた故郷の教会の人たちや、懐かしい教会学校の生徒たちの顔が、次々と浮かんできました。私は「やっぱり祈ろう」と、机の前にひざまずきました。電灯をつけると、私の机の上に、新聞紙の包みがおいてあり、「天より」と書いた紙がのっています。「何だろう?」と開けてみると、何とピカピカの新しいあの本だったのです。込み上げてくる感動に私はオイオイ泣きました。私は本のうしろに書きました。「求めなさい。そうすれば与えられます! 天よりこの本を与えられる。感謝!感謝!ハレルヤ! 1953年8月7日(金曜日)」
(金井由信著「小さなささげもの」より引用)
心のオアシス 2017年3月12日
榎本保郎先生は、一日一章の書物の中でこう述べておられます。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。
駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」
いつ読んでも励まされる文章です。結局、私たちの人生は、どなたに任せているかにかかっていると言っても過言ではありません。任せるということは、共同でするということではありません。それは100%信頼して、その人に預けるということです。神さまに委ねるということは、私たちの命を預けるということです。そしてそれは、「神さまが、ご自分の計画を進めるために、私をどのように使用されても構いません、たとえそれが犠牲となることであっても、それがあなたにとってのベストであれば、そのようにしてください!」という意味です。教会では、簡単に「神さまに委ねます。お任せします。」と告白しますが、その意味は、人間の側には、必ずしも「楽な心地よい道」が与えられるわけではないことを覚悟しなければならないということなのです。もし、神さまの最善に委ねることができたら、もう何も恐れるものはありません。最強の神さまの目的のために「私」は使用されるのですから、それ以上の喜びはありません。「神に委ねる」ことを全うされたお方は、イエス・キリストです。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされた」(ヘブル書5章8~9節)
心のオアシス 2017年3月5日
第二次世界大戦が終わった後、日本で天皇陛下が人間宣言をしました。それまでは天皇は神だとされていたのですが、本当は人間なのだと宣言したわけです。その後、天皇が日本の各地を廻ったことがあります。昔は神だと言われた方が自分たちのところに来てくれた、ということで当時の住民は大変感激したそうです。しかし、天皇陛下が通られる場所は、修繕されて綺麗にされました。例えば道がでこぼこだったらそれをきれいに直し、汚い場所があったらお金をかけて綺麗にするのです。ですから、実際の庶民の姿や生活は隠されました。社会の一番底辺で生きていた人々にとっては、本当の意味で天皇が自分のところに来てくれたのではなかったのです。
イエス・キリストが、人間の救いのためにこの地上に来て下さったとき、王様の子供として生まれて、きれいな楽な道だけを歩んで、すぐに帰られたのではありませんでした。貧しい大工の息子として生まれ、苦しみの生涯を送られ、最後には死まで味わわれた。そこまで降りてきて下さったのです。イエス様は、貧しさを経験しました。支援する人もいませんでした。同胞であるユダヤ人からは邪魔者扱いされました。サタンの誘惑、攻撃に遭いました。ローマの税金は非常に高い時代でしたが支払われていました。自由は全くなく、生きていける保証などありませんでした。ナザレという田舎の出身で、何の期待もされませんでした。教育も受けられませんでした。拒絶、誤解、軽蔑、裏切りを経験され、生涯独身で通されました。父親を早くに失う経験もしました。そして、聖書に「キリストは全ての病を負った。」とあるように、全ての病を経験したといっても過言ではないでしょう。だからこそ、試みにあっている人や、病の中で苦しんでいる人、悩んでいる人を思いやることができるのです。「天のお父様、あの人は今、様々な試練の中にいます。私もそこに立たされたことがありますので、理解することができます。どうぞ天使を送って力付けてあげてください!」誰からも理解されなくても、イエスさまだけは、あなたの全てを理解し、執り成していてくださるのです。だから、どうぞ落ち込まないでください。たとえあなたが祈る力さえ失っても、イエスさまは、あなたのために執り成して祈り続けてくださっているのです。
心のオアシス 2017年2月26日
イギリスの田舎の村に、母親とその息子が住んでいました。働き盛りの父親が急病で亡くなってからは、引越しして、町外れの狭い家に移り、貧しい生活をするようになりました。母親は、ビルの掃除やよその家の手伝いや、縫い物の仕事などを引き受けて、夜遅くまで働いていました。少年も朝早くから新聞配達をして家計を助けていました。辛くて苦しい毎日が続きました。しかし、二人は毎日出かける前に聖書を開いて、お祈り賛美をしていましたから、心はいつも喜びに満ちていました。やがて、少年は成長して、難関を突破して見事に歴史のある都会の名門大学へ入学することができました。何年か経過して、卒業するときがきました。彼はなんと首席で卒業することになったのです。彼はみんなの前でスピーチをして、その後、国王から金のメダルが贈られることになっていました。彼は母親に手紙を書きました「お母さん! 長い間、本当にありがとうございました。金メダルをいただくことになりました。是非卒業式には出かけてきてください」しかし、実際のところ、その母親には、そこへ行くお金も着ていく晴れ着もありません。大変悩みましたが、せっかくの卒業式なので、なんとか旅費だけは工面して、いつもの色あせた服を着て卒業式に出かけました。大学へ着くと、広い式場はいっぱいの人です。やがて卒業式のプログラムは進み、青年は名前を呼ばれて前へ進み出ました。国王から金のメダルを受け取ると、すぐにみんなの方を振り向き、こう言いました「みなさん、この金メダルは、私がもらうべきものではありません。これを受けるのに一番ふさわしい人は、ここにいます!」そう言って、舞台から降りて、満員のホールの隅で小さくなっている母親のそばに行き、恥ずかしがる母親の手を引いて、舞台に戻りました。そしてこう言ったのです「お母さん! これはお母さんがいただくべきものです。お母さんの苦労のおかげで、ここまでくることができました。本当にありがとう!」そして、そのメダルを首にかけてあげました。式場に集まっていた大勢の人たちも、感激して涙を流し、拍手がいつまでもホールに鳴り響いていたそうです。
私たちは上手くいくと、すぐ高慢になってしまいますが、神の手の中で育まれていることを信じるなら、もっと豊かな人生になるでしょう。
心のオアシス 2017年2月19日
大和カルバリーチャペルで救われ、私たちの教会でも数年前にお話くださったことのあるK.F.さんのお証です。彼は教会へ導かれる10年前に、交通事故で、身体的なハンディキャップを負い、それから精神的にも障害が出て、薬漬けの毎日になり、その副作用もあって人格は変わり、薬なしでは生きることができなくなりました。それから10年後、その時の状況から脱したいと思い、環境や気分を変えるために、オーストラリアの牧場で働きながらリハビリしようと出立しました。ところが、牧場主の事情で、彼を受け入れることができなくなりました。彼が困っているところ、たまたまティーンチャレンジという薬物更正施設を紹介され、そこでボランティア・スタッフとして3ヶ月奉仕をさせていただけることになりました。その施設は、他の施設と違って薬物中毒患者に対して、薬物治療を行うのではなくて、朝から晩まで、賛美と聖書の御言葉を聴き礼拝して、薬物から解放させるキリスト教施設だったそうです。当初、彼は、そこがどういうところかも知らずに行ったのですが、驚いたことに死んだような虚ろな目をした人たちが入所してくるのですが、1・2ヶ月していくうちにその目が輝き始め活き活きと変化していくのです。そして薬物から解放されてそこから出ていくのです。そのような中で、彼はスタッフとして手伝いをしていたのですが、依存性の人たちと、毎日、聖書の話しに触れていくうちに、彼自身が癒されてしまって、薬なしで生活することができるようになったのです。そして彼は、聖書の神様は生きておられる体験をして、現地の教会で洗礼を受けました。そして3ヵ月後、日本に帰ってきて受けた医者の診断は・・・C型肝炎完治・てんかんの完治・精神疾患の完治の宣言で、薬もそれ以来一錠もとらなくてよくなったのです。ご主人の変化を間近に見ていた奥さんが「聖書の神様は生きておられる!」と、教会に来られて洗礼を受けられました。
サタンは、私たちの周りの環境、状況、現実を見せて、私たちに神様の御心に反する言葉をかけてきます。「現実を見なさい! 絶対無理です。あきらめなさい! 神なんていません!」しかし神さまは、この地上に暑い夏や、凍える冬、快適に過ごせる春や秋を造られたように、人生にも四季を与えておられます。神さまの言葉で準備が整っているならば、どのシーズンでも、それぞれの美しさを楽しむことができるのです。