礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2017年1月22日

 小学校の劇などでも用いられている「花さき山」というお話があります。アヤという女の子が、祭りが近づいているので母親から山菜を取ってくるように言われて、山の中へ入っていきました。奥のほうへ進んでいくうちに、見たこともないような綺麗な花が、一面に咲いている花園へ来ました。そこでヤマンバと出会います。ヤマンバ「どうしてこの花、こんなに綺麗なのか知ってるかい? この花は、ふもとの村の人間が優しいことを一つすると一つ咲く。ほら、そこにもまた、花が咲いた。そのつぼみは誰かが今咲かせようとしているんだ。そこに、露を乗せて咲きかけてきた小さい青い花があるだろう? それは小さな双子の赤ちゃんの上の子の方が、今咲かせているものだ。その花は兄弟といっても、同じ歳のわずかな後先で生まれたものが、自分は姉ちゃんだと思ってじっと我慢している。妹は、母親のおっぱいを飲みながら、片方も手で押さえて放さない。そのとき上の子は、それをじっと見て、自分は姉ちゃんだから一生懸命、我慢している。目に涙をいっぱいためて・・・その涙がその露だ。この花さき山、一面の花は、みんなこうして咲いたのだ。」
 山菜を採りにくる前に、アヤとお母さんの間にこのような会話がありました。母親「今年の祭りもにぎやかになりそうだなぁ」アヤ「私も綺麗な浴衣を着て行きたいなぁ」「そうだね。アヤも大きくなったから、今年は新しい浴衣を買ってやろうか?」「本当に?! 嬉しいなぁ!」それを聞いていた妹が言いました「私もみんなのように赤い浴衣買ってよ~」とダダをこねました。二人には買ってやれないお母さんは困りました。その時、アヤは言いました「お母さん、私はいらないから妹に買ってやって」・・・ヤマンバは言いました「その花は、お前が咲かせた花だ。自分は我慢して、お母さん、私はいらないから妹に買ってやれ、と言ったとき、お母さんは、どんなに助かったか・・・妹はどんなに喜んだか・・・お前はせつなかっただろうけど、あの赤い花が咲いた。あの赤い花は、どんな祭り着の花模様より綺麗だ!」

 天に宝を積むとは、これに似た世界があるように思えてなりません。

心のオアシス 2017年1月15日

 按手を受けて間もない若い牧師が、ある教会に赴任したそうです。そこで、受け入れ教会では新しい牧師を歓迎する晩餐会が開かれました。ある信徒がその新任牧師に近づいてきて、このように質問したそうです。「先生はなぜ、700人にもなる人々の要求を満足させなければならないような、辛い仕事を引き受けられたのですか?」すると、その牧師はためらわずに答えました。「私がこの教会に来たのは、700人を喜ばせるためではありません。ただひとりの方を喜ばせるために来たのです。神さまが喜ばれるなら、残りのすべては自然にうまくいくでしょう!」
 私はこの言葉に「アーメン!」と同意しました。関西カルバリーフェローシップの開拓伝道に対して、ほとんどストレスを感じることなく、むしろ楽しく7年目を迎えることができたのは、ここがポイントだったのではないかと思わされています。もし、私が能力のある牧師であったならば、思うようにいかない現実に挫折してしまうこともあったでしょう。幸いなことは、能力はない、自信もない、経済力もなかった故に、神さま任せにできたということです。自分がすることは、自分が持っているベストを神さまに捧げること。そこで神さまが成されている現実を受け止めるということ。起こっている現実に、多少の感情的な浮き沈みがなかったわけではありましたが、いつも原点に戻ると楽になりました。目の前の会衆が2、3人であることが何ヶ月続いても、神さまが送られてきたこの人たちを感謝するようにしました。少しずつ人数が増えてきたのに何らかの理由で他教会へ移動されるような人たちがでたときには、「神さまが、この人たちを必要としている教会へ動かされているのだ」と思えば、瞬間に割り切ることができました。礼拝は現在約50名の方々が集われるようになりましたが、人数を気にするようになったら牧師として失格だと思っています。たとえ10名に減ったとしても、1名しか残らなかったとしても、神さまのためにベストのご奉仕を続けられるかということだと思います。私たちがそれぞれの場所で、各自が神さまから委ねられたことをしっかり果たすなら、その人生は成功なのです。

心のオアシス 2017年1月8日

 2017年の関西カルバリーフェローシップの聖句は、ローマ人への手紙8章31節「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」です。私たちの安心度数は、誰と一緒か、何を持っているか、どこに繋がっているかなどによって左右されます。ですから、絶えず自分の手持ち(人材・能力・体力・健康・財力など)を見て、一喜一憂しながら歩んでいます。でももっと安心できる人生があるとするならば、それは神の手に握られることです。なぜなら、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節)からです。
 私たちのゼロ開拓伝道は今年で7年目になります。スタートした時点で、教会堂がない私たちは、公民館などを借りて集会をしていました。しかし追い出されるようなこともありました。人材が必要になった時もありました。でも窮地に立たされた時、必ずそれがプラスへと転じていったのです。それは祈りを通して開かれていく世界でした。これらを通して、「神が味方なら何でも可能だ」という信仰が強められていきました。
 私たちは、誰の手に握られた人生でしょうか? 本当に仕えるべきお方に握られ、従っているなら、その人の人生は、平安になるでしょう。
 昨年の11月、ラブソナタという集会で、NHKの人気韓流ドラマで、美しい主題歌の旋律を奏でるフルーティストのソン・ソルナムさんが、いつも使っている3本の笛を出して、こんな話しをされました。「この中で一番高価なのは、プラチナ製の1千万円以上するフルートです。次に高いのは、銀製の数百万円のフルートです。そして、一番安いのは、この2千円の縦笛です。ボンドで修復しながら使っています。この中で、フルーティストとして今まで一番稼ぐことができたのは、この一番安い2千円の縦笛です。物の値段や価値はあまり関係ありません。誰の手に握られているかが重要なことなのです。」
 あなたは失敗ばかりの凸凹人生ですか? 神が味方なら大丈夫です!

心のオアシス 2017年1月元旦

新年明けましておめでとうございます。
皆さまのお祈りに支えられ、開拓伝道7年目に入りました。今年も主のご計画の中で導かれていくことを切に願っています。
お祈りに覚えていただければ幸いです。神さまの祝福を心よりお祈りいたします。

関西カルバリーフェローシップ
牧師 小崎淳広  協力伝道師 道本賢司

 一人の女の子が書いた感動の実話を紹介します。
おじいちゃんは老いてから手足が不自由でトイレも1人では厳しい。だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしていた。おばあちゃん以外の人が下の世話をするのを嫌がったからだ。ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。おじいちゃんと留守番してると申し訳なさそうに「モモちゃん、悪いんだがトイレに…」と言った。私は本当に馬鹿だなって思った。おじいちゃんは、一人じゃトイレに行けないことを知っていたくせに気が付いてあげられないなんて・・・孫、それも女の子には言いづらかっただろうなって。トイレに行くとパンパースが小と大で汚れていた。たくさん我慢させてしまった。私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。お風呂場で体を洗ってパンパースつけてホッとした。同時におばあちゃんは毎日これをしてるんだと思うと何とも言えない気持ちになった。そして「悪かったね、ありがとう」って五千円をくれようとした。おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。おしめを変えて育ててくれたのは貴方・おじいちゃんじゃないですか。幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。あれは無償の愛でしょ? 私はおじいちゃんが大好きだよ?だからお金なんかいらないんだよって言った。2人してちょっと泣いた。(「無償の愛」より引用)
 
 この世の中には“条件付きの愛”が溢れています。夫婦の愛、男女の愛、師弟愛・・・どれも自分の好みでいる間や、自分の益になっている間は、受け入れ愛することができますが、条件が整わなくなったら、気分次第で簡単に切ることもできます。私たちの安息は、無条件(無償)の愛の中にのみ見出すことができます。そこには裏切りも恐れも不安もありません。今年は安定した神の愛の腕の中で過ごしませんか?「神は愛なり」

心のオアシス 2016年12月25日

 動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては、外の窓越しに眺めていました。ある日、少年の大好きな子犬が6匹入荷したので聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ。」「2万円もするの?」少年の持ち合わせでは買うことはできません。店主が一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていると、一番最後の6匹目の犬は、左の後ろ足が短くて、歩く時バランスを崩していました。少年は聞きました。「おじさん、この犬はいくら?」「君が買ってくれるのなら、この犬は半額にしてあげよう。」しかし少年はニコリともしません。それを見た店主は言いました。「じゃ、それならタダでいいよ。」そうすると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、タダは駄目だよ。」「そうか? じゃ、半額にしておこうか?」そうすると少年は言いました。「半額も駄目だよ。この犬は他の犬と同じように定価で売らなきゃダメだよ。2万円で僕が買うよ。」その言葉に驚いた店主は言いました。「いや~、これは足が悪いんだ。だから半値でも売れないからタダでいいんだよ!」「おじさん! タダも半値もダメだよ。これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対に誰にも譲らないでね!」と言い残して少年は家に帰って行きました。ペットショップの店主が、その少年の帰って行く後姿を見てハッとしました。「今まで、何年も顔は見ていたけれど、そうだったのか・・・あの少年の左足も少し短いんだ・・・」少年の歩く姿を見ていると、ハッキリそうだとわかりました。自分が「半額でいい。タダでいい」と言ったのを少年は「タダなんて駄目だ」と言った意味が初めてわかりました。少年は子犬に障がいがあるから2万円の価値がないとは思わなかったのです。なぜなら自分自身に障がいがあるからといって他の人より価値のない人間だとは思わなかったからです。
 
 クリスマスは、あなたがどんなに罪があっても、この世で評価されなくても、価値ある存在として神さまが見ていてくださる証しです。イエスさまは、十字架で私たちの罪の支払いをするためにこの地上にきてくださった神さまからのプレゼントなのです。 Merry Chrstmas!

心のオアシス 2016年12月18日

 ある男性が川辺にいました。大雨が降って川が増水して、人々は避難を始めました。しかし、その男は言いました「私は、神に愛されているから、祈っていれば、どこかへ移されるから大丈夫です。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。そしてボートに乗った人が男に声をかけました「そこの人!避難しなければ危険だぞ! すぐにこのボートに乗りなさい!」しかし男は答えました「私は神に愛されている。祈れば必ず助けてくださる」しばらくしてヘリコプターが飛んできて、メガホンで叫びました「はしごをたらすから、それにつかまりなさい!」しかし男は言いました「神に祈れば、安全な所へ連れて行ってくれるから大丈夫!」やがて男は溺れて死んでしまいました。
その後、彼は天国の門に立ち、神に面会を求めました。「私は、あなたに祈りを捧げましたし、愛されていると思っていました。なのに、どうしてこんな目にあわなければならないのですか?」神は言いました「私はあなたを助けるために、無線の連絡とボートとヘリコプターを差し向けました。なのに、どうしてあなたはここにいるのか?」
 もし、この例話の意味を理解することができれば、私たちは、次のレベルへ上がることができます。すなわち、神さまは、一分一秒たりとも、私たちをほったらかしにされることはないばかりか、私たちにとって、いつでも「良い神様」なのです。私たちは、神さまが直接何かをしてくださることを期待し、目に見えなければ、まだ助けられていないと錯覚しますが、実は、私たちの瞬間瞬間は、神さまの御手の中にあるのです。神さまは、直接的よりも他者や様々な出来事を通して、私たちに語りかけておられることの方が多いように思います。
 当たり前と思える毎日の中に、感謝すべきことは沢山あります。寝返りをうてるだけでも感謝。食べることができることも感謝。喧嘩する相手がいることも感謝。この神様の内に、生き、動き、存在させていただいている恵みを、もっと敏感に感じるなら、すべてが新鮮で輝いて見えるようになります。「主にあって喜びなさい。」(ピリピ3章1節)

心のオアシス 2016年12月11日

 私たちが他者に対して優しくなれる方法があるとするならば、このような意識を持つことが良いのではないかと思われます。それは、「他者は神さまから私に遣わされた存在」と意識することです。
 トルストイの「靴屋のマルチン」は、そのことを教えるストーリーです。靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はあなたの家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか・・・」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」その言葉と同時に、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
 神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。皮膚病で苦しんでいる人をさすり、死を間近にしている人たちに惜しみなく親切を尽くしたマザー・テレサも、かつてこうおっしゃっておられました。「この仕事は、いくらお金を積まれてもできるものではありません。ただこの人たちを通してイエスさまに触れているという確信がある故に可能なのです。」 
 神の存在を抜きにして、恵みの人生は絶対にありえないのです。

心のオアシス 2016年12月4日

 「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ちました。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待しました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが作られたのは大きな船ではなく小さな漁船でした。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過して、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れてしまいました。  
 ある夜、一人の女性が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしていることに気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい突風が吹いて沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時、二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手をその木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木を見る時、神の愛を考えるようになりました。

 自分の意のままに生きても一時的な満足しか得られません。幸せは、神の意のままに導かれていることを受け止め、それを喜ぶ時に与えられるからです。同じ人生でも、神実現に生きたら世界観が変わりますよ!

心のオアシス 2016年11月27日

 南アメリカの多くの少数部族の中には、30歳にも満たないままで死んでしまう、大変寿命の短い部族があるそうです。学者たちが、原因を調べてみると、土で造った塀に生きている虫が原因であることがわかりました。その虫が毒素を出すので、その毒素を吸いながら住む人々は正常に生きることができないのです。学者たちは、彼らに生きる方法を3つ教えました。その一つは、殺虫剤を使って虫を無くすこと。二つ目は、虫が住んでいる塀を壊すこと。三つ目は、別の所へ移住することです。
 しかし、この部族は殺虫剤もまかず、塀もそのままにし、移住もせず住み続けています。彼らは、変化を恐れ、自分の先祖からそのように生きてきたので、自分たちも同じように暮らしたいと言って、以前として短命の道を歩んでいるそうです。
これは変化を恐れているのか、それとも怠慢なのかのどちらかです。一歩前進することに苦痛を伴うこともありますが、その向こうには、より良い生活が待っているのに、それをしたくないというのです。

 医学の専門家が言うには、アルコール依存症患者が自分は依存症だと認め、自由と心の平静に対する強い健全な欲求をもったときには、その人はすでに51%まで癒されているというのです。その人が自分の姿を正しい方法で心に描くにつれて、体がそのようになっていくというのです。そのような、問題解決の達成に対する強い健全な欲求の心を持ったら、依存症による震えや喉の渇きなどは、自動的に消えていくそうです。しかし、癒されることを望まない依存性患者には、そのような現象は起こらないということもわかったそうです。
 
 私たちは、より良い自分を思い描き、そのような自分になるように努力する必要があるということだと思います。それは聖書が教える人間の在り方なのです。永遠の世界における「救い」は、イエスさまがしてくださった行ないを受け入れ信じるだけで与えられます。私たちの側は、何もする必要はありません。しかしこの地上での生活における様々な問題解決には、「努力」が必要となります。パウロは、「行ないによって救われることはありません。しかし、問題解決のためには、努力しなさい」と勧めています。そしてその努力も神実現のためであるなら、神さまが実現してくださるし、走ったことも労したことも、無駄にはなりません。

心のオアシス 2016年11月20日

 私が何年も前にアメリカのあるブックストアーに行ったときに、一枚のポストカードを手にして、衝撃と感動を覚え購入しました。そこには、作者のトマス・ブラックシェア氏が、描いた絵とその説明がありました。
 テーマは「赦し」。右手に木槌を持ち、左手に大きな釘を持った一人の絶望して倒れそうな男が、イエス・キリストによって、後ろからしっかりと抱きかかえられている姿です。その抱えているイエス様の両手には、その男が釘で打ちつけて傷跡が残っています。足元には、イエスさまの十字架で流された血とゆりが咲き乱れています。これはイエスさまが「野のゆりを見なさい。明日は炉に投げ入れられてしまう野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、あなたがたによくしてくださらないはずがないでしょう」とお話された時に用いられた花です。 私たちは、罪人は罪人です。自分がいつも中心であって、制御することはできません。その罪がイエスさまを十字架に釘付けしているのです。でも幸いなことは、そんな私たちを見捨てず、抱き抱えていてくださる神さまの愛があるということです。この愛に応えながら生きることが、人生の目的です。やがて天国において、「あーあなたも神さまの愛の故に、ここに来ることができたのですね!」そんな同窓会が始まります。 

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