心のオアシス
心のオアシス 2017年5月14日
1549年、フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教の信仰を伝えました。当時、迫害に遭っても、国外追放を命令されても、どうしても日本人に伝えたかったことは「神は愛である」ということでした。現在残っている文献によれば、言葉で苦労した宣教師たちは、それを「デウスのごたいせつ」と訳しました。日本人の考えている神との違いを示すために「デウス=天主」を用い、当時仏教では「愛」という言葉は、情欲とか執着という意味合いを持っていたので、「ごたいせつ」という大和言葉を用いたそうです。一人一人は「すでに神さまに愛されている、ごたいせつな存在」ということ。これは私の牧師としてのライフメッセージでもあります。勿論、蒔いたものに対する刈り取りも伝えなければならない時もありますが、それよりも何よりも、「あなたは神の目には大切な存在」であることを伝えなければならないと思っています。なぜなら、私たち人間が罪の中に落ち、この地上で悩みながら生きなければならなくなったことも、イエスさまがこの地上にきて、十字架にかかって罪の身代わりになってくださったことも、すべては「神が愛である」ことを伝えたかった故の神さまの壮大なご計画であるからです。
進化論も創造論も、科学的根拠は何もありません。前者に関しては、京大名誉教授で文化勲章受賞者・今西錦司さんは、生前81歳の時に、「私なりの進化論から、ダーウィンと異なり、進化という壮大なドラマも科学ではとらえきれないことがわかった。」と言って科学者廃業宣言をされました。どちらも信仰に相当するものですが、進化論では、命の尊さを教えることはできません。なぜならば「偶然の存在」は、何の価値も見いだせないからです。だから人間は、様々なものを手に入れ、他者と比較して、自分の存在価値をアピールするようになりました。後者は、神の存在があっての自分ということから考えるならば、偏差値、家柄、職業、能力、容姿、財産、障がいの有無にも一切関わらず、神のまなざしには「ごたいせつ」に映っているということなのです。一人ひとりのために、キリストが十字架にかかり死ぬほどに「ごたいせつ」なのです。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)
心のオアシス 2017年5月7日
とある学校で水泳のクラス対抗リレーがありました。あるクラスで3人まで決まったのですが、あと1人が決まりませんでした。その時に、「あいつがいいや」と、みんなが言い出して決めたのが、A君という身体が不自由な生徒でした。なぜ彼を選んだかというと、変な格好で泳ぐのを見て、みんなで笑ってやろうということだったのです。当時、その学校は非常に荒れていたようです。さて、そのクラス対抗リレーの当日、三人が泳いで、最後にA君が飛び込んで泳ぎました。予想通りの格好で泳いでいるA君を見て、皆が笑いました。その時、背広を着たまま、プールに飛び込んで、そのA君の横について、「しっかりしろ、もう少しだ、がんばれ」というふうに励まし続けた人がいました。それは校長の東井義雄先生でした。その生徒がゴールにたどり着いた時には、今まで嘲笑していた人たちが粛然となりました。そして誰一人声を出す者も笑う者もいなかったということです。校長先生は、生徒たちの笑いの的になっているA君への視線を、自分に向けるかのようにして、そればかりかA君を励ましながら一緒にゴールしたという感動の実話であります。
先日、私はある牧師と電話で話していました。その時、問題ある若者をその先生の教会で受け止めるという話題があり、私は「大丈夫かな?」と心配したのですが、その先生の次なる言葉に目が覚まされました。「この僕が救われ変えられたのですよ!」その先生は、高校中退してヤクザまがいの生き方をしていましたが、救われ変えられ、献身して牧師になったのです。そのことを知っていた私は、不信仰な自分に反省しました。「大丈夫かな?」ではなく「大丈夫!」なのです。神さまは、人々から後ろ指さされるような生き方しかできない人にも、問題児であっても、人々から笑いものにされるような者であっても、神さまを味方にした人生は祝福されるのです。どんな人をも変える力が神にはあるのです。
校長先生が背広を着たまま笑い者にされている生徒のためにプールに飛び込む・・・これも感動ですが、それ以上に天地宇宙を造られた聖なる清い神さまが、このドロドロとした足の踏み場もない罪にまみれ、悪魔に嘲笑されているような人生しか歩めない私たちのところまで下りてきてくださって、共に歩んでくださる・・・これ以上の感動の奇跡はありません。あなたもこの神の愛の対象であることを忘れないでください。
心のオアシス 2017年4月30日
ある山中に住んでいた人が、叔父さんから黄色い靴をプレゼントしてもらいました。しかし、うっかり片方を川に落としてしまいました。靴は下流へと流れていきます。彼は靴を探すために川沿いを下りはじめました。長時間、靴を追いかけましたが、見つからないばかりか、とうとう道に迷ってしまい、家に帰ることができませんでした。靴を探し続けて長い年月が過ぎ、老人になった彼は、生き別れの家族を捜すテレビ番組に出て、大粒の涙を流しながら、その時の状況を説明しました。すると、ちょうとその時、番組を見ていたお兄さんが弟だと気づき、テレビ局に連絡しました。こうして家族が再会することになったのですが、その時には、母親はすでに他界し、年老いた父親は認知症を患い、50年ぶりに会った自分の息子を見分けることができなかったそうです。
多くの人が、黄色い靴のような、何でもないものを追い求めているうちに、本当に大切なものを見失っています。人は、人生で最も大切なものとして、お金、名誉、権力、健康、仕事などを挙げますが、それらは私たちの人生に必要なだけで、絶対的なものではありません。本当に大切で絶対的なものを知るのは、死を前にした時、つまり神のさばきの前に立った時です。ですから、私たちは普段から死を見据える目を開かなければなりません。そうすれば、後悔しない生き方ができます。神のさばきを意識する人は、人生の最も大切なことを失うことはないでしょう。
(「私は死んでイエスによって生きる人」ユ・ギソン著より)
私たちの教会では、現在毎日曜日、「人生のカラクリ発見」というシリーズで聖書から学んでいます。私自身も聖書を学びながら、歴史全体を通して、その時代時代に、神さまが様々な仕掛けをしておられ、それが数千年してから絶妙なタイミングでリンクしていくというカラクリに唖然としています。明らかに人間業ではない、人間にはできない、はるかに人間を超えた、もの凄い力に全ての歴史が動いていることを認めざるを得ないのです。良きも悪きも神の手の中にあって、関係なく神さまのご計画が着々と進められていること、そして何ものもそれを止めることができない現実に恐れを感じます。私たちが的外れなものを求め続けていたら、不安と恐れしか残らないでしょう。でも、最善をしてくださる神さまを信じ委ねるなら、限りない平安がくるのです。ハレルヤ!
心のオアシス 2017年4月23日
ある学園祭の展示物の中に、クツが何十足もずらっと並べて置いてあるものがありました。そのタイトルは「人生は苦痛(クツー)の連続である」と書いてあったそうな。私は、「人生は奇跡の連続である」と感じています。私たちは、毎日の生活を当たり前のようにして生きています。朝目覚め、トイレに行く。シャワーを浴びる。朝食を食べる。仕事に出かける。他者と言葉を使ってコミュニケートする。日が出て、日が沈み夜となる。そして休む・・・果たしてこれらのことは、当然のことなのでしょか? 同じことをしているように見えますが、その日常さえも奇跡ではないかと思うのです。自分の心臓であっても、その鼓動の回数を自分自身で制御することはできません。でも、生き動いています。どうして、動いているのでしょうか? 呼吸は考えなくてもしています。旧約聖書の創世記2章の中に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と記録されています。まさに「偶然」よりも、「神による必然」しか、人間の生を説明することはできないように思います。そして日々の当たり前は、神の奇跡の連続であると確信しています。もし、このことを信じることができたら、当たり前が感謝と喜びに変わることでしょう。
中国の伝説上の堯邸という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」。この老人が言うことは、もっともらしく聞こえます。しかし、見逃してはいけないポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。皇帝の力の恩恵にあずかっていることに気づいていなかったのです。
私たちは、自分の力で生きていると考え、毎日の出来事が偶然とか運命だと考えるならば、そこには何の希望も見出すことはできません。しかし、神に生かされていると信じることができるなら、どのような現実の中にあっても希望を見出すことができるのです。なぜなら神さまは私たちに最善以下は成されないお方だからです。信頼すれば安心なのです。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)
心のオアシス 2017年4月16日
旧約聖書とは、「古い(旧い)契約(約束)の聖なる書」の略です。ということは、新約は、「新しい契約」であることはお分かりになるでしょう。聖書は、神と人との契約書とも言えるものですが、旧約と新約の違いは何なのでしょうか? 旧約はモーセを通して神がイスラエルと結ばれた契約で、「あなたがたが従うなら、宝の民となる」という内容です。モーセの十戒は、「あなたは~しなさい。」と、主語が「あなた」「人間」なのです。要は「祝福を受ける受けないは、あなた次第ですよ」ということなのです。それに対して、エレミヤが預言した新しい神の契約は、「わたしは、彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」というように、主語が「わたし」すなわち「神」の側が一方的に契約してくださっているのです。私たちは自分で聖くなろうと思っても肉がそうはさせないという作用が働くので、結局自分で自分を救うことはできないことに気づくのです。そして神さまに救いを求めるようになることを、歴史全体を用いて神さまが教えてくださっているのです。では旧約は不要だったのか?と言えば、そうではありません。旧約あっての新約なのです。律法は守らなければならないのですが、守りきることができない私たちは、神さまに委ねるしかないのです。神さまの側は、人を救うために何をしてくださったでしょうか? イエス・キリストを通して自ら十字架にかかり、私たちの罪の代価を支払い旧約を全うしてくださいました。だからこそ、私たちは罪なしとされたのです。私たちは「信じるだけで救われる」という新しい契約の時代に生かされています。ですから私たちがすることは何もないのです。あとはただ神さまが私たちに与えておられる人生の使命、神実現のために生きることを神さまは願っておられます。
イエスさまは、十字架にかかることも重要な使命でしたが、神が人間にとっては最大の壁である「死」さえも御手の内においておられることを示す必要がありました。ですから死んで終わりではありませんでした。墓に納められてから3日後、死より甦り死に勝利されました。これは、信じる者はすべて、キリストにあって死んでも生きる、天国の保証が与えられているということなのです。2千年前から、イエスさまが復活されたことをお祝いするようになりました。それがイースターなのです。
イエス・キリストは今も生きておられます。ハッピーイースター☆
心のオアシス 2017年4月9日
シン・ピルス先生がフィリピンの宣教師訓練院に講師として招かれたときのことを書いておられました。その集会では、聖霊の働きが濃厚で、宣教師候補生たちは、涙を流しながら御言葉に感動していました。講義の後、ある宣教師候補生が先生のところにやって来て、「先生。本当にたくさんの恵みを受けました。お帰りになるときの旅費として使ってください」と言いながら200ドルを差し出しました。先生は戸惑いました。主の命令に従い、宣教のいばらの道を進もうとしている宣教師候補生が、200ドルという大金を差し出したからです。丁重に断りましたが、彼は、本当に深い恵みを受けたのでと言って引かず、そのお金を先生の手に握らせました。「こんな大金をどこに用いたら主が喜ばれるだろうか」とじっくり考えた末、宣教師訓練院の院長のもとに行きました。「院長先生。このお金を宣教師訓練生の中で、最も経済的に厳しい訓練生のためにささげたいのですが・・・」。すると、200ドルを先生に渡したあの宣教師候補生が、経済的に最も厳しい人であったことがわかりました。彼は十字架の恵みに感謝して、神の国のために喜んでささげたのでした。
(「惜しみなくささげます」シン・ピルス著より)
ささげることに無謀になってはいけませんが、神さまが促されたときは、大胆にささげることも必要ではないかと感じています。ささげていることを他者に知らせるは私の意に反しますが、自慢ではなく一つの証として告白します。東日本大震災が起こったのは6年前、教会を開拓し始めて、まだ半年ぐらいのときでした。礼拝に来られている人たちもまだ10人にも満たない、私もアルバイトをしながらでしたが、何か促しを感じ、その月の集会献金一ヶ月分全額を被災した教会へ捧げました。ところが次の月から人数が増えているわけでもないのに、コンスタントに献金額が増えていくのです。それから捧げる恵みを味わった私たちの教会は、自分たちの必要よりも、他教会や、世界の貧困状況にある子どもたちへの援助、被災地など、定期的に捧げるようになりました。気が付くとその度に、教会は次のステージへとバージョンアップされ祝福されていきました。これからも与える教会でありたいと願っています。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール シャンドリ)
心のオアシス 2017年4月2日
私が約30年の牧師としての歩みの中で感じることがあります。それは多くの人たちが間違った信仰観を持っているということです。その一つが、「問題がある人、弱さを覚える人が教会へ行く」という考えです。それらのことが教会へ行くキッカケになることは否定しませんが、本来は、それが教会へ行く目的ではないのです。教会へ人々が行くのは、ズバリ神さまが私たち人間を、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするように造られたからです。ですから、神さまを礼拝するのは人間として当たり前のことなのです。決して問題や弱さがあるからではありません。
コップが作られる目的は何でしょうか? それは飲み物を入れるためであります。製作者は、コップに使命を与えています。たとえそのコップが大きくても、小さくても、陶器であっても、紙であっても、プラスチックであっても、それぞれは同じ使命が与えられています。自分はステンレス製の丈夫なコップだから水を入れる必要はない、などとは言えないのです。同じように人間も、強いとか、弱いとか、能力があるとか、ないとか、そのようなことは関係なく、それぞれがそれぞれの形で、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするために造られているのですから、それ以外の使用目的はないと考えても良いでしょう。使用目的を間違っていると、その個人に、やがては社会に歪みが出てくるようになるのです。
もう一つの勘違いは、「奇跡が起こったら信じよう」という考えです。クリスチャンの信じている神さまは、私たちの願いや計画を実現するために存在しているのではありません。むしろ、神さまの願いや計画が実現されるために、私たちの方が用いられている立場なのです。人間が造ったものには、それぞれの目的があり、製作者が意図した目的のために使用される時に、その物の価値が出てきます。もし目的以外に用いられ始めると、それは凶器にもなりえます。私たちが、「他人に迷惑をかけなければ、自分の好きなように生きて何が悪い?」と言って、創造主が与えてくださった目的に生きないことを、聖書は「罪」と呼んでいます。
「たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。」(ヘブル6:7・8)
神の目的のために生かされたいですね。
心のオアシス 2017年3月26日
遠藤周作さんが、一人の少女の詩を紹介している。
わたしのノドが痛い時 あの子のノドも痛み
わたしが夜 セキをする時 あの子も眼をさましてセキをする
わたしがママから叱られて泣く時
あの子もわたしと一緒に泣いている
夕陽にうつるわたしの影法師のように
あの子はいつもわたしと一緒だ
ここに出てくる「あの子」とは、少女にとってはイエス・キリストだったそうです。ノドの痛みを癒すのでもなく、セキを止めてくれるのでもないが、一緒に痛み、一緒にセキをし、一緒に泣いてくださる。キリストは奇跡を行うことによってではなく、共にいることによって愛を示す姿が、この11歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその寂しい病床で慰め、力づけたことでしょうか。共にいてくださるありがたさであります。
もう一つ星野富弘さんの詩をお分ちします。
誰がほめようと 誰がけなそうと どうでも良いのです
畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです
私たちは世の中からの評価が気になります。注目され、称賛されたいという願望があります。たとえ、世の中の目にも留まらず、誰にも評価されなくても、あなたを唯一称賛してくださるお方がいます。その方こそイエス・キリストです。このお方が、あなたの傍らにいつもいて、あなたという存在に対して「へえっ」と、驚きの評価をしてくださっていることを信じ、それだけで満足できるようになるなら、その人の人生は、本当に大きく変わってくるでしょう。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ書41:10)
心のオアシス 2017年3月19日
1953年4月、神学校で勉強するために地方から出てきた私には、お金がありませんでした。毎週の礼拝献金から、勉強するための本代、日用品を買うお金のために、神学校の裏山へ登って、草の上にひざまずいて、ひたすら神様に祈って部屋に戻ると、いつも奇跡が待っていました。二学期に入る前に、必要な新しい本を買っておくようにと言われました。値段は350円でしたが、私にはその時10円のお金もありませんでした。机の引き出しの片隅に、小さな紙箱があったのを思い出しました。そのころ、教会や、幼稚園の子供会でお話をすることがありましたが、お礼にいただいたお金から十分の一を、神様に捧げて紙箱に貯めていたのです。主の御用のために使っていただくつもりでした。丁度、その箱に400円入っていました。「しめた」と思いました。でも、その時「これは主のために特別に分けておいたお金だから、自分のために使ってはいけない」という声が、心の奥から聞こえてきました。祈っても答えがこない状況の中、待ちくたびれて、ついに神戸にあるキリスト教書店へ出かけて行きました。手にはしっかりとあの400円が握られていました。書店の入り口の戸を開けた時、真っ先に目に留まったのは、日めくりのみ言葉のカレンダーで、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・」と、真っ黒なスミで書いてありました。結局購入を断念して、すごすごと神学校へ戻りました。「神様! どうして、私だけがこんなに、お金のことで苦しまなければならないのですか?!」涙が溢れてきました。重い足取りで部屋へ戻ってきた時は、日がすっかり落ちて、薄暗くなっていました。ベッドにひっくりかえって、ぼんやりと天井を眺めていると、祈って送り出してくれた故郷の教会の人たちや、懐かしい教会学校の生徒たちの顔が、次々と浮かんできました。私は「やっぱり祈ろう」と、机の前にひざまずきました。電灯をつけると、私の机の上に、新聞紙の包みがおいてあり、「天より」と書いた紙がのっています。「何だろう?」と開けてみると、何とピカピカの新しいあの本だったのです。込み上げてくる感動に私はオイオイ泣きました。私は本のうしろに書きました。「求めなさい。そうすれば与えられます! 天よりこの本を与えられる。感謝!感謝!ハレルヤ! 1953年8月7日(金曜日)」
(金井由信著「小さなささげもの」より引用)
心のオアシス 2017年3月12日
榎本保郎先生は、一日一章の書物の中でこう述べておられます。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。
駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」
いつ読んでも励まされる文章です。結局、私たちの人生は、どなたに任せているかにかかっていると言っても過言ではありません。任せるということは、共同でするということではありません。それは100%信頼して、その人に預けるということです。神さまに委ねるということは、私たちの命を預けるということです。そしてそれは、「神さまが、ご自分の計画を進めるために、私をどのように使用されても構いません、たとえそれが犠牲となることであっても、それがあなたにとってのベストであれば、そのようにしてください!」という意味です。教会では、簡単に「神さまに委ねます。お任せします。」と告白しますが、その意味は、人間の側には、必ずしも「楽な心地よい道」が与えられるわけではないことを覚悟しなければならないということなのです。もし、神さまの最善に委ねることができたら、もう何も恐れるものはありません。最強の神さまの目的のために「私」は使用されるのですから、それ以上の喜びはありません。「神に委ねる」ことを全うされたお方は、イエス・キリストです。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされた」(ヘブル書5章8~9節)