礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2017年4月2日

 私が約30年の牧師としての歩みの中で感じることがあります。それは多くの人たちが間違った信仰観を持っているということです。その一つが、「問題がある人、弱さを覚える人が教会へ行く」という考えです。それらのことが教会へ行くキッカケになることは否定しませんが、本来は、それが教会へ行く目的ではないのです。教会へ人々が行くのは、ズバリ神さまが私たち人間を、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするように造られたからです。ですから、神さまを礼拝するのは人間として当たり前のことなのです。決して問題や弱さがあるからではありません。
 コップが作られる目的は何でしょうか? それは飲み物を入れるためであります。製作者は、コップに使命を与えています。たとえそのコップが大きくても、小さくても、陶器であっても、紙であっても、プラスチックであっても、それぞれは同じ使命が与えられています。自分はステンレス製の丈夫なコップだから水を入れる必要はない、などとは言えないのです。同じように人間も、強いとか、弱いとか、能力があるとか、ないとか、そのようなことは関係なく、それぞれがそれぞれの形で、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするために造られているのですから、それ以外の使用目的はないと考えても良いでしょう。使用目的を間違っていると、その個人に、やがては社会に歪みが出てくるようになるのです。
 もう一つの勘違いは、「奇跡が起こったら信じよう」という考えです。クリスチャンの信じている神さまは、私たちの願いや計画を実現するために存在しているのではありません。むしろ、神さまの願いや計画が実現されるために、私たちの方が用いられている立場なのです。人間が造ったものには、それぞれの目的があり、製作者が意図した目的のために使用される時に、その物の価値が出てきます。もし目的以外に用いられ始めると、それは凶器にもなりえます。私たちが、「他人に迷惑をかけなければ、自分の好きなように生きて何が悪い?」と言って、創造主が与えてくださった目的に生きないことを、聖書は「罪」と呼んでいます。
 「たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。」(ヘブル6:7・8) 
 神の目的のために生かされたいですね。

心のオアシス 2017年3月26日

 遠藤周作さんが、一人の少女の詩を紹介している。
  わたしのノドが痛い時 あの子のノドも痛み
  わたしが夜 セキをする時 あの子も眼をさましてセキをする
  わたしがママから叱られて泣く時 
  あの子もわたしと一緒に泣いている
  夕陽にうつるわたしの影法師のように 
  あの子はいつもわたしと一緒だ

 ここに出てくる「あの子」とは、少女にとってはイエス・キリストだったそうです。ノドの痛みを癒すのでもなく、セキを止めてくれるのでもないが、一緒に痛み、一緒にセキをし、一緒に泣いてくださる。キリストは奇跡を行うことによってではなく、共にいることによって愛を示す姿が、この11歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその寂しい病床で慰め、力づけたことでしょうか。共にいてくださるありがたさであります。

 もう一つ星野富弘さんの詩をお分ちします。
  誰がほめようと 誰がけなそうと どうでも良いのです
  畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
  「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです

 私たちは世の中からの評価が気になります。注目され、称賛されたいという願望があります。たとえ、世の中の目にも留まらず、誰にも評価されなくても、あなたを唯一称賛してくださるお方がいます。その方こそイエス・キリストです。このお方が、あなたの傍らにいつもいて、あなたという存在に対して「へえっ」と、驚きの評価をしてくださっていることを信じ、それだけで満足できるようになるなら、その人の人生は、本当に大きく変わってくるでしょう。

 「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ書41:10)

心のオアシス 2017年3月19日

 1953年4月、神学校で勉強するために地方から出てきた私には、お金がありませんでした。毎週の礼拝献金から、勉強するための本代、日用品を買うお金のために、神学校の裏山へ登って、草の上にひざまずいて、ひたすら神様に祈って部屋に戻ると、いつも奇跡が待っていました。二学期に入る前に、必要な新しい本を買っておくようにと言われました。値段は350円でしたが、私にはその時10円のお金もありませんでした。机の引き出しの片隅に、小さな紙箱があったのを思い出しました。そのころ、教会や、幼稚園の子供会でお話をすることがありましたが、お礼にいただいたお金から十分の一を、神様に捧げて紙箱に貯めていたのです。主の御用のために使っていただくつもりでした。丁度、その箱に400円入っていました。「しめた」と思いました。でも、その時「これは主のために特別に分けておいたお金だから、自分のために使ってはいけない」という声が、心の奥から聞こえてきました。祈っても答えがこない状況の中、待ちくたびれて、ついに神戸にあるキリスト教書店へ出かけて行きました。手にはしっかりとあの400円が握られていました。書店の入り口の戸を開けた時、真っ先に目に留まったのは、日めくりのみ言葉のカレンダーで、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・」と、真っ黒なスミで書いてありました。結局購入を断念して、すごすごと神学校へ戻りました。「神様! どうして、私だけがこんなに、お金のことで苦しまなければならないのですか?!」涙が溢れてきました。重い足取りで部屋へ戻ってきた時は、日がすっかり落ちて、薄暗くなっていました。ベッドにひっくりかえって、ぼんやりと天井を眺めていると、祈って送り出してくれた故郷の教会の人たちや、懐かしい教会学校の生徒たちの顔が、次々と浮かんできました。私は「やっぱり祈ろう」と、机の前にひざまずきました。電灯をつけると、私の机の上に、新聞紙の包みがおいてあり、「天より」と書いた紙がのっています。「何だろう?」と開けてみると、何とピカピカの新しいあの本だったのです。込み上げてくる感動に私はオイオイ泣きました。私は本のうしろに書きました。「求めなさい。そうすれば与えられます! 天よりこの本を与えられる。感謝!感謝!ハレルヤ! 1953年8月7日(金曜日)」
(金井由信著「小さなささげもの」より引用)

心のオアシス 2017年3月12日

 榎本保郎先生は、一日一章の書物の中でこう述べておられます。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。
 駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」

 いつ読んでも励まされる文章です。結局、私たちの人生は、どなたに任せているかにかかっていると言っても過言ではありません。任せるということは、共同でするということではありません。それは100%信頼して、その人に預けるということです。神さまに委ねるということは、私たちの命を預けるということです。そしてそれは、「神さまが、ご自分の計画を進めるために、私をどのように使用されても構いません、たとえそれが犠牲となることであっても、それがあなたにとってのベストであれば、そのようにしてください!」という意味です。教会では、簡単に「神さまに委ねます。お任せします。」と告白しますが、その意味は、人間の側には、必ずしも「楽な心地よい道」が与えられるわけではないことを覚悟しなければならないということなのです。もし、神さまの最善に委ねることができたら、もう何も恐れるものはありません。最強の神さまの目的のために「私」は使用されるのですから、それ以上の喜びはありません。「神に委ねる」ことを全うされたお方は、イエス・キリストです。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされた」(ヘブル書5章8~9節) 

心のオアシス 2017年3月5日

 第二次世界大戦が終わった後、日本で天皇陛下が人間宣言をしました。それまでは天皇は神だとされていたのですが、本当は人間なのだと宣言したわけです。その後、天皇が日本の各地を廻ったことがあります。昔は神だと言われた方が自分たちのところに来てくれた、ということで当時の住民は大変感激したそうです。しかし、天皇陛下が通られる場所は、修繕されて綺麗にされました。例えば道がでこぼこだったらそれをきれいに直し、汚い場所があったらお金をかけて綺麗にするのです。ですから、実際の庶民の姿や生活は隠されました。社会の一番底辺で生きていた人々にとっては、本当の意味で天皇が自分のところに来てくれたのではなかったのです。
 イエス・キリストが、人間の救いのためにこの地上に来て下さったとき、王様の子供として生まれて、きれいな楽な道だけを歩んで、すぐに帰られたのではありませんでした。貧しい大工の息子として生まれ、苦しみの生涯を送られ、最後には死まで味わわれた。そこまで降りてきて下さったのです。イエス様は、貧しさを経験しました。支援する人もいませんでした。同胞であるユダヤ人からは邪魔者扱いされました。サタンの誘惑、攻撃に遭いました。ローマの税金は非常に高い時代でしたが支払われていました。自由は全くなく、生きていける保証などありませんでした。ナザレという田舎の出身で、何の期待もされませんでした。教育も受けられませんでした。拒絶、誤解、軽蔑、裏切りを経験され、生涯独身で通されました。父親を早くに失う経験もしました。そして、聖書に「キリストは全ての病を負った。」とあるように、全ての病を経験したといっても過言ではないでしょう。だからこそ、試みにあっている人や、病の中で苦しんでいる人、悩んでいる人を思いやることができるのです。「天のお父様、あの人は今、様々な試練の中にいます。私もそこに立たされたことがありますので、理解することができます。どうぞ天使を送って力付けてあげてください!」誰からも理解されなくても、イエスさまだけは、あなたの全てを理解し、執り成していてくださるのです。だから、どうぞ落ち込まないでください。たとえあなたが祈る力さえ失っても、イエスさまは、あなたのために執り成して祈り続けてくださっているのです。

心のオアシス 2017年2月26日

 イギリスの田舎の村に、母親とその息子が住んでいました。働き盛りの父親が急病で亡くなってからは、引越しして、町外れの狭い家に移り、貧しい生活をするようになりました。母親は、ビルの掃除やよその家の手伝いや、縫い物の仕事などを引き受けて、夜遅くまで働いていました。少年も朝早くから新聞配達をして家計を助けていました。辛くて苦しい毎日が続きました。しかし、二人は毎日出かける前に聖書を開いて、お祈り賛美をしていましたから、心はいつも喜びに満ちていました。やがて、少年は成長して、難関を突破して見事に歴史のある都会の名門大学へ入学することができました。何年か経過して、卒業するときがきました。彼はなんと首席で卒業することになったのです。彼はみんなの前でスピーチをして、その後、国王から金のメダルが贈られることになっていました。彼は母親に手紙を書きました「お母さん! 長い間、本当にありがとうございました。金メダルをいただくことになりました。是非卒業式には出かけてきてください」しかし、実際のところ、その母親には、そこへ行くお金も着ていく晴れ着もありません。大変悩みましたが、せっかくの卒業式なので、なんとか旅費だけは工面して、いつもの色あせた服を着て卒業式に出かけました。大学へ着くと、広い式場はいっぱいの人です。やがて卒業式のプログラムは進み、青年は名前を呼ばれて前へ進み出ました。国王から金のメダルを受け取ると、すぐにみんなの方を振り向き、こう言いました「みなさん、この金メダルは、私がもらうべきものではありません。これを受けるのに一番ふさわしい人は、ここにいます!」そう言って、舞台から降りて、満員のホールの隅で小さくなっている母親のそばに行き、恥ずかしがる母親の手を引いて、舞台に戻りました。そしてこう言ったのです「お母さん! これはお母さんがいただくべきものです。お母さんの苦労のおかげで、ここまでくることができました。本当にありがとう!」そして、そのメダルを首にかけてあげました。式場に集まっていた大勢の人たちも、感激して涙を流し、拍手がいつまでもホールに鳴り響いていたそうです。

 私たちは上手くいくと、すぐ高慢になってしまいますが、神の手の中で育まれていることを信じるなら、もっと豊かな人生になるでしょう。

心のオアシス 2017年2月19日

 大和カルバリーチャペルで救われ、私たちの教会でも数年前にお話くださったことのあるK.F.さんのお証です。彼は教会へ導かれる10年前に、交通事故で、身体的なハンディキャップを負い、それから精神的にも障害が出て、薬漬けの毎日になり、その副作用もあって人格は変わり、薬なしでは生きることができなくなりました。それから10年後、その時の状況から脱したいと思い、環境や気分を変えるために、オーストラリアの牧場で働きながらリハビリしようと出立しました。ところが、牧場主の事情で、彼を受け入れることができなくなりました。彼が困っているところ、たまたまティーンチャレンジという薬物更正施設を紹介され、そこでボランティア・スタッフとして3ヶ月奉仕をさせていただけることになりました。その施設は、他の施設と違って薬物中毒患者に対して、薬物治療を行うのではなくて、朝から晩まで、賛美と聖書の御言葉を聴き礼拝して、薬物から解放させるキリスト教施設だったそうです。当初、彼は、そこがどういうところかも知らずに行ったのですが、驚いたことに死んだような虚ろな目をした人たちが入所してくるのですが、1・2ヶ月していくうちにその目が輝き始め活き活きと変化していくのです。そして薬物から解放されてそこから出ていくのです。そのような中で、彼はスタッフとして手伝いをしていたのですが、依存性の人たちと、毎日、聖書の話しに触れていくうちに、彼自身が癒されてしまって、薬なしで生活することができるようになったのです。そして彼は、聖書の神様は生きておられる体験をして、現地の教会で洗礼を受けました。そして3ヵ月後、日本に帰ってきて受けた医者の診断は・・・C型肝炎完治・てんかんの完治・精神疾患の完治の宣言で、薬もそれ以来一錠もとらなくてよくなったのです。ご主人の変化を間近に見ていた奥さんが「聖書の神様は生きておられる!」と、教会に来られて洗礼を受けられました。
 
 サタンは、私たちの周りの環境、状況、現実を見せて、私たちに神様の御心に反する言葉をかけてきます。「現実を見なさい! 絶対無理です。あきらめなさい! 神なんていません!」しかし神さまは、この地上に暑い夏や、凍える冬、快適に過ごせる春や秋を造られたように、人生にも四季を与えておられます。神さまの言葉で準備が整っているならば、どのシーズンでも、それぞれの美しさを楽しむことができるのです。

心のオアシス 2017年2月12日

 ある村から、一人の若者が隣の村に住むために移動していました。
 途中で一人の老人に会いました。この若者は、この老人に聞きました「私が今から行こうとしている隣の村には、どんな人が住んでいますか?」老人は、それを聞いて逆に問いました「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人が住んでいましたか?」すると若者は言いました「あの村には、もう二度と入りたくありません。とても不親切な人ばかりで、嘘はつくし、友達なんて一人もできませんでした。とんでもない村でしたよ・・・」そうすると老人は答えました「今からあなたが行こうとする村も、同じような人々が住んでいますよ・・・」30分ぐらいして、前の若者と同じ村から別の若者が出てきて、やはり隣の村へ行こうとしていました。その若者は、途中で老人に出会いました。そして前の若者と同じ質問をしました「今から隣の村へ行こうとしているのですが、そこにはどんな人々が住んでいるのですか?」老人は逆に質問しました「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人が住んでいましたか?」そうするとその若者は言いました「あの村には、本当に良い人たちばかりで、親切な人たちばかりでした。親しい友人もたくさんできました。とても名残惜しいのです。」そうすると老人は言いました「今からあなたが行こうとする村も、同じような人々が住んでいますよ・・・」
 この話は、私たちの心の目の状態によって、その人の人生は大きく変わるのだということを教えていると思います。

 アメリカの有名な発明王トーマス・エジソンは、「失敗すればするほど、我々は成功に近づいている。失敗なんかしちゃいない。うまくいかない方法を700通り見つけただけだ。」と言いました。この地上という同じ土俵の中で同じ境遇の中にいても、幸せだと感じる人もいれば、不幸せだと感じている人もいます。考え方一つで、私たちは人生の途中の辛いプロセスさえも楽しみながら生きることができるのです。
 「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(聖書)

心のオアシス 2017年2月5日

 ある牧師が、聖書の時間に質問を受けたそうです。「イエス様は、どうしてイスカリオテのユダのような人を弟子にされたのでしょうか?」この突然の質問に、牧師は適切な答えができず、少し研究してから答えると口をにごらせました。その後、その牧師はみことばを詳しく読み、注解を読み、祈ったりしましたが、満足のいく答えが得られませんでした。そんなある日、この問題についてもう一度黙想していたとき、ふと他の質問が心に突き刺さりました。「なぜ主は、私のような人間を主のしもべとして選ばれたのだろう。」牧師は、自分に対するこの衝撃的で挑戦的な質問に言葉を失いました。溢れ出る涙を抑えることができませんでした。忠誠を尽くせず、最善も尽くせなかったことへの後悔が一度に押し寄せてきて、胸が張り裂けそうでした。名誉やお金や人気に染まった自分の姿は、まさにイスカリオテのユダの姿でした。イスカリオテのユダを非難の対象にしている時は、答えが得られなかったのに、自分にその非難の目を向けたとき、ようやく悟りました。主が間違って選ばれたのではなく、選ばれた者が罪と咎によって生きていることが問題だったのです。  
 その日以来、この牧師は変化し始めたそうです。自分の改革から始めると、周りも変わり、ついに教会全体が変わったそうです。

 私たちは、球場の観客席に座って、プレイヤーのミスを指摘し、非難する毎日を送っています。世の中は、それがエンターテインメントのようになっています。毎日のようにして、芸能人や政治家批判をしています。評論家は、全く非の打ち所のない人生を歩んでいるのでしょうか? 売春で捕まった一人の女性が、イエスさまの前に引き出されました。人々は石を握って言いました。「法律では、『このような者は、石で打て』とありますが、あなたならどうしますか?」イエスさまの返答は、「この中で罪のない者が打ちなさい」その言葉を聞いた人々は、年寄りから順に石をその場に置いて去ったと新約聖書に記録されています。
 私たちはただ神さまの恵みによって選ばれ生かされているのです。それに応える生き方をしたいですね。まずは自分の改革からスタートです。

心のオアシス 2017年1月29日

 1988年に、Drランドルフ・バードが、サンフランシスコ総合病院の心臓病集中病棟の患者393名の協力を得て行った研究で、このようなことがなされたそうです。米国内のさまざまな場所にいるクリスチャンの集団が、指定された病人たちのグループのひとりひとりに対して祈りを行いました。そしてもう片方の患者のグループには、誰も祈りませんでした。そして祈りという要因を除いては、すべての患者は同じハイテクな治療を受けました。これは専門用語では二重盲検法という用語が使われるわけですが、つまり、患者、医師、看護婦のすべてが、誰が祈られ、誰が祈られていないかわからないよう配慮されました。その結果、バード博士は、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的にみて明らかに有意に良くなっていることがわかったということです。
 また祈りの距離というものも、祈りの効果を左右する要因にならないことがわかったそうです。すなわち、東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りとまったく同様に効果的だったことがわかりました。
バード博士はこう言います。「もし、なんらかの物理的なエネルギーが送られているのであれば、遠距離より近距離の方が、祈りの力はよりパワフルになるはずである。なぜなら、物理的なエネルギーならば、距離と共に弱まるからである。祈りの効果は、覆って遮断したり、封鎖したりすることができない。とういうことは祈り手から相手に向けてある種のエネルギーが送られているわけではないのである。離れた場所からの祈りがどのように作用するかについては、現在のわれわれの科学は無知であるということからすれば、『神の力がはたらいたのだ』と信じる人々は、自分たちの主張にあらためて自信をもつべきであろう。このような考えは、どのような説にもまして、最良の説明のように思われるからだ。」
 何とクリスチャンではない博士の「祈り」の研究によって、クリスチャンたちが励まされることになるなんて滑稽ですが、衝撃です。確信を持って祈ろうではありませんか。私たちの奥の手は「祈り」です!