心のオアシス
心のオアシス 2017年11月12日
ある方の文章です。20年前ぐらいの前の話。当時、私の家はいわゆる片親ってやつで、すごく貧乏だった。子供3人養うために、母親は夜も寝ないで働いていました。それでも、どん底でした・・・。私は中学を卒業してすぐ働きに出た。死ぬほど働いた。遊んでいる暇なんてなかった。1年ぐらいして、同級生に久しぶりに会い飯食いに行こうという話になった。ところが私はメニューの漢字が読めなかった。読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。同級生は「焼きそばと、ごはん」と注文した。無知な私は「じゃあ、俺はオムライスとごはん」って店員に言った。店員、固まっていた。周りでクスクスと笑い声も聞こえてきた。そうすると、同級生「あっ、さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」・・・店出た後、同級生が一言「うまかったな。仕事がんばれよ!」って言ってくれた。泣けてきた。心の底から人に「ありがとう」って思った。そいつは、今でも親友です。
この話しを読みながら、新約聖書・ヨハネ福音書に出てくる罪の女性を思い出しました。人々が彼女を姦淫現場で捕らえてイエスさまの前に引き出しました。人々はイエスさまに「モーセの律法では、このような女性は石で打ち殺せとありますが、あなたはどう思いますか?」と問いました。この女性は、ほとんど何も身にまとわない状態で人々の前に出され、人々の恥ずかしい痛い視線を浴びていたことでしょう。しかし、イエスさまは、突然その場にスッと身をかがめて、地面に何かを書き始められました。人々の興味は、イエスさまが何を書いておられるのか?ということに興味が向けられ、女性に向けられていた視線が、イエスさまの指先に移っていったことで、女性の恥が軽減されたことでしょう。これを“視線の肩代わり”と呼ぶことができるでしょう。
イエスさまは、私たちの罪や恥、弱さを全部請け負ってくださいました。十字架の醜さは、まさに私たちの恥であり、隠しておきたい私たちの罪の姿そのものなのです。心の底から「ありがとう!」と叫びたい。
心のオアシス 2017年11月5日
羊は山道を歩いている時に、自分の好きな草を見つけると、1メートルの絶壁であっても、飛び降りてそれを得ようとするそうです。ところが、降りて喜んで草を食べるのですが、問題は食後です。その1メートルの高さから降りることはできても、上がることができないのです。その下にはもっと恐ろしい断崖があるので、まったく身動きができない状態になってしまいます。もし羊飼いが網を下ろして羊を引き上げようとするならば、羊は自分を捕獲するために来たのだと思い、後ずさりして、崖から落ちて死んでしまいます。そこで羊飼いは、羊が疲れ果てて気を失うまで手を出さないで見守り続けます。そして完全に気力を失って倒れた時に、羊の身体に網を巻きつけて引き上げるそうです。
私たち人間と神さまとの関係も似たようなところがあると思います。神さまに「委ねます」と宣言しお願いしながら、自分が持っている可能性や能力で何とかしようと計算してしまいます。ですから、能力のある人や力のある人は、委ねるとは言いながら、ジタバタしてしまうのです。それは自分の中にまだ力があるからです。そうなると神さまの出番はありません。私たちがまだ倒れてしまうほど飢えていないので、神さまが助けてくださらないのです。神さまは、私たちの力が完全に尽きるまで待っておられます。力尽きて神さまに抵抗できなくなるまで見守っておられるのです。イスラエルの民は律法を守り行うことに必死でしたが、結局神さまは、彼らが守りきることができないことを知って力尽きて神を求めるようになることを待っておられたのです。ここで言う「力尽きる」とは、必ずしも現実に力尽きて倒れてしまうということではありません。私たちの中には、手放せない夢とか、計画とか、願いごとがありますが、それらの自己実現に生き続けようとする思いをある意味「諦める」ということなのです。では、何も夢も希望も持ってはいけないのでしょうか? そんなことはありません。神実現に生きる願望を持つのです。そうすることによって、驚くべき神さまの助けを得ることができるようになりますし、人生の悩みが軽減します。私もそれを体感中です!
心のオアシス 2017年10月29日
スペインの美術館に、ピカソが他界する直前に病床で描いた絵があります。それは、小さな紙に鉛筆でスケッチしたものです。もしそれをスケッチした人が、ピカソでなかったなら、その紙はすでにゴミとして捨てられていたことでしょう。しかし、偉大なピカソの手によって描かれたもの故に、その小さな見栄えのしない紙が立派な芸術品として扱われ、大切に保存されているのです。また何年も前に、アメリカの今はなきスーパースターの使用済み歯ブラシが、庶民には手の届かない高値で落札されたというオークションの記事を読んだことがあります。このように、使い物にならないような紙一枚であっても、古い歯ブラシであっても、誰の手によるものなのか、誰の手の中にあったものかということによって、ゴミとして捨てられることもあれば、偉大な芸術品として、価値のある物として保管されることもあるというので驚きです。
私たちの人生も同じです。誰の手の中にいるのか、ということが重要なポイントです。私たちは、永遠なる創造主である神の手の中にいるとき、その人生には意味が出て輝きます。色々な考え方はあるとは思いますが、私は、どんなに多くの財や権力を手にしても、神抜きの人生であるならば、それはゴミのようだと思っています。かなり過激な表現かもしれませんが、ただ自分のために生き、自分の肉のために生き抜いて、やがては墓地に葬られ、朽ちて終わるような人生ならば、それは朽ちてなくなるゴミと本質的には、全く違いがないと感じています。
この地上での人生は長くても百年です。学校のこと、就職のこと、結婚のこと、人間関係のこと、経済のこと、健康や老後のことなど、この世では心配することが山積みです。確かにそれらの問題解決もしていかなければならないでしょう。しかし、どれだけの人が、死後の世界について心配しているでしょうか? 聖書には、肉体の死後、「永遠の生命」と「永遠の死」の世界があって、そのどちらかに入ることが決まっているというのです。もしこれが本当だとするならば、“この世”以上に続く“永遠”について、もっと考えた方が良いのではないでしょうか?
心のオアシス 2017年10月22日
アメリカの田舎の丸太小屋に、ある病弱な男性が住んでいました。その家の前の小道には大きな岩があって、人々が行き来するのにとても不便な状態でした。ある日、神さまが夢に出てこられ、このように言われました。「愛する子よ、お前の家の前にある岩を毎日押してみなさい」。その時から、その病弱な男性は、毎日まじめに岩を押しました。8ヶ月過ぎた頃、その男に疑いが生じ始めました。どう見ても岩の位置が変わっていないのです。彼は道端に座って、この8ヶ月間、無駄なことをしたと思い、泣き始めました。すると、神さまが彼に尋ねられました。「愛する子よ、なぜそんなに悲しんでいるのか」「神さまに言われて、この8ヶ月間、希望を持って一生懸命岩を押しましたが、岩は全く動いていませんでした」。神さまが言われました。「わたしはあなたに岩を動かせとは言っていない。ただ押すようにと言っただけだ。さぁ、鏡の前に行って、あなたの姿を見てごらん」。鏡の前に立った男は、あっと驚きました。鏡に映った彼の姿は、病弱な患者のようではなく、筋肉のついた力強い勇士のようだったからです。
神さまにお従いしていても、自分に何も感じないこともあるでしょう。何の変化も見ないこともあるでしょう。無駄な時間を過ごしているように思うこともあるでしょう。私たちは実感を求めますが、神さまは私たちとは違う計画を持っておられることが多いように思います。時には逆境に置かれることもあるでしょう。でも、それはすべて私たちにとって益になるための親心ならぬ神心です。ただ、私たちは神さまのご計画があることを信じ、最善を主に委ねつつお頼りするということです。
「8:26御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ書8章26・28節)
心のオアシス 2017年10月15日
ある家族が、田舎に小さな家を建てて幸せに住んでいました。何年かしてから他の家族が隣の土地を買って、大きな家を建てました。それまで何の問題もなかったのですが、隣の家を見て奥さんはご主人に言いました。「お隣の家は大きくて立派な家を建てたね・・・うちは小さくない?」「小さな家でいいからと、同意してここに引っ越してきたんじゃなかったか? 今更何を言ってるんだ!」と喧嘩になりました。子供は隣に引っ越してきた子が新しい自転車に乗っているのを見てお母さんに言いました。「どうして僕はずっと古い自転車に乗らなきゃいけないの? 新しいの買ってよ!」お母さんは言います。「お隣の子は、よくお手伝いするし、成績もいいでしょ!」と、隣と見比べ始めて不和が生じました。
「世界に一つだけの花」という歌の歌詞の中に、“No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one 花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのにその中で 一番になりたがる? そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい”というのがありますが、神さまは、あなたをあなたとして造り、あなたにだけ与えられた個性で輝けるようにしてくださいました。
ペテロがイエスさまに質問しました。「主よ、この人はどうなのですか?」それに対する答えは、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」願わくは、私たち自身を他者との比較ではなく、イエスさまと自分との関係の中で、そこから与えられる計り知れない神さまの力を体感できますように。
本日は私が関西での開拓7年目にして、大和カルバリーチャペルから、大川先生御夫妻をお迎えすることができて感謝感激です!
この歴史的瞬間に皆様もご一緒くださり嬉しく思います。祝福を心より祈ります!
心のオアシス 2017年10月8日
アメリカのテレビのニュース番組の中でハリケーン通過によって洪水で被災した人たちへのインタビューされる様子が映し出されていました。被害者の人たちの多くは、不平不満でした。内容は、政府の対策が遅すぎる・・・エアコンが水に浸かり壊れて暑くて大変・・・下水が溢れて臭い・・・病気が蔓延している・・・など、厳しい現状に対する描写でした。そんな中で、耳を疑うようなことを言い始める女性にインタビュアーがマイクを向けました。「何か問題はありますか?」しかしその女性は輝いた顔をして言いました。「いいえ、問題はありません。みなさんが助けてくれて、命守られ、家族も守られ、健康でいることができることを嬉しく思っています。」ちょっと拍子抜けしたインタビュアーは、「この真夏にエアコンがなかったら大変じゃないですか?」と、何とかして今の厳しい現状を伝えるために誘導質問しました。しかし、この女性は、小脇に抱えた聖書を指し示しながら言いました。「いいえ、私の家は全部流されましたから、エアコンどころではありませんよ。でもね、洪水は家を流すことができても、この神の言葉がある限り、私の内にある平安と喜びと希望を流すことはできません!」
衝撃的な言葉でした。この女性は気が変になったのではありません。絶望の中でも、幸せを見つけ、そこに喜びを感じているのです。これが信仰の力なのです。私たちは願っている方向へ物事が進まいこともあるでしょう。イライラも起こるでしょうし、苦しく、泣きたくなることもあるでしょう。誰でもそういう所を通過します。しかし、あのマザーテレサは、そんな時、こう考えました。「私たちは急いでいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」「お金? それなら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みでなかったということです。」「誰もが天国に住みたいと思っていますが、今すぐにでも自分の中に天国を創りだすこともできるのです・・・」
これらの言葉は、背後に神さまに対する信頼がなければ出てくることはないでしょう。信仰が入ると人は驚くような力を発揮します。
心のオアシス 2017年10月1日
オンヌリ教会の故ハーヨンジョ牧師が「犠牲が伴わなければ、本当の平和はない」とメッセージをされていました。内容はこうです・・・
「神と私たちの間には、和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら神と人とには大きな隔たりがあるからです。その為には、とりなし手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって、回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら、犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもないのです。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えません。
それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、それぞれの言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです! バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
すごいメッセージだと思いました。確かに、この何千年もの歴史を見て、人々の間に、国と国との間に、さまざまな平和論、平和の哲学や、平和に対する考え方が示されてきました。しかしながら、どの時代にも争いや戦争はなくなることはありませんでした。何の解決にもなっていない現実を見るときに、私たちに必要な和解は、まず神と人との和解であるということに気づかされます。自分の主張をしても平和はありません。まずは、神さまはすべて造られた人たちを愛しておられること、異国人であっても、同じ国籍(天の国籍)の者であり神の家族の一員であることを意識し始めるならば、何かが変わると確信します。
イエスさまは、十字架につけられる前に、さまざまな不利な証言や身に覚えのない訴えがありましたが、口を開かれませんでした。なぜなら、正論を述べて和解をしようとは考えなかったのです。そんな平和は長続きしないのを知っておられたのです。犠牲と死が伴う和解を選ばれました。それによって、神と私たちに永遠の和解の道が開かれたのです。
心のオアシス 2017年9月24日
ある女性が結婚して、子供がほしかったのですが、なかなか赤ちゃんが与えられませんでした。その為に長い間、辛い不妊治療を行なっていました。しかし最終的にお医者さんから、「これ以上のことは無理です。諦めてください」と言い渡されました。このご婦人は、ガッカリして落ち込んで、何日も泣いていました。そんなある日、子供がほしいということに執着するのは止めようと思いました。なぜなら自分の願いばかりに執着していたら、それによって振り回されて自分の人生を台無しにしてしまうことを悟ったからです。彼女は、神様が自分の願いとは違う計画を与えてくださっていることを受け止めるようになりました。そして今まで縛られていた思いから全く解放されたのです。彼女がたまに自分の赤ちゃんが欲しいという願いを思い起こしたときは、いつも「神様の自分に対する計画は、自分の願いとは違う」と、頭を切り替えることによって、乗り越えることができるようになりました。それからしばらくして養子を受け入れて3人の子供たちの母親になり、今、喜びの人生を送っておられるとのことです。
幸せというのは、自分の願いが叶うときにくるものではないのです。多くの人たちは、結婚すれば幸せになれると思い、ある人は、お金があれば、学歴があれば、仕事があれば幸せになれると思います。確かにそれらのものを手に入れたら、一時的な安らぎや喜びや満足感を得ることはできるでしょう。しかし、すぐに不足を感じるようになり、次なる不満足にその喜びは無くなり不幸せだと感じてしまうのです。
イエスさまは、「剣を持って、今の現実に抵抗しないで、神様がわたしに下さった、この出来事を受け入れるべきではないか、飲むべきではないか」と、ローマ兵に逮捕された時に弟子たちに説き伏せられました。
永続的な幸せは、神様のご計画に任せるときに、その瞬間、その時に来るものなのです。状況が私たちを幸せにするのではなく、私たちの心の姿勢が、私たちを幸せにも不幸にもすることができるのです。
「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(マタイ5章4節a)
心のオアシス 2017年9月17日
私たちは何かしら目標とか目的をもって生きています。なぜならそれが様々な原動力になるからです。働くことも、学ぶことも、生きることも、ゴールが見えないと、虚しくなってきます。ある国の拷問の中で、バケツの水を右から左に移し替える作業をずっと繰り返させると、やがて発狂してしまうという話を聞いたことがあります。人間は無意味だと自覚していることを継続することはできないのです。逆に他者から見て無意味に見えても、本人の中にゴールが見えているならば、それを続ける活力が与えられます。しかしながら成功できた人も失敗ばかりの人も、友人に恵まれた人も、孤独な生涯であった人も、みな同じゴールが最後には待っています。それは、人は死んでいくということです。それで全てが終わりであれば、人の一生というものは実に空しいことでしょうか。
聖書は、私たちの最終ゴールは、「天のふるさと」に帰ることであると明確に記しています。旧約に出てくるアブラハムも、この地上では報われることが何もなくても、「天のふるさと」を望みみて喜びながら生きることができたとあります。イエスさまは、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍ことができたとも書かれています。この地上での目標設定も大切ですが、それはこの地上のみで終わってしまうものです。でも永遠の世界(肉体の死の向こう側)におけるゴールを知っているならば、鬼に金棒です。この地上では孤独であっても、弱者であっても、負け組と呼ばれたとしても、希望が与えられます。
この希望は、私たちの罪の身代わりのために十字架で死に、3日後に甦られ、今も生きて働いておられるイエスさまを心にお迎えするだけで与えられます。苦行を行なうこと、律法を守ること、さまざまな努力をすることによって救われるのではありません。イエスさまが全部してくださるのです。そこに安定した安心が与えられるのです。心にお迎えすることによって、私たちの生き方が自然と変えられていくのです。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
心のオアシス 2017年9月10日
明治の義人と言われた田中正造氏が、「人は、神に愛育されて、愛の心にあふれる」と言いました。教え育てることを「教育」と言いますが、愛し育てる「愛育」によって、人は愛の心にあふれるというのです。確かに教育によって「愛」の定義を教えることはできるかもしれませんが、愛の心を養うためには、愛情に溢れた人格に触れなければ育ちません。
聖書に登場するザアカイという人物は、取税人でありました。当時の社会では、取税人はローマ帝国が徴収する税金を取り立てるのですが、決められた額以上に徴収して、それを懐に入れて私腹を肥やしていることで知られていました。ユダヤ人でありましたが、ローマ帝国に加担していたので、ユダヤ人の中では村八分にされるような嫌われ者でした。しかし、味をしめてしまうと、自分がアブラハムの子孫であることは、わかっているけど、辞められなかったのです。ある日、イエスさまが村をお通りになられた時、「ザアカイよ、今日、あなたの家に泊まることにしています。」と声をかけられました。彼にとっては信じられないできごとです。ユダヤ人たちからは、煙たがられ、嫌われ、一緒に食事をする人は誰一人いませんでした。今、人々が注目し、人気を集めている、あのイエスさまが家に来てくださるというのです。彼は急いでイエスさまを招き入れて、一緒に食事をしながら、その愛と人格に触れただけで愛の人に変わってしまったのです。ザアカイは宣言しました。私の財産の半分を貧民に施します! 不正に取り立てていた人たちには4倍にして返します!」
私も似たような体験をしたことがあります。アメリカ留学時代に、アルバイト先のボスが、私を特別扱いし、愛と親切を注ぎ続けてくださいました。私のような者に、そのようなことをしても何の得にもならないのに一方的に愛してくれたのです。私は指導されたわけではないのに、心に変化が起こりました。それはボスの下で働くからには、自分のためではなく、ボスのために働こう!と。それは、人は無条件の愛に触れ受け入れると変わることができる!と、思った瞬間でした。栄光在主。