心のオアシス
心のオアシス 2017年6月11日
昨年召された渡辺和子さんが、ある方に出されたお手紙を紹介します。
お便りを書いてくださって、ありがとうございます。あなたの「負けずぎらい」が、ある意味であなたを苦しめているようですね。私にもそういうところがあるので、少しわかるような気がします。あなたは小学校の教師になりたいという幼い時からの夢を、高校入学直後、心臓が悪いということで、あきらめなければならなくなった時のショックについて書いていらっしゃいます。・・・(中略)「仕方ない」と頭ではわかっていても、つらくてつらくて仕方がなかったのですね。そして大学に入学して、今度は中学校の教師なら体育をしなくていいからと志していたのが、また膵臓炎、胃炎、胆嚢炎を併発して、この夢もあきらめざるを得なくなり、一度ならず二度までも行く手をはばまれ、人生の敗北者となり、笑顔を失ってゆく自分であったと書いていらっしゃいます。つらかったことでしょう。自分が希望するものを次々にあきらめてゆかねばならないつらさと、他人が着々と目標に近づいてゆくのを見守るつらさ・・・神さまは不公平だとお思いになったのも当たり前です。でも、あなたの偉さは、そういうつらさを味わった後に、次のように書けるところに到達したことにあります。「今日の私にたどりつくまでには、右に曲がり、左に曲がり、本当に複雑で、険しい道を歩みました。でも、そのおかげで、人生というものについて真剣に考えることができたのです。“それまでの私がいいかげんな生き方をしていたから、神さまが私に反省を促すために病気という贈物をくださったのかしら?”最近では、そんなふうに思いもします」
あなたは「私は、私の世界を生きればいい」ということに気づいた時、心の整理ができたのです。そうなのです。あなたには、他の友人のように、旅行の思い出、スポーツの思い出、コンパの思い出はないかもしれない。病院での日々、闘病しながらの苦しい勉強の日々の思い出しかないかもしれない。でも、それが他の人にないあなた独自の思い出だと気づき、いとおしく思えるようになった時、道が拓けたようですね。
私たちの人生で、最も重要なことは、何ができたか、できなかったか、ではなく、自分にしかない人生をいかに生きたかということなのです。
心のオアシス 2017年6月4日
「隠れ家」という作品を通して、コーリー・テン・ブームという存在を知る人は多くいます。彼女は、オランダ人でクリスチャンでした。第二次世界大戦中、ナチスに追跡されていたユダヤ人たちを自分の家にかくまいました。しかしブーム一家は捕まり、刑務所に入れられ、何ヶ月も迫害を受けました。彼女の著書の中にこのような内容があります。
私は、強制収容所にいたときほど、イエス・キリストが一緒にいてくれることを実感したことはありません。私たちがいた兵舎は火葬場の裏手にありました。そこでは毎日600体の死体が焼かれました。残念ながら、私と同じくらいの歳の女性はみんな殺されました。私はこの目で人が殺されるところを見たのです・・・収容所内では裸で立たされたこともありました。みんな服を脱がされるのです。そういう試練を私は7度も経験しました。最初のときが一番大変でした。とても耐えられるようなものではありませんでした。あれほど惨めで、寒い思いをしたことはありません。すると、そのとき突然、十字架にかかったイエス・キリストが目に浮かんできました。聖書には、イエス・キリストの服がはぎとられたと書いてあります。裸で十字架にはりつけにされたのです。私は、自分が苦しんだおかげで、イエス・キリストの苦しみの何分の1かが分かったような気がしました。そして、それをとても嬉しく思いました。収容所のテントは、すべて真っ黒でした。土は灰で真っ黒になっていました。兵舎も真っ黒のペンキで塗られていました。明るいものといえば、星と月の光くらいなものでした。一度、真夜中にベスが私を起したことがありました。「コーリー、神様が私に話しかけたよ、私たちが自由の身になったら、やらなければならないことが一つある。それは世界中に福音書を配ってまわること。これほど辛い思いをしてきたんだから、みんな耳を傾けてくれるわよ。私たちは、ここでイエス・キリストの光が真っ暗闇の暗さよりも強いということを経験したのだから、そのことを話すことができる。もしも困っている人に出会ったら、悩むことなどないということを教えられるわ」そしてその二週間後、私は自由の身となりました。
今から2千年前、イエスさまの弟子たちは、戸を固く閉ざした部屋の中で、聖霊が与えられた時、勇気と希望と力が注がれました。今も聖霊は、私たちのうちに生き、動き、存在しておられます。だから恐れるな!
心のオアシス 2017年5月28日
弁護士のササキ・アイザック・ミツオさんの体験談です。
だいぶ前のことだが、シリアのダマスカスからインドのボンベイ行きの飛行機に乗った。かなり古いスイス航空の4発プロペラ機である。空港から飛び立つと、窓には何の変哲もない砂漠が連綿と続くばかりだ。あまりにつまらないので居眠りをしていたが、エンジンの異常音で目が覚めた。見ると機体左側の2発のプロペラエンジンからもうもうと黒煙が立ちこめ、火炎が噴き出していた。あわててスチュワーデスを呼んで、「大丈夫か?」と尋ねたところ、「ドント・ワォリー! ダイジョーブ!」と、英語と日本語で言い、機長に報告に行った。次第に機体は傾き、グングンと高度が落ちていった。機内アナウンスで「エンジンにトラブルが発生しました。機体を25度傾けます。上昇気流を避けるため高度を地上100メートルに下げますが、心配ありません」と発表された。引火爆発を避けるため燃料用ガソリンタンクを機外に投棄し、エアコンもストップした。灼熱の砂漠の上をすれすれに飛んでいるので機内温度は摂氏60度を越えた。それでも、スチュワーデスは顔色ひとつ変えずにニコニコして座っている。こんな機体の姿勢で安全に着陸できるのかと非常に不安になり、死を覚悟した。空港に近づくと、数台の化学消防車やテレビ報道者が待機している。もうダメだと思った。きっと、「飛行機爆発・乗客全員死亡」と報道されるに違いない。着地と同時に機体は消化剤の一斉放射を浴びた。だが無事だった。冷静なスチュワーデスのおかげで、乗客は大きなパニックに陥らないですんだ。乗客の一人が「なぜ、あんなに平気でいられたのですか?」と彼女に質問した。彼女は笑顔で、“Because I believe in Jesus!(イエスさまを信じているからです)”と答えていた。なぜイエスを信じるだけで、あれほど平安でいられるのか。イエスを信じるまで、私はこの言葉の意味がわからなかった。
インド洋のモルジブ諸島に飛んだときに、乱気流で墜落してしまうのではないかと思うほどの機内で、怖くなって平安を求めて聖書を読むと「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」というイエス様の御言葉に不思議に恐れが完全に消え去って「あぁ、全能の神がおられる。だから大丈夫だ。たとえ死んでも、私には行くところがある」と思った。
「恐れるな!わたしである」(聖書)
心のオアシス 2017年5月21日
1997年、IBMのエンジニアチームは、チェスの第一人者ガルリ・カスパロフをしのぐ「ディープ・ブルー」というコンピューターを開発しました。ディープ・ブルーは、32個の処理エンジンを持っていて、1秒間に2億手を先読みできるという優れもので、私たちの想像の域を超えています。名人であっても1秒間に2億通りの状況はもちろん、たった2つに1つを選ぶことさえできないでしょう。しかし、時計の秒針がナノ秒(10億分の1秒)を過ぎる前に、世の万事に関する先読みをされる全知なる方にとっては、2億通りを計算し選択するぐらいは朝飯前でしょう。人生を将棋のゲームとするなら、私たちは「歩」であって、神さまは将棋の名人です。私たちには次の手すらわかりませんが、神さまはすでに数10億手も先読みしておられます。そのため、自分の考えを捨てて、名人である神さまに信頼し、謙遜に従うことが百戦百勝への道なのです。
聖書に登場する偉人たちも、信仰によって歩むことによって、希望を見出し、勇気を得ることができました。私たちの肉の目は、現実を見ることは得意とするところでありますが、もっと働かせなければならないことは、霊の目(神の視点)で現実を見るということです。神さまがナノ秒の内に、私たちの人生の数10億手も先読みされているのなら、そちらにお任せした方が、得策だと思います。神さまに「お任せする」「委ねる」とは、どういうことなのでしょうか? それは、所有権を譲り渡し自分のものだと決めていた自分の体、地位、財産、時間、能力など、権利の支配権を放棄するということです。神さまにすべてを委ねたとき、自分が所有していると思っていたものは、本当は神さまのものであって、ただ私たちに貸し与えてくださっているのだということに気付き始めます。ただ、私たちは何もしなくていいのではありません。神さまから貸し与えられているものは、私たちがこの地上において、責任をもって管理するという任務が与えられているのです。神さまにお任せする人生は安心です。なぜなら神さまが全責任を持ってくださるからです。
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」(Ⅰペテロ4章10節)
心のオアシス 2017年5月14日
1549年、フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教の信仰を伝えました。当時、迫害に遭っても、国外追放を命令されても、どうしても日本人に伝えたかったことは「神は愛である」ということでした。現在残っている文献によれば、言葉で苦労した宣教師たちは、それを「デウスのごたいせつ」と訳しました。日本人の考えている神との違いを示すために「デウス=天主」を用い、当時仏教では「愛」という言葉は、情欲とか執着という意味合いを持っていたので、「ごたいせつ」という大和言葉を用いたそうです。一人一人は「すでに神さまに愛されている、ごたいせつな存在」ということ。これは私の牧師としてのライフメッセージでもあります。勿論、蒔いたものに対する刈り取りも伝えなければならない時もありますが、それよりも何よりも、「あなたは神の目には大切な存在」であることを伝えなければならないと思っています。なぜなら、私たち人間が罪の中に落ち、この地上で悩みながら生きなければならなくなったことも、イエスさまがこの地上にきて、十字架にかかって罪の身代わりになってくださったことも、すべては「神が愛である」ことを伝えたかった故の神さまの壮大なご計画であるからです。
進化論も創造論も、科学的根拠は何もありません。前者に関しては、京大名誉教授で文化勲章受賞者・今西錦司さんは、生前81歳の時に、「私なりの進化論から、ダーウィンと異なり、進化という壮大なドラマも科学ではとらえきれないことがわかった。」と言って科学者廃業宣言をされました。どちらも信仰に相当するものですが、進化論では、命の尊さを教えることはできません。なぜならば「偶然の存在」は、何の価値も見いだせないからです。だから人間は、様々なものを手に入れ、他者と比較して、自分の存在価値をアピールするようになりました。後者は、神の存在があっての自分ということから考えるならば、偏差値、家柄、職業、能力、容姿、財産、障がいの有無にも一切関わらず、神のまなざしには「ごたいせつ」に映っているということなのです。一人ひとりのために、キリストが十字架にかかり死ぬほどに「ごたいせつ」なのです。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)
心のオアシス 2017年5月7日
とある学校で水泳のクラス対抗リレーがありました。あるクラスで3人まで決まったのですが、あと1人が決まりませんでした。その時に、「あいつがいいや」と、みんなが言い出して決めたのが、A君という身体が不自由な生徒でした。なぜ彼を選んだかというと、変な格好で泳ぐのを見て、みんなで笑ってやろうということだったのです。当時、その学校は非常に荒れていたようです。さて、そのクラス対抗リレーの当日、三人が泳いで、最後にA君が飛び込んで泳ぎました。予想通りの格好で泳いでいるA君を見て、皆が笑いました。その時、背広を着たまま、プールに飛び込んで、そのA君の横について、「しっかりしろ、もう少しだ、がんばれ」というふうに励まし続けた人がいました。それは校長の東井義雄先生でした。その生徒がゴールにたどり着いた時には、今まで嘲笑していた人たちが粛然となりました。そして誰一人声を出す者も笑う者もいなかったということです。校長先生は、生徒たちの笑いの的になっているA君への視線を、自分に向けるかのようにして、そればかりかA君を励ましながら一緒にゴールしたという感動の実話であります。
先日、私はある牧師と電話で話していました。その時、問題ある若者をその先生の教会で受け止めるという話題があり、私は「大丈夫かな?」と心配したのですが、その先生の次なる言葉に目が覚まされました。「この僕が救われ変えられたのですよ!」その先生は、高校中退してヤクザまがいの生き方をしていましたが、救われ変えられ、献身して牧師になったのです。そのことを知っていた私は、不信仰な自分に反省しました。「大丈夫かな?」ではなく「大丈夫!」なのです。神さまは、人々から後ろ指さされるような生き方しかできない人にも、問題児であっても、人々から笑いものにされるような者であっても、神さまを味方にした人生は祝福されるのです。どんな人をも変える力が神にはあるのです。
校長先生が背広を着たまま笑い者にされている生徒のためにプールに飛び込む・・・これも感動ですが、それ以上に天地宇宙を造られた聖なる清い神さまが、このドロドロとした足の踏み場もない罪にまみれ、悪魔に嘲笑されているような人生しか歩めない私たちのところまで下りてきてくださって、共に歩んでくださる・・・これ以上の感動の奇跡はありません。あなたもこの神の愛の対象であることを忘れないでください。
心のオアシス 2017年4月30日
ある山中に住んでいた人が、叔父さんから黄色い靴をプレゼントしてもらいました。しかし、うっかり片方を川に落としてしまいました。靴は下流へと流れていきます。彼は靴を探すために川沿いを下りはじめました。長時間、靴を追いかけましたが、見つからないばかりか、とうとう道に迷ってしまい、家に帰ることができませんでした。靴を探し続けて長い年月が過ぎ、老人になった彼は、生き別れの家族を捜すテレビ番組に出て、大粒の涙を流しながら、その時の状況を説明しました。すると、ちょうとその時、番組を見ていたお兄さんが弟だと気づき、テレビ局に連絡しました。こうして家族が再会することになったのですが、その時には、母親はすでに他界し、年老いた父親は認知症を患い、50年ぶりに会った自分の息子を見分けることができなかったそうです。
多くの人が、黄色い靴のような、何でもないものを追い求めているうちに、本当に大切なものを見失っています。人は、人生で最も大切なものとして、お金、名誉、権力、健康、仕事などを挙げますが、それらは私たちの人生に必要なだけで、絶対的なものではありません。本当に大切で絶対的なものを知るのは、死を前にした時、つまり神のさばきの前に立った時です。ですから、私たちは普段から死を見据える目を開かなければなりません。そうすれば、後悔しない生き方ができます。神のさばきを意識する人は、人生の最も大切なことを失うことはないでしょう。
(「私は死んでイエスによって生きる人」ユ・ギソン著より)
私たちの教会では、現在毎日曜日、「人生のカラクリ発見」というシリーズで聖書から学んでいます。私自身も聖書を学びながら、歴史全体を通して、その時代時代に、神さまが様々な仕掛けをしておられ、それが数千年してから絶妙なタイミングでリンクしていくというカラクリに唖然としています。明らかに人間業ではない、人間にはできない、はるかに人間を超えた、もの凄い力に全ての歴史が動いていることを認めざるを得ないのです。良きも悪きも神の手の中にあって、関係なく神さまのご計画が着々と進められていること、そして何ものもそれを止めることができない現実に恐れを感じます。私たちが的外れなものを求め続けていたら、不安と恐れしか残らないでしょう。でも、最善をしてくださる神さまを信じ委ねるなら、限りない平安がくるのです。ハレルヤ!
心のオアシス 2017年4月23日
ある学園祭の展示物の中に、クツが何十足もずらっと並べて置いてあるものがありました。そのタイトルは「人生は苦痛(クツー)の連続である」と書いてあったそうな。私は、「人生は奇跡の連続である」と感じています。私たちは、毎日の生活を当たり前のようにして生きています。朝目覚め、トイレに行く。シャワーを浴びる。朝食を食べる。仕事に出かける。他者と言葉を使ってコミュニケートする。日が出て、日が沈み夜となる。そして休む・・・果たしてこれらのことは、当然のことなのでしょか? 同じことをしているように見えますが、その日常さえも奇跡ではないかと思うのです。自分の心臓であっても、その鼓動の回数を自分自身で制御することはできません。でも、生き動いています。どうして、動いているのでしょうか? 呼吸は考えなくてもしています。旧約聖書の創世記2章の中に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と記録されています。まさに「偶然」よりも、「神による必然」しか、人間の生を説明することはできないように思います。そして日々の当たり前は、神の奇跡の連続であると確信しています。もし、このことを信じることができたら、当たり前が感謝と喜びに変わることでしょう。
中国の伝説上の堯邸という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」。この老人が言うことは、もっともらしく聞こえます。しかし、見逃してはいけないポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。皇帝の力の恩恵にあずかっていることに気づいていなかったのです。
私たちは、自分の力で生きていると考え、毎日の出来事が偶然とか運命だと考えるならば、そこには何の希望も見出すことはできません。しかし、神に生かされていると信じることができるなら、どのような現実の中にあっても希望を見出すことができるのです。なぜなら神さまは私たちに最善以下は成されないお方だからです。信頼すれば安心なのです。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(ピリピ4:11)
心のオアシス 2017年4月16日
旧約聖書とは、「古い(旧い)契約(約束)の聖なる書」の略です。ということは、新約は、「新しい契約」であることはお分かりになるでしょう。聖書は、神と人との契約書とも言えるものですが、旧約と新約の違いは何なのでしょうか? 旧約はモーセを通して神がイスラエルと結ばれた契約で、「あなたがたが従うなら、宝の民となる」という内容です。モーセの十戒は、「あなたは~しなさい。」と、主語が「あなた」「人間」なのです。要は「祝福を受ける受けないは、あなた次第ですよ」ということなのです。それに対して、エレミヤが預言した新しい神の契約は、「わたしは、彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」というように、主語が「わたし」すなわち「神」の側が一方的に契約してくださっているのです。私たちは自分で聖くなろうと思っても肉がそうはさせないという作用が働くので、結局自分で自分を救うことはできないことに気づくのです。そして神さまに救いを求めるようになることを、歴史全体を用いて神さまが教えてくださっているのです。では旧約は不要だったのか?と言えば、そうではありません。旧約あっての新約なのです。律法は守らなければならないのですが、守りきることができない私たちは、神さまに委ねるしかないのです。神さまの側は、人を救うために何をしてくださったでしょうか? イエス・キリストを通して自ら十字架にかかり、私たちの罪の代価を支払い旧約を全うしてくださいました。だからこそ、私たちは罪なしとされたのです。私たちは「信じるだけで救われる」という新しい契約の時代に生かされています。ですから私たちがすることは何もないのです。あとはただ神さまが私たちに与えておられる人生の使命、神実現のために生きることを神さまは願っておられます。
イエスさまは、十字架にかかることも重要な使命でしたが、神が人間にとっては最大の壁である「死」さえも御手の内においておられることを示す必要がありました。ですから死んで終わりではありませんでした。墓に納められてから3日後、死より甦り死に勝利されました。これは、信じる者はすべて、キリストにあって死んでも生きる、天国の保証が与えられているということなのです。2千年前から、イエスさまが復活されたことをお祝いするようになりました。それがイースターなのです。
イエス・キリストは今も生きておられます。ハッピーイースター☆
心のオアシス 2017年4月9日
シン・ピルス先生がフィリピンの宣教師訓練院に講師として招かれたときのことを書いておられました。その集会では、聖霊の働きが濃厚で、宣教師候補生たちは、涙を流しながら御言葉に感動していました。講義の後、ある宣教師候補生が先生のところにやって来て、「先生。本当にたくさんの恵みを受けました。お帰りになるときの旅費として使ってください」と言いながら200ドルを差し出しました。先生は戸惑いました。主の命令に従い、宣教のいばらの道を進もうとしている宣教師候補生が、200ドルという大金を差し出したからです。丁重に断りましたが、彼は、本当に深い恵みを受けたのでと言って引かず、そのお金を先生の手に握らせました。「こんな大金をどこに用いたら主が喜ばれるだろうか」とじっくり考えた末、宣教師訓練院の院長のもとに行きました。「院長先生。このお金を宣教師訓練生の中で、最も経済的に厳しい訓練生のためにささげたいのですが・・・」。すると、200ドルを先生に渡したあの宣教師候補生が、経済的に最も厳しい人であったことがわかりました。彼は十字架の恵みに感謝して、神の国のために喜んでささげたのでした。
(「惜しみなくささげます」シン・ピルス著より)
ささげることに無謀になってはいけませんが、神さまが促されたときは、大胆にささげることも必要ではないかと感じています。ささげていることを他者に知らせるは私の意に反しますが、自慢ではなく一つの証として告白します。東日本大震災が起こったのは6年前、教会を開拓し始めて、まだ半年ぐらいのときでした。礼拝に来られている人たちもまだ10人にも満たない、私もアルバイトをしながらでしたが、何か促しを感じ、その月の集会献金一ヶ月分全額を被災した教会へ捧げました。ところが次の月から人数が増えているわけでもないのに、コンスタントに献金額が増えていくのです。それから捧げる恵みを味わった私たちの教会は、自分たちの必要よりも、他教会や、世界の貧困状況にある子どもたちへの援助、被災地など、定期的に捧げるようになりました。気が付くとその度に、教会は次のステージへとバージョンアップされ祝福されていきました。これからも与える教会でありたいと願っています。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール シャンドリ)