礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2017年12月31日

 新米の先生が5年生の担任として就任した時、一人服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいました。先生は、中間記録に少年の悪いところばかりを記入するようになっていました。ある時、少年の過去の記録が目に止まりまった。「朗らかで、友達好きて、誰にでも親切で、勉強も良くでき、将来が楽しみ」とある。先生は、他の生徒の記録に違いないと思った。2年生になると「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」。3年生では、「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」そして後半の記録には「母親が亡くなる。希望を失い悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存性となり、子どもに暴力をふるう」とあった。先生の胸に痛みが走った。先生にとって目を開かされた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけました。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?」少年は輝くような瞳と笑顔で「はい!」と応えた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習・復習を熱心に続けた。クリスマスイブの午後だった。少年が小さな包みを先生に持ってきました。後で開いてみると香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその香水を身につけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。先生の匂いに気づいた少年は「ああ、お母さんの匂い!今日は素敵なクリスマスだ!」それから何度か少年から感謝のカードが届いたが、それから6年後に届いたカードには、「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。お陰で奨学金をもらって医学部に進学することができました。」とあり、それから11年後届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座って下さい」と一行添えられていました。
 これは実話です。私たちはこの一年間、上り坂もあれば下り坂もありました。「まさか」という坂もありました。でも、どのシーンにも背後で支えてくださる神さまの手があったことも事実です。感謝のうちに新しい年を迎えることができれば幸いです。ハレルヤ、主よ、感謝します!

心のオアシス 2017年12月24日

 クリスマスのキャンドルサービスを、ご経験になったことがありますか? 隣の人から自分のキャンドルに灯を灯してもらい、そして今度は自分が、また自分の隣の人のキャンドルに灯を灯してあげる・・・。そうやって、一つひとつキャンドルが灯されるごとに、その部屋がどんどん明るくなっていきます。私のキャンドルの灯を隣の人に差し上げても、私の灯が弱くなったり、減ったりすることはありません。
 私たちは、他人から分けていただいたキャンドルの灯によって、輝いて生きていくことができます。そしてその灯りを今度は隣の人に差し上げること、それは、人間がお互い同士、助け合い、持っているものを分かち合って生きている姿と言ってもいいのではないでしょうか。同じことが「愛」についても「ほほえみ」についても言えます。「愛は溢れゆく」という言葉がありますが、ほほえみも溢れていきます。
 あるトラック運転手さんの投書が全国紙に載っていたことがあります。長距離を夜っぴて走ってもう少しで目的地に着くという朝7時半頃、トラックの前を小学生が手を上げて渡り始めようとしていました。いまいましく思った運転手は、タイヤをきしませて、トラックを停めたところ、その小学生は、横断歩道を渡り切ったところで、運転台を見上げてにっこり笑い、「ありがとう」と言ったというのです。「穴があったら入りたい気持ちだった」とその運転手さんは書いていました。そして、「これからは、スピードを出しすぎることはすまい。横断歩道の手前ではスピードを落とし、渡る人ににっこり自分からほほえみかけようと決心した」とも書いていました。ほほえみは、このように、もらった人の心を和ませる力を持っています。皆が、自分の“キャンドルの灯”を惜しむことなく、隣人に与えるようにしたら、どんなに社会は住みよくなることでしょう。親が子どもに伝えたい大切なことの一つです。
(「愛と祈りで子どもは育つ」渡辺和子著より引用)
 
 希望の光を私たちに灯してくださったお方は、イエス・キリストです。心にお迎えするだけで“永遠”が保証されるなんて・・・Merry Christmas!

心のオアシス 2017年12月17日

 先週のローマ書9章からのメッセージには、「スッキリしました」「疑問が解けました」、またインターネットを見られた方からは「思わず聴き入ってしまいました」などの反応が多数あり、私自身も驚いています。
 「神の大権(摂理・御心)」と「人間の自由意思」は、互いに矛盾する内容でありますが、両方とも真実であることを聖書は前提にしています。例えば、イエスさまを裏切ったユダは、自分の意思で裏切ったのですが、使徒行伝やルカ福音書の中には、「あらかじめ定められていたこと」とも書かれています。実はこの問題は、数百年にもわたって、予定説に立つカルビン派と自由を強調するアルミニアン派によって論争が続けられ、今もなお決着はついていないのです。しかし、私たちの教会は、聖書にあることは、私たちの頭で理解できなくても、私たちの頭脳を遥かに超えた神の領域として捉えるという立場をとっています。
川端光生先生は著書の中でこう表現しておられます。
 聖書に記録されている記事には、人間の理性で受け取ることのできるものもあれば、不合理で矛盾していると思われるものもあります。しかし、人間の理性に不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳に収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。この世界をどのような構造に創造するかは、創造主の自由です。ですから人間の理性で説明できないことがあって当然で、むしろ無理に説明をつけようとすることのほうが危険です。説明できないことを説明しようとすると、聖書にはないことや聖書に反すること、あるいは半分だけの真理を唱えるという誤りを犯してしまいます。
 神の大権と人間の自由の矛盾の問題もその一つです。人間の理解を超えたことは神秘として受け止める勇気も、時には必要です。
 もし、この領域に関して興味がある方は、先週12月10日の礼拝メッセージをお聴きになってください。Kansaicalvaryfellowship.com
 「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ10:11

心のオアシス 2017年12月10日

 テレビのトークショーにゲストとして出演した女優が、このような告白をしたそうです。映画の中で、彼女が雨に濡れるシーンがあるそうですが、ふつうに雨が降っている日に映画を撮ることはありません。晴れた日に散水車を使って主人公の周りだけに水を降らせて必要なシーンを撮るのです。よく晴れた日に彼女はただ一人雨に濡れて演技をしているのに、他の人たちは晴れた空の下で仕事をしているという・・・その時、自分がこれまで生きてきた日々がオーバーラップしました。他の人たちの人生は日が当たって幸せそうなのに、自分は一人苦難の雨に打たれていることを考えながら憂うつになり悲しくなりました。しかし、突然、監督が「カット!」と言ってサインを出すと、雨が上がるではありませんか。彼女は「雨が降る憂うつな日も、悲しみと落胆の中にあるときも、神さまが『カット!』と言ってサインを出されれば、私の人生も逆転するのだ」と思ったそうです。
 役者は与えられた役を、どのように演技するかで、その役柄が評価されるのであって、他の役柄をうらやんだり嫉妬したりしても、何の益にもならないのです。私たちは神のご計画の中で、それぞれ与えられている環境や能力、役割や賜物は違いますが、一つの召しのために生きるように造られているのです。私たちに委ねられていることは、与えられている役柄に、精一杯生きるということであります。
 私たちの人生にも、思い通りいかないことや、願いとは違う方向へ導かれたり、他の人とは違う道を通ったりすることがあります。しかし、それは、神様の壮大なご計画の一部分を、私達がそれぞれの召しに応じて担わせていただいているということなのであります。神さまが、この世界の歴史の脚本家であり、総監督です。私たちそれぞれに違った役柄が宛てがわれています。私たちの召しは、全力で与えられた人生を走りきることです。天国で、地上でのすべての謎が解き明かされるでしょう。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださる」(ローマ書8章28節)

心のオアシス 2017年12月3日

 今から約470年前の1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に入ってきた。その後に続いた宣教師たちは、日本語の厚い壁にぶつかって、とても苦労したそうです。やがて禁教令が発せられて、宣教師たちは国外に追放されるか、殉教を余儀なくされるのですが、彼らが死ぬ前、国へ帰る前に、これだけはどうしても日本人に伝えたいと願った一つのメッセージがあった。それは、今日でも、キリスト教がその中心思想とする「神は愛なり」ということであった。しかし、当時の日本では「愛」という言葉が違った意味で認知されていました。それは仏教では「愛」は「煩悩、執着」を表わしていた影響があったのでしょう。そこで宣教師たちは、「愛」の代わりに、やまと言葉の「ごたいせつ」を使ったのです。しかし、この「ごたいせつ」こそ、愛の本質を表現する言葉でもありました。それは、人間の一人ひとりが、性別、年齢、家柄、身分など一切関係なく、大切な一人であることを言い表し、人は自分の命を粗末にしてはいけないというメッセージだったのです。
 今日の日本に「愛」という言葉は溢れています。ラインやメールではハートマークが飛び交っている。にも関わらず、何と多くの憎しみと無関心が横行していることでしょうか。毎日100人近い人たちが自殺し、いじめ、金銭目当ての殺人、衝動的な殺傷事件に、人々はもはや驚かなくなった。大変恐ろしいことです。それは相手の存在を「ごたいせつ」に思う心が欠如しているからだと考えることができるでしょう。偏差値にも、容姿容貌にも、弱さのあるなしに関わらず、利用価値、商品価値を度外視してでも、「その人」を大切にする心を育てることが求められている。教会こそが、その役割を担っていかなければならないでしょう。
 イエス・キリストは、2千年前、滅びに向かう私たちを何とかして救いたいと願い、この地上に来てくださいました。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)
 私たちは神さまにとって“ごたいせつ”な存在なのです。

心のオアシス 2017年11月26日

 牧師として今まで数多くの人たちとの出会いがありましたが、そこで悟ったことがあります。苦難と経験をしていない人は一人もいないということです。病気、家族の中の問題、愛する人との死別、経済的な困窮、職場、学び舎での失敗やトラブル、信頼していた人からの裏切りによる挫折など、さまざまな痛みを持ちながら生きているということです。どうして神さまは人にこのような試練を通らされるのだろうか?と考えてしまいます。
 田舎の家で火事が起こり、そこで牛を飼っている場合、牛舎にいる牛を引っ張り出すことが大変なのだそうです。いくら力のある人が引っ張っても、牛は頑として外に出ようとしないからです。しかし、びくともしない牛を早く外に引き出す方法が一つだけあります。それは牛の餌箱をひっくり返すのです。すると牛は「ここには希望がない。もう食べるものはない」と考え、自分の足で外に出るのです。牛にとって、居心地の良い、生きるための拠り所を失うことによって、他所へ移動するようになるというのです。これは危険回避のための常套手段だそうです。
 私たちも、「これだけは、このままにしておいてください」と必死にしがみついている何かがあると思います。しかし時として、神さまは、しつこくしがみついている餌箱をひっくり返される時があります。その時、私たちはとても辛く、苦しみます。しかしそれは、全幅の信頼を置くことができるのは、“主”のみであることを、失うことによって教えられる神さまからのレッスンなのです。また、神さまを知らない人々には、神さまに目を向けるきっかけとして試練を与えられることもあるでしょう。でも、その背後に神さまの愛があることに気づくことができるならば、餌箱にこだわらなくても力強く生きることができるようになります。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8章35・39節)

心のオアシス 2017年11月19日

 四肢欠損症で生まれ、見た目には頭と胴体しかないニック・ブイチチは、今は世界を股にかけて活躍する伝道者です。最近出版された彼の著書「神さまに教えてもらった負けない心のつくり方」からの抜粋です。
 たとえ誰かに傷つけられても、自分は傷ついている人に手を差しのべよう。やさしい言葉をかけてくれる人が誰もいないときは、まず自分がやさしい言葉をかける人になろう。そして、たとえ味方になってくれる人が一人もいなくても、自分は誰かの味方になってあげよう。ぼくのメッセージはいたってシンプル。ぼくのように腕と脚のない人間でもいじめに打ち勝つことができたんだ。ならば、誰にだって同じことができるはず。ぼくは自分のどこかが欠けていると思うたびに、それをチャンスに変えてきた。それがどういう結果になったかは、ぼくを見ればわかるだろう? 人生で何が起きるかを決めるのは「偶然」じゃない、「選択」だ。いじめっ子や心ない人たちの言動をすぐに止めるのは難しいかもしれない。でも、それに対してどう反応するか、人生をどう生きるかは、自分で選択することができる。それだけの大きな力をぼくたちは持っているんだ。

 神さまは、この地上で生きる上で様々な法則を置かれました。それは、神さまを知っていても知らなくても、善人であっても悪人であっても、それ相応の刈り取りがあるというものです。選択次第によっては、商売が繁盛したり、良い人間関係を築けたり、健康に生きることができます。しかしその反対もあります。このように、様々な法則と繋がって生きているのです。ある人は、経済は祝福されていても、人間関係は滅茶苦茶というケースもありますが、これはそれぞれの分野において、祝福の法則に生きるか否かにかかっているのです。最も重要な法則は、「信仰の法則」です。これはこの地上だけではなく、永遠に関係しているものです。まずは天国に入るための選択をしてから、人生を楽しんでいくことが重要なことだと思います。祝福の法則は聖書の中に全て記されています。

心のオアシス 2017年11月12日

 ある方の文章です。20年前ぐらいの前の話。当時、私の家はいわゆる片親ってやつで、すごく貧乏だった。子供3人養うために、母親は夜も寝ないで働いていました。それでも、どん底でした・・・。私は中学を卒業してすぐ働きに出た。死ぬほど働いた。遊んでいる暇なんてなかった。1年ぐらいして、同級生に久しぶりに会い飯食いに行こうという話になった。ところが私はメニューの漢字が読めなかった。読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。同級生は「焼きそばと、ごはん」と注文した。無知な私は「じゃあ、俺はオムライスとごはん」って店員に言った。店員、固まっていた。周りでクスクスと笑い声も聞こえてきた。そうすると、同級生「あっ、さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」・・・店出た後、同級生が一言「うまかったな。仕事がんばれよ!」って言ってくれた。泣けてきた。心の底から人に「ありがとう」って思った。そいつは、今でも親友です。

 この話しを読みながら、新約聖書・ヨハネ福音書に出てくる罪の女性を思い出しました。人々が彼女を姦淫現場で捕らえてイエスさまの前に引き出しました。人々はイエスさまに「モーセの律法では、このような女性は石で打ち殺せとありますが、あなたはどう思いますか?」と問いました。この女性は、ほとんど何も身にまとわない状態で人々の前に出され、人々の恥ずかしい痛い視線を浴びていたことでしょう。しかし、イエスさまは、突然その場にスッと身をかがめて、地面に何かを書き始められました。人々の興味は、イエスさまが何を書いておられるのか?ということに興味が向けられ、女性に向けられていた視線が、イエスさまの指先に移っていったことで、女性の恥が軽減されたことでしょう。これを“視線の肩代わり”と呼ぶことができるでしょう。
 イエスさまは、私たちの罪や恥、弱さを全部請け負ってくださいました。十字架の醜さは、まさに私たちの恥であり、隠しておきたい私たちの罪の姿そのものなのです。心の底から「ありがとう!」と叫びたい。

心のオアシス 2017年11月5日

 羊は山道を歩いている時に、自分の好きな草を見つけると、1メートルの絶壁であっても、飛び降りてそれを得ようとするそうです。ところが、降りて喜んで草を食べるのですが、問題は食後です。その1メートルの高さから降りることはできても、上がることができないのです。その下にはもっと恐ろしい断崖があるので、まったく身動きができない状態になってしまいます。もし羊飼いが網を下ろして羊を引き上げようとするならば、羊は自分を捕獲するために来たのだと思い、後ずさりして、崖から落ちて死んでしまいます。そこで羊飼いは、羊が疲れ果てて気を失うまで手を出さないで見守り続けます。そして完全に気力を失って倒れた時に、羊の身体に網を巻きつけて引き上げるそうです。
 私たち人間と神さまとの関係も似たようなところがあると思います。神さまに「委ねます」と宣言しお願いしながら、自分が持っている可能性や能力で何とかしようと計算してしまいます。ですから、能力のある人や力のある人は、委ねるとは言いながら、ジタバタしてしまうのです。それは自分の中にまだ力があるからです。そうなると神さまの出番はありません。私たちがまだ倒れてしまうほど飢えていないので、神さまが助けてくださらないのです。神さまは、私たちの力が完全に尽きるまで待っておられます。力尽きて神さまに抵抗できなくなるまで見守っておられるのです。イスラエルの民は律法を守り行うことに必死でしたが、結局神さまは、彼らが守りきることができないことを知って力尽きて神を求めるようになることを待っておられたのです。ここで言う「力尽きる」とは、必ずしも現実に力尽きて倒れてしまうということではありません。私たちの中には、手放せない夢とか、計画とか、願いごとがありますが、それらの自己実現に生き続けようとする思いをある意味「諦める」ということなのです。では、何も夢も希望も持ってはいけないのでしょうか? そんなことはありません。神実現に生きる願望を持つのです。そうすることによって、驚くべき神さまの助けを得ることができるようになりますし、人生の悩みが軽減します。私もそれを体感中です!

心のオアシス 2017年10月29日

 スペインの美術館に、ピカソが他界する直前に病床で描いた絵があります。それは、小さな紙に鉛筆でスケッチしたものです。もしそれをスケッチした人が、ピカソでなかったなら、その紙はすでにゴミとして捨てられていたことでしょう。しかし、偉大なピカソの手によって描かれたもの故に、その小さな見栄えのしない紙が立派な芸術品として扱われ、大切に保存されているのです。また何年も前に、アメリカの今はなきスーパースターの使用済み歯ブラシが、庶民には手の届かない高値で落札されたというオークションの記事を読んだことがあります。このように、使い物にならないような紙一枚であっても、古い歯ブラシであっても、誰の手によるものなのか、誰の手の中にあったものかということによって、ゴミとして捨てられることもあれば、偉大な芸術品として、価値のある物として保管されることもあるというので驚きです。
 私たちの人生も同じです。誰の手の中にいるのか、ということが重要なポイントです。私たちは、永遠なる創造主である神の手の中にいるとき、その人生には意味が出て輝きます。色々な考え方はあるとは思いますが、私は、どんなに多くの財や権力を手にしても、神抜きの人生であるならば、それはゴミのようだと思っています。かなり過激な表現かもしれませんが、ただ自分のために生き、自分の肉のために生き抜いて、やがては墓地に葬られ、朽ちて終わるような人生ならば、それは朽ちてなくなるゴミと本質的には、全く違いがないと感じています。
 この地上での人生は長くても百年です。学校のこと、就職のこと、結婚のこと、人間関係のこと、経済のこと、健康や老後のことなど、この世では心配することが山積みです。確かにそれらの問題解決もしていかなければならないでしょう。しかし、どれだけの人が、死後の世界について心配しているでしょうか? 聖書には、肉体の死後、「永遠の生命」と「永遠の死」の世界があって、そのどちらかに入ることが決まっているというのです。もしこれが本当だとするならば、“この世”以上に続く“永遠”について、もっと考えた方が良いのではないでしょうか?