礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2018年8月19日

 アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、彼女は失望せず、祈った後、そのコインで一袋の種を買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で学校を建てたという言葉が信じられず、農場を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
 北森かぞう先生が書物の中で、このように言っておられます。「私たちの天の父なる神様は、あくまで『信仰』の対象であって、『実感』の対象ではありません。もし、『実感』できるのであれば、信仰する必要はないでしょう」。これは、自分の願った方向に物事が進んでいるということを実感していなくても、神の愛を実感することができなくても、神さまは最善をしてくださるということと「神は愛なり」と信じることなのです。
 ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができました。どうしてでしょうか? それは目に見える現実によって判断したのではなく、信仰を働かせたからです。神さまが与えてくださる小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出し、死に対する解決さえ与えるものなのです。娘を失って落ち込む会堂司ヤイロに対してイエスさまは、「今、恐れるのをやめて、信じ続けなさい!」と言われました。その時の気分や状況によって左右される“点としての信仰”ではなく、どんなことがあっても動かない“永続的な信仰”を求めておられるのです。

心のオアシス 2018年8月12日

 つまづいたおかげで

 つまづいたり ころんだり したおかげで
 物事を深く考えるようになりました
 あやまちや失敗をくり返したおかげで
 少しずつだが 
 人のやることを 暖かい眼で
 見られるようになりました

 何回も追いつめられたおかげで
 人間としての 自分の弱さと だらしなさを
 いやというほど知りました 
 
 だまされたり 裏切られたり したおかげで
 馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました

 そして・・・
 身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと
 いま ここに 生きていることの尊さを
 骨身にしみて味わいました (以下省略) 
 (相田みつを著『にんげんだもの』文化出版局刊より)

 私たちはみんな“幸せ”を求めています。そして“幸せ”になるためには、どうしたら良いかを考えます。幸福になるために、成功することを求め、成功するためには、目標を達成しなければならない、という図式ができあがるわけです。このような思考パターンを持ったままでは、最終目標にたどり着くまで、成功もしないし、幸福にもなれないということになります。聖書的幸福とは、イエスさまが教えられた八福の中にもあったように、「心が貧しくても」「悲しんでいても」幸いだということなのです。何があったとしても、神の御心が自分の人生に行われていることを幸せだと思えるようになったら、もう何があっても大丈夫です。

心のオアシス 2018年8月5日

 関西カルバリーフェローシップの開拓は9年目、堺チャペルは2年目に入った。一つの教会を開拓していくことは至難の業と言われていたので、私は、それだけはしたくないと牧師になってからずっと思ってきた。ところが神さまはそうはさせてはくださらない。私の願いではなく、神さまの願いが実現していった。私にとって最初の開拓地は、1993年、アメリカはカルフォルニア州・ラグナヒルズという町でした。そして次が2010年、東大阪と奈良。そして2017年に堺市となる。ゼロからのスタートは、神経をやられてしまう伝道者も多いと聞くが、確かにそうかもしれません。しかし幸いなことに、私は関西での伝道を始めたときに、開拓経験のある先輩牧師から、このようなアドバイスを受けた。「『数』を追うと自己満足か自己憐憫に陥るので、それは止めた方がいいですよ。神さまが人を送り、神さまが人を取られるので、神さまがなさることに委ねたら悩まないですよ」この言葉が、私の開拓の指針になった。神さまが、指一本動かせば、一晩で多くの人たちが教会に来るだろうし、神がそれを望まなければそれで良し、“神実現のための自分”を意識すると本当に楽しくなった。私は、「数」を追うのではなく、神さまが自分に与えてくださっている賜物を100%用いてベストを尽くし、後は神さま任せにした。神がたとえただ1人の牧会を任せられたとしてもそれで良し! それが私の心を守ってきた開拓の秘訣なのです。
 以下は、ダニエル・キム宣教師の文章です。励まされます。
 この時代を生きる宣教師として考えるべきことは、「働きの実がなくても、その働きを続けられるかどうか」ということだ。地の果てに行くほど、実を得るのが難しい。主の再臨が近づくほど、目に見える働きよりも地下に入っていく働きが多くなる。イエスさまは私にこう語られた。「明日、人が集まらず、礼拝堂を奪われ、働き人がいなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 明日、声が出なくなって賛美ができなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 目に見える結果ではなく、天の父があなたをひとりぼっちにせず、共に歩んでくださることを喜びなさい」そんな思いで主の前に立てば、地の果てまで行くことができる。その思いさえあれば、主が来られるその日まで、地の果てまで宣教の使命を果たす人として用いられるだろう。   アーメン!!

心のオアシス 2018年7月29日

 新聞にアメリカのある小学校の先生が書いた記事が掲載されました。
 その先生は自分のクラスの一年生たちに、感謝祭にちなんで自分たちが何か感謝しているものを絵に描くように言った。しかし正直なところ、この学校に通う子どもたちの家庭は貧しく、感謝するものが何もないかもしれないと思った。ほとんどの子どもたちが、肥った七面鳥か、テーブルに山と盛り上がった感謝祭のごちそうを想像して描いていた。子どもたちなりの夢だったのだろう。ところが、ダグラスが描いた絵は、先生を驚かせた。それは、子どもっぽい単純な線を使った「手」の絵だった。一体誰の「手」なんだろう? クラス全員がこの謎めいた抽象画にすっかり心を奪われた。やがて、一人の子どもがこう言った。「きっと神さまの手だよ。食べ物をその手いっぱいに持ってきてくれるんだ」「ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもの」と別の子が言った。生徒たちは思い思いに想像をめぐらしていたが、やがて静かに自習を始めた。先生はダグラスのそばを歩み寄ると腰をかがめ、こっそり話しかけた。「ダグラス、あれは誰の手だったの?」「先生の手」と、ダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。先生は休み時間になると、ひとりぼっちでいるダグラスの小さな手をしばしば握ってあげたことを思い出した。特別扱いしたつもりはないが、その手は彼をとても幸せな気持ちにさせたのだろう。
 感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だと思われがちですが、この記事を通してもう一つの意味を発見しました。それはどんなささやかなことでも、人に何かをさせていただけるチャンスが与えられたことに対して感謝する日でもあるのです。大きな何かをしなくても、日々の小さな親切の積み重ねが、大きな感動へと繋がっていくのです。そして、人に何かをさせていただけることこそが、本当に感謝なことなのだと気付くべきなのです。
 「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈る」(ピリピ1:3)

心のオアシス 2018年7月21日

 「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
 自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
 一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
 二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
 三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
 四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
 五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
 六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
 七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
 八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
 誰でも褒められたら嬉しいですし、けなされたら傷つきます。苦しいことだけに限らず、楽しい事、嬉しいことでも、慢心を生み、有頂天になってしまい、結果として私たちの心を動揺させるものです。このような八つの風に毎日揺すぶられながら高慢になったり、劣等感に陥ったりしながら、周りの環境に影響されながら人は生きています。新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。人生の八つの風に対処する方法は、自分は神の目的の為に創造された存在だということをハッキリと認識するというだと思います。そこに立ち続けるならば、何が起こっても動揺は軽減されます。
 今月で、レストランIMUも、堺チャペルも1周年を迎えました。運命共同体のレストラン教会です。この一年間、牧師にも店長にも“八つの風”が吹きました。しかし、平安があるのです。何故なのかを考えてみました。するとわかりました。結局、「主は与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」「生きるも死ぬも主のため」と腹をくくると、何も恐れることはなくなるのです。私たちは、神さまに与えられた“自分”を用いてベスト尽くし、結果は神さまにお任せするのみなのです。

心のオアシス 2018年7月15日

 強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなに優しい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンの一切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人達だ。そうした人達は、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
(ビクター・E・フランクル著『夜と霧 ―ドイツ強制収容所の体験記録―』より)
 
 通常、私たちが考える“自由”とは、自分の願い通り、欲求に従って言動できることがそれだと思っている。しかし、深く突き詰めていくと、このような“自由”がまかり通る世界になってしまったら、大変なことになるということに気がついた。なぜなら、人それぞれの願いや欲求は違うからです。人を傷つけたり、殺したいと願っている人の思いが実現できる“自由”があるなら、私たちは外を出歩けなくなるでしょう。アダムとエバが、自己実現に生き始めた時から、この世に殺人、一夫多妻、争い、復讐の文化が入ってきたことが創世記に記されています。私たちに与えられている“自由”の使い方によっては、物事が円滑に進んだり、上手くいったり、問題が生じたり、混沌とした世界になっていくということでしょう。
 以前にある方から「クリスチャンになると酒もタバコもできなくなって自由が制限されるから嫌だ・・・」と言われたことがあります。大酒以外の酒やタバコを禁止するような教えは聖書の中にはありませんが、私は思いました。「酒やタバコがないと生きていけないなんて可哀想だな~」なくても楽しく生きることができる“自由”に感謝しました。
 イエスさまは、自分に与えられている“自由”を、神実現のために用いました。肉の欲求はありました。しかし、神の欲求に答えられたのです。そこに人類に対する救いと希望が与えられ、主ご自身も神の右の座につかれるという栄光をお受けになられたのです。ハレルヤ。

心のオアシス 2018年7月8日

 アブラハム・リンカーンの略歴です。
 1816年 リンカーン一家は家の立ち退きを迫られ、家族を養うために働き始める
 1818年 母親死去
 1831年 共同経営の店が倒産
 1832年 イリノイ州議会に立候補し落選し失業
       法律学校を受験し失敗
 1833年 友人から借金をして新しい商売を始めるが同年中に倒産
       17年かかって借金を返済する
 1834年 再び州議会に立候補し当選
 1835年 婚約するが相手の女性が死亡し、失意のどん底に
 1836年 極度の神経衰弱に陥り半年間病床につく
 1838年 州議会議長に立候補し落選
 1840年 大統領選挙人に立候補し落選
 1843年 連邦下院議員に立候補し落選
 1846年 再び連邦下院議員に立候補し当選
       ワシントンに移り、業績をあげる
 1848年 連邦下院議員の再選をめざすが、落選
 1849年 国有地管理局長の職を逃す
 1854年 連邦上院議員指名投票で落選
 1856年 共和党大会で副大統領候補としての指名を狙うが落選
 1858年 連邦上院議員指名投票で再度落選
 1860年 アメリカ大統領に選出される

 「何かやろうと決めたら、途中でやめてはいけない、と誰でも思っている。努力することが、人生において我々に与えられた義務だからである。私はその義務を果たすようにとの神の声を聞いた。」(リンカーン)
 彼の執務室の机の上には、いつも開かれた聖書が置いてありました。

心のオアシス 2018年7月1日

 先日の礼拝前に、私が教会メンバーのNさんとお話しをした時、神さまが、その方の人生に深く関わっていてくださっていること知り大変感動しました。Nさんは、何年も前にした脳の手術の後遺症で、頭痛や痺れなど長年苦しんできました。そんな中、イエスさまと出会い、今から7年前、私たちの教会で洗礼を受けられました。それでも当時は、「どうして私だけが、こんな苦しみにあわなければならないの? 神さまは不公平・・・」と文句ばかりを言っていたそうです。そして自暴自棄になった時期もありました。しかし最近、こう思えるようになったそうです。「この苦しみがあったからこそ、自分は神さまに出会うことができた。もし痛みがなければ、今も神さまを無視して自分勝手な道を歩んでいたと思います。今胃の調子も悪くて近々検査をしますが、胃がんであったとしても感謝できます。」牧師としては、苦しみを取り、癒されるように毎日お祈りしていますが、癒されるまでの期間を感謝しながら歩むことができる人生は、他者にも感動を与えるのだと学ばされました。他にも闘病しながら同様に感謝しながら力強く歩んでおられる方々がいらっしゃいますが、これこそが神の存在を知る者の特権だと思わされています。
 私はすべての病が必ず癒されることを信じて、希望を持って祈り続けている牧師です。その癒しをいただくまでの生き方を神さまは勿論、人々も注目しています。どのように生きるかが大切だと思いました。
 フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーでアメリカ史上最も尊敬される女性として選ばれたエレノアさんは、「今、あなたが苦しく辛いのは、外的要因ではなく、あなた自身がその状況にあって苦痛と感じることを選択し、それに屈服したからです。」と語っています。辛ければ辛いし、痛ければ痛いですが、同じステージの上に立っていて、神と世を呪って生きるのか、感謝しながら生きるのかで、その人の人生は大きく変わってくるということです。そしてその人の周りへの影響も大きく違ってきます。願わくは感謝の人生でありますように。
 「いつも喜び、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ。」(聖書)

心のオアシス 2018年6月24日

 昔々、あるところに、歳を取った母と五作という息子が、二人で暮らしていました。ある日、母が「お前のお父が生きておった頃、よくマクワウリを買ってきてくれたもんじゃ。ありゃうまかった」と言いました。五作は、母のそんな話を聞いて、近所の畑からマクワウリを盗んでしまったのです。何も知らない母親は、うまいうまいと言ってマクワウリを食べました。しばらくして、母親が「もう一度だけマクワウリを食べたい」と言うので、五作は再び畑に盗みに入りました。けれど運の悪い事に、畑の主人に見つかってしまったのです。怒った主人は持っていた刀で五作の肩を切り付け、その場に五作を残して去っていきました。次の日、畑の持ち主はすっかり後悔し、ウリの一つや二つ盗んだくらいで、刀で切りつけるなどと、あまりにひどいことをした。そう思いながら、五作の家への道をやってくると、村人たちがお地蔵さんの前に集まっていました。なんとお地蔵さまの肩のところに、刀で深く切られた跡がありました。畑の持ち主は大急ぎで五作の家へ行き、無傷の五作を見て驚きました。彼は五作の手を引っ張って、お地蔵さまのところへ連れていきました。五作はお地蔵様を見て涙を流しました。「ああ、このお地蔵さまが、わしの身代わりになって下さったのか、お地蔵様ゆるしてくだせぇ」そう言ってガックリと膝をつくと、お地蔵さまに謝りました。
やがてこの話は広まって、このお地蔵さまは『身代わり地蔵』と呼ばれて、人々から敬われ、慕われたということです。
 これはおとぎ話ですが、聖書には、今から2千年前、実際に『身代わり』になったお方のことを描いています。顔はつばきを吐きかけられ、平手で打たれつづけ、頭にイバラの冠をかぶせられ、手足はクギで打ち付けられ、十字架でさらし者になりました。見るべき姿なく、威厳もなく、私達の慕うべき美しさもなく、顔を覆って忌み嫌われる者のように彼は、侮られたと記録されています。そのお方の名前は、イエス・キリストです。十字架の醜さは私たちの罪の姿であり、私たちの罪の「身代わり」として受けられた姿だったのです。ハレルヤ!主よ感謝します。

心のオアシス 2018年6月17日

 私は中学2年生の時に教会通いが始まり、3年生に上がるやいなや受洗しました。聖書を読むようになってから、人生観が変えられ、自分の存在価値を発見することができて、喜びに溢れたのを今でも忘れることができません。こんなに素晴らしい人生が与えられるのであれば、友人たちにどうにかして伝えたいと思っていましたが、口下手な私では的確に伝えることはできず、ただ祈るしかありませんでした。しかし当時の部活(テニス)仲間には、私がクリスチャンになったことは知られていて、数名は教会へ来てくれたりはしましたが、そのまま時は過ぎていきました。あれから40年過ぎて驚いたことは、なんと中学では2年の時と3年の時に、それぞれクラスメイトだった2名がクリスチャンになっていて、感動の再会があったということです。私が牧師になっていることを知って自己申告してこられました。高校時代の同窓生の中には牧師になって現在関東で牧師をしている人もいます。あの時の小さな祈りに対して、神さまは一筋の灯火を与えてくださっているように思います。
 バウンズ師は、「祈りは不朽のものであって、これをささげた唇は、死のために閉じ、それに感動した心臓は、鼓動を止めても、祈りは神の前に生きている。」と言いました。私の祖父はクリスチャンでした。自分の子供たち家族の救いのために祈っていましたが、生前にそれを見ることはなく召されていきました。でもその死後から不思議なことが起こり、子供3人が全員神さまを信じ、孫である私まで、その恵みが及びました。
 「神さまの沈黙は涙だ」とある書物に書かれていましたが、もし、悲痛な祈りをしても何も起こらない時、それは神さまが涙を流しておられる時なのだということです。イエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた時、父なる神さまは何もされませんでした。私たちに対する救いを成就するために涙しながら耐えておられる時間だったのです。
 「神のなされることは皆その時にかなって美しい・・・人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道3の11)