心のオアシス
心のオアシス 2018年5月20日
健全なセルフイメージ(自己イメージ)を持っていると、勇気を持って様々な問題に立ち向かうことができます。「人は心の中にある自己イメージを超えることはできない」と、ある先生が書いておられますが、私達は、どのようなセルフイメージを持っているでしょうか? 自分をどう捉え、自分の価値をどう判断して、自分の存在にどれだけの意味を感じているでしょうか? セルフイメージというのは、本当の自分とは必ずしも一致しません。それはあくまでも本人が捉えている姿でしかないのです。健全な自己イメージを持つことは、人間を成功や幸せへと導く重要な要素であると言われています。心理学でも、人はだいたいにおいて本人の自己イメージに調和した行動をとると言われています。もちろん、例外はありますが、多くの場合、自分の持っているイメージに、行動がともなっていくというのは、学問的に言われていることなのです。
自分のイメージが低い人は、「わたしは何をやってもうまくいかない」「どうして私ばかりこんな目に遭うの?」「私は何一つまともにできない・・・」という決まり文句を持っています。このままでは、新しいことをしたり、問題や困難に立ち向かう力は、あまり発揮できないのではないかと思います。しかし、セルフイメージを高める最良の方法があります。それは、神様の視点から自分をイメージするのです。すると自分に満足できるようになります。神様がありのままの自分を選び愛していてくださっていることを知るからです。
カナンの土地に入る直前、モーセは12人の偵察隊を送り込みました。その中の10人の報告は、「土地はとても良いのですが、住んでいる人たちは巨人で、自分たちはイナゴのようで無理です。入れません」でした。しかし同じ状況を見てきた残る2人は「彼らよりも神さまの方が強いですから、神が共にいてくだされば大丈夫!」と言ったのです。自分が主体になっていると、所詮“イナゴ”にしか見えません。力不足です。しかし、神の視点で見るならば、比較対象が“相手と自分”ではなく、“相手と神”になるのです。自分の弱さが強さに変わるのです。ハレルヤ!
心のオアシス 2018年5月13日
【母のスープ】
夕方のこと。先月83才になった母が手製の野菜スープを抱えてやって来た。私がインフルエンザになってから毎日電話がかかり、何か出来ることはないか、看病に行くと言い続ける。先月同じB型に罹患しているので移らないとは思うがやはり心配だし、こちらは薬を飲んで寝ているしかなく食欲も無い。起きるのも辛い状況で正直なところ来たら、かえってこちらが気が休まらず大変なのは目に見えている。心配はわかるが大丈夫だからと断り続けていたが、とうとう今日は強行手段(?)に出たか、「いま野菜スープを作ったから、出来立てを持っていく」と言う。
これは断れないか、という思いと、もしかしたら母の作ったものならば食べられるかも知れないという予感がよぎり、タクシーを手配するからそのタクシーでそのまま帰るんだよと約束させ、小一時間後、小さな母が手持ちの一番大きな鍋を抱えてやって来た。入学したての小学生がランドセルを負ってか負われてかおぼつかない足どりになる、正にそんな様子で鍋を大事そうに抱きしめて。多分、元気のない声だけでは心配だったのだろう、娘の顔を見て安心したようだった。年齢と病気で出来ないことも多くなった母だが、母親としての本能と人の役に立ちたいという気持ちは消えていないのだと思った。野菜スープはやはり懐かしい、母の味がした。日々のなかでは色々あるが、やはりいくつになっても母はありがたい。(大和CC Y.M.)
数ヶ月前にフェイスブックに投稿されていたこの文章に感動したので、許可を得て「母の日」のために温存していました。母親の愛は、多くの場合、自己犠牲的であると思います。イエスさまは十字架で死んで墓に葬られてから、3日後に甦られました。そのことを知らないマグダラのマリヤは、御使いに言いました。「どこに遺体を置いたのか教えてください。わたしがそのかたを引き取りますから、」一人の小さな女性が、どうやって運ぶのでしょうか?“愛は重荷を感じない”のです。母親の姿に神さまのご性質が表れているように思います。お母さんありがとう!
心のオアシス 2018年5月6日
遠藤周作さんが「聖書の中の女性たち」という本の中で紹介している文章です。そこに出てくる少女は11歳で死ななければならない病気と戦い、イエス・キリストによって慰められたというのです。そしてこの詩に出てくる「あの子」というのはイエス・キリストを意味するのでありますが、このような詩です。
私のノドが痛い時、あの子のノドも痛み
私が夜、咳をする時、あの子も眼をさまして咳をする
私がママから叱られて泣くとき、あの子も私と一緒に泣いている
夕陽にうつる 私の影法師のように、あの子はいつも私と一緒だ
咳の痛みを癒すのでもなく、咳を止めてくれるのでもないけれども、一緒に「痛み」、一緒に「咳をし」、一緒に「泣いてくださる」キリストによって淋しい病床で慰められたというのです。神様が、共におられるありがたさだと思います。
エジプトの地で、イスラエルの民は奴隷として重い労役を課せられていました。しかし、モーセを通して神さまが、その地から導き出してくださり、束縛から解放されました。それから神さまが示された約束の土地に入るまでの40年間、昼は雲の柱、夜は火の柱が、彼らと共にあり、毎朝マナが降り、砂漠の中で生きていくことができたのです。それは見て触れることができる神さまの臨在の象徴的なものでした。しかし、出エジプトから40年後、約束の土地に入ってからは、雲と火の柱は消え、マナも止みました。それは、目には見えなくとも、あたかも主が見え触れているかのようにして歩む“信仰”によって生きる時代の到来でした。
私たちの人生にも、昼もあれば夜もあります。どんなに真っ暗な孤独や悲しみ、辛さの夜を歩んでいたとしても、確実に神さまは、あなたと共に常におられます。これを信仰によって受けとめる時、本当の安息が訪れるのです。ハレルヤ!
「昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった」(出エジプト40章38節)
心のオアシス 2018年4月29日
1945年9月27日、昭和天皇がただ一人の通訳を連れて、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの前に立たれたことは、ご承知の通りであります。日本が敗戦し、アメリカは天皇陛下に対して戦犯として裁く準備をしていました。その日、陛下がアメリカ大使公邸に訪れ、マッカーサーの前に出たとき、直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶を終え、こう言われました。「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」この言葉に、マッカーサーは驚きました。昭和天皇は命乞いに来たと考えていたからです。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王が、世界の歴史上あったでしょうか?
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記しています。「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」
日本の戦争の過ちは、反省すべきです。しかし国民を思う天皇陛下の姿勢には感動します。今、教会で学んでいるモーセも、「イスラエルの罪の身代わりになるので、民を赦してください」と神さまに懇願して執り成しています。しかし、天皇陛下やモーセ以上に私たちに救いの道を整えてくださったお方がおられます。そのお方はイエス・キリストです。イエスさまは、神の恩赦を受けることをせず、私たちの罪の贖いとして実際に十字架にかかり、私たちの身代わりになってくださいました。
心のオアシス 2018年4月22日
母子家庭で育ったある一人の青年が書いた心にしみる文章です。
俺の家は貧乏だった。運動会の日も、授業参観の日さえもオカンは働きに行く、そんな家だった。そんな俺の15歳の誕生日、オカンが嬉しそうに俺にミチコロンドンのトレーナーをプレゼントしてくれた。俺は「ありがとう」と言いつつも、恥ずかしくて着られないな、と内心思っていた。その夜考えた。差し歯を入れるお金もないオカン、美容院に行くのは最高の贅沢、手はかさかさで、化粧なんて当然していない。「こんなトレーナー買うくらいなら他の事に使えよ」そう考えながら、もう何年も見ていない昔のアルバムを見てみたくなった。若い時のオカンが写っている。「えっ?!」俺は目を疑った。それはまるで別人だった。綺麗に化粧をし、健康的な肌に白い歯を覗かせながら笑っている美人のオカンがいた。俺は涙が止まらなくなった。俺を育てるために女を捨てたオカン。ミチコロンドンのトレーナーを腕に抱き、その夜は眠った記憶がある。それから少しばかり時は流れ、俺は高校卒業後の進路を考える時期になっていた。大学進学はとっくに諦めていた。学校で三者面談が行われた時、オカンが先生に向かって言った。「大学に行かせるにはいくらお金が掛かるのですか?」俺は耳を疑った。そんな俺を横目に、オカンは通帳を先生に見せて、「これで行けますか?」と真っ直ぐな眼で先生を見つめた。それから俺は死に物狂いで勉強し、大学に合格できた。郷里を離れる際、オカンが俺に真っ赤なマフラーを渡してくれた。学費を稼ぎながらの大学の生活は苦しくもあったが、マフラーを見ると元気が出た。それから時は流れ、会計士になった俺は来年の春、結婚する。そして生活を共にする。俺と最愛の妻と最愛の母とで。二人を守ってみせる。色あせたトレーナーとほつれたマフラーを目の前にして俺はそう誓った。
この文に感動する感性があるなら、イエス・キリストが私たちにしてくださったことにも感動することができるでしょう。知らないまま滅びに向かう私たちのために、“神”という立場を捨て、いのちを差し出してくださいました。それゆえに今の“私たち”があるのです。感謝!
心のオアシス 2018年4月15日
小説『氷点』の著者として知られている三浦綾子さんは、エッセイの中で、「恵みに慣れるということは恐ろしいことだ」という言葉を残しています。そこで、彼女は、「神さま、どうか恵みに慣れてしまわないように助けてください」と祈り、自分の夫について、このように語っています。「最初は病弱な私と結婚してくれた夫がとてもありがたかった。しかし、結婚生活に慣れた今、私は最初のそのありがたさをすっかり忘れてしまい、夫に腹を立てたり、自分勝手な行動をする、わがままな妻になってしまった。慣れるというのは、本当に恐ろしいことだ」
私は以前に、「毎日が奇跡の連続です!」とメッセージしたことがあります。私たちは、“当たり前”が、実は“恵み”であることを、どれだけ感じながら生きているでしょうか? ある先生が、心臓発作で倒れてから奇跡的に回復されて、このように話しておられました。「毎日毎日は、神さまからのボーナスです。」死んでいたはずの自分が、生かされている・・・これは神さまからの恵みだと考え、一日一日を大切に生きることができるようになった、とのこと。
私たちは、毎日当たり前のようにして起き、家族や友人と接し、食事をして、仕事をして、遊んで、学んで寝る、ということをしています。しかし、当たり前のことができなくなることによって、その当たり前が、どれだけ恵みであったかと知ることになります。そこで私はこう考えました。失ってから、昔の恵みを思い返すよりも、“今”という瞬間瞬間を感謝しながら生きたら、もっと違う人生になるのではないかと。ですから私は、階段を上りながら感謝し、車を運転しながら感謝し、食べ物を美味しく食べることができることに感謝し、歩けることに感謝するようにしました。すると何とも言えない喜びが溢れるようになりました。
ある方が、「神さまの教えとは何ですか?」と問われたら、当たり前のことを、心を込めて実行すること。与えられる一つひとつの命も、物も両手でいただくこと」と答えるでしょうと、書いておられたのを読んだことがあります。毎日、心を込めて悔いのない人生を送りたいものです。
心のオアシス 2018年4月1日
私たちは、プロテスタントの教会ですが、カトリックの方々からも沢山のことを学ばせていただいています。特にマザーテレサの生き方に感銘を受ける人は多いと思います。彼女の修道会では、お腹を空かせて集まってくる人たちに、パンや温かいスープを配っています。そこには多くのシスターたちが炊き出しに従事しています。マザーが生前、奉仕を終えて修道院に戻ってくるシスターたちをねぎらう時に、こう話されたそうです。「スープボウルを手渡す時、相手に微笑みかけましたか? ちょっと手に触れてぬくもりを伝えましたか? 短い言葉がけを、忘れはしなかったでしょうね? 私たちの仕事は、福祉事業ではありません。私たちにとって大切なのは、群衆ではなくて、一人ひとりの魂なのです。」
これはイエスさまの御心そのものであろうかと思います。マザーにとって、貧しい人たちをお世話するのは、「おかわいそうに」という憐れみや施しではなく、相手を一人の人間として、その尊厳に対する当然の行為でした。ただ機械的に、“こなす”のではなく、心がそこに伴っているかが重要なポイントになるのだと思います。スープボウルを手渡すだけなら、人間でなくてもできるでしょう。ロボットならば、もっと短時間に効率良く作業ができると思います。人間だからこそできることは、心を込める温もり、優しさ、微笑み、祈り心を持って手渡すことです。
教会も大きくなってくると、個よりも群衆に目移りしてしまいます。どれだけの人が集まっているか否か、立派な建物があるかないか・・・でも、神さまが見ておられるのは、どれだけの仕事をして、どれだけ集めたかではなく、どれだけ神さまの御心を行ない、心を込めてベストを尽くしたかということなのです。数や量は、自己満足の材料にしか過ぎません。たとえ実力が5千人に対して“五つのパンと二匹の魚”でも、祈り心を込めるならば、結果は全ての人が養われることになりました。
私は、個の魂を大切にする教会作りを目指していますが、人が増えてくるとなかなか目が届きません。自分の年齢をわきまえて、本日より、若者の魂のケアのためにも若者担当伝道者を投入いたします! 感謝!
心のオアシス 2018年3月25日
20代の若さで世界最大の砂漠であるサハラ砂漠を横断したスティーブ・ドナヒューは、著書「砂漠を渡る6つの方法」で、人生を山ではなく砂漠と言っています。山を登る者には、頂上という目標があるので、所要時間を予測し、登頂方法も考えることができます。しかし、砂漠はこれと全く違います。砂漠はすべてが予測不可能であり、不確実です。砂漠では地図がありません。仮に正確な地図を持って出発したとしても、砂嵐が吹き付けると瞬時に地形が変わってしまいます。そのため、道を失い蜃気楼を追うこともあります。また、砂漠を渡るときは、登山とは違う歩き方をしなければなりません。登山には登山靴が必要ですが、もし登山靴で砂の積もった熱い砂漠を渡れば、足に水ぶくれができてしまいます。砂漠では、登山のように力強く歩くのではなく、足の力を少し抜かなければなりません。また、砂漠の地形は常に変化しているので、地図ではなく正確な方向を教えてくれる羅針盤を見なければなりません。
人生の中で、目の前に山ではなく砂漠が広がるとき、私たちは困惑します。目標も予測も計画も立てられなくなるからです。しかし一方では、砂漠は、神さまが私たちを通して作られる、非常に独特で創意的な人生の旅路を意味します。神さまはすべての人が追い求める頂上だけに、私たちを導かれるわけではありません。むしろ、自分の計画や準備が意味をなさない砂漠のような所で、私たちが神さまに人生を委ねる時に、それが美しく独創的なものへと導いてくださいます。
聖書の中には、365回、「恐れるな!」という言葉がちりばめられています。これは、毎日不安や恐れになる材料が転がっている中を歩む私たちに対して語られる神さまからの励ましです。私が支えになっている言葉の中に、「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出エジプト記14章14節)があります。私たちは、問題を前にすると、すぐに不平や不満、自己憐憫に陥りますが、目の前の大きな問題の壁を動かすのは自分ではなく神さまだと、本気で信じることができれば、委ねる心が生まれ、悩みもストレスも軽減されるでしょう。
心のオアシス 2018年3月18日
ジョン・マックスウェルの「小さな始まり」という本に、こんなエピソードがあります。一万人が集まったある集会で、50ドルの新札を掲げて「この50ドルが欲しい人はいますか?」と言うと、あちこちから手が挙がったそうです。それで、次にその50ドル札を手でくしゃくしゃにして「まだこのお金が欲しいですか?」と聞くと、同じように手が挙がりました。今度は、そのお札を足で踏んで汚くしてから「まだこれが欲しい人?」と聞くと、それでも人々は手を挙げたそうです。
私たちは、踏みにじられ、問題だらけで、汚れているような存在であっても、それでも手を挙げ、あなたを求めておられるお方がいることを聖書は語っています。あなたが聖い存在であろうと、罪汚れた存在であろうと関係なく、あなたは神の目には価値ある存在だというのです。どこに何の価値もないものに投資する人がいるでしょうか? しかし神さまは、イエス・キリストを通して、価値なき存在であった私たちを、いのちの代価を十字架で支払って、買い取ってくださったのです。ここに私たちの存在価値を見出すことができるのです。これを「恵み」と言います。今、教会では出エジプト記から学んでいますが、人は一旦、失敗したり、挫折したり、落ち込んでみなければ、本当の神さまの恵みの世界を発見することは難しいのではないかと思えるようになりました。そして恵みがあるからこそ立ち上がることができるのです。
詩人であり牧師であった河野進さんの詩を紹介します。
病まなければ捧げ得ない祈りがある
病まなければ信じ得ない奇跡がある
病まなければ聞き得ない聖所がある
病まなければ仰ぎ得ない聖顔がある
おお、病まなければ 私は人間でさえもあり得ない
病気をはっきりと、一つの恵みと言い切っておられます。病気だけではなく、弱さはすべて神さまを発見できる恵みです。問題なく物事が進んでいる時も感謝。そうでない時も大いに感謝するべきでしょう。
心のオアシス 2018年3月11日
ある掲示板に、このようなユーモアのある言葉がありました。「神が遠くに感じるとしたら、神を遠くに移したのが一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちと共におられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。
日常の生活のなかで、私たちが出会う人々、私たちの目に入ってくるもの、耳に聞こえてくる音の中から、神さまが働いておられること、導かれていることを悟ることを「日常の宝探し」と呼んでいる人がいますが、私たちも、沢山の宝を日々発見させていただきましょう。
(キム・ヨンボン著「隠れておられる神」より)
私の中に、ある歌の歌詞に「日常という奇跡」という言葉が、印象的に残っていますが、確かに日常は当たり前ではなく奇跡の連続であると思うのです。私たちは、当たり前のようにして朝目覚め、話し、歩き、食べ、夜眠りにつきます。これら一つ一つの動作も深く考えるならば、奇跡的なことなのです。充電しなくとも心臓は鼓動し、呼吸もしています。今の技術をもっても同じものは作れない精巧な目というレンズで物を見て、瞬時に飲み物の温度を想定して、カップを持つ力や傾き加減と口に含む量を計算しながら口元へ持っていきます。どれ一つとっても、“当たり前”は、実は“当たり前ではない”のです。このように、普段の“当たり前”を、指折りながら数えたら、感謝しきれないほどの奇跡の中に生かされていることに気付くのではないかと思います。栄光在主。