心のオアシス
心のオアシス 2018年7月29日
新聞にアメリカのある小学校の先生が書いた記事が掲載されました。
その先生は自分のクラスの一年生たちに、感謝祭にちなんで自分たちが何か感謝しているものを絵に描くように言った。しかし正直なところ、この学校に通う子どもたちの家庭は貧しく、感謝するものが何もないかもしれないと思った。ほとんどの子どもたちが、肥った七面鳥か、テーブルに山と盛り上がった感謝祭のごちそうを想像して描いていた。子どもたちなりの夢だったのだろう。ところが、ダグラスが描いた絵は、先生を驚かせた。それは、子どもっぽい単純な線を使った「手」の絵だった。一体誰の「手」なんだろう? クラス全員がこの謎めいた抽象画にすっかり心を奪われた。やがて、一人の子どもがこう言った。「きっと神さまの手だよ。食べ物をその手いっぱいに持ってきてくれるんだ」「ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもの」と別の子が言った。生徒たちは思い思いに想像をめぐらしていたが、やがて静かに自習を始めた。先生はダグラスのそばを歩み寄ると腰をかがめ、こっそり話しかけた。「ダグラス、あれは誰の手だったの?」「先生の手」と、ダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。先生は休み時間になると、ひとりぼっちでいるダグラスの小さな手をしばしば握ってあげたことを思い出した。特別扱いしたつもりはないが、その手は彼をとても幸せな気持ちにさせたのだろう。
感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だと思われがちですが、この記事を通してもう一つの意味を発見しました。それはどんなささやかなことでも、人に何かをさせていただけるチャンスが与えられたことに対して感謝する日でもあるのです。大きな何かをしなくても、日々の小さな親切の積み重ねが、大きな感動へと繋がっていくのです。そして、人に何かをさせていただけることこそが、本当に感謝なことなのだと気付くべきなのです。
「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈る」(ピリピ1:3)
心のオアシス 2018年7月21日
「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
誰でも褒められたら嬉しいですし、けなされたら傷つきます。苦しいことだけに限らず、楽しい事、嬉しいことでも、慢心を生み、有頂天になってしまい、結果として私たちの心を動揺させるものです。このような八つの風に毎日揺すぶられながら高慢になったり、劣等感に陥ったりしながら、周りの環境に影響されながら人は生きています。新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。人生の八つの風に対処する方法は、自分は神の目的の為に創造された存在だということをハッキリと認識するというだと思います。そこに立ち続けるならば、何が起こっても動揺は軽減されます。
今月で、レストランIMUも、堺チャペルも1周年を迎えました。運命共同体のレストラン教会です。この一年間、牧師にも店長にも“八つの風”が吹きました。しかし、平安があるのです。何故なのかを考えてみました。するとわかりました。結局、「主は与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」「生きるも死ぬも主のため」と腹をくくると、何も恐れることはなくなるのです。私たちは、神さまに与えられた“自分”を用いてベスト尽くし、結果は神さまにお任せするのみなのです。
心のオアシス 2018年7月15日
強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなに優しい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンの一切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人達だ。そうした人達は、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
(ビクター・E・フランクル著『夜と霧 ―ドイツ強制収容所の体験記録―』より)
通常、私たちが考える“自由”とは、自分の願い通り、欲求に従って言動できることがそれだと思っている。しかし、深く突き詰めていくと、このような“自由”がまかり通る世界になってしまったら、大変なことになるということに気がついた。なぜなら、人それぞれの願いや欲求は違うからです。人を傷つけたり、殺したいと願っている人の思いが実現できる“自由”があるなら、私たちは外を出歩けなくなるでしょう。アダムとエバが、自己実現に生き始めた時から、この世に殺人、一夫多妻、争い、復讐の文化が入ってきたことが創世記に記されています。私たちに与えられている“自由”の使い方によっては、物事が円滑に進んだり、上手くいったり、問題が生じたり、混沌とした世界になっていくということでしょう。
以前にある方から「クリスチャンになると酒もタバコもできなくなって自由が制限されるから嫌だ・・・」と言われたことがあります。大酒以外の酒やタバコを禁止するような教えは聖書の中にはありませんが、私は思いました。「酒やタバコがないと生きていけないなんて可哀想だな~」なくても楽しく生きることができる“自由”に感謝しました。
イエスさまは、自分に与えられている“自由”を、神実現のために用いました。肉の欲求はありました。しかし、神の欲求に答えられたのです。そこに人類に対する救いと希望が与えられ、主ご自身も神の右の座につかれるという栄光をお受けになられたのです。ハレルヤ。
心のオアシス 2018年7月8日
アブラハム・リンカーンの略歴です。
1816年 リンカーン一家は家の立ち退きを迫られ、家族を養うために働き始める
1818年 母親死去
1831年 共同経営の店が倒産
1832年 イリノイ州議会に立候補し落選し失業
法律学校を受験し失敗
1833年 友人から借金をして新しい商売を始めるが同年中に倒産
17年かかって借金を返済する
1834年 再び州議会に立候補し当選
1835年 婚約するが相手の女性が死亡し、失意のどん底に
1836年 極度の神経衰弱に陥り半年間病床につく
1838年 州議会議長に立候補し落選
1840年 大統領選挙人に立候補し落選
1843年 連邦下院議員に立候補し落選
1846年 再び連邦下院議員に立候補し当選
ワシントンに移り、業績をあげる
1848年 連邦下院議員の再選をめざすが、落選
1849年 国有地管理局長の職を逃す
1854年 連邦上院議員指名投票で落選
1856年 共和党大会で副大統領候補としての指名を狙うが落選
1858年 連邦上院議員指名投票で再度落選
1860年 アメリカ大統領に選出される
「何かやろうと決めたら、途中でやめてはいけない、と誰でも思っている。努力することが、人生において我々に与えられた義務だからである。私はその義務を果たすようにとの神の声を聞いた。」(リンカーン)
彼の執務室の机の上には、いつも開かれた聖書が置いてありました。
心のオアシス 2018年7月1日
先日の礼拝前に、私が教会メンバーのNさんとお話しをした時、神さまが、その方の人生に深く関わっていてくださっていること知り大変感動しました。Nさんは、何年も前にした脳の手術の後遺症で、頭痛や痺れなど長年苦しんできました。そんな中、イエスさまと出会い、今から7年前、私たちの教会で洗礼を受けられました。それでも当時は、「どうして私だけが、こんな苦しみにあわなければならないの? 神さまは不公平・・・」と文句ばかりを言っていたそうです。そして自暴自棄になった時期もありました。しかし最近、こう思えるようになったそうです。「この苦しみがあったからこそ、自分は神さまに出会うことができた。もし痛みがなければ、今も神さまを無視して自分勝手な道を歩んでいたと思います。今胃の調子も悪くて近々検査をしますが、胃がんであったとしても感謝できます。」牧師としては、苦しみを取り、癒されるように毎日お祈りしていますが、癒されるまでの期間を感謝しながら歩むことができる人生は、他者にも感動を与えるのだと学ばされました。他にも闘病しながら同様に感謝しながら力強く歩んでおられる方々がいらっしゃいますが、これこそが神の存在を知る者の特権だと思わされています。
私はすべての病が必ず癒されることを信じて、希望を持って祈り続けている牧師です。その癒しをいただくまでの生き方を神さまは勿論、人々も注目しています。どのように生きるかが大切だと思いました。
フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーでアメリカ史上最も尊敬される女性として選ばれたエレノアさんは、「今、あなたが苦しく辛いのは、外的要因ではなく、あなた自身がその状況にあって苦痛と感じることを選択し、それに屈服したからです。」と語っています。辛ければ辛いし、痛ければ痛いですが、同じステージの上に立っていて、神と世を呪って生きるのか、感謝しながら生きるのかで、その人の人生は大きく変わってくるということです。そしてその人の周りへの影響も大きく違ってきます。願わくは感謝の人生でありますように。
「いつも喜び、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ。」(聖書)
心のオアシス 2018年6月24日
昔々、あるところに、歳を取った母と五作という息子が、二人で暮らしていました。ある日、母が「お前のお父が生きておった頃、よくマクワウリを買ってきてくれたもんじゃ。ありゃうまかった」と言いました。五作は、母のそんな話を聞いて、近所の畑からマクワウリを盗んでしまったのです。何も知らない母親は、うまいうまいと言ってマクワウリを食べました。しばらくして、母親が「もう一度だけマクワウリを食べたい」と言うので、五作は再び畑に盗みに入りました。けれど運の悪い事に、畑の主人に見つかってしまったのです。怒った主人は持っていた刀で五作の肩を切り付け、その場に五作を残して去っていきました。次の日、畑の持ち主はすっかり後悔し、ウリの一つや二つ盗んだくらいで、刀で切りつけるなどと、あまりにひどいことをした。そう思いながら、五作の家への道をやってくると、村人たちがお地蔵さんの前に集まっていました。なんとお地蔵さまの肩のところに、刀で深く切られた跡がありました。畑の持ち主は大急ぎで五作の家へ行き、無傷の五作を見て驚きました。彼は五作の手を引っ張って、お地蔵さまのところへ連れていきました。五作はお地蔵様を見て涙を流しました。「ああ、このお地蔵さまが、わしの身代わりになって下さったのか、お地蔵様ゆるしてくだせぇ」そう言ってガックリと膝をつくと、お地蔵さまに謝りました。
やがてこの話は広まって、このお地蔵さまは『身代わり地蔵』と呼ばれて、人々から敬われ、慕われたということです。
これはおとぎ話ですが、聖書には、今から2千年前、実際に『身代わり』になったお方のことを描いています。顔はつばきを吐きかけられ、平手で打たれつづけ、頭にイバラの冠をかぶせられ、手足はクギで打ち付けられ、十字架でさらし者になりました。見るべき姿なく、威厳もなく、私達の慕うべき美しさもなく、顔を覆って忌み嫌われる者のように彼は、侮られたと記録されています。そのお方の名前は、イエス・キリストです。十字架の醜さは私たちの罪の姿であり、私たちの罪の「身代わり」として受けられた姿だったのです。ハレルヤ!主よ感謝します。
心のオアシス 2018年6月17日
私は中学2年生の時に教会通いが始まり、3年生に上がるやいなや受洗しました。聖書を読むようになってから、人生観が変えられ、自分の存在価値を発見することができて、喜びに溢れたのを今でも忘れることができません。こんなに素晴らしい人生が与えられるのであれば、友人たちにどうにかして伝えたいと思っていましたが、口下手な私では的確に伝えることはできず、ただ祈るしかありませんでした。しかし当時の部活(テニス)仲間には、私がクリスチャンになったことは知られていて、数名は教会へ来てくれたりはしましたが、そのまま時は過ぎていきました。あれから40年過ぎて驚いたことは、なんと中学では2年の時と3年の時に、それぞれクラスメイトだった2名がクリスチャンになっていて、感動の再会があったということです。私が牧師になっていることを知って自己申告してこられました。高校時代の同窓生の中には牧師になって現在関東で牧師をしている人もいます。あの時の小さな祈りに対して、神さまは一筋の灯火を与えてくださっているように思います。
バウンズ師は、「祈りは不朽のものであって、これをささげた唇は、死のために閉じ、それに感動した心臓は、鼓動を止めても、祈りは神の前に生きている。」と言いました。私の祖父はクリスチャンでした。自分の子供たち家族の救いのために祈っていましたが、生前にそれを見ることはなく召されていきました。でもその死後から不思議なことが起こり、子供3人が全員神さまを信じ、孫である私まで、その恵みが及びました。
「神さまの沈黙は涙だ」とある書物に書かれていましたが、もし、悲痛な祈りをしても何も起こらない時、それは神さまが涙を流しておられる時なのだということです。イエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれた時、父なる神さまは何もされませんでした。私たちに対する救いを成就するために涙しながら耐えておられる時間だったのです。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい・・・人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道3の11)
心のオアシス 2018年6月10日
精神科教授のイ・ムソクさんの文章の中に、まだ医大生だった時にお世話になったK教授のことを書いておられます。この先生は、声が大きく口の悪さは有名で、手術中に研修医を殴って追い出したという噂もあり、学生たちは、この教授の前では猫の前のネズミのようでした。ところが、医大を卒業して10年余り経ったある日、その教授が教会に通い始めたという噂を聞きました。しかも、威厳と権威の象徴だったK教授が献金係をしていて、誠実で熱心なクリスチャンになっていたそうです。
そして、ある日、その教授から次のような証を聞くことができたとのこと・・・「私は、神を信じませんでした。非科学的だと思っていたからです。外科医として、末期がん患者たちが周りの人々を恨み悪口を言い、不安に怯えながら死んでいく姿を何度も目にしました。その中で、今でも鮮明に記憶に残っている患者がいます。その方の顔はとても平安に満ちていました。その方は猛烈な痛みにもよく堪えながら、周囲の人々を慰めていました。私が回診に行くと、その人は笑いながら感謝しますと言いました。私は思いました『私ならあの人のようにできるだろうか。みな同じ人間なのに、どうして死の前で平安でいられるのだろうか。その人には何かがある』後で、その理由を知ったのですが、その人はイエス様を信じていました。その人にとって死は新しい人生の始まりでした。その後、周りを見回すと、イエス様を信じている人たちは死の直前でも違っていたのです・・・。私がイエス様を信じるようになった理由は他にもありますが、その人からの影響が大きかったのです」
これが、神さまの約束を信じている人の姿なのです。この世は、天国予備校のようなものです。痛みを覚えることがあるでしょう。傷つくこともあるでしょう。肉における私たちの人生には、さまざまなテスト(試練)を通りますが、それは天国へ入るに相応しい人格と信仰を作り上げるための道程なのです。肉を脱ぎ去った後に、永遠における本当の人生が待っていることを信じる者は、“今”を忍耐することができるのです。
キリスト・イエスにあって人知を超えた神の平安が与えられます!
心のオアシス 2018年6月3日
『あなたの中の最善なものを』
人は不条理 非論理 利己的です
気にすることなく人を愛しなさい
あなたが善を行うと 利己的な目的でそれをしたと人は言うでしょう
気にすることなく善を行いなさい
目的を達しようとすると じゃま立てする人に出会うでしょう
気にすることなくやり遂げなさい
善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなくしつづけなさい
あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で誠実でありつづけなさい
あなたの作りあげたものが壊されるでしょう
気にすることなく作りつづけなさい
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく助けつづけなさい
あなたの最善のものを世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも気にすることなく最善のものを与えつづけなさい
(マザー・テレサ)
難しいことですが、視点がこの地上ではなく天であるならば可能です。
心のオアシス 2018年5月27日
私は、“宗教”は好きではありません。世の中では、クリスチャン=キリスト教をやっている人、と考える人が多いようですが、私はキリスト教をやっている牧師ではありません。実は、“キリスト教”という言葉自体が好きではないのです。“宗教”とは、目標達成(救い・癒し・問題解決・商売繁盛・家庭円満など)のために、その教えを守って、私たちの側が努力しなければなりません。いわゆる“神”に気に入られるために、何かをするのです。でも、このような関係は、いつも人間が“神”の顔色を伺いながら、自分が気に入られているのか、救われているのか、どう見られているのかがわからないまま何の確信も得ることはできないのです。これが“宗教”の実態なのです。
しかし、聖書に書かれている“神”と“人”との関係は、明らかに“宗教”ではありません。それはまるで親子の関係のような親密なものなのです。親は、生まれた赤ちゃんを、何故可愛がり、育てるのでしょうか? 赤ちゃんが、親に対して喜ばせることをしたから、無償でミルクをあげて、オムツを替えるのでしょうか? そしてその子どもは、DNA鑑定をして、科学的に親だと確定したから、「これは自分の親です」と言うのでしょうか? そんなことはないでしょう? 生まれた時には、どの親から生まれたのか記憶もないのに、私たちは、自分の親を親と認めています。これはある意味“信仰”だと思います。親を親と認めることは、宗教ではありません。それと同じように、私は、私たちを創造してくださった“神”を“神”だと認めているだけなのです。そしてその神は、私たちが神に喜ばせることは、何一つしていないのに、ご自分が創造された一人一人の存在を愛して、一方的に私たちに愛を注いでくださっているのです。子どもが成長しながら、親に感謝して、その愛に応える生き方をすることが健全な親子関係であるように、私たちも神の愛に応えて生きることが、この地上での使命なのです。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)