礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2018年10月7日

 私は最近、一つの悟りが与えられ、他者に対してより一層寛容になることができるようになった。今までは、成長を願う一心もあったが、自分ができることは、他者もできるはずと思い、自分の拘わり通りに物事が動かないと、ストレスになることが多かった。しかし神さまは、ご自分が造られたすべての物を見たところ「はなはだ良かった」と言われました。最初は、「はなはだ良かった」ところからのスタートだったのです。これは100点満点中、1000点からの出発だと考えることができるように思いました。だからこそ、神さまは罪に落ちた人間を、そして何度も神さまを裏切るイスラエルの民を赦し愛し続けることができたのではないかと思う。もし100点からのスタートならば、いつも減点ばかりの私たちに対して、満点でない腹立たしさが起こるでしょう。例えば、親は子に100点であって欲しいと願います。でも50点や60点しかできなければ、足りない部分を見て責めることになります。でも、千点からのスタートならば、少々足りない部分があっても満点以上の存在なのです。その存在だけで、生かされているだけで満点だと考えるようになったら、感謝が溢れるようになりました。
 もう一つ、他者に寛容になれる秘訣は、自分がどれほど罪深い存在であるかを自覚するということです。サムエル記の学びをしながら感じたことは、ダビデは、自分の部下に裏切られても、息子のアブサロムが反逆した時も、シメイがのろいながら石やチリを投げつけてきた時も、寛容であり続けることができました。それは、今、自分がそのような状況になっているのは、他者が悪いのではなく、すべては自分の“罪”のせいだと考えていたからです。故に今生かされているのは、ただ神の恵みだとダビデは考えていました。これはダビデの言葉です。「彼がのろうのは、主が彼に『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか・・・彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。」(サムエル記下16章10~12節)  

心のオアシス 2018年9月30日

 あるベトナムの村に、宣教師たちの運営する孤児院がありました。しかし、その村は爆撃を受けました。その爆撃で8歳の女の子は最も重症で、大量出血によって危険な状態になりました。しばらくしてアメリカ海軍の医者と看護婦が到着しました。すぐに輸血が必要でした。言葉が通じないため、ジェスチャーを使って子供達を集め、何がおきていたのかを説明し、血液を提供する人が必要であることを伝えようとしました。沈黙の時間がしばらく続いた後、一人の細い腕が恐る恐るあがりました。ヘングという名の少年でした。急いで少年の準備をすると、苦しむ少女の隣に寝かせ、輸血ようの管をとりつけました。少年は黙ったまま天井をじっと見つめていました。しばらくすると、少年は自由になっている手で顔を覆うと、しゃくりあげるように泣いているのでした。医師が「どこか痛いのか?」と尋ねると、そうではないようでした。しかし、しばらくするとまた、しゃくりあげ、今度は大粒の涙をこぼしていました。医師は気になり、再び尋ねましたが、またもや彼は否定しました。ときどきしゃくりあげていたのが、やがて静かに泣き出しました。しばらくして別の村からベトナム人の看護婦が現れましたので、医師はその看護婦に、ヘングに何が起きたのか尋ねてくれるように頼みました。すると少年の苦しそうな表情はゆるみ、しばらくすると彼の顔は再び平静を取り戻しました。すると看護婦は、アメリカ人の医師達に説明しました。「彼はもう自分が死ぬのかと思っていたんです。あなた達が説明したことを理解しておらず、少女を助けるため、全ての 血液を提供しなければいけないと思ったようです。」すると医師はベトナム人看護婦の助けを借り、少年にきいてみました。「そうであれば、どうしてあなたは血液を提供しようと決心したんですか。」すると少年は単純に応えました。「あの子は、ぼくの友達なんです。」
 イエスさまは、滅びに向かう私たちのために、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

心のオアシス 2018年9月23日

 「世界は誰かの仕事でできている」とは、某コーヒーのキャッチコピーですが、多くの人の心に響いているようです。このコピーに関する書き込みを見つけました・・・「このポスターを、初めて見たとき、心が震えました。4月に転勤し、通勤に片道2時間を要し、仕事もきつく、毎日雑巾のようにボロボロで、このままではどうにかなってしまうのではないかと思っていました。しかし、このポスターを見て、私だけでない。誰かが、誰かのために一生懸命仕事をしているんだということに改めて気づき、心が救われました。『世界は誰かの仕事でできている。』という言葉を噛みしめて生きています。」
 実は私もこのコーヒーのCMを見るたびに、自分の周りに囲まれている物を見ながら、「どれほどの人たちが、関わってきたことだろうか?」と思い、感謝の気持ちが沸いてくる。直接的ではなくとも、間接的でも関わっている人たちのことを考えると、どれだけ多くの人たちの汗と涙によって私たちの生活が支えられているか測り知れません。
 私たちは大きなことをしたいと願いますが、大きなことをすることだけが価値があって重要なことではありません。結局、私たちは、大小問わず、名も知れない誰かの仕事によって支えられているということなのです。教会も現実的な奉仕によって支えられていますが、目に見えない、一人の小さな祈りによっても支えられていることを忘れてはならない。
 マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞された時に、人々が言いました。「なぜ、あなたのように有名な人が、インドの貧困をなくし、世界平和のために声を上げないのですか?」それに対するマザーの答えは、「私には、偉大なことはできません。私にできることは、小さなことに、大きな愛を込めることなのです。」ある意味、これが私の理想の姿であり、ビジョンなのです。私が献身した時に祈った祈りは、「主よ、私は小さく、福音は大きく広げられていきますように。そしてあなたの計画を進める道具として、あなたを乗せる子ロバとして使ってください。」世界は誰かの仕事でできていて、すべての仕事を支えているのは主なる神なのです。

心のオアシス 2018年9月16日

 私はかつて“祈る”とは、どういうことなのか?と考えさせられることがあった。神さまを信じたばかりの時は、祈りとは、自分の願いを神に聞いてもらい解決してもらうこと、と考えていた。しかしクリスチャン生活が長くなってくると、このような疑問が出てくる。「もし祈ったことが、全て叶えられたら、どうなるのか?」「人間の祈りに叶えることが神の仕事なのか?」「ある人は阪神が優勝することを祈り、ある人は巨人が優勝することを祈っていた場合、神はどちらに叶えるのか?」「人間の意のままになる神は、“神”であり得るのだろうか?」「いくら祈っても、神がご勝手になさっておられるのならば、祈る必要はないのではないか?」神さまの摂理を運命論的に捉える人は、祈ることを諦めてしまうことがあります。しかし、私は牧師になって霊的分野を扱うようになってから、祈ることと祈られることが、どれほど重要なことであるかということを思い知らされるようになった。この世界は言葉では上手く表現できませんが、祈りなくして教会はありえないということなのです。
 イエスさまは、「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。」とおっしゃいました。しかしこの言葉には、求めたものが与えられるとは約束されていません。その後に続く言葉には、「あなたたちは悪い者であっても、自分の子どもたちには、良いものを与えることを知っている。まして、天の父が、求める者に聖霊をくださらないことがあろうか」(ルカ11章)と続いている。求めたそのものではなくても、“良いもの”“聖霊”をくださることが示唆されています。祈った瞬間に、私たちには、その時に一番必要なものが既に与えられているということなのです。祈らなくても神さまはご自分の計画をなされていくでしょう。しかし、この地上においては祈った人とそうでない人とでは大きな差が出てくることは、明らかです。
 祈りは、祈った全ての対象物に何らかの影響を与えることが、アメリカのドクターの論文によって科学的に証明されていますが、私も40年近いクリスチャン生活をする中で得た確信は、祈る方が絶対お得です!

心のオアシス 2018年9月9日

 多くを持っていても常に不足を感じ、持っていなくてもいつも満足することができる人の違いとは何であろう? かつてインドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生が、このようなお話をしておられた。
 ある経営者がいて、その奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても全く聞く耳を持ちませんでした。とても頑固な人で、自分は何でも知っていると思っていました。経営する会社は、海外にも支店がいくつかあって、インドネシアにある支店に訪れたときに、ボルネオのジャングルに行きたいとのことで、そこに当時住んでいた安海宣教師が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていきました。
 しばらくしてから、安海先生は手紙を受け取りました。それはあの頑固な社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたというのであります。その経緯はこのようなことでした。この社長さんの会社は海外にもあって、駐在員を派遣しているけれども、その家族と会って話しをすると、大きな家が与えられていても治安が悪いと不満を言い、お手伝いさんがついていても盗みがあるなどと不平しか聞いたことがありませんでした。しかし、3日間、安海先生と過ごして、何もない所で、先生は朝から歌を歌い、喜んでいる姿を見ました。日本に帰って考え込んだというのです。自分はすでに50歳代で、一応この世のすべてのことを知っていたつもりでしたが、まだ知らない世界があるのだと思いました。そして奥さんから聖書をもらって読み始めて、神の国の世界を知ったということでした。
 今回、関西を通過した台風21号は今まで経験したことのない規模のものでした。「ウチは洪水になっても水没することはないし、安全だ」と、今まで思っていました。しかし今回、電気と水道が供給されなくなるだけで、どんな場所に住んでいても、使い物にならなくなることを思い知らされた。立派な建物はあっても、外泊を余儀なくされたのです。私たちは、地位や名誉をまとった立派な人間かもしれません。でも、生命の源なる神さまの供給がなければ、ただの生ける屍にしかすぎないのです。

心のオアシス 2018年9月2日

 ある朝早くひとりの老人が病院にきました。看護師が老人の対応をしました。血圧と体温を測りながら「今日は先生の診察まであと1時間はかかりそうです」と言いました。しかし、老人は「できれば急いで欲しい」と言いました。看護師は「何か急ぐような約束を医師としていますか?」と尋ねました。老人は答えました。「いいえ、でも妻と一緒に朝食をとるために介護施設に行かなければならないんです」老人の妻はアルツハイマーにかかって介護施設で生活しているのでした。看護師は尋ねました。「少し遅れたくらいで奥様は心配なさるんですか?」「いいえ、妻は5年前から私が誰だか分からないのです」と老人は答えました。看護師は驚いた様子で再び尋ねました。「奥様はあなたのことがお分かりにならないのでしょう? それでも一緒に朝食をとりに行かれるのですか? 何のためですか?」老人は微笑んで答えました。「妻は私のことを忘れ覚えていないけれど、私は妻のことを知っているんだよ」
 この文章を読みながら、故ハ・ヨンジュ先生がかつて、「神さまの片思い」とおっしゃっておられたことを思い起こしました。私たちは、神さまのことを忘れることも裏切ることもあるでしょう。全く関心がないかもしれない。でも、神さまの側は、私たちが、今、どのような状態であるかは関係なく、一方的に愛してくださっているのです。
 このアガペー(無条件の愛)があるからこそ、私たちには本物の平安が約束されているのです。いつも神さまの顔色を見て、愛されているかそうでないかを伺いながらビクビクしながら生きる必要はないのです。
 ある人は言いました。「神が愛ならば、どうして私はこんな目に遭うのですか?」それは、人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかっただけで、人間の理性を越えた神の存在を否定することはできないのです。あなたがもし、自分の願望を叶えてくれるのが神の働きだと考えているならば、そのような“神”は存在しないということなのです。
 聖書の神は、人類における様々なマイナスさえも用いて神の計画を進め、私たちを最善に導こうと願っておられるのです。「神は愛なり」

心のオアシス 2018年8月26日

 動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては買うわけではありませんが、外の窓越しに見ていました。ある日、大好きな子犬が6匹入荷したようで、たまらず少年はお見せのご主人に聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ」「2万円もするの・・・」財布を見てもだいぶお金が足りません。ペット屋のおじさんが、一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていますと、どうも一番最後の6匹目の犬の左の後ろ足が短いのか、バランスを崩していました。少年は「おじさん、この犬いくら?」おじさんは言いました「あ~この犬は君が買ってくれるのなら半額にしてあげよう」しかし少年はニコリともしませんでした。「よし、それならただでいいよ」すると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、ただはダメだよ」「じゃ、半額にしておこうか?」「半額もダメだよ。この犬は定価で売らないとダメだよ。2万円で僕が買いたい」と言い出しました。おじさんは「いや・・・これは足が悪いんだから、商品としては価値がないんだよ。ただでいいって言ってるじゃないか」「おじさん、これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対、誰にも売らないでね」少年は家に帰って、お父さんを説得して2万円をもって来ました。お店のおじさんは、2万円出されても「じゃ~半分でいい」と言います。しかし少年は「2万円で買いたいんだ」と言って、後ろの左足の少し短い犬を、本当に宝物を抱えるようにして家に持ち帰りました。「奇妙な客だな~ あの犬は売れないと思っていたけど、ありがたい」と思いながら、その少年の帰る後ろ姿を見て、ハッとしたそうです。「今まで何年も顔は見てたけど、そうだったのか、あの少年の左足も少し短いんだな・・・」少年の歩く姿を見ていると、ペット屋のおじさんは、ハッキリそうだとわかりました。
 私たちは、自分の価値をどのように決めてるでしょうか? この世の中の評価で自分の価値を決めてはいけません。私たちを創造してくださった神が決めるものです。映画の中の主役も通行人Aや通行人Bによって引き立てられているのです。主にとってはすべての人が主役です。

心のオアシス 2018年8月19日

 アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、彼女は失望せず、祈った後、そのコインで一袋の種を買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で学校を建てたという言葉が信じられず、農場を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
 北森かぞう先生が書物の中で、このように言っておられます。「私たちの天の父なる神様は、あくまで『信仰』の対象であって、『実感』の対象ではありません。もし、『実感』できるのであれば、信仰する必要はないでしょう」。これは、自分の願った方向に物事が進んでいるということを実感していなくても、神の愛を実感することができなくても、神さまは最善をしてくださるということと「神は愛なり」と信じることなのです。
 ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができました。どうしてでしょうか? それは目に見える現実によって判断したのではなく、信仰を働かせたからです。神さまが与えてくださる小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出し、死に対する解決さえ与えるものなのです。娘を失って落ち込む会堂司ヤイロに対してイエスさまは、「今、恐れるのをやめて、信じ続けなさい!」と言われました。その時の気分や状況によって左右される“点としての信仰”ではなく、どんなことがあっても動かない“永続的な信仰”を求めておられるのです。

心のオアシス 2018年8月12日

 つまづいたおかげで

 つまづいたり ころんだり したおかげで
 物事を深く考えるようになりました
 あやまちや失敗をくり返したおかげで
 少しずつだが 
 人のやることを 暖かい眼で
 見られるようになりました

 何回も追いつめられたおかげで
 人間としての 自分の弱さと だらしなさを
 いやというほど知りました 
 
 だまされたり 裏切られたり したおかげで
 馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました

 そして・・・
 身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと
 いま ここに 生きていることの尊さを
 骨身にしみて味わいました (以下省略) 
 (相田みつを著『にんげんだもの』文化出版局刊より)

 私たちはみんな“幸せ”を求めています。そして“幸せ”になるためには、どうしたら良いかを考えます。幸福になるために、成功することを求め、成功するためには、目標を達成しなければならない、という図式ができあがるわけです。このような思考パターンを持ったままでは、最終目標にたどり着くまで、成功もしないし、幸福にもなれないということになります。聖書的幸福とは、イエスさまが教えられた八福の中にもあったように、「心が貧しくても」「悲しんでいても」幸いだということなのです。何があったとしても、神の御心が自分の人生に行われていることを幸せだと思えるようになったら、もう何があっても大丈夫です。

心のオアシス 2018年8月5日

 関西カルバリーフェローシップの開拓は9年目、堺チャペルは2年目に入った。一つの教会を開拓していくことは至難の業と言われていたので、私は、それだけはしたくないと牧師になってからずっと思ってきた。ところが神さまはそうはさせてはくださらない。私の願いではなく、神さまの願いが実現していった。私にとって最初の開拓地は、1993年、アメリカはカルフォルニア州・ラグナヒルズという町でした。そして次が2010年、東大阪と奈良。そして2017年に堺市となる。ゼロからのスタートは、神経をやられてしまう伝道者も多いと聞くが、確かにそうかもしれません。しかし幸いなことに、私は関西での伝道を始めたときに、開拓経験のある先輩牧師から、このようなアドバイスを受けた。「『数』を追うと自己満足か自己憐憫に陥るので、それは止めた方がいいですよ。神さまが人を送り、神さまが人を取られるので、神さまがなさることに委ねたら悩まないですよ」この言葉が、私の開拓の指針になった。神さまが、指一本動かせば、一晩で多くの人たちが教会に来るだろうし、神がそれを望まなければそれで良し、“神実現のための自分”を意識すると本当に楽しくなった。私は、「数」を追うのではなく、神さまが自分に与えてくださっている賜物を100%用いてベストを尽くし、後は神さま任せにした。神がたとえただ1人の牧会を任せられたとしてもそれで良し! それが私の心を守ってきた開拓の秘訣なのです。
 以下は、ダニエル・キム宣教師の文章です。励まされます。
 この時代を生きる宣教師として考えるべきことは、「働きの実がなくても、その働きを続けられるかどうか」ということだ。地の果てに行くほど、実を得るのが難しい。主の再臨が近づくほど、目に見える働きよりも地下に入っていく働きが多くなる。イエスさまは私にこう語られた。「明日、人が集まらず、礼拝堂を奪われ、働き人がいなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 明日、声が出なくなって賛美ができなくなったら、あなたは何によって喜ぶだろうか? 目に見える結果ではなく、天の父があなたをひとりぼっちにせず、共に歩んでくださることを喜びなさい」そんな思いで主の前に立てば、地の果てまで行くことができる。その思いさえあれば、主が来られるその日まで、地の果てまで宣教の使命を果たす人として用いられるだろう。   アーメン!!