心のオアシス
心のオアシス 2019年3月3日
石油会社に入社した若い時代のロックフェラーは、石油缶の自動はんだ付けがきちんとできているかをチェックする、簡単で単純な仕事を任されていました。6ヶ月が過ぎて、とうとう我慢の限界に達し、上司に仕事内容の文句を言ったロックフェラーに向かって、責任者がこう言いました。「夢を大きく持っているなら、今、単純な仕事をしていたとしても、どうすれば人よりも上手くできるかを悩みなさい。そして、世の中に大切でないことは何もないということを肝に銘じなさい!」この言葉を聞いたロックフェラーは、一生懸命仕事をし始めました。そして溶接剤が自動で落ちる量と速度を詳しく観察して研究し、溶接する石油缶の蓋に溶接剤が39滴落ちることを確認しました。彼は緻密な計算をして38滴で石油缶の蓋は完全に溶接できると考え、38滴型溶接機を開発しました。これを用いれば、石油缶ごとに溶接剤を1滴ずつ節約することができるのです。たとえ1滴でも、1年で5億ドルも節減することができるのです。この一滴は、後にロックフェラーを石油王として成長させるきっかけとなりました。
私たちも長い間待つことで疑いを抱いたり、苦しみのために視野が狭くなったりもします。混乱して神さまに忘れられたように感じる時もあります。しかし、その時がどんな時であるのかを見分けなければならないでしょう。何よりも、時が満ちる最後の時まで、ベストを尽くしながら耐えることが必要です。忍耐できないのは、神の介入が必ずあると確信していないか、あるいは信じることができないからです。
「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。」(ヤコブ5章)時は神が定められ、神の時は必ず来ます。その時が来ると、驚く早さで状況が変化するでしょう。今週も期待しましょう!
心のオアシス 2019年2月24日
マクドウェル氏が12歳の時の出来事を回想録にこう書いていました。
私はリトルリーグの準備をしていました。初試合が始まる前、父は、「コーチ、子どもたちにアイスクリームを食べさせてあげてください」とアイスクリーム券をコーチに差し出しました。「どうもありがとうございます。初勝利をあげたら、食べさせましょう」とコーチがにっこり笑って答えると、父は頭を横に振りながら言いました。「最初の試合に負けたら食べさせてあげてください。」コーチは、けげんそうに父を見つめました。「コーチ、私は子どもたちが勝つよりも、努力したことを認めてあげたいのです。そして、何よりも、子どもたちが神の似姿に造られた存在であることを喜びたいのです。それは、野球の勝敗とは何の関係もないことです。息子が一生勝てなかったとしても、わたしは息子を変わりなく愛して受け入れるつもりでいます。」その日、私は父が無条件に私を受け入れてくれることを悟りました。
負けたチームに賞を与えるのは、実におかしなことですが、聖書を学びながら思うことは、神のやり方は、もっとおかしいということです。どうして神を忘れ自己中心に生きる人類を、見捨てることをせず次なる救いと祝福の道を備えられ続けるのか? 何故に何度も裏切るイスラエルの民を諦めずに赦し続け、受け入れることができるのか? イエスさまの弟子たちは、人格者であったり優秀と言えるような人は見当たらないばかりか、いざという時、すぐイエスさまを見捨ててしまうお粗末な存在を、どうして愛し通されたのか? そして神さまの御心と愛を拒絶する、所謂「神の敵であった私たち」のために、罪のさばきの身代わりになるために、この地上に来てくださり十字架にかかり死んでくださいました。これらの神さまの行為は、意味不明です。でも、それが究極の愛の形だということが言えます。条件に適合していれば愛し、そうでなければ愛さないというのは、それは本当の愛ではありません。
「しかしまだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。」ローマ5:8
心のオアシス 2019年2月17日
ガンの専門医であり末期ガン患者でもあった某大学病院がんセンターのイ・ヒデ所長が、ガン患者たちに死に至るプロセスについて話したことがありました。「自分がガンにかかったことがわかると、その人の恐れが骨髄を溶かします。すると、免疫力が急激に下がります。ガンが人を殺すのではなく、絶望と恐れが人を殺すのです。それで私は、ガン患者の方たちに、一筋の希望でも残っているなら、それをつかむようにと伝えます。免疫力を落とさないために、決して絶望してはなりません」ということでした。
“笑い”がNK細胞を活性化して、体の免疫力をアップするという話しを聞いたことはないでしょうか? これは私たちが笑うと、免疫のコントロール機能をつかさどっている間脳に興奮が伝わり、情報伝達物質の神経ペプチドが活発に生産されるそうです。“笑い”が発端となって作られた”善玉”の神経ペプチドは、血液やリンパ液を通じて体中に流れ出し、NK細胞の表面に付着し、NK細胞を活性化します。その結果、がん細胞やウイルスなどの病気のもとを次々と攻撃するので、免疫力が高まるということだそうです。逆に、不安、恐れ、悲しみなどマイナスの情報を受け取ると、NK細胞の働きは鈍くなって免疫力も落ちてしまうことがわかっていて、ある実験では、”笑い”にはこうした免疫システム全体のバランスを整える効果があることも明らかになっています。つまり大いに笑えば、ガンやウイルスに対する抵抗力が高まり、同時に免疫異常の改善にも繋がるのです。ということは、私のジョークも健康のために役立つなら、つまらなくても大いに笑ってください(笑)。
恐れにとらわれると、生存率が低くなることを証明した有名な実験があります。太陽の光が全く入らない真っ暗なボックスに閉じ込められたネズミは、3分も耐えられずに死にました。しかし、ボックスに小さな穴を開けて一筋の光が差し込むようにすると、36時間過ぎても生きていたそうです。真っ暗な所に入れられたネズミが死んだ原因は、光不足や体力の消耗でもなく、ネズミ自らが作った絶望と恐れのために死んだというのです。天の希望の光を見ながら、期待して歩みましょう!!
心のオアシス 2019年2月10日
今年から礼拝メッセージは、旧約聖書・創世記から順番に学んでいる。
先週は“信仰の父”と呼ばれるようになったアブラハムが登場した。彼は今から4千年前に、当時偶像崇拝者であった父の元に生まれましたが、一つの信仰の決断が一つの新しい民族を生み出し、今や全世界に散らばっています。それがユダヤ人なのです。旧約聖書によると神は、罪に溺れる人々を正しい道に導くために、エデンの園から追放し忍耐をもって見守っておられましたが、ノアの時代に悪がはびこり、大洪水によってノアとその家族以外を滅ぼされました。それからまた時は流れ人が増え、ノアの時代の水のさばきを忘れ去られてしまった時代に、高い塔を建て創造主を忘れ、人間中心の社会になった時、今度は一つだった言語を乱されて、それぞれの民族として地の果てにまで散らされました。そして神さまは救いの祝福を与えるために、次なる計画を実行されたのです。それは全く新しい一人の人を選んで、そこから生まれてくる人々を、新しい民族として立て、その新しい民族を通して全世界の人々を祝福するというものでした。そしてその完成形が、アブラハムの時代から2千年後に、系図上ではその子孫として生まれたキリストだったのです。
一人の小さな信仰が、世界を変えていきました。アブラハムの信仰とは、全世界の人々が創造主を知らなくても、私は神さまの呼びかけに応じます!という姿勢でした。彼は周りに創造主を信じさせる人や環境がなかったにも関わらず、神の呼びかけに従いました。信仰とは、皆がやってるから、自分もやってみようというレベルのものではないのです。
そしてもう一つ。信仰とは、自分の可能性ではなく、神さまの可能性に賭けることです。アブラハムが選ばれるために、どのような条件があったでしょうか? 彼は創造主を知らない人でした。しかし神さまは、そんな彼に一方的に選び声をかけられたのです。アブラハムが偉大な存在となったのは、ただその声に従ったからなのです。
神さまは、私たちを選んで、この地上に生かし、今も声をかけ続けてくださっています。今こそアブラハムと同じように、その声に反応してみませんか?!
心のオアシス 2019年2月3日
1900年代に、癒しの賜物が与えられている著名な伝道者が集会を行なった時のこと。一人の青年が、その集会に出たときに、たくさんの病気の人々が癒され、車椅子で来ていた人たちが立ち上がるという癒しが次々に起こりました。彼はその奇跡に圧倒されていました。集会が終わってその青年が外に出ようと人の列の流れにいると、車椅子をおしている女性の姿が見えました。その車椅子には、病気なのでしょうか奇形なのでしょうか、頭が異常に大きく体が異常に小さくて歩くことのできない子供が座っていました。肩を落としながら車椅子をおす母親の姿を見ながら彼はすぐにこう思いました。「神様! この子は、今日癒しが必要だったのに、どうして癒してくださらなかったのですか?」神様に文句を言いました。そんな気持ちのままで長距離バスに乗り込みました。そしてそのバスに乗って帰る途中、青年は、ウトウトして夢を見ました。それは、数時間前に見たシーンでした。集会が終わって、出口のあたりを歩いていると、あの頭の大きな子と、その車椅子を押している母親の姿がありました。そして「どうして、この子を癒してくださらなかったのですか?」と怒っている自分自身の姿もありました。しかし、その親子を見ていると、その後ろにイエスさまが立っておられて、その車椅子の子どもの頭を抱きかかえながら「私は、この子を忘れているのではありません。いつも心にとめています。」と語っておられる姿を見たのです。それが彼にとっての全て疑問の答えだったと話しておられました。
私たちは、癒しや、問題がなくなることを切に求めながら生きています。実際に、私は祈りを通して癒され、具体的な必要が満たされることも経験済みです。しかし、人は必ず死ななければなりません。これは神さまが定められたことです。この地上では、自分の願いが通りにいかないことも多々ありますが、私は完全な満たしと癒しと解決は、天においてあると聖書に基づいて確信しています。
「たとい親があなたを忘れるようなことがあっても、私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)この世においては、主の自分に対する愛と計画を信じて進みたいものです。
心のオアシス 2019年1月27日
今日はシリーズの最終回「恵みの流れる人生にするには」です。
今、私たちにあるすべてのものは、神さまの恵みであり、今、手にしているものも、実は神さまがすべて与えてくださったものです。いのち、健康、家族、配偶者、子ども、住居、日々の糧などのすべてのものも、実は自分の努力によって得たものではありません。旧約聖書の申命記8章17~18節「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい」という御言葉を覚えましょう。
恵みが溢れる家庭は、感謝が絶えない家庭です。神さまに感謝し、夫、妻に感謝し、子どもに感謝し、すべてのことに感謝しましょう。そうすれば、神さまの恵みがさらに家庭に満ちるようになるでしょう。
自分の力でなんとかしようと一生懸命がんばって生きてきた人は、ケチになるしかありません。神さまの助けに拠り頼まないので、心配が多く、いつでも出費を惜しみ、貯めておこうとします。それで、他の人に寛大に施すことができません。ケチな心を「貧しい霊」とも言います。ところで、霊的な法則では、ケチになるほどさらに貧しくなります。反対に、これまでも自分の努力によってではなく、神さまが救ってくださった恵みによって生きてきた信じる人は、恵みを周りの人に流すことができます。これまで恵みによって生きてきたのだから、これからも恵みによって生きていくと信じるからです。また、これまで与えられた恵みは、すべて神さまのものなので、神さまに再びお返しすることができます。周りにいる恵みが必要な人々に恵みを施すことができるのです。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。『この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる』と書いてあるとおりです」(Ⅱコリント9章8~9節)。恵みは、あふれて、流れていかなければなりません。(イ・キボク著抜粋)
無謀になってはいけませんが、祝福の種も蒔けば必ず刈り取ります。
心のオアシス 2019年1月20日
今日は第三回目「完璧主義による傷の対処法」です。
恵みを頭で“知っている”ことと、恵みの人生を“生きる”こととは違います。私たちは、恵みによって生きなければなりません。恵みの法則を子どもの養育にも適用するなら、恵みの祝福があなたの家庭と子どもに豊かに臨むことでしょう。成績が落ちたときや失敗したとき、財布をなくしたとき、子どもが親の気に入らない行動をしたとき、子どもが罪悪感にさいなまれているとき、神さまは、ありのままの姿で愛しておられ、あなたを見ているだけで喜ばれていることを伝えてあげましょう。
ある夫のストーリーです。その人は、子どもの頃から父親にほめられたことがありませんでした。自分なりに勉強もがんばり、努力もしましたが、父親はいつも批判と指摘と叱責を繰り返しました。また、お金も惜しみ、条件なしにくれる小遣いやプレゼントもありませんでした。そのようにして成長した夫は、自分の父親をとても嫌っていました。ところがおかしなことに、結婚後、自分もその父親と同じように子どもや妻に対して行動していることに気がつきました。いつも感謝も満足もありません。このような場合、どうしたらいいでしょうか? まず、夫の心のうちを理解してあげましょう。夫は、からだは成長していても、今でも褒められ、認められることに飢え渇いている子どもと同じ状態です。自分自身のことを、受け入れられないので、自分を責めているのです。自分がありのままの姿で受け入れられ、愛されている存在だということを信じることができず、その心の状態を妻と子どもに映し出しているのです。そのような夫は、神さまの恵みを理解することができません。まず、夫が神さまの恵みを深く知ることができるように祈りましょう。そして、夫の行動に対して過剰反応したり批判したり指摘するのもやめましょう。神さまがありのままの姿を受け入れ愛しておられることを伝えましょう。ただ神さまの恵みだけが、完璧主義の考え方を変えることができ、傷を癒すことができるのです。(イ・キボク師文章抜粋)
私のライフメッセージも、「それでも神はあなたを愛している」です。
心のオアシス 2019年1月13日
完璧主義の陥る危険性について、先週からお分ちしています。今日は、第二回目「親の完璧主義が子どもに与える影響」です。
完璧主義の親は、子どもに「失敗してはダメだ」「もっとがんばりなさい」「最善を尽くさなければならない」「まだ少し足りない」という言葉で限りなく要求します。すでに達成した成果については、励ましたり認めたりしません。表現したとしても微々たるもので、強調して伝えることは「さらに努力しなさい」というメッセージです。そのため、完璧主義の親は、子どもがどんなに頑張っても、称賛せず、満足感を伝えません。過剰な期待を持ち、さらに努力して最高の成果を出すよう要求し続けることが、完璧主義の特徴です。
そのような完璧主義の親のもとで育った子どもは、満足され、認められ、褒められ、励まされることに飢え乾いています。初めは自分でも最善を尽くして親の期待に応えようとしますが、だんだん手に負えなくなります。心の中で「私はダメだ」「私はいつもこうなんだ」「親を喜ばせることは不可能だ」と考えるようになり、結局は自暴自棄になってしまいます。そして、自分自身に怒りと挫折感を感じたりもします。そして、限りなく完璧を求める親に憤りを感じるようになります。完璧主義の親が子どもに与えるメッセージは、子どもに測り知れないストレスと傷を与えるということを知ってください。限りない期待と要求ではなく、子どもの小さな達成に対しても、惜しみなく称賛と励ましを表現する親になりましょう。(トーチ・トリニティ神学大学教授・イ・キボク)
親は子どもを褒めているような気になっているかもしれませんが、子どもからすると9の要求に対して1しか称賛されていないと感じているようです。もし神さまが私たちの足りない部分を毎回指摘されたら、やってられなくなりますよね。愛し育てる“愛育”によって本心から自発的に動けるようになるのです。存在してくれているだけで感謝!と考えれば、要求することも少なくなると思います。親のエゴ(親実現)は、子どもに傷と反発を生み出します。やはり神実現に尽きますね!
心のオアシス 2019年1月6日
トーチ・トリニティ神学大学教授のイ・キボク先生が、私たちが陥るある危険について的確に文章に書かれていましたので、何回かに分けて抜粋してご紹介します。私たちの生き方の指針になればと願います。
恵みとは何でしょうか。恵みを理解することは簡単ではありません。なぜなら、この世はすべて“恵みでないもの”によって動いているからです。この世は、成功し、満足を得るために、努力本位、成果本位、功績本位、資格本位によって動いています。しかし、恵みの法則は全く違います。恵みとは、「それを受ける者の資格とは全く関係なく」与えられる愛とあわれみと祝福を意味するものです。ただ恵みを施される方の一方的な品性のゆえに与えられるものなのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことはなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8~9)では、恵みを受けることができる信仰とは何でしょうか。それは行いではありません。信仰とは、神さまが与えてくださる恵みを、ただ謙虚に受け取る姿勢でもあるとも言えます。その恵みにお返しをする方法はありません。恵みを受けた人は、ただ感激と感謝をささげるだけです。その結果、恵みを受けた者として、主の御心に従って生きるようになるのです。
私たちの家庭の中には、知らず知らず完璧主義が働いています。完璧主義は、「何の失敗もなく最高レベルで、すべてのことを完璧にすること」という非現実的な期待のようなものです。それは、私たち人間の弱さと限界を認めないことに起因しています。神さまは、弱く失敗する私たちを愛してくださっているという恵みを忘れることです。私たちは人間なので、不完全で失敗するしかありませんが、神さまの恵みと助けに拠り頼んで生きていくとき、素晴らしい人生を歩むことができるということを忘れてはなりません。恵みの反対が、完璧主義なのです。
次週は、親の完璧主義が子どもに与えている影響をお分ちします。
「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」(Ⅱテモテ2)
心のオアシス 2019年1月元日
昔、イギリスのある変わり者のバイオリニストが演奏会を開きました。友人をはじめ、観客がたくさん集まり、演奏が終わると、熱烈な拍手が起こりました。その瞬間、彼は演奏していたバイオリンを急に床に投げ捨てて足で壊し始めました。彼が再びもう一つのバイオリンを持ってくると、司会者が言いました。「今、彼が演奏したバイオリンは、実は20ポンドの安物でした。今から最高のバイオリンで本格的な演奏を始めていただきましょう。」今度の演奏もまた大きな感動を呼び起こしました。しかし、正直言って、観客はその2つの演奏に大きな違いを感じることができませんでした。この日、バイオリニストの奇行を通して観客に伝わったメッセージは、「偉大な音楽家が偉大な音楽を作り出すのであって、偉大な楽器が偉大な音楽を作り出すのではない」ということだったのかもしれません。
イエスは人を通して世を変えようとされました。イエスの公生涯は、イエスが用いる人を選ぶことから始まりました。しかし、その選択基準は、世とは全く異なっていました。イエスは、ガリラヤの漁師やさげすまされていた取税人のように、世の中で何一つ自分を誇ることができない人々を神の国の柱のような存在として用いられました。イエス・キリストは今も弟子たちを呼んでおられます。私たちに弱さや咎があっても、主の御手に捕らえられるなら、神の栄光が現れ、世が変わり始めるのです。(わかりやすく解いたマルコの福音書の話(上)/イ・ドンウォン著)
聖書的に言うならば、私たちは土の器のような存在です。離せば落ちて、落ちれば割れてしまう器であっても、誰の手の中にあるかということによって、その価値は変わってくるのです。イスラエルの民が40年間砂漠をさまよう中で生き延びることができたように、2019年は、是非、神の手の中にある安心を手にしていただきたいと願っています。たとえあなたが、神を知らなくとも、神はあなたを知っていて、一方的に大切に思っていてくださっているのです。良き一年となりますように。