礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2024年6月30日

 今礼拝では「幸せの秘訣シリーズ」でお話しさせていただいている。幸せな人生を送るためにパウロはコロサイ書3章の中で「上にあるものを求め、思いなさい」と勧めている。“上にあるもの”とは一体何であろうか? それはこの地上にあるものではなく天上にあるもの・・・つまり“キリスト”ということである。
 神はアブラハムに「あなたはわたしが示す土地へ行け。そこをあなたとあなたの子孫のため永久に所有として与える」と言われ、彼はすぐに出で立った。しかし約束の土地に入っても先住民がいるので絶えずいざこざがあり家を建て定住することはできなかった。そこでテント生活をしながらあちらこちら移動しながら、まさに旅人・寄留者のように生きていた。しかしアブラハムからは何の不平も出てこない。へブル書によると彼が求めていたものは、この地上のものではなく天上のものを求めていたからだと記されている。この地上の住み心地の良い場所を願っていたのであれば、いくらでも故郷に帰ることはできたが、彼が求めていたものは天の故郷だというのである。故に導かれた場所は期待外れのような土地であったが、彼は幸せだった。
 聖歌476番「やすけさは川のごとく」を作詞したホラティオ・G・スパフォード氏は1800年代に活躍した実業家であった。ある日彼の4人の娘たちが大西洋を船で横断している時、他の船と衝突し沈没して彼の娘たちを含む200名を超える人たちが亡くなるという大惨事が起こった。彼は奥様からの電報でそれを知り、悲しみに暮れながら船で帰途についたが、丁度事故現場を通過した時にスパフォードがジッと渦巻いている波を見つめている様子を船長が目撃していた。どん底に落とされた気分であろう彼はその夜に、200年間世界中で今も歌われ続けているこの讃美歌を作詞したのである。「安けさは川のごとく 心満たす時 悲しみは波のごとく わが胸満たす時 すべて安し み神共にませば」
 上を見上げてあらゆる困難を乗り越えることができたのは彼だけではない。どの時代も主を見上げる者は勝利してきたのである。

心のオアシス 2024年6月23日

 最近午前の礼拝の人数が多くなったような気がしていたが、先日教勢の推移を調べてみて、今年になってからコロナ前の最高値よりも人数が増えていることがわかった。礼拝後に玄関に立って帰る方々に挨拶をして祈って送り出してきたが、列が長くなってしまいなかなか外に抜けることができないという現象が起こるようになっていた。トイレのペーパータオルもゴミ入れがすぐに山盛りになっていた。そこで先週から挨拶のみということで方針転換した。ペーパータオルもゴルフボールの大きさに小さく丸めて欲しいと要請した。人数が増えることは大変嬉しいが様々なことに対処もしていかなければならない。嬉しい悲鳴である。
 現在KCFの礼拝ではパウロが福音を宣べ伝えたことによって逮捕され監禁状態の中で書いた“獄中書簡”から順番に学んでコロサイ書まできた。その前にはエペソ、ピリピ書からもお話ししたが、それぞれの教会は成長するに従って様々な問題が生じた。それに対処する方法をパウロは記しているのだが、彼の根底にあるメッセージは「神実現に生きるなら、すべてのことを喜び感謝することができる!」ということであった。
 もしこのまま神さまの願いがKCFに人を集められることであれば、すぐに駐車場の問題、奉仕者の必要性、キッズクラスや中高生クラスの在り方の変化も求められるであろう。午前中に二回の礼拝をする日も近いのかもしれない。私たちはベストを尽くしつつ神さまの願いに当てはまるよう変化に対応していかなければならない。
教勢の推移を調べる中でわかったことは、今まで一つの場所に腰を据えて2年目から人数的な変化が起こってきた。花園チャペルは2年目の年であるが、神さまがどのように動かされていくのか楽しみである。
 私たちの教会の目標は、注目を集めることでも人数を増やすことでも、大きな会堂を建てることでもない。それはただ一つ、“神実現のために存在する”ということである。その結果、受洗者が与えられたら感謝するし、問題が起こっても「それでも福音が宣べ伝えられているのだから感謝する」というパウロの姿勢を貫きたい。それが幸せの秘訣ある。

心のオアシス 2024年6月16日

 先週の日曜日に一人の青年と話しをする時間があった。彼は今から丁度14年前、開拓教会をスタートする働きを共にしてくれた同労者でもあり、KCFの第一号のメンバーでもある。花園チャペルの会堂の椅子に座って開拓当初を回想しながら今がどれだけ祝福されているかをお互い語り合った。楽器や奉仕者の数もそうであるが、木の立派な椅子が与えられていることに感動しておられた。集会室などを借りて礼拝していた時期は備え付けの折り畳み式のパイプ椅子で半分壊れかかっているものもあった。それを10脚ほど並べて集会をしていた時代が懐かしい。イス一脚に感謝できる感性は失ってはならないと思った。
 今与えられているものが当然のように考えていたら感謝は出てこないであろう。“当たり前”の中に生きていたら不平や不満しか出てこない。近所の小学生が日曜日に「教会で遊ばせてほしい」と入ってくる。礼拝の賛美と日曜学校に参加することを条件に許可しているが、“礼拝”なるものが何なのかわからない子どもたちは立ち上がって歩き回ったり友達とつつき合ってふざけている姿を見て正直腹が立つこともある。しかし勿論注意はするが最近はすぐに心は切り替えるように努めている。こう考えるのである。いくらチラシを配っても日曜学校に来なかった時代のことを思うと自ら教会の門を叩いて入ってきてくれる子どもたちに感謝しなければならない。そしてこの子どもたちが将来親になった時に自分の子に「あのチャペルは楽しいし聖書から人生の役に立つお話しをしてくれる場所。あそこは安心できるからあなたたちも行きなさい」と伝えていってくれるであろう。そしてその親自ら子どもと共に礼拝に来てくれる日を夢見ながら感謝するのである。
 想い出話をしていた同労者が会話の最後に「帰ってくる場所(教会)があることは幸せですよね」と言った。確かにそうである。世の中で汚れ疲れてそれを癒してくれる場所がなければ寂しいものである。私たちの心臓が止まったらそれで終わりではない。肉体は脱ぎ去るが私たちの本質である魂と霊が帰る場所がある。それが天国である人は幸いである。

心のオアシス 2024年6月9日

 先週の礼拝の特別賛美で歌われた“Blessings”という曲は、Laura Storyさんの作詞作曲である。最愛のご主人がガン宣告を受けてどん底に突き落とされた状況の中で書かれた詞には深い感動を覚える。その一部です。

  私たちが願い求める間、あなたはそれぞれの祈りに耳を傾けてくださいます。
  私たちが願う以上のものを与え、大きな愛を示してくださるのです。
  もし神さまの祝福が、雨粒を通して与えられるのだとしたら? 涙を通して、癒しがもたらされるのだとしたら? 
  幾千の眠れぬ夜が、神さまが共におられることをよく知るための夜だとしたら? 
  人生の苦難のなかに、神さまのあわれみが隠されているのだとしたら? 私たちは知恵を求めて祈り、あなたの声を聞きたいと願います。
  あなたを遠くに感じる時、私たちは怒り、泣き叫びます。私たちはあなたが良い方であることを疑い、あなたの愛を疑うことがあります。
  まるで聖書に記されているすべての約束だけでは足りないかのように。私たちが泣き叫ぶ時、あなたはその叫びを聴いてくださり、私たちが主を信頼する信仰を持つま    
  で待っておられます。
  友が私たちを裏切るとき、暗闇が勝ったように見えるとき、この世界は私たちの本当の故郷ではないことを、その痛みが心に思い出させるのです。最悪に思える失望の  
  数々が、ズキズキと痛む人生のうずきが、この世が満たすことのできない大きな渇き、天の故郷への憧れをもたらすものだとしたら? 
  人生の苦難、土砂降り、嵐、辛すぎる夜の中に、神さまのあわれみが隠されているのだとしたら?

ピリピ書の著者パウロも同じ悟りが与えられた。福音宣教のために逮捕され投獄され死刑なるかもしれない判決を待っている時にも、彼の心には主なる神さまに対する絶対的信仰による“平安”がいつもあった。

心のオアシス 2024年6月2日

 昨年末、天に召された私たちの教会の長老さまの奥様と堺チャペルの礼拝後にお話をする機会があった。「一人での生活は寂しくないですか?」の問いに「それが~入代立ち代わり近所に住む息子たちやお嫁さんたち、孫が来るんよ~ 姪っ子なんて毎日のように様子観にくるんよ~ みんな来たら一時間はまったりしてるから、ほんま面倒やわ~」と嬉しそうに答えておられた。愛されキャラではあるが姪御さんまで毎日訪問されるのにはよほどの理由があるのであろう。みんなが集まってくる秘訣をお聞きすると、「ゴチャゴチャ言わない、小言を言わないようにしてるから居心地がえぇんちゃうかなぁ? 家に来てみんな好きなことして帰っていってる~」との返答があった。なるほどと思わされた。歳をとると自己主張が強くなり小言や愚痴が多くなるが、そんなことを聞かされるために若者は近づきたくない。みなそうなって行くのだから仕方ないという考えであれば、寂しい終わりを迎えることになるであろう。でも年を重ねれば重ねるほど麗しくなる人たちもいる。
 今礼拝で学んでいるピリピ書の中で、著者のパウロは「喜びなさい! 繰り返し言うが喜びなさい!」と何度もお勧めしている。彼は若い時は批判的な人で、熱心ゆえに人を切り捨てる人であった。宣教旅行に同行した若いマルコが途中で離脱してしまったことに腹を立て、二回目の宣教旅行には同行させなかった。そのことでマルコの従兄弟のバルナバと大激論の末、別々に行動するようになったことが使徒行伝に記されている。しかしそのパウロは晩年にマルコを“役に立つ存在”と評価し行動を共にするようになった。また彼は福音を伝えたことによって捕らえられ監禁状態になっても、敵対する存在がいても、ローマ皇帝に裁かれ死ぬことになったとしてもそれを“主にある喜び”として受け止めるようになったのである。彼の監禁場所には一日中人が集まるようになった。
 教会も秩序は必要だが居心地の良い場所を提供していかなければならない。日曜の朝から夕方まで教会に入り浸る小学生曰く「教会の人は優しい」。私も還暦を前にして、人が寄り付きやすい存在になろうと思った。

心のオアシス 2024年5月26日

 花園チャペルでは様々なドラマが繰り広げられる。二週連続で受洗を希望される方々が声をかけてくれたり、新来会者や訪問者が毎週いることも喜びである。先日は緊張が走る出来事があった。午前と午後の礼拝の間の時間帯に私が会堂で立ち話をしていると、一人の人が血相を変えて「小学生の母親がきて、何か怒ってるから早く行って対処したほうがいいですよ」と言ってこられた。私と恵先生が急いで階段を上がると自分の子どもを厳しくりつけている母親の姿があった。私を見てその母親は何があったかを説明してくれた。その内容は、夜勤明けの朝5時に帰ってくると、娘は頼んでいることをやっていない。いつまでもスマホをしている。門限に帰ってこない等、それらのことが積もりに積もって爆発してしまい、娘を叩き起こして、「言われたことがやれないなら出て行け!」とパジャマのまま追い出したというのだ。そして昼に娘の自転車が教会にあるのを発見し家に帰って反省もしないで外で楽しく遊んでいる姿にまた腹が立って怒っているということだった。これだけの情報だと“虐待”だと思われるが、それぞれの母親のアクションには感情的な部分もあるが、冷静に娘のことを考えている部分もあることがわかった。パジャマのまま外に出したようではあるが、追い出す際にリュックの中に着替えの服を入れ、朝食用にピザを渡し、非常用にお金も400円持たせているのである。そして家の前にある公園に行くことを想定していて、案の定、公園のトイレで服を着替え一人で遊んでいる様子を住まいから観察していたようであるが。目を離した隙に朝8時頃姿が見えなくなり、心配して探し回り教会にたどり着いたということだった。
 誘拐などの可能性もあるので容認できる躾の方法ではないが、感情任せに突き放したようで娘が困らないように必要なものは準備しておられたことに親の愛は感じた。イスラエルの民も神さまを何度も裏切りお叱りを受け突き放されたが、その背後で路頭に迷わないよう神さまの愛のご配慮があったことを思い起こさせられた。その子を一旦家に帰し母親に謝り許してもらい午後、笑顔で教会に戻ってきた。神は愛なり。

心のオアシス 2024年5月19日

 関西カルバリーフェローシップ(KCF)の教会分析をしていて驚いたことがある。一般的に日本の教会の男女比率は8~7(女):2~3(男)と言われている。ほぼ女性しかいない教会もあるが、何故かKCFは男性の方が多いように思える。前で音楽のご奉仕をしている方々の様子を見ても男性8、9割といった感じである。礼拝出席者の年齢層は日本では高齢化が進んでいるが、牧師の年齢前後の人たちが集まる傾向が強いので、牧師の平均年齢が70歳ということから考えると仕方がないであろう。勿論若い牧師が立つ教会では若者に特化した所もある。そういう意味ではKCFは各年齢層のバランスが良く赤ちゃんから80代までおられる。私は還暦に近い年齢であるが50代・60代が多いわけではない。 
 もう一つ不思議なことは、日曜学校には通常クリスチャンの親に連れられて来ることが多いが、KCFでは9割が近所から自発的に来ている。毎週喜んで教会へ出かける我が子を心配する親もいるようだ。
 ここまで読んだ教会関係者からは羨ましく思われるかもしれないが、自慢話をしているのではない。14年前に教会をスタートした時、会衆は1人であった。会堂もなく小さな集会室などを借りて点々としていた。12年前より生駒山の中腹にある東大阪福音教会が使用していなかった石切チャペルをお借りできるようになった。その時には口コミやHPを見て午前と午後の礼拝合わせて15名ほどの人たちが集まるようになっていたが、東大阪在住は私以外いなかった。ほとんど片道1時間以上かけて来られる距離の人たちばかりである。チラシを何千枚配っても近所から来る人はいなかった。
 私が挫折せず継続することができたのは、神の願いの為に自分が用いられることを求め努めたからだと確信している。自分の野心や願いを持たなかったし持てる状況もなかった。だからたとえ今でも会衆が一人であったとしても、神がその一人のために自分を用いておられると考えるなら受け入れることができる。もし将来本を書くことを要求されたらタイトルは「自分のビジョンを捨てよ! 神のビジョンを持て!」の予定。

心のオアシス 2024年5月12日

 近所の小学生を取り上げた内容の“心のオアシス”は、とても受けが良い。それは大人に限らずキッズクラスの子どもたちの中にも読んでいる子がいて評価してくれることがある。先週一人の子が「教会のホームページの心のオアシス見たで~ 今週のはいい話やった」と私に伝えに来てくれた。小学生にも理解できるレベルで書けている安心感と、小学生にも読まれているという緊張が高まった瞬間であった。大変嬉しかったが、毎回子どもネタを書くわけにもいかない。しかし硬い内容であっても分かりやすく書くように努めなければと思った。
 現在礼拝メッセージでは、パウロが書いた獄中書簡からシリーズでお話している。福音書とはガラリと変わり、この世で生きていくための知恵が詰まっている。牧師にとっては道徳的な内容なのでどのように伝わるかが心配であったが、思いがけない人が反応してくださることもあり、聖書は全体を通して、あらゆる人の求めに応じていることがわかった。
 エペソ書の後半には「妻たるものよ」「夫たるものよ」、「子たるものよ」「父たるものよ」、「僕たるものよ」「主人たるものよ」とあらゆる人間関係について書いているが、パウロはこれらの各関係性の中に神と人との関係が秘められているのだと語る。であるから男性も女性も、どちらかが優位に立っているわけではなく、人間としては“平等”の立場であるが、それぞれの“役割”が違うのだということである。それは夫婦だけではなく親子関係、上司部下の関係も同じであることを示唆している。そしてそれぞれの立場でその役割を果たしていく、すなわちお互いに従い、敬い、仕え、愛することによって、結果的にはそれが神に従い、仕え、神を愛し敬うことに繋がっているのである。非常に深い論法である。
 「私は神には従うが、あの人には従えません」と人は考えるが、それはただ自分の気持ち次第の都合の良い宗教をやっているにすぎない。神はあなたに火の中、水の中を通されることもあれば、人間的には理不尽な扱いをされることもある。目に見える人に仕えることができなければ、目に見えない神に仕えることはできない。すべては天で明らかにされる。

心のオアシス 2024年5月5日

 小学生の登校時の旗振りをしている時に人間観察をしていると面白い。朝からテンションが高い子、昨夜見た夢を話してくれる子、声をかけても寝起きで不機嫌な顔をしている子、旗を触って絡んでくる子、低学年なのにやたらとコミュ力がある子など様々である。高学年が低学年の子たち数名を引き連れての集団登校組もあるが、残念なのはその中の一組は、リーダーが挨拶をしない子で、私や娘がいくら「おはよう」と声をかけても、目も合わせず返答しないのである。それに見習うようにして低学年の子もスルーする。私も試行錯誤しながら挨拶させようとするがずっと失敗に終わっていた。旗振りを始めてから半年ほど経ったある日、その日も相変わらず私を無視しながらそのグループは登校していったが、その中の一年生の女の子が、大泣きしながら私が立っている交差点に戻ってきた。私がどうしたのかと尋ねると「忘れ物をしたー」というのである。そして私の前で大泣きして一歩も動かなくなってしまった。もう確実に遅刻する時間帯である。私も家まで車で送ってあげようかとも思ったが、誘拐扱いになる事案だと危惧し、持ち場を離れるわけにもいかないので、とにかく動かないその子に、「今から帰ってお母さんに学校に電話かけてもらってね。そしたら遅れても大丈夫だから。大丈夫。大丈夫。」と安心させてあげると泣き止み家の方へ歩いて行った。その日は長めに立っていたが、その子は戻ってくることはなかった。次の日、その子が私に笑顔を見せてくれた。「昨日は大丈夫だった?」すると「大丈夫だったよ」と返答してくれた。その日から私が見えなくなるまで何度も振り返って手を振ってくれるようになった。それを見ていたリーダーの子が小さな声ではあるが挨拶に応答してくれるようになったのである。 
 先日娘は仕事があって私一人で立っているとその子が近づいてきて「もう一人の人は?」と聞いてきた。「今日は仕事でいないの。おじさんも別にお仕事あるから毎日は立てないんだよ」と言うと「えー毎日いて欲しい」と言うのである。この子のためだけでも毎日立っていたいと思うほどキュンとした。私も神さまからそう思われたいと切に願った。

心のオアシス 2024年4月28日

 今、私たちの教会では何か不思議な変化が起こっている。近所の小学生の何人かは、もう何ヶ月も前から弁当持参で日曜日の朝8時に教会に来て午後3時半まで入り浸っている。また一人の高校生は去年の夏キャンプで火が付き、ほとんど教会に来ていなかったのに、今では礼拝だけでなく平日の集会まですべてを最優先に加わるようになった。以前は教会に来ても挨拶は牧師にだけしてすぐに帰っていたが、積極的に人々に声をかけ日曜日は朝から夕方まで教会で仕えている。それを見た他の高校生にも伝染している。先日、元プロのドラマーから「『無料でドラム教室をしなさい』と上からの示しがあったので、させていただきたいです」と申し出があった。殺到すること必至である。どのような形にするのかは検討していくが、これも嬉しい話題であり賛美が引き上げられるキッカケにもなる。
 これらすべての現象は喜ばしいことではあるが、今までの牧会経験から危惧もしている。それはこれがただ“自分のしたいことができるから”とか“楽しいから”だけでは“神実現”ではなく“自己実現”へと走りやすくなる。またその波に乗り切れない人や年代によっても考え方や感じ方も違うので混乱を招くこともある。牧師は火を付けて回る役目もあるが、時として水をかけるという嫌われ役を果たす必要もある。なぜなら急激な覚醒は様々なリスクも伴うからである。御言葉に根差し祈り、人に仕えることができる姿勢がなければ、それは本物ではない。ある人が「目に見える人に従うことができないのに、目に見えない神さまに従うことはできない」と言ったがその通りである。悪魔の働く隙を与えてはならないのである。
 先週、一人の受洗者が与えられた。5年前に待望の第一子が妊娠8ヶ月で召されてしまった。私は「求道者にどうしてこんなことを許されたのですか?!」と神に文句を言った。しかし主は「これは神の栄光を表すため」と言われる。この方が書いた原簿に「長女を亡くしたことが信仰の強いきっかけとなる」とあった。神のなさることは計り知れない。