礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2019年12月15日

 先日、アフガニスタンで復興支援中に狙撃され亡くなった日本人ドクター中村哲氏は、今から35年前に国際医療NGOの医師としてパキスタンに派遣されました。そこで出会ったのが、戦争が続くアフガニスタンから逃れてやってきた難民たちでした。彼らは、故郷に戻っても医師も診療所も無いことを知り、「目の前で困っている人を見捨てるわけにはいかない」と、アフガニスタンで診療所を開設し医療活動を開始されました。しかし、医療を施しても、干ばつで水がなく、あっても汚染された水によって死んでいく子どもたちがたくさんいる状況の中で、診療所が100あるより用水路を1本作ったほうが良いと、白衣を脱いで、土木を勉強し、用水路の工事に取り掛かりました。現在では27キロに及び、3500ヘクタールの土地がその恩恵を受けている。用水路が引かれた村では、「これで、われわれは生きていける」と皆が喜んで話すという。そして中村氏は、自分の子どもを幼くして亡くした時に、葬儀でこう言われたそうです。「人は長く生きれば良いものではない。私はアフガニスタンで、たくさんの幼い子どもたちが死んでいくのを見てきた。生きていること自体が与えられた恵みなのだ」と。
 何年か前に、NHKで中村氏の活動のことが取り上げられ、私は非常に感銘を受けていました。そして今回の事件を、残念に思うと同時に、犯人たちに対する憤りが起こりました。しかし今回、中村氏は学生時代に受洗したクリスチャンであることを知り、その考えが変わりました。中村氏は、アフガニスタンでの働きをするにあたって、そのような危険に遭遇することは百も承知していたことを考えるならば、彼は今、こう考えていると確信しています。「私は敵や悪者によって殺されたのではありません。主が『お疲れさま!』と、命を取られたのです。主よ、どうぞ彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」勿論、悪は裁かれなければなりません。しかしその悪に私たちが振り回される必要はないのです。永遠の世界を信じる者は、何が起こっても、安定した道を歩むことができるのです。

心のオアシス 2019年12月8日

 アメリカとメキシコの国境を、定期的にオートバイで越えていく一人のメキシコ人がいました。この男は、いつも大きな袋に砂を、たくさん詰めて、オートバイの荷台に載せて、国境を通過していました。国境では当然のことながら出入国審査をして国境警備隊が通過する車両をチェックしていました。そのメキシコ人の男も、そこでチェックを受けました。そこの警備隊の人は、だいたいいつも同じ人で、そのメキシコ人がそこをオートバイで通過するたびに、毎回同じ問答がなされました「何を積んでいるのだ?」「砂です」 しかしいつも砂を積んでくるので、何かを密輸しようとしているのではないかと、毎回数時間もかけて砂袋を開け、砂を分析したりするのですが、何もおかしいものが見つからないのです。「本当に、砂を運んでいるだけですよ~」いつも同じセリフを、このメキシコ人の男は言っていました。このようなことが、毎週2回、5年間も続きました。5年後、その国境警備隊員は引退して、しばらくしてからメキシコ旅行をした時に、メキシコの高級クラブで、高い葉巻を吸っている例のメキシコ人を見つけました。元警備隊員は尋ねました。「もう私は引退したから、あなたを逮捕することはできない。だから、本当のことを言って欲しいのだが・・・オートバイで一体週に2回も何を運んでいたのかね?」彼は答えました「オートバイですよ」実は彼が乗っていたオートバイはメキシコで盗んだ盗難車で、それをアメリカで売り飛ばしていたのです。国境警備隊は、砂の袋ばかりに目がいってしまい、乗っているバイクが毎回変わっていることに気づかなかったのです。砂の袋は、ただのカモフラージュとして運んでいただけでした。
 私たちも、現実ばかりに、目が向けられてしまい、肝心なことを見過ごしてしまっていることがあります。メディアやネットからは、様々な情報が流されていますが、そのほとんどが流動的なものやフェイクニュースです。私たちはそれらに翻弄されていますが、絶対に動かない真理を握っていれば安心です。
 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)

心のオアシス 2019年12月1日

 以前にあるクリスチャンの方から聞いたお話しです。
 それは立ち食いそば屋さんに立ち寄った時のことです。お店に入って注文して待っていると、後ろのドアが開いて、いきなり悪臭が店内に立ち込めました。何かと思って振り向くと、路上で生活していてドロドロの服装で、何ヶ月もお風呂にも入っていないような男性が店内に入って、カウンターの方へよたよたしながら近づいてきました。中にいた5・6人の男性客はみんな食べるのを中断して店の外へ出ていきました。その人も、臭いがあまりにも酷いので、すぐにその場を離れようとしましたが、その男性が手探りでカウンターまできて、何かを探しているようでした。目が不自由なのだとわかりました。「お箸ですか?」と問いながら、箸箱から一膳取り出して渡してあげて、すぐにその場から離れようと思った、その瞬間に心に響く声がありました。「あなたの心の方が、もっと臭いではないか・・・」唖然としました。そして自分の心を見てみると、他者に対する怒り、憎しみ、妬み、嫉妬、悪口、許せない心、悪い思いなどドロドロとした汚いものでいっぱいであることに気づきました。そして、そんな汚い、臭い自分の心の中に、聖なる清いイエス様が来てくださって救ってくださったことを考えると涙が溢れてきたそうです。他者に対して臭いと思っていたけれど、自分の心の方がもっと臭いことに気付きました。にも拘わらず、こんな自分の心に居続けてくださるイエス様のことを思うと、感謝でいっぱいになったとのこと。
 私たちの内には、実は善なるものは、宿っていません。たとえ自分は他者より真面目に生きてきたし、他者に迷惑をかけたことはありません、と言う人がいても、それは神の前には義(罪なし)とは認められないのです。人が親切で愛していることができるのは、自分にとって益があり損がない間だけの期間限定であり条件付きです。
 今から2千年前にイエス・キリストが、この地上に来てくださいました。それは私たちの罪を赦し、永遠のいのちを得るためでした。クリスマスは私たちに対する神の義と愛が全うされるための喜びの日なのです。

心のオアシス 2019年11月24日

 「幸せの条件」というタイトルが付けられた渡辺和子さんの文章です。
 人間の幸せというものは、必ずしも外から見ていくつかの条件がそろっているということではないと思うのです。確かに、ある程度のお金があり家に住んでいること、車とか電化製品、人さまが見てうらやむようなさまざまな物がそろっていることは幸せの条件になるだろうと思います。しかし反対から考えてみますと、あの人にお金もある、車もある、家庭もある、家の中には立派な調度品もある、衣装タンスを開ければ立派なコートも洋服もある、宝石箱を開けてみるとさまざまなネックレスや装身具がそろっている。だからあの方は幸せだと、私たちは決して言い切れないわけです。そういう物は確かにそろっていても、その方は非常に不幸せな方である可能性があります・・・ありがたいという気持ちを持ってお金が見られる人、ありがたいという気持ちで職場に勤めていられる人、ありがたいという気持ちで家族と接していられる人、そういう方たちが、結局、幸せをつくっている人たちだと言ってよいかと思います。
 本当に豊かに生きるということは、自分の周りにすでにある、当たり前のものをどれだけ「ありがたい」宝と見ることができるかどうかということなのでしょう。先週の礼拝前に私たちの教会の80代の長老様とお祈りをしていた時に、こう祈られていました。「神さま、最近は耳も遠くなり、目も見づらくなってきました。これらは神さまから貸し与えてくださったもので、やがてはお返しすることになりますが、この目を耳を体を貸してくださったことを感謝します。」役に立たなくなってきた目や耳に不平や不満を言うのではなく、“ありがたい”という気持ちを持って生きておられることに感動しました。堺チャペルの礼拝後の交わり会では、小学2年生の男の子が「みんなの笑顔を見ることが僕の幸せです!」と発言して、その場にいた大人たちを驚かせました。
人は、ガツガツ求めて生きなくても、誰でも簡単に“幸せ”を感じながら生きることができるのだと思わされた瞬間でした。

心のオアシス 2019年11月17日

 ある小学校の先生のお話し・・・私が小学校五年生の担任になったとき、クラスの生徒の中に勉強ができなくて、服装もだらしない不潔な生徒がいました。その生徒の通知表には、私はいつも悪いことを記入していました。あるとき、この生徒が一年生だった頃の記録を見る機会がありました。そこには、「あかるくて、友達好き、人にも親切。勉強もよくできる」あきらかに間違っていると思った私は、気になって二年生以降の記録も調べてみました。二年生の記録には、「母親が病気になったために世話をしなければならず、ときどき遅刻する」三年生の記録には、「母親が死亡、毎日悲しんでいる」四年生の記録には「父親が悲しみのあまり、アルコール依存症になってしまった。暴力をふるわれているかもしれないので注意が必要」………私は反省しました。『今まで悪いことばかり書いてごめんね』と。そして急に、この生徒を愛おしく感じました。悩みながら、一生懸命に生きている姿が浮かびました。なにかできないかと思った私はある日の放課後、この生徒に、「先生は夕方まで教室で仕事をするから、一緒に勉強しない?」すると男の子は微笑んで、その日から一緒に勉強することになったのです。六年生になって男の子は私のクラスではなくなったのですが、卒業式の時に「先生はぼくのお母さんのような人です。ありがとうございました」と書かれたカードをくれました。卒業した後も、数年ごとに手紙をくれるんです。「先生のおかげで大学の医学部に受かって、奨学金をもらって勉強しています」「医者になれたので、患者さんの悲しみを癒せるようにがんばります!」そして、先日私のもとに届いた手紙は結婚式の招待状でした。そこにはこう書き添えられていました。「母の席に座ってください」。

 この先生が放課後、この男の子のためだけに残ってあげることは違反行為であったかもしれませんが、それによって一人の男の子が救われました。イエスさまは神の正義(罪は裁き罰する)を違反して罪人を赦し、友となることによって十字架につけられました。だから私たちが救われたのです。“愛”は自分が損して、相手が得する為に生きることです。

心のオアシス 2019年11月10日

 その子は、生まれながら知恵おくれでした。幼稚園は、近所の子供たちと一緒に通っていましたが、小学校に上がると、ちょくちょく学校を休むようになり、一年生が終わる頃には、全く学校へ行かなくなってしまったそうです。四年生に上がる頃、父親と、母親が話し合って、養護学校に預ける事にしました。養護学校には寮があって、家に帰る事はできませんでした。四年生で入ったその子は、一年生の学習から始めなければなりません。専門の先生が、主要教科を一対一で丁寧に教えていきました。その子は、その日習った新しい事を、毎日、母親に電話で報告していました。ほんの少しずつではありましたが一年間でその子は、たくさんの事を覚えていきました。その子を、ずっと教えていた先生が、ある日、算数を教えようとしてお金の問題を出しました。「ここに、五百円玉、百円玉、十円玉、三つのお金があります。どのお金が、一番大きなお金ですか?」と質問しましたが、「十円玉」と答えるのだそうです。何度しても、やはり答えは、十円玉だったので、先生は、「五百円玉と、百円玉と、十円玉では、五百円玉が、一番たくさんのものが買えるのよ。だから、一番大きいのは、五百円玉でしょ?」と、言うのですが、その子がどうしても「違う、十円玉だ」と言うので、先生は、「それじゃ、十円玉のほうが大きいと思う訳を言ってごらん」と、言いました。すると、その子は、「十円玉は、公衆電話が出来るお金。電話をするとお母さんの声が聞けるの! だから十円玉が一番大切なお金!」と話したそうです。
 私たちは、この世の中の価値観によって洗脳されてしまいました。だから、どうしても他と比較して自分の位置を確認し、満足したり不満足であったり、優越感をもったり劣等感を覚えたりしながら生きています。自慢できる何かがあったとしても、それは地上で生きている数年だけのこと。それを神さまの前に立った時には、何の役にも立たないばかりか、そんなことを自慢していた自分を恥ずかしく思うことになるでしょう。今の価値観を一度アンインストールして、神さまの価値をダウンロードしてみられたらいかがでしょうか? 人生がバージョンアップしますよ。

心のオアシス 2019年11月3日

 私たちは、様々な心配事や悩みがこの地上にはあります。しかし私は“神の視点”で生き始めると、楽になれることが分かってから、そのような物の見方ができるように努めるようになりました。そうすると悩みが悩みでなくなったり、聖書の世界も開かれるようになりました。
 マザー・テレサの言葉の数々にも、見る視点が変わると、こんなにも世界観が広がるのかと思わせるものが多い。その一つに、いろいろな団体から献金が届くようになって、マザーはスタッフと共に、その献金を、まず他の困っている宣教団体やミニストリー、診療所などへの献金として仕分けして、最後に残ったものを自分たちが建設しようとしている「平和の村」のための取り分にしようとしていました。ところが仕分けが終わると机の上の小切手は全部なくなっていました。そこでスタッフの一人がこう言います。「2000ドル寄付しようとしていたものを後回しにして、それを私たちの必要に用いましょう」しかし、マザーはこう言うのです。「そのまま送ってください。神さまは、せっかちじゃないから」自分を中心にした視点から物事を見ると、「早くしなきゃいけない」とか「絶対に完成しなければならない」と思いますが、神様視点だと「神さまは、せっかちじゃないないから大丈夫」となるわけです。
 古い言葉かもしれませんが、世の中では、「勝ち組」とか「負け組」と言いますが、何を基準にしてそう言っているのでしょうか? 恐らく、お金を持っている層と持っていない層を、そのように分けているのだというのが共通認識だと思いますが、ある時までは勝ち組でも、一夜にして数億円の借金を抱え込む人もいます。負け組でも一攫千金当てる人もいます。人生は何が起こるかわかりません。そんなことに一喜一憂するよりも、マザーテレサの言葉を借りるなら「神さまは成功させるために私を呼ばれたのではなく、従わせるために呼ばれたのです」という神視点に生きると、そんなことはどうでも良くなります。与えられたら感謝。無くても喜んでいることができる生き方こそが、私たちにとって本当の幸せな人生なのではないかと思うのです。

心のオアシス 2019年10月27日

 はじめに神は天と地とを創造されて、造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かったと聖書の創世記には記されています。こうして天と地と、その万象とが完成し、すべてはメーカーである神の目的のために存在し、その目的は神の栄光をあらわす、という任務が与えられました。それは詩篇19篇や148篇にあるように「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩篇19篇1節)「日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。」(詩篇148篇3節)とある通りです。ですから、人間だけではなく、自然界、動物界、月や星さえも、神さまの栄光をあらわすためにあるのです。しかしながら、神さまは人間とその他の創造物とを差別化されました。それは人間だけを神の創造物の管理者とし、神の“愛”の対象とされたということです。実は、神さまは空の鳥や野の草花にさえ心にとめ、養い、また綺麗に装ってくださっていますが、決定的に人と違うところは、それらは神の“愛”の対象ではないということなのです。
 そして悩み心配する人たちに向けて、イエスさまが語られたメッセージは、「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6章26~30節)
 預金もゼロ、保険にも入っていない、読み書きソロバンもできない一羽のスズメが明日を悩んでいないのに、人よ、なぜ思い煩うのか?!

心のオアシス 2019年10月20日

 先週私たちの教会に、ラグビー界のレジェンド、元ニュージーランド・オールブラックス&サモイ代表のティモ・タガロア氏が来てくださり、体験談とHAKAを披露してくださった。彼の話をお聞きして印象に残った内容の一つは、名誉を受け有名人になっても、心の空白を埋めることはできなかったが、イエス・キリストによって満たされたということ。もう一つは、ある人が彼に質問しました。「ラグビーで3回も再起不能になるかもしれない大ケガをして、なおもラグビーを続けるのは何故ですか?」それに対して、「ケガや痛みもラグビーの一部なのです。それらも含めてラグビーを楽しんでいるのです。」との答えに驚きました。     
 私たちの人生も必ずしも順風満帆というわけではありません。逆境の時も、四面楚歌になることもあります。しかし、それさえも含めて神さまが私たちに与えてくださった“人生”なのだと考えると、少し楽になれるような気がした。そして神さまに委ねるとは、喜びも苦しみも全部をひっくるめて受け止めつつ前に進んでいくことだと思わされた。
 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁には、ひとりの患者さんが書いた詩が残されています。私はこの詩の深さに学ばされます。

 大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、
  謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
 偉大なことができるように 健康を求めたのに、
  よりよきことをするようにと 病気を賜った。
 幸せになろうとして 富を求めたのに、
  賢明であるようにと 困窮を授かった。
 世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
  得意にならないようにと 失敗を授かった。
 求めたものは一つとして与えられなかったが、
  願いは、すべて聞き届けられた。
 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私は最も豊かに祝福されたのだ。

心のオアシス 2019年10月13日

 2014年、アジア人初のグランドスラム準優勝を果たし、その後も世界のトップ選手として活躍を続ける錦織圭選手。この飛翔の一つのきっかけと言われるのが、2013年からコーチを努めるマイケル・チャン氏だ。中国系米国人で、1989年に最年少の17歳で全仏オープン優勝、その後も優勝を重ね、世界ランキングは最高2位。2008年にはテニスの殿堂入りを果たす。
 彼は祖父母がいる教会を訪ねた時、礼拝で語られた「神はすべてのことに理由を持っておられる」という言葉が心に刺さった。家に戻ると、本棚に放置していた聖書を開き、むさぼり読んだ。そして「すべての答えが書かれている」ことに驚いた。続いて、イエスさまの生涯について読み通し、「私のいのちのために、十字架で死んだイエスさまの愛はなんと大きいのだろうか。イエスさまは、私を捨てない」と確信した。そして「『私の心に来てください、私をあなたの目標のために変えてください』と祈った。私はその時、主に従い、主のことを知る生き方をしようと決断したのです」。数ヵ月後、世界中の人々が見守る中、全仏オープンの表彰式で、17歳の少年の口から出た言葉は次のようなものだった。「主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私は何者でもありません」。
 テニス選手としての大きな試練は、1996年のUSオープン戦だった。決勝の勝負で破れた。「悔しかった。だが大事なことは、神さまはすべてのことに目的を持っているということだ。人は『あぁなれば良かった』と思いがちだが、そうではない。そこまで到達するために様々な祝福を受けてきた。今もなお素晴らしいことが起こる。かつては勝ち負けに強くこだわっていたが、信仰を持つことで考え方が変わってきた」。
 最も好きな聖書の箇所は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)
              (Sports Bible Rugby EDITIONより抜粋)