礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年10月4日

 現在礼拝でマルコによる福音書を順番に学んでいますが、自分の立場や願いを叶えてくれる王を待ち望むといった間違ったメシア観を持っている弟子たちや人々に対して、イエスさまは、「私たちの人生は自己実現のためではなく、神実現のためです」と絶えず軌道修正しておられる姿を見ます。マルコ福音書には、このメッセージが一貫しているので、私の毎週のお話しの切り口が同じように聞こえるかもしれない。しかし、私のライフメッセージの一つは、この「神実現の人生を求めよ」ということなのです。しかしながら、夢や希望を持つことや、「あのようになりたい」という欲を持つことを否定しているわけではない。人間は向上心が無くなったら、活力はなくなり、輝きが失われてしまいます。「あの人のようになりたい」「この学校、会社へ就職したい」「金持ちになりたい」「こんな勉強をしたい」「こんな家庭を作りたい」・・・などの動機が何なのかが問われるのです。これらがすべて自分のためだけであるならば、いつか必ず壁に突き当たるでしょう。一時的な満足を得ることができても、それは永続しません。
 私たちは絶えず、この“神実現”と“自己実現”の狭間での戦いがあります。私は、悩みや心配ごとが起こったときが“自己実現”を求めている危険信号だと考えて、すぐに“神実現”へと心をリセットするようにしています。そうすると不思議とストレスが消えていくのです。
 この時に助けになる言葉は、マザーテレサ語録です。彼女は、自分が願っている方向へ物事が進んでいない時には、このように言いました。「神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」経済的な問題と直面したときには、「お金なら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みでなかったということです。」そしてこのようお話しされました。「誰もが天国に住みたいと思っています。しかし、今すぐにでも自分の心の中に天国をつくりだすこともできるのです。」
 これらの言葉の一つ一つを通して、神実現に生きるとは、どういうことなのかを、学ばせていただいています。神さまに全幅の信頼を持ってお従いすると、本当の本当にストレスフリーになります。是非ともこの世界を皆さまにも味わっていただきたいと願います。神に委ねるとは、「ベストを尽くして、結果は神さま(神実現)に任せる。」ことです。

心のオアシス 2020年9月27日

「それでも諦めなかった偉人たち」第二弾
 マイケル・ジョーダン(バスケットボール史上最高のプレイヤー)高校時代バスケットボールのチームから外された。
 ベーブ・ルース(メジャーリーグのプロ野球選手で、アメリカの国民的ヒーロー)子どもの頃は不良で両親もお手上げで、矯正学校に入れられた。本塁打記録を作るまでに三振記録を持ち、714本のホームランに対して1330回の三振をしている。
 ウォルト・ディズニー(アニメーション・漫画の巨匠)新聞社で編集長から「能無し」と解雇を告げられ、何度も破産。
 ハリソン・フォード(スターウォーズなどで人気俳優となる)高校の時に「最も成功しそうにない少年」というタイトルで選ばれ、いじめられっ子。初めての役柄はベルボーイ役で、当時の副社長に「君は才能がない」と言われた。
 チャーリー・チャップリン(「喜劇王」と異名を持つ俳優)父親はアル中で死去、母親は精神疾患で、孤児院を転々とする。ハリウッドは当初、彼のパントマイムはナンセンスだと酷評した。
 ザ・ビートルズ(イギリスのロックバンド)デッカ・レコードのオーディションで不合格。またコロンビア、パイ、HMVなど大手レコード会社にも契約を軒並み断られた。

 前にも書いたように、私は世的に称賛されるようになるとか、有名になり金持ちになることが「成功」だとは思っていませんが、ここに出てきた人々は大きな失敗や試練、拒絶を何度味わっても、それでも諦めなかった人たちの代表です。もし天地宇宙を造られた神を信じるなら、壁に直面しても、世の嵐に遭遇しても、諦めることはありません。なぜなら、私たちが乗り越えるのではなく、神が乗り越えさせてくださるからです。私たちが神さまに信頼することを諦めさえしなければいいのです。
 「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」(イザヤ43章2節)

心のオアシス 2020年9月20日

「それでも諦めなかった偉人たち」(第一弾)

 エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)1832年の春にビジネスのトラブルから無職になり、その後、恋人のAnnを亡くす。1832年に州議会に立候補、落選。それから計8回選挙に落選。
 ウィンストン・チャーチル(第二次世界大戦時のイギリス首相)子どもの頃は反抗心旺盛、寄宿学校に入れられ両親は訪ねて来ることなかった。言語障害があり、士官学校に3度落ちた。1922年と1929年と選挙で敗北。
 ルイ・パスツール(狂犬病やコレラのワクチンを発明した生化学者、細菌学者)大学在学頃、平凡な学生で化学の成績は22人中15番目。
 トーマス・エジソン(発明王の異名を持つ発明家)教師に「学習する能力がなさすぎる」と言われ、仕事は2度解雇、電球の発明に千回失敗。
 ローランド・メイシー(全米を中心に431店舗を展開する一大デパートチェーン・メイシーズの創始者)ニューヨークの店が成功するまで彼は7度の失敗をしている。
 アルベルト・アインシュタイン(相対性理論を築き上げた理論物理学者、20世紀最大の天才)4歳まで話すことができず7歳まで文字も読めなかった。「精神的に遅れていて社会性はなく、いつまでもとりとめのない空想にいる」と言われ、学校を退学になった後、チューリッヒの学校からも入学拒否される。
 チャールズ・シュルツ(スヌーピーで知られる代表作「ピーナッツ」の漫画家)子どもの頃から恥ずかしがりやで一人で時間を過ごすことが多かった。高校のイヤーブックに描いて提出した漫画は全て却下された。
 ヘンリー・フォード(自動車会社フォード・モーターの創設者)自動車会社が成功するまでに7度失敗、5度の破産を経験。

 これは、彼らの人生のほんの一部分です。私は、大きな企業や有名になることが必ずしも「成功」だとは思っていませんが、いずれにせよ大きな試練や苦難、拒絶を通って乗り越えることができた人たちであることは確かです。もし私たちに神さまがついておられるなら、何を落ち込む必要があるのでしょう?ベストを尽くして、結果は神さまに任せよう。

心のオアシス 2020年9月13日

 先日ある方から「小崎先生は、何か問題とか悩みとかってないのですか?」と質問された。過去に何人かの人たちから同じような質問を受けたことがある。恐らく、私が何も問題がないように見えるのか、弱さを見せないことへの心配からかもしれない。しかしながら客観的に自己分析すると、決して強がりではなく、楽天的なおめでたい人であるようです。悩みがないわけではないが、一晩寝ると悩みが悩みでなくなってしまうのです。その根底にあるのは、何なのか?「神さまは何とかしてくださる、すべてを益にしてくださる」と本気で信じていると、問題が問題でなくなってしまうのです。考えてみれば、三大激痛で知られる尿路結石になって、のたうち回り、夜中に人生初の救急車を呼んだ時でさえ、「もしこの痛みを通して、あの人の病を癒してくださるのなら、そのままでも構いません。でもこれは痛すぎます、ちょっとは痛みを和らげてください。でもこれは神さまが許されたことでしょうから、甘んじて受け留めます。その代わりあの人を癒してあげてください!」などと苦しみ悶えながら冷静に祈っている自分がいたのを覚えています。しかし、楽天的な人は、楽しく生きることができる反面、自分の現状を肯定しすぎるあまり、悟りきってしまい「今のままで大丈夫」と自己反省する機会が少なく、悔い改めや成長ができなくなってしまう危険性もある。
 ハワード・ヘンドリックス教授の著書『人生を変える教え』の中に次のような内容がある。
 ヘンドリックス氏がシカゴで開かれた日曜学校大会に参加したのですが、そこで、かなり年配の女性に会いました。彼女は83歳でしたが、一晩中バスに乗って、シカゴまで来たのです。不思議で仕方がなく質問しました。「おばあさん。どうしてそこまでして参加されたのですか?」おばあさんは静かな口調で答えました。「もっと良い教師になるために、何かを学びたいと思って来ました」この女性は絶えず学ぼうという意志、成長する意志が強く、毎年成長し、成熟している教師であると言えるでしょう。この女性の下で、84名の教会教職者が生まれました。この年配の女性は、年齢を超えた、成長に対する飢え渇き、教えに対する情熱を持っていたので、このような実を結ぶことができたのです。
 私も悟りきることなく、成長することを次世代に伝えたいものである。

心のオアシス 2020年9月6日

 ある賛美リーダーは、早くにお父さんを亡くしました。夜中に寝ている時、脳卒中で亡くなられたのです。お父さんのことを恋しがっていたお母さんは、その翌年、不幸が重なって詐欺にまであい、自ら命を絶ちました。立て続けに両親を亡くした彼を最も苦しめたのは、孤児になったことでも経済的に苦しくなったことでもなく、「神さまは生きておられるのか?」という疑いでした。「神は愛です」「全能の神」と聖書にあるのに、どうしてこんなことが起こるのか。どうしても納得できませんでした。聖書のすべてのみことばを疑いました。しかしある日、クリスチャンの集まりに行ったとき、そこで神さまとの深い出会いを経験しました。彼は倒れたお父さんを背負ってタクシーに乗る時も、お母さんの酸素呼吸器をはずす瞬間も、イエスさまが自分と共に泣いておられたことを知りました。すると、疑っていたすべての聖書の箇所が、みことばの中で解釈されていきました。彼は神さまのビジョンを持った牧会者になりました。みことばをこの世の論理で理解しようとすると、苦しいだけですが、深く心に思い巡らすなら、そこでいのちの道を見出します。その道で、神さまがあなたの味方になり、その理由を説明してくださるでしょう。(チョ・ドンチョン著「私の人生を変えた3つの質問」より抜粋)
 先日、ある方とのラインのやり取りがありました。その方は、今、大きな試練に直面しておられ、自分の願っている道とは別の方向へと追いやられている状況なのです。私も心痛めつつ祈ってきましたが、この方の文末に書かれた言葉に励まされました。「全ては私の不徳の致すところです。これからのことは全く分かりませんが、どんな結果になろうとも全て神の御心と思い受け入れる所存です。今は祈るのみです。こんな至らぬ私ですが、これからも宜しくお願い申し上げます。」
 教会には祈りのリクエストシートがあって、匿名でも受け付けてはいますが、ほとんどの方々が名前を書いてリクエストしておられます。毎日祈りながら思うことは、事の大小は違いますが、問題や悩みのない人は一人もいないということです。牧師は話を聞いたりカウンセリングしたりしますが、最終的にはその人の内にある“信仰”が、自身に解決を与えることになります。だからこそ人々の信仰を引き上げ、力の源であるみ言葉を伝え続けていくのです。
 「あなたの信仰があなたを救った」

心のオアシス 2020年8月30日 

 先週の礼拝の特別賛美スペシャルは、ヤングチャペル(中高生)有志たちによるご奉仕だった。牧師として、微笑ましく思いながら聴いていた。歌も演奏も完璧ではないにしても、素晴らしいものだった。(8月23日のYouTubeにもアップしているので、是非ご視聴ください。) 実はその日、プロのシンガーが二人出席していた。礼拝後、一曲歌っていただいた時に、このようにお話しされた。「今日は、中高生の賛美に大変感動しました。自分が歌い始めた頃を思い出しました。心洗われる思いでした。」と涙声になりながらの様子に、お世辞ではなく、本当に触れられたことがわかった。そして帰る時には、その中高生たちにお礼を言って帰られた。彼らにとって、大きな励ましになったことでしょう。
私が高校生の時、教会の夏のキャンプだったでしょうか、ゴスペル・タイムのような時間があって、希望者がその場で歌うという企画があった。いくつかのレベルの高いバンドが歌う中で、一人で、しかも始めたばかり?と思えるようなたどたどしいギターの演奏で歌った少年がいた。でもそれは、それまでに聴いた賛美の中でも一番心に残り、感動的だったのを今でも忘れることはできない。それは、必ずしもノーミスで、完璧で綺麗な演技や演奏だけが人々に感動を与えるものではないことを学んだ瞬間だった。
 ある陶器師の家に、不格好で粗悪な陶器がありました。その横には、きれいに造られた陶器がたくさんありました。しかし、その主人は水を汲みに行くたびにその不格好でヒビの入っている器をかついで行くのです。きれいな陶器たちは嫉妬し、不満を表しました。不格好な陶器自身も理解できませんでした。「あんなにきれいな器がたくさんあるのに、どうして水を汲むときは、私を連れて行くのですか?」と不格好な陶器が聞くと、主人は微笑みながら、こう答えました。「きみとこの道を歩くようになって、随分時が経ったね。あの道端に名もなく美しく咲いている赤い花、黄色い花を見てごらん。どうやってあの花が咲いたのか、きみは知っているかい? きみに水を入れて歩くたびに水がもれるから、それで種が芽を出し、花を咲かせて、あのような美しい花の道ができたのだよ」不格好な陶器は、主人の深い意図がようやく分かりました。
 だから心配無用。欠けだらけでも、あなたは神の手の中です。

心のオアシス 2020年8月23日

 パウロが活躍していた当時、アテネは哲学の街として広く知られていました。しかし、どんなに偉大な人物や哲学も、人類の罪と死という問題に対する答えは得られませんでした。例えば、エピクロス派の快楽主義の哲学者たちは、罪など考えないで人生を楽しむようにと教えました。しかし、いくら快楽が大きくても、それに伴って必然的に罪責感が生じ、結局は苦々しい心が生じるのは避けられませんでした。その反対の立場を取っていたストア派の禁欲主義の哲学者たちは、できるだけ罪を犯さずに身を慎むようにと教えました。しかし、いくら高尚な人格と教養を兼ね備えた人でも、理想的な自制は簡単なことではなく、むしろ全く不可能であることが、はっきりと証明されてしまいました。
 そのように絶望的な人間にとって、キリストの救いの方法は、誰にも想像もつかなかったものでした。罪の問題を解決する唯一の処方は、神の子イエス・キリストの十字架でした。イエスさまを信じることによって救われ、聖霊の力によって生きることが、確実に罪に打ち勝つ道でした。イエスさまが、死からよみがえられ、生きておられるので、罪の結果である死を恐れる必要はありません。イエスさまが御手で私たちの現在と未来を捕らえてくださっているので、人生は生きる価値があります。
                     (イ・ドンウォン著「もう一度聞くべき最初の福音」より抜粋)
 世界のどの国の人たちでも、次の4つの悩みを持つということが統計的に出ているそうです。一つは「空白感」。何をしても、何を手に入れても、満たされない心。二つ目は「孤独感」。友人や家族がいても自分を理解してもらえないという虚しさ。三つ目は「罪責感」。自分の過去に犯した悪に対して、今も縛られ苦しんでいて、心のどこかで赦されたいと願い生きているというのです。そして四つ目は「死に対する恐怖」。自分が死んだらどうなるのか? どこへ行くのか?という不安。
 私たちは、これらの悩みを消すために、哲学、善行、宗教、仕事、財産、名誉、学歴、地位、快楽などを求めながら生きています。一時的には解決したように思えても、満たされないまま生きているのが現実です。なぜならこれらの悩みは“霊的な不足”からくるものだからです。「神」でしか満たすことができない領域があるということを認めることが充足感のある人生の始まりなのです。

心のオアシス 2020年8月16日

 新約聖書13の書簡を書いたパウロの手紙は、学べば学ぶほど、奥の深さと説得力の強さを感じる。彼はエルサレムにて高名なラビであるガマリエルの門下で学び、当時のギリシア哲学にも触れていますが、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったため、当初、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。しかしやがて、むしろ哲学を積極的に利用しながら教義を理論化・体系化することによって、キリスト教の真理性や正当性を効果的に教えるようになりました。
それによって、当時はびこっていた異端や異教と対決する立場が優勢になったと言われています。
 先週の聖書箇所であったⅠコリント15章では、「肉の体と霊の体」について、様々な手法を用いて説明している。イエスさまがヨハネ福音書12章で言われた「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という言葉を、深く掘り下げています。神さまを信じ受け入れたら、この肉と霊の部分の葛藤が始まる。これはⅡコリントでパウロが語っている「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋(肉体)の中で苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからである」ということであろう。この地上での人生は、“肉と霊”の部分の共存を神さまは私たちに求めておられるが、一粒の麦ならぬ肉が死んだなら、“霊”の部分が100%生きるようになるのです。それを巷では“死”と呼びますが、創造主を信じる人たちにとって、“死”は恐ろしいものではなく、“永遠に霊に生きる世界”(天国)への入り口にしかすぎなくなるのです。そして肉によって生きている時には分からないことも、「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(Ⅰコリント15:58)と確信することができるから、この地上でのあらゆる苦労や涙を乗り越えていくことができるのです。  
 やがて永遠の霊の世界に移された時、今までの全てのことが、神さまの愛であり、神さまの計画の緻密な計算だったのだと悟ることでしょう。 

心のオアシス 2020年8月9日

 私は、アメリカの大学に留学していたことがある。そこで勉強に対する姿勢に関して考えさせられたことがあった。
 それは私が3年生の時に、リサーチペーパーというクラスを受けていた時のことである。テストは、自分が書いた文章をタイプで打って提出するというものでした。その試験には提出期限があって、期限が1日遅れるごとに、一段階ずつ成績が下がっていくという厳しいものでした。私は、期限の当日までに手書きでペーパーを書き上げたのですが、まだタイプで打っていませんでした。そこで、タイプライターを持っている人を探しました。そして見つかったのは、同じクラスを取っている人だったのですが、親しいわけでもなく、話もろくにしたことがない人でした。彼の部屋で、一文字一文字ゆっくりタイプしている私を見て、「俺が打ってあげるよ。今日が期限でしょ・・・」と言って、私の原稿を取って打ち始めたのです。私は「君はペーパーはできたのか?」と問うと、「まだ」と言うのです。「えっ? それじゃ自分で打つから・・・」と言いますと、彼は「俺が打った方が早いだろうし、俺のは、その後打つから大丈夫!」と言って、結局2時間近くかけて打ってくれたのです。そして、何とか提出期限の時間までに出すことができました。後日、そのペーパーが戻ってきたときに、私のペーパーには5段階のうち“B”という成績が書かれていました。何気にタイプを打ってくれた彼のペーパーを見ると、なんと“F”(落第点)でした。私はそれを見たときにショックでした。「親切にしてくれたのに、当の本人は落第?」期限までに提出できなかったのかもしれません。私は申し訳なくて、彼に言葉をかけることはできなかった記憶が鮮明に残っています。
 その時から、私の“勉強”に対する姿勢が変わりました。勉強だけではなく、この世の中には、他者を蹴落として自分がのし上がるという社会構造があります。しかしパウロ流に言うならば、どんな地位や成績、能力があったとしても、もしそこに“愛”がなければそんなものはゴミ同然なのかもしれません。考えさせられた瞬間でした。God is agape.

心のオアシス 2020年8月2日

 徳川幕府の時代が終わりに近づいていた1853年、当時鎖国状態にあった日本に開国を求めやってきたのは、ペリーの率いる黒船艦隊でした。そのころ、キリストの福音を伝える宣教師たちも次々とやって来て、神奈川、東京、長崎にと各地で宣教を始めました。
 ある日、東京湾の海の上を一隻の外国船が走っていました。一人の船員がデッキの上の手すりによりかかり熱心に聖書を読んでいましたが、急に涼しい風がサーっと吹いてきて、聖書をパラパラとめくり、あっという間に両手から離れて、海の上に落ちてしまいました。見る見るうちに聖書は船の後ろのほうに遠ざかり、沈まないで波間をぷかりぷかりと、浮かんでいます。青年は誰かの手に拾い上げられることを祈りました。
 その聖書を海岸で発見したのは、九州佐賀の鍋島藩の家老であった村田若狭という侍でした。どうしてこんなものが海の上を流れていたのだろうと思いながら手に拾い上げてみると、ずっしりとした重い本でした。開いてみても日本の文字ではなかったので理解できません。彼がどんなことが書いてある本なのかを色々な人に問い合わせてみると、なんとその頃、読むことを禁止されていたキリシタンの本であることがわかりました。しかし何とかして内容を知りたいと思い、中国語を読むことができる若狭は、わざわざ家来を中国の上海に送って、中国語で書いてある同じ本を探させました。そしてやって手に入れたのが中国語の聖書でした。読みだすと、大変おもしろくて、くり返して読み続けている内に、この聖書について説明をしてもらいたくなり、長崎にいたオランダ人宣教師・フルベッキ博士から手ほどきを受けました。
 そして1866年5月20日のペンテコステの日に、村田若狭とその弟の阿部三右衛門の二人が洗礼を受けました。この二人こそ、日本における最初のクリスチャンのグループの中に入った人たちなのです。若狭が1872年に召天するまで、その子供たちや、友人たち、家のお手伝いさんたちの多くが救われて、豊かな実を結んだという実話であります。
 どんなマイナスも、必ずプラスになる神さまの計画があるのです。