礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年1月24日

 マイクロソフト社の役員は「マイクロソフト社は、ビル・ゲイツなくしては進んで行けないが、スティーブ・バルマーなくしては生き残れない」と言っています。一般的に、マイクロソフト社は天才ビル・ゲイツの作品だと思われていますが、スティーブ・バルマーなくしてマイクロソフト社は考えられません。ところがスティーブ・バルマーは、20年以上もビル・ゲイツの陰に埋もれていました。人々が羨ましがる成功とは何でしょうか? お金をたくさん儲けること、高い地位に就くこと、羨望の対象になること、人より優れた能力を備えること、そのようなことが成功でしょうか? 人々は成功を夢見て、あがいています。すべての人が物質的な成功だけを夢見ながら、頂点に立つために熾烈な戦いをしているのです。最高の地位に立つためには、人を踏みつけることも平気です。高い地位に着いて人々に命令を下し、権威を振るうようになれば、成功したことになるのでしょうか? いいえ。成功とは、神さまがくださった使命の道を進むことです。神さまがくださった賜物と才能を最大限に発揮して、主に再びお返しすることです。何タラント手に入れたか、何になるか、どこまで昇進したかということより、神さまに喜ばれる人生を歩んでいるかどうかに関心を持つべきです。結果よりも過程を中心に考えましょう。正しい道を歩んでいる人を、神さまは必ず用いてくださいます。(「観点」キム・ビョンテ著より引用)

 私はこの地上にある権威や富などを否定する牧師ではありません。お金もないよりあるほうが解決できる問題は沢山あることも知っています。聖書にも、この地上にあるすべての支配も権威も神が立てたと記しています。ですから、世の中の栄光は神さまがお与えになったもので、神さまからその栄光の一部を貸してくださっているという認識が大切なのです。そしてそれぞれ与えられた栄光を何のために用いるかが問われてきます。この世の栄光はずっと続かないように創造主が設定されました。一時的なのです。どんな権力を持った人でもその座を退いた後、平凡な人になってしまった姿を見ますし、どんなに活躍した人も衰えていくようになっています。名も知れない多くの人たちの活躍によって福音は広げられていきました。どれだけ目立ったかではなく、どれだけ神さまのために生きたかが、真の成功者だと言えるでしょう。

心のオアシス 2021年1月17日

 神さまは、私たちがただ快適な時間を過ごさせるために、この地上に私たちを置かれたのではありません。私たちを造られたのには造り主なる神さまの側の計画や目的があってのことなのです。単刀直入に言うと、それは「神が神であることを示すため」です。そして私たちの姿勢によって、「神が神であること」をより実感することができます。
 第一に、「神さまファーストに生きる」ということです。“自分ファースト”に生きるとは、私たち自身が神の立場に立つということです。すなわち神の座に座って、自分の願望や計画や目の前にある問題を、自分の力や判断だけで手に入れたり解決しようとしてしまいます。“神さまファースト”とは、私たちは勿論、ベストは尽くしますが、結果は神さまに任せるのです。もし自分の願っている答えや結果を得ることができなくても、神さまの与えられたことに関してはそれを受け止めるということです。あなたがどんなに小さな存在であるかは、あなた自身が一番よく知っているはずです。ですから、突然起きた出来事に驚いて慌てふためくのは当然です。もし私たちが“神さまファースト”に生き始めるなら、現在起きている状況も神が演出されたもので、神さまが良しとして許されていることですから、神さまが必ず処理してくださるという信仰に立つことができるので、安心することができます。
 第二に「神の視点から見る」ということです。“自分視点”から現実を見ると、“今”という点でしか見ることができません。ですから今起こっていることに振り回されてしまうのです。対処療法ばかりで、根本的な問題に触れないまま疲労困憊してしまいます。少し高い場所に登っただけでも、町全体を見下ろすことができるように、高く上れば上るほど、一目で問題の全体を見渡して答えを見出すことができるようになります。神の視点から見ると様々な問題は自然とあるべき場所に収まるものです。
 私はサラリーマン時代に、現実ばかりに振り回されていた時、あるクリスチャンからの手紙に“Keep Looking Up!”と書かれていて、その言葉によって励まされたことがあります。その時から神さまの視点から見ることを意識できるようになりました。忙しさの中で流されておられる方もいと思いますが、時々立ち止まって神の視点から人生を見る時間を作ってみてください。聖書の中には沢山の宝が詰まっています。

心のオアシス 2021年1月10日

 昨年、政府の緊急事態宣言に伴って教会の礼拝も無会衆でオンライン礼拝をしている最中、「無会衆の礼拝を行ないますが、知らずに来られた方は遠慮なくお入りください」という教会玄関の張り紙を見て入ってこられたご夫婦がおられる。これはご本人の許可を得て書かせていただいていますが、奥様は長い間、鬱を患っておられて、ずっとうつむいたまま、こちらから挨拶をしても声が出ないし暗い表情しておられた。礼拝後、ご主人とお話しすると「私は50年前に、今は無くなってしまった教会で受洗しましたが、もう何十年も教会から離れていました。家内のことを考えていると、急に教会に行かなければならないという気持ちになったのです。」とのこと。また来させて欲しいとのご主人の要望に、「今は無会衆ですので、来週も来てくださって良いですよ。」とお話しすると、毎週礼拝に出てこられるようになった。しかし、礼拝出席の回数を重ねるごとに奥様に大きな変化が起こった。顔を上げて笑顔を見せることができるようになり、言葉も出すことができるようになった。ご主人も奥様の毎週の変化に驚いておられた。教会のメンバーもこのご夫妻を温かく迎えてくださり、クリスマス礼拝ではご夫妻でトーンチャイムのご奉仕をすることができるまでに回復された。ご夫妻の要望もあり、平日に入門講座も行ない少しずつ聖書のことも理解されるようになった。そして昨年の年末に奥様の口から「洗礼を受けさせていただきたいのですが・・・」との言葉に私は主に感謝した。この方のためにも私が関西に遣わされた意味があったのだと思った。そして2021年最初の日曜礼拝で洗礼式を行なうことができた。ハレルヤ!
 数ヶ月前から大きな試練を通過しておられたある方が、回復されて最近教会に戻ってこられた。戻ってこられることを知っていた教会メンバーの一人が当日、礼拝前に教会入口で落ち着かない表情でウロウロしておられて、戻ってこられたその人を大歓迎しておられた。また、今回、受洗された方に、教会メンバーの方々が本当に喜びながら挨拶に行かれている様子を見ながら、私一人で牧会しているのではなく、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いてくれるメンバー一人ひとりの祈りと奉仕によって成り立っていることを改めて思い知らされた。
 毎週、神さまのドラマを観させていただける人生は素晴らしい!

心のオアシス 2021年1月3日

 わがままな魚が水の中で生きるのを拒み、水の外に飛び出したとすれば、その魚の待ち受けているのは、耐えがたい苦しみです。バタバタと跳ねながら苦しむ魚は、ほかの人から拷問を受けているのではありません。もともと自分のために用意されていた場所にいることを拒んだために、その結果として代償を払うことになったのです。神さまの生命圏から離脱した人のたましいが受けることになる苦しみも同様です。神さまのさばきを免れるためには、キリストにとどまらなければなりません。キリストにとどまるなら、さばきははるか彼方の出来事ですが、キリストの外にいるなら、知らぬ間にさばきは近づいて来ます。これが、私たちがすぐにみことばに従わなければならない理由なのです。
     (チェ・ソンホ著「天国についての正しい考え」より引用)
 
 本来、私たちが天地宇宙を造られた神さまを信じるのは、そういう気分になったからとか、誰かが信じているから、それにつられてというのではありません。神さまと出会うキッカケは、そうであるかもしれませんが、“信仰”とは、誰かの影響とか気分や感情ではなく、自分と神さまとの関係の中で、「私は世の中の人が一人も神さまを知らなくても、私の状況や環境がどうであっても、それとは関係なく私は神さまに従います!」ということなのです。私たちは、神さまに従うように造られているのです。ですから神さまのために生きないことから、様々な問題が起こるわけです。誰かの影響、気分、感情によって信じている人は、影響を与えた人物を信頼できなくなったり、感情が落ち込んでしまうような試練が起こると、途端に神さまに対する信仰もなくなってしまいます。これは本当の“信仰”ではありません。ただあなたの“気持ち”に従っているだけなのです。勿論、人間ですから上がったり下がったりはあるでしょうけれども、「それでも私は神さまに従います!」という主に対する信頼が大切なのです。そこからとてつもない神さまの恵みが流されていくように、この世はできています。今年も主を見上げましょう。

 苦しくて どうしようもない時 
 いつもうかんでくる ことばがあった
 神様がいるんだもの なんとかなるさ
 そして いつも なんとかなった (星野富弘)

2021年1月元旦

 「一年の計は元旦にあり」ということわざがあるが、「ものごとを始めるに当たり、計画を最初にしっかり定めておくべきだ」という意味を示す戒めの言葉です。「計」とは「計画」のことで、これ自体は「一年の計画は、年の初めである元旦に立てておくべきだ」という意味を表します。  
 計画を立てることは大切なことですが、人生には想定外な出来事が突然起こって、計画とか描いていた夢が叶わないこともあります。その時にあなたを支えるものがあるかどうかを問う必要があるでしょう。あなたは何を頼りに生きているでしょうか? 家族でしょうか? 仕事でしょうか? 師や友でしょうか? 持ち物でしょうか? それらを頼りに生きることは、間違ってはいませんが、一時的なものです。裏切られることもあるし、失うこともあります。神の言葉なる聖書は、数千年の歴史の中で、どの時代の人々にも生きる指針と希望を与え、励まし、倒れている人たちを立たせてきました。最も安定した信頼のおける神の力であると確信しています。私自身も、聖書を通してどれだけ力が与えられてきたかわかりません。是非、何か一つでも良いので、握るべき神の言葉をもってこの一年も進まれることをお勧めいたします。
 関西カルバリーフェローシップの今年の年間聖句は、「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1章1節)です。すなわち私たちの人生は「神さまファースト」で機能するように設計されているということです。「アメリカ・ファースト」でも、「都民ファースト」でも、「自分ファースト」でもありません。いつも「神さまファースト」を意識して生きるならば、どんなことも必ず乗り越えることができます。
偉人たちも聖書を通して「神さまファースト」で駆け抜けました。
 「あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちた自分の生活にうみ疲れてはいませんか。また、不安や心配にあきあきしてはいませんか。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい。」トーマス・エジソン
 「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」ナポレオン・ボナパルト

心のオアシス 2020年12月27日

 毎年、年末になり振り返ってみて思うことは、色々なことがあったということです。震災、洪水、人災、疫病、テロ、戦争など、ありとあらゆる危機が私たちの周りに周期的に起こり、連日のようにして各メディアが現実を描写することによって、人々の中に恐れと不安を確実にインプットしている。勿論、危機管理はしなければならないが、毎日を恐れながら生きることに何の得になるだろうか? 偏ったマスメディアの情報しか仕入れることができない人たちの中には、不安症になったり、鬱になったりする人たちが多いという。残念で仕方がない。
 実は様々な不安は、今に始まったことではなく、どの時代も同じような危機や困難に直面している。それでも聖書は、いつも私たちに希望のニュースを伝えている。旧約と新約聖書の中に365回も「恐れるな!」という言葉が出てくる。これはただの気休めではない。天地宇宙を創造された神を信じる者に与えられる神の具体的な助けがある。私も何度、この言葉に勇気が与えられ、立ち上がることができたことだろうか。そして今もリアルな神の助けを毎日与えられていることを実感している。
 この世にある喜びや不安は一時的なものです。人は、一時的な喜びを求めて一生懸命になると同時に、一時的な挫折に一生立ち上がることができないかのようにして絶望してしまいます。しかしそれらは“やがてきたるべきものの影”にしかすぎません。私たちがキリストの前に立つとき、それは一時的なものとしてではなく、“永遠”のこととしてやってくるのです。そして神を信じる人たちには、“永遠の生命”が与えられ、そこには愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が伴います。そして信じる者はそこへ向かって進んでいるのです。
 イスラエルの民は、信仰の祖先であるアブラハムのときから今まで、神さまがどのように自分たちのことを顧みてくださったかを思い出しました。同じように、新しい年を迎えるにあたって、私たちもこの一年を振り返ってみましょう。指を折りながら、どんな小さなことでも、当たり前と思っていることでも、感謝してみましょう。困難に出会うたびに、神さまの誠実な御手があったことでしょう。それらを思い出すだけでも、すでに神から受けるべき祝福をすべて受け取っているのです。主の恵みを覚えていれば、私たちは常に前進することができます。よいお年を!

心のオアシス 2020年12月20日

 ある高校生が2019年のクリスマスのプレゼントとして現金を頼んでいました。するとクリスマスの朝、手紙を発見して爆笑することに…
この高校生の元に届いた、衝撃的な手紙の内容がこちらです。
<サンタ制度終了のお知らせ>
 2019年をもちまして、サンタ制度を廃止させていただくことを決定いたしました。2002年から開始いたしまして、17年もの間、愛され続けてきた行事でしたが、もう、夢と希望より現金を求める年齢になったと判断いたしました。品薄になるこの時期、先を見越して早々と準備したり、何軒も何軒もおもちゃ屋さんを探して手に入れたり、クローゼットに隠しておいたり、左手で英語を書いたり、あなたたちがサンタにあげたお菓子を食べたり、サンタのヒゲだといって綿を落としておいたり…。最近、一番苦労したことは、あなたたちの就寝時間が遅くなり、プレゼントをセットするために夜中に起きなくてはならないことでした。2人の子供のサンタを17回もできて、とても幸せでした。どうもありがとうございました。
 あなたたちが大人になり、子供ができた時には、ぜひ、この記録(私たち夫婦は17回)を越えてください。朝の子どもの反応、最高ですよ。
 2020年より、X’masプレゼントはパパからです。しっかりお礼を言うように。
 では、メリークリスマス。 ママより

 そこには現金1万円が添えられていたということですので、現金のプレゼントは継続しているようではありますが・・・子どもはいつしか夢よりも現実的なものを求めるようになります。それが成長の証といえばそうかもしれませんが、親にとっては少し寂しい話です。
 神さまは、緻密な計画の下、“今”という瞬間にもサプライズ届けてくださっているのに、今の環境や状況は嫌だから変えて欲しいと文句を言ってしまうことが多いように思います。今から2千年前に、神さまは私たちにビッグサプライズ・プレゼントをくださいました。それがイエス・キリストです。私たちを救い・希望・自由・安息・天国へと導くためでした。よきクリスマスをお迎えください。メリー・クリスマス☆彡

心のオアシス 2020年12月13日

 実話クリスマスに起きた奇跡「20ドルから始まった物語」の3シリーズの最終回・・・1971年のクリスマス。アメリカに住む青年ラリー・スチュワート(23歳)がレストランで無銭飲食をしたことから始まります。起業した会社の2度の倒産。その後勤めていた会社から解雇されて無職に。そんな状況の中、彼がクリスマスに20ドル札を貧しい人たちに配り始めると不思議なことが起こり始めた。翌年彼は長距離電話の会社を立ち上げ懸命に働きます。そして継続して毎年クリスマスにサンタの格好して20ドル札を困っている人たちに配りました。プレゼントすればするほど会社の業績が伸びていき、大富豪と呼ばれるまでに裕福になりました。それからも名前や身分を隠しながら毎年27年間プレゼント活動を続けたのです。サンタクロースの装いでプレゼントを配る姿から、彼はいつしか「シークレットサンタ」と呼ばれるようになりました。
 ラリーは、2006年にテレビカメラの前で突如、自分の正体を明かします。それは彼が食道ガンに侵されていて、シークレットサンタを続けていくことができないということと、思いやりの輪を広げていって欲しいというメッセージを伝えるためでした。そして2006年の活動を最後に次の年、彼は世を去りました。それからその年のクリスマス、「シークレットサンタはいなくなってしまった……」と悲しむ人々の前で奇跡は起きたのです。街に何人ものシークレットサンタが現れたのです。27年間、ラリーが行なってきた思いやりの活動に共感し、彼の遺志を継いだ人たちが新たなシークレットサンタとなり20ドル札を配ったのです。そしてシークレットサンタ活動は現在も続いています。
 47年前のクリスマスに20ドルから始まった親切が、一人の人生を救い、その親切が何十倍、何百倍にも大きくなって、今もなお広がり続けているのです。もしかしたら、あなたが何気なくしてあげた親切が、今ごろ誰かの人生を大きく変えているかもしれません。神さまの私たちに対する最大の親切は、イエス・キリストをこの地上にプレゼントするということでした。その愛の行為によって、救いが全世界に広げられたのです。

心のオアシス 2020年12月6日

 実話クリスマスに起きた奇跡「20ドルから始まった物語」の続きです。
 三度目のどん底へ・・・1971年のクリスマス。アメリカに住むある青年がレストランで無銭飲食をしたことから物語は始まります。青年の名前はラリー・スチュワート(23歳)。起業した会社が、二度も倒産。膨大な借金をかかえて2年後、ラリーにとって三度目の大きな試練が訪れました。勤めていた会社の経営が悪化して解雇されたのです。途方に暮れながら街を歩いているとポップコーンの売店が目にとまり、彼はポップコーンを注文します。しかし、手渡されたのは注文とは違うポップコーンとおつりでした。ふと店員さんを見ると、暗い表情をしていて何かに困っている様子でした。不景気で売店の売り上げが落ち込んでいたのです。そこで、ラリーは店員さんに20ドルを渡そうとしました。店員さんは受け取れないと断りますが、ラリーは「これはクリスマスプレゼントですよ。メリークリスマス!」と言い、20ドル札を手渡します。ちょうどその日はクリスマスだったのです。すると、店員さんは嬉しそうに『ありがとう!』と笑顔で20ドル札を受け取りました。そして、この店員さんの笑顔がラリーに思いもよらぬ行動を取らせます。
 その後、ラリーは銀行に行き、なけなしの預金を全額20ドル札でおろします。それから赤い服に赤い帽子、白いオーバーオールをまといサンタクロース姿になった彼は、ホームレスや貧しい人たちにおろした20ドル札を『メリークリスマス!』という言葉を添えて配って回りました。無職のラリーにとって20ドルは大金だったに違いありませんが、無銭飲食を救ってくれたのも、銀行強盗を思い止まらせたのも、困っているたくさんの人たちを笑顔にしているのも、『すべて20ドルのおかげ』と感謝を込めて配り続けました。奥さんには黙っていましたが、当然すぐに気づかれます。ラリーは怒られるものと思っていましたが、奥さんはラリーにこう言います。「あなたを誇りに思います」と。
 翌年再び会社を立ち上げ、20ドル札のプレゼントする活動も毎年続けました。すると、不思議なことが起こり始めるのです。(次週へ続く)

心のオアシス 2020年12月29日

 今日からアドベント(待降節)。それはイエス・キリストのご降誕を待つ期間であることを示しています。今回から3回に渡って、実話・クリスマスに起きた奇跡~20ドルから始まった物語~をお届けします。
 1971年のクリスマス。アメリカに住むある青年がレストランで無銭飲食をしたことから物語は始まります。青年の名前はラリー・スチュワート(23歳)。彼は若くして化粧品会社を起業したが、すぐに倒産し、路頭に迷うはめになります。8日間も食事をしていなかった彼は空腹になり、目に入ってきたレストランで食事をします。しかしホームレスだった彼に所持金はなく、19ドル(約2000円)ちょっとの飲食代でしたが支払うことはできず、警察に突き出されることを覚悟しました。その時「20ドル札、落としましたよ」と、ラリーに声をかけてきた男性がいました。それはお店の店員さんでした。ラリーは自分のお金ではないことは分かっていましたが、その20ドルを受け取り、無事に支払いを済ませて、その場のピンチを乗り切ることができました。
 その後、ラリーは再び奮起し、警備会社を立ち上げて懸命に働きます。結婚をして子供もでき、平穏な日々を送っていましたが、起業から5年後の1977年の年末に倒産し、莫大な借金をかかえました。追い詰められたラリーは銀行強盗をしようと、ピストルを懐へ隠し持ち銀行に入った瞬間、窓口にあった20ドル札が目に飛び込んできました。その時、彼は6年前のクリスマス、幸運にも20ドルを手に入れ、難を逃れたあのレストランでの出来事を思い出します。その時、「あれは本当に店員さんの勘違いだったのだろうか?」と疑問が生まれ、それを確かめるために彼はあのレストランへ行きます。そして、20ドル札を渡してくれた店員さんを見つけ尋ねると、店員さんは『クリスマスはみんなが幸せになれる日なんですよ』と笑顔で答えます。ラリーはこの時初めて、自分が店員さんから20ドルを恵んでもらっていたことを知ります。あの20ドル札は店員さんのポケットマネーでした。ラリーは店員さんに感謝を告げると、改心をして再び一生懸命に働きはじめました。(次週へ続く)