礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年8月29日

 人は幸せを求めながら毎日を生きています。しかし私はかなり前からこの「幸せ」という言葉に違和感を覚えるようになっていた。なぜならこの世が言っている「幸せ」と、聖書が教える「幸せ」には、大きなギャップがあるからです。例えば、「幸せになってください!」とか、「あなたたちの幸せを願っています」と語ったりすることがあるが、恐らくそこでの「幸せ」の意味は、良い学校、良い就職先、良い収入、良い結婚が与えられ、子宝に恵まれ、病気せず、悩み事なく、良い老後を迎えることだと考えられる。そして、それらのものが無ければある意味「不幸な人」として思われるのです。しかし、それらのものが無くても、幸せ感に溢れている人たちに、私は今まで沢山出会ってきた。以下はリビングライフの黙想エッセイに書かれていた内容です。
 最近「幸せになりたい。もう不幸な人生は嫌だ。私には幸せになる権利がある」という言葉を、よく聞きます。ところが、自分の幸せだけを考えていると、誰かのために自分が不幸になったとき、その人を避けるようになります。そして、自分が幸せになることが一番と考え、自分のやりたいように行動します。そうすると、ある時から主に従うのが難しくなります。神さまの言葉に従うことは、時には苦痛に感じ、また困難を伴うからです。自分の幸せが人生の基準になると、神さまの言葉は力を失い、人生の基準ではなくなります。時間が経つにつれて、よく分かってくることは、幸せは必ずしも自分を前に進ませるわけではないということです。幸せは、主に対する私たちの聖なる情熱をむしばんでしまうこともあります。幸せになる権利は、神さまの祝福の中に含まれていますが、自分の手で掴むものではありません。神さまは「心を決めなさい。本当に何が重要なのかを考えなさい。あなたの人生の最期に何を残したいと思うか。人生を何によって締めくくりたいのか?」と言われます。つかの間の幸せが重要なのではありません。聖なる人生を追い求めなさいという神さまの召しに従うことを選び、その道を歩み続けることが、人生において最も重要なことなのです。(ダニエル・キム師)

心のオアシス 2021年8月22日

 誰でも平穏無事に過ごしたいと願っています。しかしながら、環境や状況、人間関係が、なかなかそうはさせてはくれません。変化が起こると、人はそれに対応できなくなることがあります。先週の礼拝メッセージは、“ヨセフ”の人生から学んだ。彼は異母兄弟たちから妬まれ、エジプトへ奴隷として売り飛ばされ、身に覚えのない罪に問われ監獄へ入れられ、忘れ去られる日々が続きました。しかしそこには、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、...主が彼のすることをすべて栄えさせられた」と記されています。この祝福の秘訣とは一体何でしょうか? それは神さまの言葉にしがみつき、絶対的な信頼を主に置く、というです。“仕方なく”ではなく、“コンスタントに変わりなく”神さまが与えられた環境や状況を受け留め、それぞれの場所での自分の使命を忠実に果たしていったところに、思わぬ副産物が与えられたのです。
 人は不条理 非論理 利己的です 気にすることなく人を愛しなさい
 あなたが善を行なうと利己的な目的でそれをしたと人は言うでしょう 気にすることなく善を行ないなさい
 目的を達成しようとすると じゃま立てする人に出会うでしょう 気にすることなくやり遂げなさい
 善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう 気にすることなくしつづけなさい
 あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう 気にすることなく正直で誠実でありつづけなさい
 あなたの作りあげたものが壊されるでしょう 気にすることなく作りつづけなさい
 助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう 気にすることなく助けつづけなさい
 あなたの最善のものを世に与えなさい けり返されるかもしれません でも気にすることなく最善のものを与えつづけなさい
 (マザー・テレサ「あなたの中の最善なものを」)

心のオアシス 2021年8月15日

 聖書の中に「神の武具を身につけなさい」という箇所がある。それはこの世の中が戦場であることを示しています。戦場とは、辛いこと、悲しいこと、ストレスになることなど起こる場所です。その原因のほとんどは人間関係からくるトラブルです。また環境とか状況や様々な誘惑もあるでしょう。そのような戦いをどのように切り抜けていくことがベストなのかを聖書は教えています。
 創世記に出てくるヤコブは、兄のエサウから恨まれ、命の危険を回避するために一人旅をしました。持てるものは何もなく、独りぼっちの寂しさと恐怖と不安の旅でした。砂漠のど真ん中で石を枕にして寝ているときに夢を見ました。それは天と地を天使が上り下りしている姿と「わたしはあなたと共にいる!」という主の御声でした。彼はその言葉を握った時に、「この孤独と危機の最中に、主が共におられるなんて知らなかった!」と悟り元気が与えられました。それがベテルでの経験でした。それから20年経過して、叔父の元で働いていたヤコブは居づらくなり故郷へ帰るのですが、兄エサウからの復讐の恐怖がふつふつと沸き起こった時に、与えられていたベテルでの神の言葉を土台にして格闘の祈りをしました。そして彼は恐れに勝利して進むことができたのです。
 私たちは行き詰ったときに、何を頼りにして、何にしがみつきながら生きるでしょうか? 頼れる人がいれば安心かもしれませんが、なかなか上手くはいかないことが多いでしょう。その時にこそ、ヤコブが握り続けた“神の言葉”と“祈り”が最大の武器になるのです。私の経験上、ここに全幅の信頼を置くことができたら、不思議に上手くいくのです。
 「その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:16~18)
 一度お試しになってみてはいかがでしょうか?

心のオアシス 2021年8月8日

 私たちの教会メンバーの中に週1で友人たちに御言葉を送っておられる方がいて、以下は実体験の証しの恵まれた内容の抜粋です。
 豊かな実って色々ありますが、「赦し」「愛」「平安」...どれも自分の努力では無理なんです。ただ、イエス様に繋がっていれば出来るように神様がしてくださいます。これは、クリスチャンの特権です。内側の自分を整えることは、「キリストに留まることを選ぶ」ことなんです。神様に選ばれた聖書の人たちは、初めは今でいう「負け犬」の人が多いです。でも、神様の愛を信じて従うことによって波乱万丈ながら敗者復活の人生を送っています。アブラハムも、ヨセフも、モーセも。そして、神は私の人生でも「こんな奴は赦せない!」と思っていた人を用いて私がキリストに頼るしかなくなり、その結果「ああ、私が今の祝福を得るためには、この人が必要だったのだな」と思えるようになりました。私はその時点で、感情的に赦していることに気が付くのです。
 生きていれば、ほとんどの人が自分にとって「良い人」ですが、稀に「とんでもない人」が現れます。自分の敵であったり、悪意のある人です。でも、聖書は「感謝しなさい」「祈りなさい」と言います。やってみました! 声に出して毎日、「この人を感謝します、感謝します、感謝します、主は最善以外を与えられませんから」と数か月祈っていると、不思議ですね~ この人が変わっていきます。悪意が善意に変わっていきます。敵が強い味方に変わっていきます。私はこの経験を幾度もしています。これからも同じ祈りをしていきますよ! なぜなら、キリストに留まる=従う=良く分からんが、み言葉を実践してみる⇒最善の結果を与えられる。私は経験によって今後を予測できるようになりましたので、転勤で人間関係の悪い職場に投げ込まれても、毎日その人たちのために祈ることによって、人間関係は良くなります。本当です。それは感謝と祈りによって神が最善にしてくださる希望と確信が与えられたからです。
 キリストに繋がってまいりましょう! 絶対にあなたの人生は成功しますから。非常にお得な情報(福音)ですよ。(T.F) 
 栄光在主。

心のオアシス 2021年8月1日

 オリンピックの開会式をテレビで観ていたら、リアルタイムで小学生時代からの同級生から会場の華やかな写真と共にメッセージが届き感動した。彼はオリンピックの照明の責任を負っている。一年も延期になりながら戦っている親友のために祈ってきたが、心遣いが嬉しかった。
テレビで観ていると会場のイスの色が不規則に何色もバラバラに散りばめられている。それは無観客と思わせないような視覚的工夫だそうだ。確かに映像で見ると照明の色によっては、満席の観客が応援しているようにも見える。そして富士山をモチーフにした聖火台が開いて階段が出現するのだが、実は中で16名のスタッフが人力で押して開いているそうだ。コスト削減のためか、突然の故障などを回避するためなのか理由はわからないが、様々なところに工夫が施されている。私たちは当たり前のようにして見ていると何も気付かないまま過ごしてしまうが、様々な感動や便利の背後には、悩み苦しみながらそれを担っている人たちがいるからこそのものであることを忘れてはならないと思わされた。まさに“世界は誰かの仕事でできている”ことを感じながらの開会式だった。
 先日、ある方からのラインに「私は日々の日常にいつも神さま探しをして、ここにもここにも!働きがあった。導きがあった!と感謝しています。」と書かれていた。このような生き方をしている人は、毎日が恵みの連続であると思う。先ほど書いた「世界は誰かの仕事でできている」ということを意識すると視野が広げられていくが、アドバンスコースは、「世界は神の支えで成り立っている」ということを意識することです。
 「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(使徒行伝17章25~28節) 今週も“神さま探し”をして楽しみましょう!

心のオアシス 2021年7月25日

 私は牧師としてメッセージをしている最中に、自分自身が料理されることがある。「自分自身が料理される」とはどういう意味なのか? それは自分が語っている言葉によって自分自身に気付きが与えられたり、学ばせられたり、今の在り方を変えなければと悟らされるということです。これは明らかに聖霊さまの促しであると確信しているが、先週もそれが起こった。「アブラハムは、神の声に従って、まだ見ぬ土地へ、どこへ行くのか知らないで故郷を出ていきました。そして神さまが与えると言われたカナンの土地に入りましたが、そこは先住民が住んでいる土地で、一歩の幅すらの土地さえ与えられませんでした。当然アブラハムは家を建てることもできず、その約束の土地を東西南北移動しながら、テント生活を余儀なくされました。しかし彼から一切不平不満の言葉は出てきません。なぜならこの地上で自分が満足できる場所ではなく、神が用意してくださっている永遠の都を待ち望んでいたからです。主は良いお方であることを、信じていたから、今の現実は主が与えてくださっているものとして受け止めることができたからです。信仰とは、“自分”ではなく、いつも“神”が中心となることです・・・」と語りながら、「そう語るあなたはどうなのか?」という問いかけが心の中にありました。
 このところ教会移転のための土地探しで奔走している。駅前徒歩2分でロケーション良し、価格良し、ここが“神の御心”としか思えないような場所が出てきた時には舞い上がっていたが、そこが相手側の都合で買えなくなって、次の候補地は駅徒歩4分。悪くはないのですが、それより好条件の場所を見てしまっていた私には見劣りしてしまう。ある政治家が、「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言った言葉を思い浮かべた。私たちの願いや好条件は、神さまにとっての願いや好条件ではない。2位でも3位でも、神さまが植えられた場所で輝かなければならない。アブラハムは、何も目を見張るようなことが起こらなくても、置かれた場所で、神さまの計画と願いを見上げながら喜んでいた。私も見習わなければと思わされた。

心のオアシス 2021年7月18日

 私の友人クリスチャンが、先日の“心のオアシス”を読んで、Facebookでシェアしてくださった。そしてこのようなコメントを書いておられた。「人の相談を聞くと、『上手くいっていない』の意味を、自分の思い通りにいっていないという意味で使われていることが多い。神の計画は、寸分の狂いもなく、進んでいることが忘れられているのが、もどかしい。」
 私自身も含めて神を信じる者であっても、「上手くいっていない」と思うことがある。“自分”が中心になっていたなら悔い改め、方向転換する必要があるが、もし神さまのためにベストを尽くしているならば、“上手くいっていない”ことは、一つもないことを心に留める必要がある。神さまの前には“失敗”とか“手遅れ”はないからである。たとえ神さまが近くにいることを感じなくても、導かれている感覚がなくても、ただ「主は良いお方!」であると信じ通すことが大切だと思わされる。
 旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」で有名なノアは、100年かけて舟を建造したが、その期間、神さまは無言であった。40日40夜雨が降り、方舟の中で不安な日々を過ごしましたが、やはり無言であった。節目節目で神さまは声をかけられただけであった。しかし神の沈黙の中でも、聖書には「神は、ノアと箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられていた」と記されています。私たちにとって、神が沈黙されておられるような時も、決して忘れておられるのではないというのは大変励まされるメッセージです。
 私たちが「欲しい!」と思っていた土地が、土壇場で買えなくなり残念ではあったが、落ち込む必要はない。私たちの考える“最善”と神さまの“最善”は違うからです。次なる候補地のためにお祈りください!
 最近、支教会の方が、ガンの診断を受けて、今手術する段取りをしておられる。メールの中に「ガンになったことを主にあって感謝します!」と書いて、たくさんの会堂献金をしてこられた。私は彼女の信仰に大変励まされ、祈らされた。私たちも“主は良いお方!”と、いつもここに立てたらと願います。「私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49章)

心のオアシス 2021年7月11日 

 『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。』
 これは私の祈りの中に取り入れている箴言19章21節の言葉である。
 私は先週、この御言葉を知らしめられた。今、私たちの教会は、新しい場所への移転が求められている。数ヶ月かけて好条件の土地を見つけ、日曜日には、教会の皆さまにはハウスメーカーからの仮の計画書をお見せし、「計画はこのように進んでいます。明日には仮契約します!」と宣言していた。役員会でも全員一致で不動産会社に買い付けを申し入れて、いよいよ月曜日に仮契約をする予定であったが、その日の朝に不動産会社から電話があった。「マンションを建てることになったので、あの土地は売れなくなりました。」こんなことがあるのだろうか?! 不動産会社からの電話に、私はショックで寝込みそうになった。しかしながらすぐに神さまは、「あなたはいつも何と祈っているか?」と問われ、「そうです。あなたの計画のみが私に、そして教会に成されていきますようにと祈っていました。承知しました!」とすぐに立ち直ることができた。私たちは感情移入していると、やはり“自分の計画”と“自分の時”を求めたくなってしまう。そしてその通りに物事が進まなければ、ガッカリして落ち込んでしまいます。しかし幸いなるかな。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11) この地上だけのことを考えるとソロモンが言うように、「運が悪かった」で流されてしまうが、天を見上げると、違う“時”を見ることができる。それは“私”ではなく、“神がなさる時”である。
 様々な問題の解決が遅れていても、子どもが思うように育たなくても、自分の願いがなかなか実現しなくても、“神の時”を待てる人は幸いだと思う。そこには諦めではなく、投げやりにでもなく、すべての出来事を丁寧に大切に取り扱うことができる余裕が与えられる。なぜなら神が動いてくださっていることに委ねることができるからです。
 神さまは、私たちの教会に必要な土地をすでに用意してくださっています。そこに行きつくまでに、ベストを尽くしつつ祈りと忍耐が求められ、そうやって信仰の訓練をされておられるのだと確信しています。そして神が「良し」とされる場所へ進んで行けることを感謝します。
 「私には神さまがついている!」今週もここに立って歩みましょう。 

心のオアシス 2021年7月4日

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
 私たちの教会は、開拓をスタートしてから11年目を迎えたが、大きな変化が求められている。私は慎重派で、大きな変化を好まない性格ですが、人生を振り返ってみると、なかなか動かない私を神さまが、押し出すように次のステージへと導いてくださった。大学を卒業後、大阪で就職し、東京の会社に転職し、大和カルバリーチャペルへ導かれ、大川従道牧師と出会い、仕事を辞めて献身し、石焼き芋屋さんや網戸の貼り替えなど、自分でも想像もしなかった行商の仕事をしながら神学校で学び、卒業してからすぐアメリカはロスアンゼルス郊外のラグナヒルズという場所で日系人伝道のため、教会開拓するために家族で派遣された。それから日本に戻り大和カルバリーで副牧師として約20年間仕えさせていただいた。そして2010年から関西に戻ってきての教会開拓・・・
 振り返ってみると、私の心とは裏腹に、堺チャペルを入れると3回もゼロ開拓をしている。“開拓をしている”というのではなく“させていただいている”という表現の方が正しいでしょう。なぜなら私の願い通りではなく、神さまのご意志と計画通りに全てが進んでいるからです。
 そしてよそ様の教会堂を9年間も借りながら開拓し、いずれ出なければならないことを覚悟しながらも、なかなか動き出せなかった。しかし、今年になって状況は変化した。神さまの手が動き始めたのです。東大阪福音教会が現在使用している布市チャペルを売却して私たちが借りている会堂に戻ってこられることになったのです。慌てて祈り、場所を探し始めたところ、今の会堂から線路を挟んで反対側の石切駅から徒歩2分の場所に手ごろな広さの土地が見つかった。土地の値段は、開拓11年の間に聖霊さまの促しに従ってコツコツと捧げてくださった方々の土地指定献金に近い金額でもあった。神さまの動かれる“時(タイミング)”は完璧である。完璧すぎて鳥肌が立つほどである。これから造成と会堂を建てるための費用約8千万円の蓄えはゼロであるが、これは私たちが信仰に立って祈るように神さまが残してくださった課題であると確信しています。神さまの働きですから、次も神さまは何かをしてくださるに違いないと、楽天的に生きることができるのは、神を信じる者の特権です。神さまからの促しがある人は、是非お捧げください!

心のオアシス 2021年6月27日

 無神論者は、「人生に意味を見出したければ、神の存在を受け入れなければ不可能である。」と言っている。確かに、人間は偶然の所存であるとするならば、たまたま私たちはここに存在していて、意味なく生まれ、死んでいき、この地上で過ごした時間は、たまたま偶然であるから、何も意味も目的もなさない、と考えることができるでしょう。先週から日曜礼拝で学び始めた「伝道の書」は、この世の知恵と知識、誉れ、栄誉、財産、人材、仕事のすべてを得たソロモン王が晩年に書いたものです。  
 彼は創造主なる神さまを愛していた人ではありますが、周辺諸国との平和を保つために、周りの国の王の娘たちと政略結婚することによって、その国の持つ様々な異教の神々を取り込んでいきました。それによって、せっかく創造主なる神さまから知恵をいただいたにも関わらず、それを天の上を見上げるために用いるのではなく、地上のことだけを見つめ、そこに耳を傾けるようになり、いっさいは空(虚無)だという結論に達するようになりました。「伝道の書」の中でソロモンはこう告白しています。あらゆる知恵を用いて生きようと努力したが、結局、雨が降って、それが小川となり川となって海に達しても、蒸発して雲になり、また雨となって地に降るという、何も変わらない自然の循環のように、人間の営みも同じことの繰り返しで虚しいと悟り、それを打破するために、自分の好きなように生きるのが良いと考えました。そしてあらゆる快楽に身を任せたが、何も満たされるものはないことに気づくのです。彼は、広大な土地に大豪邸を建て、庭には小川や池を作り、沢山の妻やそばめたちと過ごし、何でも希望通りに動いてくれる大勢の召使いを雇い、仕事も順調、人間関係も恵まれ、王である故に、何の制約もなく、金を石ころのように扱うことができるほどの経済力を手にしておきながら、一切は“空”であると告白したのです。
 それは、この地上のものを見続け、この地上の発するメッセージに、耳を傾け続けたことが大きな原因でした。大切なことは、私たちに生を与え、私たちを用い、ご自身の歴史を進めておられる“主”に目を留め、そこから発信される言葉に耳を傾けることです。あなたにはその存在そのものに意味があり目的があります。創造主と共に歩む道には、満足と安心があります。
 「わたしの目には,あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)