心のオアシス
心のオアシス 2022年3月27日
前回に引き続き“終末”における聖書預言の成就について何回かに分けて書かせていただきます。まず起こっている出来事を順番に書きます。。
マタイ福音書24章にはイエスさまと弟子たちとの「終末」に関する問答が展開されていきます。「世の終わりはいつ?」という質問に対してイエスさまは「にせキリストが現れたり、戦争のうわさを聞くが、それは終わりではない」と答えながらその後「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、飢饉と地震が起こることが前兆だ」と語られました。前者の「戦争」とは、紀元1世紀のユダヤ的解釈は、地域戦争のことですが、後者は全面的な世界戦争を指しています。当時は想像もつかない世界大戦が終末時代の“しるし”だと示唆されたのです。第一次世界大戦(1914~1918)以降、終末時代に入ったことがわかります。この戦争がイスラエルの歴史に決定的な影響をもたらしました。第一次大戦ではシオニズム(ユダヤ人国家を建設しようという運動)に大きな影響を与えました。そして第二次大戦では、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の悲劇がイスラエル国家の設立へと導かれていきました。そして世界大戦と並行して、中国では1920年、1921年にはロシアの大飢饉がありました。そして第一次世界大戦の前後から地震は急激に増えています。
終末の“しるし”の第二番目はイスラエル建国です。ユダヤ人の回復は2段階で成就することがエゼキエル書20・22章からわかります。今日、離散したユダヤ人が不信仰なままイスラエルに帰還しているのは、神の裁きを受ける準備段階で、そこを通過して信仰による帰還(神に立ち返る)を果たして千年王国での祝福へと繋がっていくということです。
終末の第三番目の前兆は、エルサレムがユダヤの支配下に置かれたということです。建国した後もエルサレムはヨルダンの支配下にありましたが、1967年の六日戦争の時にイスラエルはエルサレムを所有し、現状は大変困難ですが、いつ神殿が建ってもおかしくない状況が出来上がりました。患難期には神殿が建ち機能していることが黙示録からも読み取れます。
次回は、これから起こる“しるし”についてです。
心のオアシス 2022年3月20日
「聖書は生ける神の言葉」と言われるが、まさに今の時代に証明されつつある。聖書によると人類の歴史が永久に続くのではなく、今“終末”と呼ばれる時代に向かっていると言うのです。それは何もかもが消滅してゼロになるというわけではなく、人間が人間を支配する時代が終わり、キリストが王として人を支配する時代が始まることを示しています。キリストがこの世界を支配する時、神を信じる人たちには素晴らしい王国が千年続きます。しかしその前に苦しみの時代がきます。それは赤ちゃんが誕生する前に、陣痛という苦しい期間を経なければならないように、千年王国という素晴らしいものを生み出す前に、時代は産みの苦しみを経験するというのです。この産みの苦しみの期間が7年間続き、それを患難時代といいます。患難時代は本当に大変な時代で、人類人口が4分の1以下になると言います。この患難時代には、少なくとも二つの大きなしるしがあります。順番は明確には書かれていないのでわかりませんが、その一つは「携挙」。イエス・キリストを信じているクリスチャンが一挙に天に引き上げられるということです。それとエゼキエル戦争が起こるということ。これは旧約聖書のエゼキエル書38章に、ゴク(英語読みではロシ)とは聖書学者によるとロシアであると言われますが、それがいくつかの国を連合国として同盟関係を結び再建されたイスラエルに攻めこんでくるというシナリオが預言されています。理由は、その時イスラエルは富み栄えている国になっているので、その財産を奪いとるために侵入するというのです。しかしその日のうちに、超自然的に同仕打ちが始まり災害が加わって彼らは全滅し、その様子は世界中の人達がリアルタイムで見るとのこと。テレビさえない紀元前5百年に2千5百年後、ネットを通してリアルタイムに世界の情報が流される時代になることをあたかも知っているかのように書いています。そしててエゼキエル書に書かれている預言を知っていた人たちはその様子を見て「本当に聖書のことばは真実だった」と神を知るようになるというのです。
今、着実に聖書預言の舞台設定が整えられていることは確かです。(次回へ続く)
心のオアシス 2022年3月13日
最近、教会建築をしたことのある教会の牧師先生方とお話しをする機会が多くなった。そこでわかったことは、教会はキリストの体だと言われますが、確かにそれぞれの教会には、神さまが成しておられる様々なドラマがあるということです。自分たちの教会だけが祝福されるように願うことは、大きな間違いである。神さまはそのお体となる教会を愛しておられ、どんな教会であっても祝福しようと願っておられる。一つの教会が痛めば、他の教会は悲しみ祈るべきであるし、一つの教会が喜べば、他の教会も共に喜び感謝すべきです。教会の中においても、“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く”ことが本来あるべき姿だと思う。
先日、友人牧師が新会堂建築のための打ち合わせに参加してくださり、PAや照明、舞台のことなどアドバイスくださった。素人とはいえ、プロ並みの知識がありメーカーさんも驚いておられた。自営業をしておられるが、「今の時期は丁度閑散期なので、いつでもお手伝いできますよ」と申し出てくださり、様々なことを計算しながら機材選びをしてくださっている。大変心強い。自分の教会でなくても、我が事のように喜んでお手伝いくださっている姿に、私も牧師としての在り方を教えられた。
資本主義社会は、人と比べながら切磋琢磨しながら生きるという社会構造になっているが、そこには嫉妬や妬みなどの醜い面が必ず出てくる。では共産主義が良いのか? 上層部だけが私腹を肥やしている現実があれば、それも良いとは言えない。結局、この地上においては「私」という問題ゆえに、どんな主義も上手くはいかない。「私」問題とは、「私は」「私が」「私も」「私の」「私に」と、“自分”を主張し始めることです。“自分”が中心になり始めると、どんな主義や主張も人を苦しめるものになってしまいます。
天国とは、人間にとって最高に居心地の良い理想の空間です。なぜなら“自分”を主張しないし、主張しなくても良い、他者と比べる必要もない場所だからです。ただ主なる神さまとの関係の中で、他者も自分の事のように思うことができる最高の場所。主よ、御国を来たらせたまえ!
心のオアシス 2022年3月6日
日本語の中には、外国語にそのまま訳すことができない言葉がいくつもある。例えば「お裾分け」「こだわり」「わび・さび」「おかげさま」「もどかしい」「ボーっとする」「風物詩」などである。これらに相当する言葉がなく、近い言葉に説明を加えなければ、本当の言葉の意味はなかなか伝わらない。また「いただきます」「ごちそうさま」「おかえり」「お疲れさま」という挨拶の言葉でさえ、海外には似ている言葉はありますが、直訳できる表現はないようです。日本語の背後には、深い意味合いを持つものが多いからです。同じように聖書が書かれた言語(ヘブル語・ギリシャ語)にも、他国の言語に直訳できない言葉がいくつもある。その中の一つに「愛」という言葉がある。古代ギリシアにおける四つの愛の概念は、エロス(eros)=恋愛、フィリア(philia)=友愛、ストルゲー(storge)=家族愛、アガペー(agape)=神の無限なる無償の愛で、それぞれは日本語の中では全て「愛」と訳される。何の愛なのかは説明を加えるか、文脈から読み取らなければ理解することは難しい。
ヨハネによる福音書21章に、イエスさまがペテロに対して「あなたはわたしを愛するか?」と質問され、ペテロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」という問答が3回なされたことが書かれているが、この箇所を原文で読んでみると多少意味合いにズレが生じる。最初の2回、イエスさまのペテロに対する質問は「あなたはわたしをアガペー(無条件で愛する)するか?」でした。それに対するペテロの応答は「フィリア(条件付き友愛)していることは、あなたがご存知です」と答えた。そして3度目のイエスさまの質問の時に「わたしをフィリアするか?」と、最初の2回とは違う性質の「愛」という言葉を使われたので、ペテロは心を痛めたと書かれている。彼はイエスさまが捕らえられた時には一目散に逃げ、「イエスなど知らない」と3度も裏切り、もう「無条件で愛する」なんて大言壮語できなかったのです。しかし彼が罪深い者であることを悟った時に神さまに用いられる器になりました。
聖書はその文化的背景や言語を理解して読むと一層深みが増します。
心のオアシス 2022年2月27日
カトリックの神父さんに、「どうしてSt.(聖)フランシスコなど、カトリックでは名前の前に“聖”とつけて聖人とするのですか?」と質問したことがあった。それに対して「勿論、イエスさまを手本として生きていかなければならないのですが、昔の偉人というよりも、その時代その時代に見習うべき人物を立てると、もっと身近に感じ目標にもしやすいでしょう? 聖人というのは、我々が、『この人のようになりたい』という思いを与えるための存在なのです。」との説明を受けた。
確かに私たちの身近に模範となるべき人がいると、その人を目標に生きることができる。私も年齢的に、これからどのような生き方をするべきか?と自問自答することがあるが、いつも結論は、「若い世代の人たちに希望を与えることができるよう年を重ねていく」ということ。勿論老いる弱さを思いやる必要はあるが、そこばかり焦点がいくと一種の諦めのようなものが心を覆ってしまう。もし私の周りに日曜日に一回しか礼拝をしない教会ばかりであったら、「一回のメッセージは8時間労働に匹敵するのだから」と言って、午後礼拝も堺チャペルの夕礼拝もしなかったでしょう。しかし母教会の大川先生は私の年齢の時には、日曜日三回の礼拝をしてから、飛行機でカナダやアメリカに飛んで時差を利用して四回目の礼拝を現地でしておられた。私はそれを身近に見ていたので、自分にもできると思えた。数日前にその大川先生ご夫妻と大阪でお会いしたが、ある聖会でのご用をされ一日中お疲れのはずだが、私たちの会堂建設予定地にわざわざ出向いて来られお祈りくださった。奥様先生は、「色々と思うように体が動かなくなってきたけど、そんなこと言ってられないわよー」と80歳代になっても全力で主の業に励んでおられる姿に、私は大きな力をいただいた。数年前に私の体力が落ちてきたことを実感した時に、加齢だからと諦めずにスイミングに通う気持ちになれたのは、99歳の方が目の前で100回腕立て伏せをされた姿を思い出したから。年配の方々が長く早く泳いでおられる姿を見ると、自分はまだまだだと思えるようになった。若者に夢を与えるものになりたいと思う。
心のオアシス 2022年2月20日
ハ・ヨンジョ先生が生前にこのようなメッセージをされていたことを思い出します。「犠牲が伴わなければ、本当の平和はありえません。神と私たちの間に和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら神と人とには大きな隔たりがあるからです。その為には執り成し手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもありません。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えることはできません。それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、双方の正当な言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです! バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
この何千年もの歴史を見ても、人々の間に、国と国との間に、さまざまな平和論やイデオロギーや哲学が示されてきました。しかし現状は、どの時代も地球上のどこかで争いや戦いが繰り広げられています。人間の知恵によっては何の解決にもなっていない現実を見る時に、私たちに必要なことは、まず神と人との和解であるということに気づかされます。
イエスさまは、十字架につけられる前に弁論の余地はあったにも関わらずご自分を主張されなかったのは、神の側の正論を述べて和解をしようとは考えなかったからです。神の正しさを主張することが、人間との平和には繋がらないことをよくご存知であられたのです。そこでイエスさまは犠牲と死が伴う永遠の和解を選ばれました。日本には「負けるが勝ち」という言葉がありますが、神の側が犠牲を払うことによって人間との平和を勝ち取ってくださいました。人間側が自己主張しても、神さまが私たちの罪の代価を十字架で支払ってくださったことによって、今の平和があるのです。「神の和解を受けなさい。」(Ⅱコリント5:20)
心のオアシス 2022年2月13日
アルバート・アインシュタインはかつて黒板の計算式を解いた。
9×1=9
9×2=18
9×3=27
9×4=36
9×5=45
9×6=54
9×7=63
9×8=72
9×9=81
9×10=91
アインシュタインが間違った答えを書いたため、教室は混沌とした。 明らかに、9×10の正解は91ではない。そしてクラスの生徒たちはみんな彼を馬鹿にした。アインシュタインはみんなが沈黙するのを待って言った。「9つの問題を正しく解答したにも関わらず、誰も祝福してくれなかった。でも1つ間違えた時、みんな笑い始めた。これはたとえ人が成功しても、社会はあなたの僅かな過ちに気づくということだ。そして彼らはあなたの失敗を気に入るだろう。だから、批判に夢を破壊させないように。 決して間違いを犯さない唯一の人は、何もしない人です。」
確かに人は指摘されることは多くあっても、褒められることは少ないのではないかと思う。私がかつて学生会の担当牧師だった時代に、各月に誕生会をしていた。全員にプレゼントをすることができなかったので、代わりに“言葉のプレゼント”の時間をもった。お祝いする学生に対して一人一つだけその人の良い点を言葉にして贈るというものです。ある時に言葉のプレゼントを受けていた一人の女子学生が急に号泣してこう言いました。「こんなに良いと思われている部分が私にあったことを知りませんでした!」誰が何と言おうと“あなたは高価で尊い”のです。
心のオアシス 2022年2月6日
「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)
人生にはどうにもならないことがたくさんあります。時代も性別も国籍も体形も髪の色も、すべては定められたことであって人の選択の余地を越えたどうにもならないことばかりです。それ以外にも、生まれながらの身体や精神の障がいがあり、個人の選択を越えた戦禍や天災などの悲劇があります。人はどんなに恵まれた人であっても、そのうちの一つや二つ、必ずこうした宿命的とも言える弱さととげを背負わされてあえいでいます。
しかしまた、多くの人生の勝利者たちの証言を聞くと、何と多くの人々が、その宿命的なとげや弱さを転機として、その人独自の新境地を展開させてきたことでしょう。ヘレンケラーしかり、家庭的不遇に育ったチャップリンしかり、身近なところでは、水野源三さんや星野富弘さんしかりです。使徒パウロは、自分の身体的なとげのために、それを取り除いてくださいと、神に三度も祈りましたが、三回ともつき返されます。 神からの答えは、それを取り除くことではなくて、その痛みを活用せよということでした。主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。ですから、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。それは、未解決だからこそ見出すことができた解決であり、失ったからこそ、つかみ取ることのできた大発見でした。あなたの弱さとあなたのとげ、それは未知なる恵みの宝庫への入り口です。(「日々の宝」吉持章著書より)
ある方が五行歌の中に「子供を幸せにするのではなくどんな状況でも幸せになれる子どもを育てよ」と書かれていたが、聖書もそのようなメッセージが多い。それは現実を諦めよというのではなく、解決や癒しを求め祈りながらも“今”を受けとめながら神に委ねるということです。
心のオアシス 2022年1月30日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書16章33節)
これは多くの人たちに励ましを与えてきた言葉である。先日もこの箇所を瞑想しているうちに大きな恵みを受けた。ここの「勇気を出しなさい」と言われる背後に、「イエスさまはすでに世に勝っているから」という理由が述べられている。ではイエスさまは、どうやって“世に勝った”のか? 前の32節にそれが語られている。「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」 簡単に説明すると、ローマの軍隊がイエスさまを捕らえにやってきた時、3年半共に過ごし「私だけはつまずきません!」と豪語していた弟子たちは、恩師を見捨てて皆逃げ出します。一人残され、孤独と悲しみに陥ったイエスさまの励ましは、「天の父なる神さま」だけは、その苦悩の中でもご一緒くださっていることを知ることだったのです。家族がいても、友人がいても、本当の自分のことを理解してくれる人はいないという孤独が人にはあります。でもそんなこの世の悩みに対して創造主なる神が、いつもご一緒してくださり、理解し励ましてくださっていることを知ることが勝利の秘訣なのです。
一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。亡くなる時期も近い、ある夜に、消灯時間が過ぎても寝つかれないでいる、その子のために、若い看護師が本を読んであげたそうです。やがて静かな寝息をたて始めましたが、その看護師は、なおも30分近くベッドサイドにいました。その子供の死後、その子の母親はこう語りました。「あの子がその夜、ふと、うす目を開けてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためにだけ本を読んでくれる人が多いのに、本当にうれしかった』と言っておりました」
イエスさまは、寝てから30分どころではなく、いつもいつまでも、「大丈夫、安心せよ」と、傍らで私たちを励ましてくださっているのです。
心のオアシス 2022年1月23日
実業家で作家の本田晃一氏が「半径3メートル以内を幸せにする」という著書の中でこんなことを書いている。
人は、自分を喜ばせること以上に、大切な人を喜ばせることに、より深い幸せを感じるようになっているのではないかな、と思います。1万円で、自分の欲しかったものを買う。これも幸せです。だけど、同じ1万円で、大切な人を喜ばせることができたときは、もっと幸せではないでしょうか。人それぞれかもしれないけれど、僕にはどうも、人間はそんなふうに設計されているように感じられるのです。だったら、その本来の設計どおりに生きたほうが、より幸せになれるでしょう。とはいえ、自分が満たされているという前提がなければ、人を喜ばせるということに疲れてしまいます。さっきの例だって、明日のご飯にも困る状態では、いくら大切な人のためでも、1万円も使うことはできません。
(中略)
与えたら見返りがほしい。与えたら認められたい。これは、自分が満たされていないから、思うことです。満ちていない状態で、人を幸せにしようとすると、いまだ満ちていない自分の欲求不満を、相手に思いっきりぶつけることになってしまうのです。一番の理想は、「相手を幸せにすることそのものが自分にとっての幸せであり、そのあとは、ぶっちゃけどうでもいい。見返りや承認なんて求めるまでもなく、幸せにするだけで幸せなんだよ~!」という状態です。つまり、まわりの人を幸せにすることで、何より自分が幸せになるということ。もっといえば、自分が幸せでいたいから、まわりの人を笑顔にするということです。そのためには、まず自分を満たすことが大事だし、自分が喜んでできる範囲を見極めることも欠かせないでしょう。
著者が聖書を読んでおられるかどうかはわからないが、神の“法則”を直感的に発見されたのではないかと思わされる。私も若き時代は受けることが多かったが、年を重ねるごとに与える恵みを学ばされている。