心のオアシス
心のオアシス 2022年6月5日
先日、ある方(愛称:おっちゃん)の直葬の司式をさせていただいた。クリスチャンではあったのですが、どこの教会にも属していない人でした。いくつかの教会を渡り歩いている人で、病床で「関西カルバリーに行きたい・・・」と言っておられたことがキッカケとなり、ご遺族の要請があったことから私が司式をする運びとなった。未信者の妹さんによると昔はかなり荒くれ者だったようでヤクザまがいの仕事もしていたようです。しかしイエスさまを信じてからガラリと生き方が変わったとのこと。人からむしり取る生き方から、与える人になったそうです。火葬前式には何人か“おっちゃん”が関わっていたご友人が参列されていてお話しをお伺いすると、“おっちゃん”の悪い話題は一切出てこない。生前に「おっちゃんには、こんな助けをいただいた。」「こんな親切をしてもらった。」という話題ばかり。確かに私たちの教会にも何年も前に来られていた時期には、教会の子どもたちに毎週お菓子を持ってきて配っておられた。また喫茶店の手作りサンドイッチを毎週日曜日、私に持って来てくださっていた。ホテルのレストランに招待してくださったこともあった。親しい人には、いつも「牧師先生は大切にせなあかんぞ!」と言っておられたようで、ご自身がそれを実践しておられたことに感動した。
ジェラール・シャンドリの名言の中に「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」というのがある。私たちはこの世で、“得る”ことばかり求めていないだろうか? でも結局、人生の最後に残るものは、“得た”ものではなく“与えた”ものであることを彼は証明してくれた。“おっちゃん”には学歴も名誉も財産もなかった。この世の中で受けたものは少ないように見えた。でも与えたものが想い出として多くの人たちの心に残った。私もそのような生き方をしたいと“おっちゃん”の人生の最後に願わされた。
「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)
心のオアシス 2022年5月29日
先週5月23日(月)、花園チャペル建設地での起工式を無事終えることができた。新しい土地で初賛美、初メッセージさせていただけて感無量であった。
そこでの式辞の内容は工事関係者の方々を意識して詩篇127篇1~2節「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」の箇所からこんなお話しをした。「造られたものには必ずメーカーがあります。家であればハウスメーカーもそうですし、車のメーカー、時計のメーカーなどがあります。メーカーがあることは、私たちの安心にも繋がります。なぜなら壊れたら製作者に持っていけばいいからです。時計が壊れてハウスメーカーに持っていっても修理はできないでしょう。時計は時計のメーカーに持ち込まなければ直ることはありません。国や時代を越えて世界中の人々が抱えてきた悩みが少なくとも4つあるという資料があります。その一つは「空白感」です。自分を満たすために色々なものを手に入れますが永続的な満足には繋がりません。二つ目は「孤独感」。家族がいても、友人が何人いても、自分のことを本当に理解してくれる人はいないと孤独を感じる人も多くいます。三つ目は「罪責感」。心のどこかで“赦されたい”と叫んでいるというのです。四つ目は「死に対する恐怖」。人間はどこから出てきて、どこへ帰っていくのかわからない不安があるものです。これらの不安に対しては、人間を造られたメーカーに持って行くしか解決はありません。違う何かで埋めようとしても埋まらないのです。聖書には、「神が私たちを創造した」と書かれています。私たちのメーカー・造り主なる神さまに持って行かなければ根本的な解決はないということです。是非、人生の土台にイエス・キリストさまを据えてください!」栄光在主!
心のオアシス 2022年5月22日
幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので本ばかり読んでいた。大学は地元を離れたが、今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人ぼっちだった。たまたまクラスが同じになり俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。だがヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもってロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後ヤツからメールが来た「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」。それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・(ある男性の投稿より抜粋)
私も今まで“ヤツ”のような存在に助けられてきた。そして私も誰かの“ヤツ”になりたい。私の人生最高の“ヤツ”はイエス・キリストです。このお方のために生きたいと切に願わされる毎日です。
心のオアシス 2022年5月15日
~NYリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩~
大きなことを成し遂げるために
力を与えて欲しいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった。
偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことをするようにと 病気をたまわった
幸せになろうと富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 命を授かった
求められたものはひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬものであるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた
私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ
この詩を通して学べることは、神に対する絶対的な信頼は人を本物の幸せへと導いていくということです。幸せはその人の境遇や環境に関係なく、その人の心一つで与えられるものです。
心のオアシス 2022年5月8日
以前、B&Bという漫才コンビがいましたが、その一人は島田洋七といいます。島田さんのお父さんは、彼が2歳のとき、広島の原爆のため死去。そのためお母さんは、夜、お店で働き、二人の子どもを育てました。しかし、訳あって、島田さんは小学2年生のときから、佐賀のおばあちゃんに預けられます。このおばあちゃんは、「がばい(すごい)ばあちゃん」でした。彼女は夫に先立たれ、貧乏のどん底暮らしの中、学校の便所掃除の仕事をしながら、7人の子どもを立派に育てたおばあちゃんです。このおばあちゃんは、貧乏ですが、底抜けに明るく、前向きでした。例えば、島田さんが見るも無残な通知表を、おばあちゃんに申し訳なさそうに渡した時の会話・・・「ばあちゃん、1と2ばっかりでごめんね・・・」「大丈夫、大丈夫。足したら5になる!」「えっ?! 通知表って足してもいいの?」「人生は総合力!」そうキッパリ言い切るおばあちゃんだったそうです。
物事を見る視点を変えたら、違う世界が見えてくるものです。現実から、今ある問題を見ると、到底受け止めることができない大きなものに見えても、天地宇宙を創造された神さまの大きさと比べるならば、比べ物にならないほど、その問題が小さく見えてきます。
先週ご紹介した星野富弘さんの詩の中の「神様がいるんだもの なんとかなるさ そしていつも なんとかなった」このフレーズは神さまを信じるすべての人は心に刻み込むことが大切だと思わされている。勿論努力を怠ってはならないが、それでもこの世の中での評価が1や2であっても落ち込むことはない。神さまは何とかなるように、この世の中を回してくださっている。家族、人間関係、仕事、経済、進学や就職など、様々な不安や心配が人生にはつきまとう。結果が思うようにいかなかったとしても、諦めてはならない。なぜなら神さまは諦めておられないからです。四肢欠損症で手足なく生まれてきたニック・ブイチチさんは、「絶対に諦めるな!何とかなるから!」と世界中を回ってメッセージを送り続けておられる。
「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5章36節)
心のオアシス 2022年5月1日
苦しくてどうしようもない時 いつもうかんでくることばがあった
神様がいるんだもの なんとかなるさ そしていつも なんとかなった
これは体育の教師として部活の指導中に着地に失敗し頚髄損傷して首から下が麻痺してしまった星野富弘さんの詩です。何度この詩に励まされてきたことか。そしてこれが私のライフメッセージにもなっている。
先日、教会へお菓子を贈ってくれた関東圏に住む男性にお礼の電話を入れたときのことであるが、こんな話をしてくれた。「今は医療関係で働いているので教会へ行くことができなくなってしまっているのですが、関西カルバリーフェローシップの礼拝をYouTubeで毎週視聴しています。先生のメッセージは昔も今も変わらず、結論はいつも『主にあって何とかなる!』ですよね。僕はそれに大変励まされてきました!」
実は私は18年(?)程前に大和カルバリーチャペルの火曜礼拝を担当させていただいた時期があり、その時にこの男性がクリスチャンの友人に誘われて礼拝に来られるようになった。当時彼は鬱を患っていて仕事をすることができない状態にあった。当初は、みんなが働いている昼間に仕事もしないで会堂の長椅子に座っている自分を見て「僕の人生は終わったな・・・」と思っていて、牧師が「主にあって、あなたは何とかなる!」なんてメッセージされても、自分の状態を見たら何とかなるようには思えなかったと告白されていました。しかしその1年後に受洗し、社会復帰することができるようになり、恵まれたクリスチャン女性と結婚し、「今考えてみると、小崎先生が言っておられたように“主にあって何とかなってる!”と気付かされています」とお話しなさった。
四面楚歌(周囲が敵、反対者ばかりで味方のないこと)の状態になった時でも神に祈りの手をあげることができる人は幸いです。自分にとって助かる可能性がゼロになった時に、神さまは力強くお働きくださり、不思議な方法で救い出してくださるのが神さまのやり方なのです。
「モーセは言いました。『みんな、怖がってはいけない。今いる場所にしっかり腰をすえて、今日、主がすばらしい方法で救ってくださるのを、よく見ようではないか。あのエジプト人を見るのも、今日が最後だ。主が代わりに戦ってくださる。だから、みんなは指一本、動かす必要もない。』」(出エジプト記14:13~14/リビングバイブル)
心のオアシス 2022年4月24日
聖書の中には、それぞれのみ言葉の意味が真逆のように思われるものがいくつもある。だからこそ神学論争が起こることがあるのだと思う。しかし、体験を通して真逆だと思っていた両面がブレンドされて、どちらも神さまの目には正解ということが多々あるのだと思うようになった。例えば「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)と「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)の言葉は、それぞれ“神の主権”があることは共通しているが、人に願いがあっても神の願いが成る一方で、人に願いが起こりそれは実現される、ともある。これをどう理解すれば良いのか? 今回の会堂建築を通してこの両面を体験している。
数年前からいつかは借り物の会堂から出なければならないことを想定して賃貸で場所を探し始めていたが、どこも私たちの教会の支払い能力を超えている賃料で諦めていた。一年前、いよいよ出なければならない状況になった。その時点では賃貸などの頭金などを見越して12年間貯めていた指定献金が2400万円。もう少し集まれば石切周辺の土地なら3000万円で得ることが出来るので、そこに簡易的な建物を建てて、経済が祝福されるようになってから会堂を建てても良いのでは?という案が浮上し私もそのつもりで土地探しを始めた。しかし良いと思える四ヵ所の土地がすべてダメになった。初期に見つけてはいたものの吉田駅から700mの70坪の土地は5400万円もして予算オーバーで候補の中に入ることはなかった。しかし去年暮れにメーカーさんから薦められ、会堂のためには最高の環境であることがわかり、去年の暮れまでには同額の指定献金額になっていて、それが“しるし”となり購入に至った。建築業者や設計事務所は7社ほど検討して最有力候補になったのが安価なモバイルハウスであった。ダイワハウスさんは候補としては最下位であったが60年保証がありながら、初めて教会を建てるということでサンプルケースに認定され驚くような割引価格になり建築をお願いするに至った。
このように私たちの思いや願い通りではないのに、神さまの計画は着々と進められ、結果はみんなが満足する方向へと全てが導かれている。
私たちは主の絶妙なみ言葉のバランスの中に生かされているようです。
心のオアシス 2022年4月17日
毎年3月ごろから巷で“イースター”という文字をよく見かけるようになった。果たしてどの位の人たちが、その意味を理解しているのだろうか?イースターは復活祭とも呼ばれていて、今から2千年前、イエス・キリストがユダヤ人の嫉妬によって十字架にかけられ処刑され、「復活する」との預言通り3日後に墓より甦られました。それが後の時代に「イースター」としてお祝いされるようになったのです。卵にペイントなどして飾り付けすることは、キリスト教の儀式ではありませんが、硬い殻を破って生命が誕生するように、硬い墓石を破ったキリストの甦りの象徴として、そのような習慣が広げられていきました。
キリスト教会は毎週日曜日に礼拝を捧げています。それはキリストが日曜日に復活されたことをお祝いするためでもあるのです。実はキリスト教会にとって“イースター”は、ある意味“クリスマス”よりも重要な出来事なのです。なぜならキリストの死からの甦りがなければ、教会の存在はなかったからです。そして全世界にキリストの福音が広められることはありませんでした。
イエスさまの弟子たちは、その師が逮捕された時、みな一目散に逃げていきました。ユダヤ人の王になられると思っていたイエスさまが突如として無力にも十字架の上で死んでしまったのです。弟子たちは師を守るよりも、自分を最優先する小心者でした。しかしそんな臆病な弟子たちが、どうして死んでしまった師のことを殉教覚悟で伝える伝道者へと変えられたのでしょうか? それは復活されたイエスさまを目撃したからです。これは本物だと思ったのです。命を懸けてでも伝える価値があると悟ったのです。そこに聖霊の力が加わって彼らは全世界に福音を宣べ伝えていきました。そして今やその福音は全世界に広がりました。
教会が誕生してから2千年が経過しました。その道のりは容易なものではありませんでした。歴史の中でキリスト教会に対する沢山の迫害がありましたが滅びるばかりかその数は増えていきました。何故でしょうか? 聖書によると“教会”は“キリストの体”である故に、叩かれても殺されても復活の力によって、ますます力を増していくのです。
私たちの教会もキリストの体の一部分であって、その象徴ともいえる会堂を建てさせていただけるのは、正に主の復活があってこそなのです。
心のオアシス 2022年4月10日
“終末”における聖書預言の成就についての最終回です。前回から聖書預言の中でこれから順番に起こる出来事を書き始めました。エゼキエル書38章を通して、北(ゴグ/ロシ)とその連合国がイスラエルを侵略し、国の中心部まで侵略することがわかりますが、その最終段階で神さまのご介入があり侵略軍は滅ぼされ、ユダヤ人も異邦人も主を知ります。
エゼキエル書39章には、敵から回収された兵器を燃やすのに7年、兵士の埋葬に7ヶ月かかると説明があります。この“7年7ヶ月”という数字は、ここでは割愛しますが、北からの侵攻が携挙(信者が天に上げられる)や患難時代(最後の審判の前にあるとされる時代)、再臨(裁きと救いの成就のためにイエスさまがこの地上に戻ってくる)とどのような関係にあり、そのタイミングなどを判定する重要な判断材料となります。
終末時代に入った前兆として順に起こった(起こる)出来事をまとめると①世界大戦、飢饉、地震。②イスラエル国家の誕生。③エルサレムがユダヤの支配下に置かれた。④北の諸国連合の侵攻。⑤世界統一政府。⑥10の王国が誕生する。⑦反キリストの出現。⑧平和と偽の安全時期。
⑨イスラエルと反キリストとの7年の契約。これが患難期の始まりになります。(③まで既に成就)
そして以下に記す出来事は、時系列ではなくいつでも起こり得る事柄で、その時期については様々な説がありますが、どれも明確な聖書的根拠がないので私自身はどれも支持はしていません。その一つが黙示録に預言されている「暗黒」です。二つ目にマラキ書には「エリヤが現れる」とあります。イエスさまがお生まれになる前にバプテスマのヨハネが現れましたが、これはエリヤではありませんでした。三つ目は、第三神殿が建ち機能していることがマタイ福音書24章や黙示録に記されています。四つ目、Ⅰテサロニケ4章の教会(キリスト者)が携挙されるということです。携挙に関しては、ローマ書、ヤコブ書、黙示録などから読み解くと2千年前から、これから来る患難時代の間であれば、いつでも起こりえることなのです。ですから、「主が今日来られるかもしれない」という前提で主に仕える必要があるということです。
心のオアシス 2022年4月3日
“終末”における聖書預言の成就についての第三回目です。前回は、聖書預言の中ですでに起こったことを書きましたが、今回はこれから順番に起こる出来事を記していきたいと思います。
今から約2600年前に書かれたエゼキエル書の預言成就の舞台設定が、現代に整いつつあります。38章から読み解くと、まず北の諸国連合によるイスラエル侵攻が起こります。連合軍を導く人物(称号)はゴグ(英語読み:ロシ)です。これはクリスチャンもユダヤ人ラビたちも、現在のロシア北部を示す名前だという理解をしています。侵略時には各国の名前は変わっているかもしれませんが、地理の位置的には、ロシアの同盟国はイラン、エチオピア、ソマリア、ドイツ、アルメニアと言われています。それらの国々はイスラエルの北と南になりますが、侵略自体は北からとなっていて、驚くべきことは、その侵略にはアラブ諸国は参加しないことがわかります。そしてゴグ(ロシア)の侵略の目的は、アラブ諸国を助けるためではなく、自分たちの利益のためにイスラエルにある“富”を略奪することだというのです。しかしそこには侵略に反対する国も書かれていて、その国の一つがサウジアラビアで、その他に出てくる国名は現在の国名に置き換えると諸説ありますが、英国、アメリカなどの西側諸国やスペインと言われています。
この侵略における神さまの目的は、ご自身が聖なることを諸国に対して示すためだと明確に預言されています。侵略軍はイスラエルの国の中心部まで攻略に成功しますが、神のご介入はその最後の段階で起こります。複数の連合国からなる軍なのでお互いがお互いに対して戦う、所謂“同士討ち”になり地震や疫病などの災難が降りかかり、イスラエルの神こそが主権者であることを示されるというのです。そして39章の預言通りであれば、ロシアの全部が滅びるわけではありませんが、大きな破壊によって世界の強国であり続けることは不可能になると思われます。そして不信仰であったイスラエルも神を認めリバイバルが起こるというシナリオです。
次回は侵略軍が滅ぼされた後の戦後処理に関してです。