礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年10月23日

 花園の地での宣教の働きがスタートした。イエスさまが宣教を開始される前に、荒野に導かれ悪魔の試みにあわれたことが記録されている。そして3度の試みに対して“神実現”を主張されるイエスさまから悪魔は離れていった。実は花園での宣教の働きの日が近づくにつれて、霊的攻撃が強くあることを、この鈍い牧師でも感じるようになった。通常ではありえない出来事が起こるのです。そこで建築委員会の皆さまと祈ることを示され週一でzoom祈り会をするようになった。そして入堂式当日、悪魔は最後の抵抗をしてきた。何と礼拝開始時間30分ほど前に、近所に住んでおられるこの周辺では有名なモンスタークレーマーが教会の玄関で、「声が煩いから、駐車場に車を止めるのを止めろ」と怒鳴り始めた。恐らく会堂にいた方たちはその声に凍り付いたことでしょう。すぐに玄関前に行ったが、男性の罵声は止まらない。時間がきたのそこにいたメンバーに任せて入堂式を始めた。神さまに会堂を与えてくださったことを拍手をもって賛美している時に、ガラガラと音を立てて悪魔の計画が崩れ落ちるのが分かった。  
 その日のミラクル①普段は堺のメンバーだが、礼拝中そのクレーマーとの防波堤になってくれた。ミラクル②受洗者が2名も与えられた(転入会者2名)。ミラクル③新来会者に花園ラグビー場のプロのラガーマン夫婦が来られた。ミラクル④会堂近所の女子高生3人(内未信者2名)が、夕方から教会に来て悩みを打ち明けられお祈りできた。ミラクル⑤その日の午後からクレーマーが態度を軟化させ、次の月曜日に挨拶した時には、「あなたたちは信頼できる人たちであることがわかったので、いざこざはお終いにしましょう。今週の土曜日の見学会は、車10台は大丈夫。日曜日は5台以内で話をせずに教会に入るなら文句はいいません。私も数年後に教会の中に座る人間になっているかもしれませんし・・・」と深々とお辞儀をして帰って行かれた。明らかに霊的空気が変わった。主の勝利を確信させていただいた瞬間だった。

心のオアシス 2022年10月16日

 本日、新会堂・花園チャペルの入堂式礼拝が行われる。これは教会のメンバーにとって大切な行事です。“献堂式”は外部のクリスチャンへのお披露目のような要素がありますが、“入堂式”は主が成された御業に対して教会メンバーが中心となって喜び合う時です。皆さまが祈り、様々な形で捧げてこられた“実”を見て感謝するのです。
 先週はイベントホールから荷物を運び出して、新会堂へ移す作業が有志の方々で行なわれた。キリストの体の一部として、それぞれがそれぞれの働きをしてくださっていることに感動を覚えた。遅くまで残って片付けや掃除などをしてくださり頭が下がる思いだった。何人かの方々は、「ここにずっといたいです・・・」と語っておられて、みんなで建て上げた教会が、霊、肉、魂のオアシスとして、すでに機能し始めていることに主の御名を崇めました。ダビデが「とこしえに主の宮に住むでしょう」と歌ったように、宮にある主の臨在が濃厚で、そこから離れたくないと思ったように、花園チャペルも神の臨在のある場所として用いられることを切に祈っています。
 不思議と花園チャペルは、入ってみると教会らしくない“家”のような雰囲気が漂っている。特に2階は、皆さまの憩いの場所として用いられるように設計されている。教会メンバーは勿論、近所の方々にとっても“心のオアシス”になって、救われる魂、癒される人たち、問題解決される方々が起こされる場所となるでしょう。もう既に近所の方々からは、「中に入ってみたい」との要望が来ている。“市政だより”に出した案内を見て、ゴスペルのコンサートに参加したいとのお電話もいただいた。礼拝堂の外も中も、想像以上に美しく仕上がっているが、これがただの美しさで終わるのではなく、主の美しい福音が広げられる場所として聖別されて用いられることをお祈りしています。会堂はただの“箱”であって、重要なのは、その中に何があるか、です。お祈りください。

心のオアシス 2022年10月9日

 本日で10年近く毎週礼拝してきた東大阪市東石切町での礼拝が最後となる。様々な主にあるドラマが繰り広げられてきた場所であり感無量である。この場所を離れなければならないことに、感慨深いものがあるが、主が導かれる地に入っていかなければなりません。旧約聖書に登場するアブラハムやモーセも同じような思いで旅をしたのではないか?と、しみじみ考えさせられた。人の悩みや心配事は、今も四千年前も変わってはいない。文明文化の違いはあるが、人が求めているものも本質的にはどの時代もどの国の人々も同じである。私たちの人生が“神実現”であるならば、示される場所が自分の好みではなくても従っていかなければならない。しかしそこに真の祝福が待っている。
 私たちがこの地を離れるにあたって忘れてはならないことは、主が東大阪福音教会と藤長先生を用いて、9年間も私たちが礼拝する会堂を備えてくださったこと。ダイワハウスさんが、通常ではしないサービスを提供してくださり会堂建築が可能になったこと。石切チャペルを出て、新会堂が建て上げられるまでの期間、私たちだけにイベントホールをお貸しくださった街路樹さん。これによって路頭に迷うことなく、安心して礼拝を捧げ、荷物の出し入れを毎回する必要がなく助かったこと。これらの親切は間違いなくすべて“主”から出たものです。かつてバビロンに捕囚されていたイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、しかも神殿建設を促し経済的にも助けたのは、異教の国ペルシヤのクロス王でした。誰が彼らの心を動かしたのか? 聖書には「主がなされたこと」だと記録されている。
 「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい。」花園の地でもこの御言葉を握って進んでいきたい。ハレルヤ主よ、感謝します!

心のオアシス 2022年10月2日

 日本での教会開拓は大変だと考えられている。私もかつてはそう思っていた。しかしそれは正しい信仰と考え方一つで変わるものであることを実感している。まず何が“大変”の基準になっているかを考えてみると、多くの場合「人がなかなか教会に来ない」ことや「人数が思うように増えない」ということのようです。ある人が「ゼロからの開拓は、まず一人の人が救われるまでに数年かかり、それからそれなりに奉仕できるクリスチャンに成長するためには2~3年はかかるでしょう。そんな不効率なことをするのは時間の無駄です。」と言っておられる人がいた。確かに「人数」や「効率」で考えると、一人の人のためにそんなに時間を費やすのは無駄だと考えることは普通なのかもしれない。恐らく世の中で商売をしている人たちにとってはバカバカしいことだと思われる。しかし、宣教は商売ではない。“ベストを尽くして、結果は神さまにお任せする”これは私が教会開拓を始めたころに与えられた宣教の姿勢でした。牧師や伝道者がストレスになるのは、自己実現の教会を建てようとするからであって、神実現を願い始めると人数や現状が気にならなくなる。ある時から「神さまの計画が、もし一人の魂に福音を伝えることであるなら、そのことのために私を用いてください。教会に来られる人が一人であっても、神さまが私に委ねられた人たちにベストを尽くすことができますように」と祈るようになってからは、席に座っておられる人が数名でも感謝で、人数が気にならなくなった。自分たちの会堂がなくても羨ましいとも思わない。なぜなら神が私にそう望まれているなら、それが一番良いことだからです。そればかりか「主が望まれたら、たとえ手持ちがなくても会堂は簡単に与えられるでしょう」などと宣言していた。牧師は人が増えたり減ったりすることによって一喜一憂しますが、「主は与え、主は取られる」ことを受け入れるなら、有頂天になったり落ち込むこともなくなる。これが人生すべてに通じる心の姿勢です。

心のオアシス 2022年9月25日

 新約聖書の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉がある。これが教会の本来あるべき姿ではないかと思わされている。聖書が示す“教会”とは“会堂”のことではない。イエス・キリストの御名によって集まることが、“教会”です。“会堂”は、集まるために便宜上使用される“箱”のようなもの。どんな立派な建物でも、そこに祈りや愛や共感がなければ、“教会”とは言えない。
 先週の礼拝の後、入堂式や献堂式に向けてのトーンチャイムの練習が行われていたが、勿論全員が参加するわけではないので帰る人もいれば、練習が終わるのを待っている人たちもいる。その中から数人の方々が、新会堂プレオープン記念コンサートのチラシ折りを誰に促されるわけでもなく自発的に始められた。コーヒーコーナーの後片付けをする方もいれば、おしゃべりしておられる方や教会移転に向けて、荷物のチェックをしておられる方もいる。引っ越しのために車を出すことを申し出てくださった方々もいる。掃除をして戸締りをしてくださる方もいる。勿論祈っていてくださる方も多くいらっしゃる。私はキリストの体なる教会を構成しているお一人一人が、それぞれ違った与えられているものをもって神さまに仕えておられる姿に感動した。
 そして先日、石切チャペルから35キロ離れている堺チャペルの礼拝後、長老さまから「来月の2週目は引っ越しがあるから、堺チャペルはお休みにしましょう。私たちも石切チャペルへ合流します。何かお手伝いさせてください!」長老さまは85歳。足も悪くしておられる。「私にも何かできるはず! 皿一枚でも運ばせて欲しい!」との勢いある申し出に拒否することができず涙が出そうになった。他のメンバーも同意して来られることになった。遠い場所の話で私たちには関係ないというのではなく、「共に喜び何かお手伝いをしたい」というお気持ちにキリストによる一致を見させていただき感動が絶えない。主は生きておられる。

心のオアシス 2022年9月18日

 東大阪市東石切町での礼拝も残すところ4回となった。私が関西に移住してから一番長く(9年間)伝道してきた地域なので、想い出もできたし、名残惜しい気もする。移動を余儀なくされてから、石切周辺の土地をくまなく探したが、候補地はすべて没となった。そして会堂を建てることができる坪数の土地の候補が無くなり、いよいよ会堂を貸してくださっていた東大阪福音教会が石切チャペルに戻ってくる日が決定され、私たちは行き場を失い途方に暮れかかった時に、教会の裏隣にあるイベントホールが私たちに場所を日曜日だけ提供してくださった。コロナ前までは毎週の週末にライブやカラオケ宴会が催されていたが、コロナのために閉鎖されていたのです。そして10月の二週目まで教会のためだけに貸してくださることになった。イベントホールに移ってから間もなく、吉田本町2丁目の土地が突如候補に上がってきたのです。その場所にするようにと促されるかのように、土地代金丁度の額が土地献金として与えられていて購入し会堂を建てることとなった。
 会堂建築が決定してから、悪魔も必死になってこの働きを止めようとしてきたが、神さまの勢いと計画に逆らうことはできない。私たちは、ただ神さまの流れに乗っかりしがみついていることしかできないが、確実に主の計画は進められている。そして完成まで1ヶ月、目に見えない様々な攻撃は強くなったが、私の心は動じないばかりか、私たちが神さまの導かれる正しい方向へ進んでいることの確信にも繋がっている。そして動揺することなく進むことができる。なぜならこれは主の戦いで先頭に立っていてくださるからです。
 先日の日曜日も、私たちを励ますかのように、何と新会堂の目の前に住む高校生が二人、礼拝に来られた。「新しい会堂に行きます!」と約束してくれた。移転までのラスト1ヶ月。建築委員会でも平日の夜、共に祈るようになった。祈りは奇跡を生み出します!

心のオアシス 2022年9月11日

 ある方が紹介してくださった素晴らしい言葉です。
 「まだ私が知らない素晴らしい人々が、ちょうど良いときに、ちょうど良い方法で助けてくれる。私は決して諦めないと約束しよう。助けはないが主が備えてくださると信じる。自分がまだ考えもしなかった所から助けを与えてくれるのだ。主のご計画をためすために、私の人生に何千人もの様々な賜物や技能や考えを持った人々を、主は送り込むことがおできになる。私の周囲にいる人々の顔を、目を見開いて見てみる。耳を開いてその人たちに耳を傾けてみる。今日、明日、来週、私が必要とするふさわしい人と私は出会う。その人はちょうど良い時にやってきて必要を満たしてくれる。そして私は、主が麗しく備えてくださったことを知って驚くのだ」
 この言葉を読みながら、自分の人生と重ね合わせても、同じように重なり合います。倒れそうになるときには、絶妙なタイミングで助け手が与えられ、自分の能力不足で崖っぷちに立たされても、必要なサポーターが与えられてきた。また一つの会堂が建てられるためにも、それなりの資金と知恵と知識と人材が必要だが、私たちの教会にはまさに一人残らず会堂を建て上げるために主が送ってきてくださった天使のような存在だと思っている。どう考えても、それぞれの賜物を主が集められたとしか考えられない。
 先週、ある男性が私に「先生の存在が嬉しいです。感謝しています!」と声をかけてくださった。「差し上げる物は何もないけど、どうぞお菓子でもコーヒーでもどうぞ」と照れ返しをしてしまったが、正しい返しは、「私もあなたの存在が嬉しいです。感謝しています!」であるべきだったと反省させられた。一人も漏れることなく主の計画の中で用いられています。そう、あなたもです!「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2022年9月4日

 新会堂完成まで残り1ヶ月となった。会堂建築が、どれほど大変であり喜びでもあるかを実感させられた数ヶ月であった。あまりお付き合いのなかった牧師先生からもお声がけしてくださることが多くなったが、調べると、ほとんどが会堂建築の経験をしておられる方であることに気付かされる。その酸いも甘いも知っておられるからこそ“会堂建築”に反応し応援してくださるのだろうと感じている。私もこれからは、会堂建築をされる教会を見つけたら、心からのお祈りと応援をさせていただくことは間違いない。
 3年ほど前にリビングライフの巻頭言に文章を書かせていただいたことがあったが、最近それがネットに掲載されているのを見つけ読んでみたら、こんなことを書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです。」これはまだ会堂を建てる話題すらなかった時期に書いたものです。手持ちは何もないが、神さまが計画されたら、簡単に会堂は建つ・・・よくぞ大胆な信仰の告白をしたなと思わされたが、それが現実のものとなっていることに驚きを覚える。確かに主が計画されたことであれば、石からでもアブラハムの子孫を起こすことができると言われているわけですから、私たちの側では持てるものは何もなくともそれは成就するのです。
 そう考える時に、神さまに委ね預ける人生ほど楽で安心できるものはありません。自分の側に立つと、自分のキャパシティー(容量)を超えると不安になったり恐れが生じたりしますが、神の側に立っていれば、問題の大きさに左右されることはなくなります。なぜなら神さまはその問題よりも大きなお方であることを知っているからです。現実に自分の願い通りいってもいかなくても、すべては主の手の中にあります。

心のオアシス 2022年8月28日

 2010年に教会開拓をスタートする前後から1年半ほどの間、良い意味で恐ろしくなるほど週単位で明らかな不思議が起こり続けた。毎週出会う人が、開拓をスタートするための助け手や協力者となっていったのです。そして当時私が何者かを知る人など関西にはいないはずなのに、最初の一年間は3回の聖書セミナーを毎月どこかでさせていただき、救われる人が起こされ、午前の礼拝の基礎となっていった。「母教会におられるような忠実な長老さまが欲しいです」と祈れば、すぐに与えられ、「祈りを引き上げてくれる韓国の人が2~3人ほど与えて欲しい」と祈れば与えられ、現在はその方たちが堺チャペルの土台となっておられます。「HPを充実させたいのですが」と祈れば然るべき人が送られて来くるし、「日曜学校の教師が必要です」と祈れば申し出てこられた。これらの方々は、私がお願いしたわけでもなく、ほとんどが面識のない人たちで短期間に整えられていきました。礼拝場所も転々としていたが、最終的にはよそ様の教会堂を9年間もお借りすることとなった。私は正直、祈った通りに短期間に実現している様子に恐れを覚えて「主よ、一体何をなさろうとしているのですか?」と問うと、「『これは権勢によらず、能力によらず、神の霊によって』教会が建て上げられていくことを教えるためだ」とハッキリと私の心の中に語られたのを忘れることはできない。その時からこの言葉を握った。それから祈りの実現化するペースは減速したが、また去年から急激に主が動き始められた。このような時期は悪魔の阻止する力も大きいが「わたしが戦うから、あなたは黙していなさい」と言われる主に委ねる時に平安が与えられる。これは私が何か特別な存在だからではなく主が働いておられることを人々に知らせる為に、ただKCFを道具として用いられているだけなのです。そしてここ数ヶ月も鳥肌が立つようなことが起こっているが、いつかお話しできる日がくればと願っています。主はあなたの内に確実に生きて働いておられます!

心のオアシス 2022年8月21日

 新会堂の完成は1ヶ月半となった。基礎や柱が造られる段階では、外からでも見ることができたので、建て上がっていく様子が手に取るようにわかった。しかし屋根や外壁ができてから、中の様子がわからなくなったので、どれだけ進んでいるのか進んでいないのかを実感することができなくなった。外壁に変化がないので、工事をしていないようにも見える。ただ定期的に報告してくださるハウスメーカーさんからの進捗状況を信じるしかない。
 坂村真民(さかむら・しんみん)という詩人が「冬がきたら」という詩を詠んでおられるので一部を紹介します。
   冬がきたら 冬のことだけ思おう
   冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 
   冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう
   冬がきたら 冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう(中略)
   冬はわたしの壷である
   孤独なわたしに与えられた 魂の壷である
 この詩から教えられることは、冬は寒いから嫌だと拒否したり、逃避するのではなく、厳しい季節をも味わうことができるし、それを楽しむこともできるということであります。
 私たちにも、なかなか進展しない現実や、避けて通りたいような人生の季節を経験させられる時もあるが、全く何も進んでいないわけではない。水面下では、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29:11)と言われる主の手の働きが着々と進んでいるのです。感じなくても春は確実に来ます。ただあなたの道を主に委ねるのみです。主を信頼せよ!