心のオアシス
心のオアシス 2025年10月12日
今礼拝ではローマ書から順番に学んでいるが、これを書いたパウロは生まれながらのローマ市民権を持ち、ユダヤ人として厳格なパリサイ派に属し、高名なラビのもとで当時の最高の教育を受け、将来有望な存在であった。ユダヤ教に熱心であったゆえにクリスチャンを迫害し逮捕することに躍起になっていた。しかし劇的なキリストとの出会いによって、その価値観が180度変わり、生き方が変わった。世の中が称賛する価値は本物ではないことに気付き、キリストにある絶大な価値観に生きるようになった。「目からうろこ」の語源は、使徒行伝に記されている。キリスト教徒を迫害するパウロがキリストの声を聞き天からの強い光によって一時的に盲目になり、その後癒される様子が、後に「目からうろこが落ちる」ということわざとなった。
しかし彼は今まで得た知識を捨てたのではなく、また自分のためではなく、神の福音を宣べ伝えるために用いるようになった。当時、様々な哲学が溢れているローマの人たちに哲学的アプローチをしながら福音を伝えているのがローマ書である。読んでいると難しく感じるが深い。
ローマ書7章には「法則」という言葉が連続して出てくる。多くの人たちは聖書に書かれている内容(神の言葉)は素晴らしいと思っている法則があり、それに従うことができたら良いと感じている法則が働いている。しかし心とは裏腹に肉の部分は従いたくないという思いの法則があり、心は従った方が良いと思っているが、肉は実際に従わない生き方をしてしまう法則があるという。確かに信者でなくても多くの日本人の親はミッションスクールやキリスト教系の幼稚園に自分の子どもを入れたがる。それは子どもに清さや良い影響や正しい教育を与えると考えているからだろう。しかし子どもがクリスチャンになることを望むのかといえばそうではない。何か矛盾を感じる。
私たちの努力によって神に従うのではない。肉によって頑張っても、神を否定する法則が働き疲れるのみである。神に繋がることによって流される聖霊によって実を結ぶことが自然とできるようになるのである。
心のオアシス 2025年10月5日
先月10日、米保守派活動家のチャーリー・カーク氏(31)が射殺された。日本では彼のことはあまり知られていないがアメリカでは若い世代からも絶大な影響力を持つ存在であった。暗殺の数日前に日本にも訪問していた。先日8時間にも及ぶ追悼式がなされたが、その前半のほとんどが賛美と礼拝であった。彼はアメリカのカルバリーチャペルに所属していて、トランプ大統領のスピーチの前にチャーリー氏の奥様エリカさんが涙を流しながら挨拶をした。その内容が人間のレベルを超えた衝撃と感動を与えるものであったので、ここにその一部を紹介したい。
「夫はアメリカや、特に若者たちに対して何かがおかしいと気付き、新たな方向性が必要だと悟りました。迷える若者たちに、手を差し伸べ、救いたいと熱望していました。方向性もなく、目的もなく、信仰もなく、生きる理由もないと感じている若者たち、気晴らしに人生を破壊し浪費している若者たち、恨み、怒り、憎しみに囚われている若者たちを助けたいと思ったのです。彼は彼らにターニング・ポイントUSA(彼が創設した団体)に居場所を持ってもらいたかったのです。そして彼が(狙撃された)大学のキャンパスに足を踏み入れ、そこにいる学生たちにより良い人生を示そうとしていました。自分の命を奪ったあの青年のような若者たちを救いたかったのです。十字架の上で私たちの救い主はこう言われました。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです』(ルカ23章34節) (夫を殺した)あの若者を私は赦します。私が彼を赦すのは、キリストがそうなさったからであり、夫チャーリーもそうしたでしょうから。憎しみへの答えは憎しみではありません。(聖書の)福音書から私たちが知る答えは、愛であり、常に愛です。敵への愛、そして私たちを迫害する者たちへの愛です・・・」
私は彼らの活動が本物であったことを今回知った。このような赦しを言わしめることができるのは“聖霊”から来る力以外にはありえない。人間の努力や気力ではできるものではない。彼女は赦しの宣言をする直前数秒無言になり天を仰いで祈っていた。救いも聖めも主のみから来る。
心のオアシス 2025年9月28日
先週、キーボードの奉仕をしてくれている一人の小学生がこんなことを私に話してきた。「神さまのために奉仕できるのは嬉しいんやけど、もっと上手い人たちもいるのに、どうして私が弾くのかわからへん」そこで私はこう返答した。「赤ちゃんがハイハイしたり独り立ちできるようになったり、一歩でも歩いたら、親は喜ぶし嬉しいもんなんだよ。それと同じように上手いとか下手とか関係なく、〇〇ちゃんがキーボードを弾いている姿を見るだけで先生はすごく嬉しい気持ちになるんだよ。神さまも何ができるかできないかではなく、そこに居てくれるだけで〇〇ちゃんの存在を嬉しく思ってくださってるんだよ」と話すと「そうなんや」と受け止めてくれた。立ち話ではあったが知恵が与えられて神さまのお心を伝えることができて感謝であったと同時に私も再度学ばされた。
親はゆっくりではあっても子どもの成長や存在を喜ぶように、神も私たちが何かをする前に既にその存在を愛し受け止めてくださっている。そして不器用であっても、神のために生きたいという姿勢を喜んで見守っていてくださっている。それが親心ならぬ神心である。それが上手くできたか、できなかったかなどはこの世の価値観で、ランク付けすること自体が愚かなことである。神の国の価値は、その人の“存在そのもの”であり、神のために何かをしたい成長したいという“思い”である。
先日行われた花園チャペル3周年記念コンサートは満員御礼であった。出演者は勿論のことであるが、チラシ配布や、友人知人家族をお誘いなさったり、当日も駐車場や音響パワポやコーヒー控室準備などの裏方をしてくださった方々のご奉仕の結晶であったと思わされている。チャペル前を歩いていた人も屋根の緑に光る十字架が好きで参加された方もいらっしゃる。音響も前の日からフリーズ状態で音は出るが調整が全くできない状態にあった。しかし長年の経験から主が大きく動かれる時には、前進させまいとする動きが必ず起こることを知っている。だからコンサートが大いに祝福されることを事前から確認できた。原因不明のまま午後から音響が自然回復した。悪魔の計画は潰され主の御心だけがなった。
心のオアシス 2025年9月21日
先日ある方が動悸で悩んでおられたが、それが治まる時もあるという。それは礼拝している時とお笑い番組を見ている時だというのだ。牧師として“礼拝”は理解できるが、“お笑い番組”は受け入れがたい。しかしながら調べてみると医学的見地から笑うと免疫力が上がると書かれていて病人が笑うと早く病気が治癒し、健康な人が笑うと病気にかかりにくくなるという。医学的には認められているようだ。そして聖書と照らし合わせてみると納得できる聖句を発見した。「最後に私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです」(ピリピ3)
喜んでいる人はよく笑う。脳は複数の感情を同時に持つことはできないそうだ。そのために喜んでいる時には、恐れ、悲しみ、怒りなど自分を傷つける感情を持つことができないとのこと。日本には「笑う門には福来る」ということわざがあるが、これも神さまが地上に与えられた法則の一つであろうと考えることができる。
医学博士の杉岡良彦氏がこのような論文を出しておられる。「宗教との関わりが寿命に影響を及ぼすという研究がいくつかある。たとえば40歳以上のアメリカ人男女 8,450 人を対象に、平均 8.5 年間追跡調査した研究によれば、礼拝に全く出席しない人に比べ、週 1 回礼拝に出席する人では 18%、それよりも多く礼拝に出席する人では 30%、死亡リスクが減少していた。また、42 件の別々の研究結果から、全部で 126,000 人を対象として宗教への関与が生存に及ぼす影響を調査したメタアナリシス研究によれば、宗教への関与は生存率を 29%上昇させることを明らかにしている。またうつの患者865 人を 12~24 週間追跡調査して、うつ病からの寛解速度に影響を与える因子を調査すると、少なくとも週に 1 回は礼拝に出席し、少なくとも毎日祈りの時間をもち、少なくとも週に 3 回聖書を読む患者は、それ以外の患者よりも 53%うつ病からの回復が早かった。」この研究結果を受けて私は皆さまに礼拝に出席し、祈り、聖書を読むことを勧める。そしてテレビやYouTubeを観るならお笑いを!(笑)
心のオアシス 2025年9月14日
この世には色々な“法則”が存在している。宇宙の法則、自然の法則、道徳の法則、パレートの法則、マーフィーの法則など様々な分野においてそれは数知れない。今、礼拝で学んでいる新約聖書のローマ書の中にもいくつかの法則が紹介されている。先週は「行ないの法則」と「信仰の法則」が出てきた。ユダヤ人にとっての“行ない”とは、律法を守り行なうことが救いへの道だと考え、それを守り行なっている者は賞賛の対象になっていた。日本には「自己啓発」という「行ないの法則」がある。「こうすれば成功できる」「大きな夢を持ってビックになれ」などと教えられる。確かに私たちの気持ちの持ち方や言動次第によっては道が開かれたり閉ざされたりするものである。これは神がこの地上に与えた万民公平に与えている「行ないの法則」である。神を信じる者であっても、信じない者であっても関係なく、この法則に従えばこの世の中では報いを得ることは可能である。努力次第で様々な道は開かれるし、良い人間関係を築くこともできる。聖書にも「夫婦」「親子」「上司部下」などの人間関係を平和に過ごす法則がいくつも書かれている。これはこの世に神が与えた恵みである。しかしパウロは、魂の救いは「行ないの法則」によっては獲得できないことを説明している。それは誰も誇ることがないように、神の子イエス・キリストが十字架にかかり罪の代価を命をもって支払ってくださった“キリストの行ない”を信じる「信仰の法則」によってのみ救われ天国へ入れていただけるというのである。
神を信じない者にとっての「行ないの法則」は、“自分のため”であるが、神を信じる者にとっては、神の愛に応答するために神が願い喜ばれる行ないをしていきたいという動機へと変化していくものである。自己実現なのか、神実現なのかで大きくその意味も変わってくる。「ヤベツの祈り」は、「私の領土を広げ、災いから遠ざけ、苦しむことがないようにしてください」という内容で自己中心的ととらえられるが、実は「神が誉れを受けるため」「神なしに私の幸せはない」という神への深い信仰と信頼の告白なのである。「信仰の法則」によって人生観は変わっていく。
心のオアシス 2025年9月7日
今、私たちの教会内では不思議な波が来ているように思う。ここ数週間で何人もの方々から恵みの報告を受けた。「本当に〇〇の穏やかな心に親子共救われ毎日過ごしています。何十年という長い年月でした。やはり神さまの力だと毎日感謝の心で一杯です」この家族は一人の人物によって毎日涙しながら生活をしておられた方だが、教会に繋がり神を信じたことによって問題だった人に大きな変化が起こるようになったということだった。また関東から帰省中の家族が久々に親に会って、恵まれ変えられている様子に感謝の言葉をかけてくださった。またある方からは「小崎先生から全く私利私欲を感じることがなく、神が導かれていることがよくわかります」と牧師冥利に尽きる言葉をいただいた。勿論人間なので、肉的欲が起こらないわけではないが、教会開拓をするようになってから「恥は我がもの、栄えは主のもの」と願うようになり、自分を隠して主が前面に出てくださることを求めるようになった。なぜならそれが一番楽で楽しい人生であることがわかったからである。“自分”が前面に出ると、自分の思い通り上手くいっている時や賞賛されている間は嬉しいが、そうでなければ落ち込んだり、嫉妬したりするようになる。パウロはピリピ書3章で自分が誇りとしていたすべてのものを損と思うようになったばかりか、世的に誇ることの出来る一切のものを「糞土のようなもの」と表現し、「自分の弱さを誇る」(Ⅱコリント12)と言うようになった。それは世の誇りを盾にして生きるよりも、創造主が導かれる人生の方が数万倍良いということを悟ったからである。
先日は“異言”の賜物が与えられ、霊によって祈る恵みを体験された方や、按手祈祷によって神の愛がリアルに注がれて涙が溢れて理屈で理解しようとしていたことが、もうどうでもよくなったと目が開かれた人たちも起こされた。牧師がどれだけ「神が共にいます」「神はあなたを愛しておられます」と語っても、見えない触れることもできないお方を信じることは難しい。しかし“神の霊”によってそれは可能となる。理屈や理性を超えた主の働きがすべてを明らかにしていくのである。
心のオアシス 2025年8月31日
皆様にもご心配をおかけし祈っていただいていた尿管結石砕石手術後、腎臓から膀胱まで留置されていたステント(管)を先日無事抜去した。祈りに支えられて一週も休むことなくご奉仕できたことを感謝している。やはり異物が体内にあると不快感はある。抜去術は少々痛んだが抜けた瞬間「あースッキリした」と声を出してしまった。これで体内に異物は無くなった。三十代の時、週二で食べていた脂多めのラーメンと水分をあまり摂らなかったことが原因だと思われる。今食べている物が10年後体に影響を与えると言われているがまさに今回のそれが良い例である。
食べ物だけではない。先日学生からこのような証を聞いた。周りのクリスチャンではない価値観の中に生きていると、神の存在に疑問を抱くようになっていたが、今回の学生キャンプで集会中に胸に何か(霊的に)つっかえているものがあり、それが出た瞬間に「神の存在がリアルになり、今は全く疑いもなくなり、福音を伝えたいと思った」と話していた。
私たちの体は中に入れる食べ物などによって影響が出てくるが、私たちの心も、どのような環境の中にいるかによってそれなりの影響を受けてしまう。そういう意味でユダヤ人は食べ物に規定を設けたり、自分中心と人が作った偶像の神に仕える文化と、そこからくる乱れた道徳観を持った先住民の影響を避けるため他国人との結婚をしないように意識していた。しかしそれでも寄留者のようにしてカナンの地でもエジプトでも先住民と共存していかなければならなかった。これは今の世の中の価値観の中に生きている神を信じる者たちの姿を表しているように思う。今は人だけではなく様々なメディアからの影響も強くなってきている。
私たちはこの世でどのようにして生きるべきなのか? 聖書にはこう書かれている。「神のすべての武具をとりなさい・・・腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6)
心のオアシス 2025年8月24日
神が創造されたものには全て個性がある。花一つとってみても色も違えば形も違う。人にも個性があって、年齢を重ねるうちに多少の変化はあるかもしれないが、それは一生ものといっても過言ではない。しかし生き方の方向性は変えることはできる。例えば包丁には“切る”という目的の為に用いられる。これを擬人法で表現すると“個性”とでも言うことができると思う。メーカーがその個性を与えたわけであるが、その用い方はそれぞれである。人を殺めるために用いることもできれば、料理を作って人を喜ばせるために用いることもできる。人間も与えられた個性をどのように用いるかは、それぞれに委ねられている。歩んでいく方向性を指導することはいくらでもできるが、人はなかなか方向転換することは難しい。キリスト教会の中でも「他者を愛しなさい」「赦しなさい」「祈りなさい」「聖書を読みなさい」などと指導はされてきたが、それができないから人々は悩むのである。
聖書の使徒行伝を読むと、パウロという人物はかつてクリスチャンを迫害することに熱心であった。しかし突然キリストに出会うことによって生き方が180度変わった。彼の“熱心”は福音宣教の働きに用いられるようになった。イエスの弟子たちも臆病で軟弱で、すぐ裏切ってしまう者たちであったが、殉教をも恐れない伝道者に変えられていった。
私たちの教会にもキリストに出会ってからその生き方が変わったという方は何人もいらっしゃる。先週Zealキャンプに参加した学生たちの中にも神の存在も疑いかけたり、友人に福音を伝えることに行き詰まりを感じたり、他者のために祈ることなどしたことがなかった学生たちがそれぞれの思いで参加した。これらは人間業ではどうすることもできない。しかし参加した6名全員が聖霊に触れられて沢山の恵みが与えられ帰ってきた。福音を伝えたい思いが全員に与えられ、早速インスタなどを上げて大胆に教会やキャンプのことを紹介している者もいる。そして熱い思いをそれぞれが証してくれた。一体彼らの中に何が起こったのか? 明らかに「権勢によらず、能力によらず、神の霊の働き」である。
心のオアシス 2025年8月17日
日曜日は午後礼拝後も残っている学生たちと話すことがあるが、中にはこの世の価値観を持った学校の友人たちとの話題の内容に共感できないことがあるという悩みのようなことを吐露している時もある。大学生になるとある意味親からの束縛もなくなり、知恵や知識も増えてできることが広がり、自立心が芽生え自分のしたいことをする、いわゆる自分ファーストの考えが強くなってくる。これはまるで聖書に描かれている人類最初の人であったアダムとエバが知恵の木の実を食べて、自分の夢をかなえ、自分の欲望に生き始めて堕落した姿のようである。他者ではなく、自分が得をするか損をするかで物事を決断していく様である。
ある企業の経営者の本に「自分の儲けのために頑張ったら、一時的には儲かるかもしれないが長続きはしない。しかし自分のことより他者が必要とし得をすることを優先に考える商売は、結果的にはいつの間にかお金が入ってきたということに繋がり長続きする」と書かれていた。これは聖書の原則であって、自分中心主義は個人であっても国であっても長続きはしない。それは歴史が証明している。そのような意味において聖書によって養われている若者は遠回りせずに祝福された人生を歩むことができる。この世に生きる上では価値観や倫理観の違いでの葛藤は覚えるであろう。神の約束の土地カナンに入ったイスラエルの民は、自分中心と人が作った偶像の神に仕える文化と、そこからくる乱れた道徳観を持った先住民と共存しなければならないし、その影響を受けないように注意もしなければならなかった。しかしイスラエルは先住民に妥協し紀元前586年には国を失ってしまった。これは神を信じる者が世の中に片足を突っ込みながら生きていかなければならない危険性を描いている。
“自己実現”とは自分で定めた目標を目指すことであり、“神実現”とは既に神があなたに与えている目的に向かって進むことである。どちらが得か?前者は、まだ成り得ていない自分に到達しなければならないが、後者は、神によって創造された最高の自分からスタートできるのである。
神が創造された本来の立場を回復するだけであなたは成功なのである。
心のオアシス 2025年8月10日
先週、尿管結石砕石術を受けたが、入院初日に研修のため看護学生を一人付かせて欲しいとの要請があり承諾した。手術前日、緊張した面持ちの20歳の女学生が「10分程お話ししてもいいですか?」と話しかけてきた。学校で学んだであろうカウンセリング“傾聴”と“共感”などの実践を始めた。マニュアル通り話してネタが尽きると無言になってパニック状態。そこで患者の私が気を使って話題を提供し話を広げていった。しばらくすると「小崎さんは、どうしてそんなに色々な分野での話題ができるのですか?」と問われたので、待ってましたと言わんばかりに「実は私はキリスト教会の牧師をしてるんです。だから色々な分野の方々と繋がっているので・・・」と話しながら主導権を逆に握って当たり障りないよう福音を伝えた。1時間近く対話したが何かを感じ取った表情をしておられた。術後はそれどころではなかったので会話はしなかったが退院時に何か話したそうな表情をしながらお別れの挨拶をしてくれた。いつの日かどこかの教会で救いの恵みを味わって欲しいとお祈りした。
榎本保郎先生がかつて同志社の神学生であった時、当時の教会の路傍伝道に参加し、前をちょろちょろしていた子供たちに「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかわれた経験があった。それから20年後のある日、先生の教会に同志社の神学部の献身者が派遣されてきた。彼と面接しながら当時の路傍伝道の苦労話をしていると、彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言った。「先生あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししている。
祈りながら蒔いた福音の種はどこかで実を結んでいくことを確信している。なぜなら実を結ばせてくださるのは神のお働きだからである。
術後、病棟を歩きながら各病室の人たちの癒しを心で祈ることができた。私の結石が自然排出されず入院の道へと神が導かれた意味がわかった。それは入院でしか届かない人たちのために祈るためであった。
本日私が10年以上お祈りしてきた方が受洗される。ハレルヤ!