心のオアシス
心のオアシス 2026年10月11日
日曜礼拝でヤコブ書を連続講解して先週終了した。ヤコブは直球型でメッセージを伝えているので、チクチク心が痛むこともある。「行いを伴わない信仰は死んだものである」(ヤコブ2章26節)と言われると行ないが伴っていない自分を見て落ち込み自分が救われているのかどうかも疑ってしまうこともある。しかしパウロは同じことを話しているが理解しやすく説明している。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである・・・決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」(エペソ2章)言い換えると「私たちが救われるのは信じることによって与えられる神の恵みである。しかし信じた者は、神規格で神が望まれるように生きるはずでしょう? 繋がったら実(行ない)が結ばれていなければ、それは繋がったとは言えない」ということである。少なくとも本当に神に繋がれば「今までの生き方ではダメだ」「神に喜ばれるようになりたい」という思いが出てくるはずである。
私は“弟子訓練”を否定はしないが、「弟子となる方がより高尚」だと言って人々に劣等感を抱かせないよう配慮している。確かに「出て行って、すべての民を弟子とせよ」(マタイ28章)とはあるが、当時のユダヤ文化の中での“弟子”の概念を理解しなければならない。“弟子”とは“ラビ”と呼ばれる教師につく人のことをそう呼んでいた。弟子(Talmidim)は“生徒”の意で、ラビは誰もが自分に属する生徒を抱えていた。“クリスチャン”も“キリストに属する”という意味で、当時キリストの生徒(弟子)として学び従う人のことを指していた。福音書と使徒行伝には「弟子」という言葉は出てくるが、他の書簡には一度も出てこない。その代わり「愛する者たち」という表現になっている。私たちは神と繋がり愛されている存在であることを知り“弟子”となり“行なう者”となっていくのである。
心のオアシス 2026年10月4日
関西カルバリーでは月一希望者で、バイブルフェローシップというお交わりの時間をもっている。今回のお題は「プチ感動したこと」だった。私の感動は、その日の午後の礼拝に近所の小学生や中学生が何人もいたが、みんな真面目に賛美をしていることだった。数年前は隣の友達とふざけ合ったり、スマホを見たりしていたが、今は神さまと向き合っている姿に感動した。創造主と繋がると神さまの臨在から離れたくなくなる。その中で安息を覚えるからである。最近、門限より早めに帰宅を促すと数名の子どもたちは、どうしてもチャペル内に居たいらしく帰るのを渋る。遊びたいからというのではない。ただ居たいのである。トイレ掃除をするからと言って理由をつけて掃除している時間だけでも延長してチャペルに居させて欲しいというのである。私は常に祈りの中で「チャペルの会堂、ロビー、トイレ、階段、二階のどの部屋においても、神さまの救いと癒しと安息を覚える場所となることができますように」と祈っている。その祈りに主は確実に応えてくださっているのを感じる。
このような現象は今に始まったことではない。3千年前にもダビデはこう表現している。「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。(詩篇27篇4節) 彼は主の臨在から離れたくないばかりではなく住んでしまいたいと言っている。またコラの子はこう詩っている。「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」(詩篇84篇10節) 彼は中に入れなくても門番でいいので少しでも神さまの近くに居させてくださいと願っている。
キリスト教会は現実逃避する場所ではない。そこで癒され励まされ力を受けて厳しい世の中を力強く生き乗り越えるための補給所でもある。私たち自身が神の宮であり神の臨在で満たされている。
心のオアシス 2026年9月27日
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていた。カーテン越しではあったが互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外をながめて、外の世界についてくわしく話をしだした。「今日はいい天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。公園の草木がとっても綺麗です」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスをおどっているようです」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に外の様子を語って聞かせてあげた。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日心が慰められて自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うようになった。しばらくして窓際の人が退院することになった。男性は喜び「これで自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入りの患者に話して聞かせて励ましてあげよう」看護師にベッドを窓際に移すように頼んで移動し、心躍らせながら窓の外を見て彼は愕然とした。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかった。ただ灰色の壁が見えるだけだった。「あの窓際の男性は一体何を見ていたのだろうか?」想像力で、その向こうにあるものを見ようとしてのだと気付いた。ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしている隣人のために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのだった。
同じ壁を見て、ある人はその壁だけを描写する。しかし信仰の人はその先にある「希望」を見ることができる。状況は同じでも、見方によって世界が違ってくるものである。自分の辛い出来事を見て人生を呪いながら生きるのか、それとも神がくれた喜び悲しみ痛みや苦しみ、出会いや別れ、温もりや不安、そのどれもが重なりあって自分の今日が創られていると信仰の目で見ながら、神に愛されるため選ばれて生まれてきた人生を謳歌するかのどちらかである。
“信仰・希望・愛”は神に繋がる人生から生まれる恵みである。
心のオアシス 2026年9月20日
ある女性の宣教師は大学時代に友人と住んでいた。そのルームメイトは男子に人気があり、よく花束をもらって帰ってきていた。しかし彼女には花をくれる男子学生はいなかった。ルームメイトが花束を持って帰る度に彼女は孤独を感じるようになった。「神さま、何故私には花束をくれる人は誰もいないのですか?」その時、神は窓の外を見るように促された。「何が見えるか?」「木が見えます」「それが私があなたに贈った花束だよ」彼女は街路樹を花束として受け取り涙を流した。それは「私がいつも一緒にいるではないか」というしるしの贈り物だった。神の愛に満たされた彼女は、その後宣教師となり多くの人を生かす働きをするようになっていった。
「どうして私は愛されないのか?」「誰にもかまってもらえなくて孤独だ」と感じるその時にも、命さえ差し出してくださる愛をもって私たちの前に立っておられるお方がいる。この世が与えるようなちっぽけな条件付きの愛ではない。この神の愛を受け取るならば、どんなことがあろうとも勇気100倍、安心と満足を得られるだろう。
アップルの創業者・スティーブ・ジョブズ氏はビジネス界で一番成功した人物である。彼は亡くなる前にこんな言葉を残している。「私はビジネスの世界で成功の頂点に君臨した。他の人の目には私の人生は成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし仕事をのぞくと喜びの少ない人生だった。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていた有名になることや富は迫る死を前にして色あせ何も意味をなさなくする。生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。今やっとわかったことがある。人生とは富に関係のない他のことを追い求めたほうが良い。終わりを知らない富の追及は私のように人を歪ませてしまう。神は誰もの心の中に愛を感じさせるための感覚を与えてくださった。」
神の愛を知ると満たされます。
心のオアシス 2026年9月13日
モーセの人生は波乱万丈であった。へブル人(イスラエル人)から「生まれた子はすぐに川に投げ込め」とのエジプトのパロによる命令下で生まれたモーセは、母親がカゴに入れて川に流したが、パロの娘に拾い上げられ育てられることとなった。それから40年間は王宮の中で教育を受けながら育ち、地位や立場を持つようになった。しかし40歳になったとき、エジプト人を打ったことがパロに知れてしまい逃亡生活をすることとなる。それから40年間は荒野で羊飼いをして過ごした。80歳になったとき、突然神から「エジプトで奴隷になっている同胞を導き出せ」との命を受けてしぶしぶ立ち上がった。イスラエルの民はそれから苦しみから解放されたにも関わらず荒野での40年間で何度も「エジプトでは美味しいものを食べていた」「お前は荒野で我々を死なせようとするのか?」「エジプトに帰せ!」と散々モーセに不平不満をぶつけ、罵倒してきた。そして荒野で40年が経過し、ようやく神が導こうしているカナンの土地を目前にしてモーセは入れないで召されていった。そのモーセが死ぬ直前に言った言葉は「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である」(申命記32:4) モーセは自分自身もイスラエルの民も、いつも状況や環境によって揺れ動いて不信仰になっていたが、神は感情に流されず民を守り導き続けられた。それを“岩”と表現した。自分に与えられた使命を呪うのかと思いきや“主のみわざは完全、みな正しく、真実・・・”と告白しているのである。モーセは命がそんなに長くはないと感じ、人生を振り返ってみて、どんなピンチに直面してもいつも神は助けてくださったことと神の計画は全て完全であったことを悟ったのである。
私はまだどの位生きることができるかはわからないが、すでに神は岩であり、その御業は完全であることを感じている。私もモーセのようにこれを最後の言葉としたいと願っている。主は良いお方!
心のオアシス 2026年9月6日
申命記の学びも今日で最後になる。これまでモーセの次世代への遺言を学びながら厳粛な思いにさせられている。神のイスラエルに対する祝福と呪いの契約、そしてその預言が歴史の中で成就していっている。国を失い、どの時代にも迫害され続け、約2500年ぶりに国が再建(1948年)され、離散していたユダヤ人が今帰還している。それはユダヤ人が悔い改めて主に立ち返ったからではない。神の一方的な愛と約束を守る真実さの表れである。しかし終りの時に、ユダヤ人たちが神に立ち返るというのがパウロの預言である。
ある牧師が「霊的近視」という表現を使っておられたが、これは過去の恵みを忘れるということである。イスラエルの人たちは430年にわたりエジプトでの奴隷生活から奇跡的に解放された。その直後エジプト軍に追われ四方八方塞がりとなった。しかし紅海が分かれ乾いた地を歩き逃れることができた。そればかりかエジプト軍は水没し全滅していった。しかしすぐ彼らはこれらの神の奇跡を忘れて不平や不満を言い始めた。霊的健忘症の予防策は、どんなことにも感謝するということである。毎日が神の奇跡の連続なのに、ただ当たり前とか偶然で片付けてしまってはならない。息ができること歩くこと見ること食べること飲むこと、それさえも当たり前ではないことを悟るべきである。そうすれば感謝が生まれる。
母教会にいたおばあちゃんがこんな話をしてくれた。20歳のころお見合いをしたが好みのタイプではなかった。しかし神が与えてくださった機会だと考え「この人のために命を捨てよう」と決意して結婚された。しかしすぐにご主人は肺結核となり手術をされた。生活はどん底状態となった。身内からは「騙されたんだから別れた方が良い」とまで言われた。でも、この想定外のハプニングに愛が冷えることはなかった。なぜなら「この人のために命を捨てよう」と決意されていたから。キリストは私たちの罪の身代わりとなり命を捨ててくださった。この愛の中に生きることが最大の安心となる。
心のオアシス 2026年8月30日
東京ディズニーランドにある若い夫婦が訪れ、中にあるレストランで彼らは「お子様ランチ」を注文した。しかしそれは9歳以下限定だとメニューに書いてある。そのようなお客さんには断るルールになっている。キャストはマニュアルにある内容以外に一歩踏み出して尋ねた。「お子様ランチは誰が食べられるのですか?」「私たちにはなかなか子供が授かりませんでしたが、やっと待望の娘が生まれたのです。一緒にディズニーランドへ行こうと願っていましたが、1歳の誕生日を待たずに神さまのもとへ召されました。そこで召天1年目を記念して夫婦でここへ来ました。お子様ランチがあったので思い出にと思い・・・」そう言って夫婦は目を伏せた。キャストの青年は、「そうですか。どうぞ召し上がってください」と応じて、この夫婦を4人席の家族テーブルに移動させて子供用イスを一つ用意した。「お子さまは、こちらに」と、まるで亡くなった子供が生きているかのように小さなイスに導いた。しばらくして運ばれてきたのは3人分のお子様ランチだった。そして「ご家族でゆっくりお楽しみください」と挨拶してその場を立ち去った。若い夫婦は失われた子供との日々を噛みしめながら、お子様ランチを食べた。後日この夫婦からディズニーランドに手紙が届く。「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているようにして家族団欒を東京ディズニーランドでさせていただけるとは、夢にも思いませんでした。これから、二人で涙を拭いて生きて行きます。また来年も来ます。そしていつかこの子の妹か弟を連れて遊びに行きます!」
お店のルールを破ってまでキャストは自分のことを顧みず、この夫婦のために配慮した。それによって夫婦の心が救われた。それ以上に神の正義(罪に対して罰を与える)違反をしてまでキリストは私たちの罪の支払いを十字架で完了し愛を示され信じる者を赦し救い生きる道を開かれた。驚くばかりの恵みである。
心のオアシス 2026年8月23日
キリスト教と言うと愛と平和の神をいうイメージを持つ人も多いだろう。しかし旧約聖書を調べてみると神はイスラエル民族に対して、ある特定の民族を聖絶(根絶やし)せよと命じられている。その中のアマレク人はパレスチナ南部の遊牧民で攻撃や略奪を繰り返していた。また目的地であるカナンの土地には、あらゆる偶像を拝み、目を覆うような悪や淫らな行為を行なっていて周りに悪影響を与えていた民族があった。神は平和を望んでおられるが、時間を超越しておられる故、イスラエルが戦うことを知っておられ、その性質を用いて悪を一掃するようにされた。ある意味“悪”さえも用いて神は計画を進められたのである。また神は私たちを創造した時に、体の中にウィルスなど侵入してくると、それに対して免疫力によって防御するシステムを作られた。同じように私たちは悪影響を及ぼす者や不法侵入してくる人たちに対して憎しみはなくとも取り押さえ外に追い出すことを本能的に行なう。これは群れやコミュニティーを守るために働くものである。このように神は野放しにしていたらイスラエルにも影響を与えて破滅へ進んでしまうことを知っておられて「聖絶せよ」と言われたのである。しかし後の歴史を見ると、悪に妥協し共存の道を辿ったことが原因でイスラエルは国を失うことになる。
私たちは徹底的に神の喜ばれないことに対しては抵抗し滅ぼしていかなければならない。しかし自分では到底太刀打ちできる相手ではない。どうすれば良いのか? 神が戦ってくださることを期待するのである。丸腰のイスラエルが最強のエジプト軍隊に戦わずして勝利した。ただ神の言葉を握っただけである。ダビデは「あなたはわたしの敵の前で宴をもうけてくださる」と言った。敵が近づいていてもパーティーを楽しむことができる安心があるというのである。それは神が盾となり岩となり戦ってくださるという信仰からくる。花園チャペルの日曜日は、大学生をはじめ小中高生が朝から夕方、夜まで家にいるかのようにしてリラックスしている。神の臨在の中で憩っているのがわかる。神を信じる者の最大の防御システムは天地万物を創造された“神”である。
心のオアシス 2026年8月16日
毎年、学生・青年たちに大きな変化を与えてきたキャンプが行なわれた。これを書いているのは事前なので、どうなったかは分からないが、信仰をもって良い結果を確信している。主にあっては万事益になることを信じることができることは信仰者の特権であり恵みである。少なくとも私たちの教会では、恵みの連鎖が起こっている。変化した学生を見て他の若者も「行きたい」という願いが起こる。サマリアの女性が主に出会い町に行って「来て見てください」と人々をキリストへと導いた。人生が変えられ喜びに満ちている姿を見たら見に行きたくなるものである。これが理想の宣教の働きである。
教会の働きもそうである。難しい言葉を並べなくても、その人が輝いて生きるようになれば、人は自然とそちらの方向を見るようになる。その輝きは頑張って出すものではなく、聖霊に触れ導かれたら自然と出てくる実である。私たちがキリストへのサインになることができる。
先週は葬儀があった。教会メンバーではなかったが、8年間ガンとの戦いの中で近くの花園チャペルが良いと考え通うようになられた。召される二日前の礼拝にも来られていた。自家栽培の野菜も沢山届けてくださった。私も必ずお祈りした。短い間ではあったが想い出が沢山できた。奥さまも先が長くないご主人のことを思い涙流されていることもあった。しかし召された直後に送ってこられたLINEの内容に感動した。「良一の痛みを癒してくださった神さまに感謝します。これから先生宜しくお願いします。」抗がん治療の苦しみを間近で見ておられた奥さまは“死”を“癒し”と考えられておられるのである。詩篇 103篇3節に「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし」とあるが、まさに私たちの病はすべて癒される。それは死を通してでもある。
私たちの本番はこの地上ではなく肉体を脱ぎ去り(死)天から始まる。「神は彼らの目から涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、もはや悲しみも、叫びも、苦しみもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)からスタートする。目指そう天の御国!
心のオアシス 2026年8月9日
聖書全体を連続講解していると、神の知恵の偉大さと人間の頭では到底計算しつくせない神の計画の緻密さに圧倒される。パウロはコロサイ書2章の中で、旧約時代の儀式、祭り、食べ物の規定、神殿のいけにえなどは、後にやって来る救い主(キリスト)を前もって示す影(印や型)だと表現しているが、その通りだと今更ながら驚いている。聖書は旧約と新約を合わせて約1600年かけて40人以上の人たちが書いて66巻にまとめられているが、それぞれ違う時代に生きていた人たちが、どのようにしてこれらの壮大な計画を計算できたのであろうか? それぞれは点であったが線として繋がり大きな世界観が見えてくる。隠されていたことが明らかになると大きな驚きがある。確かに著者は神である。
申命記29章29節に「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」とあるが、私たちが住んでいる世界には二つの領域がある。一つは神によって隠されている領域で、もう一つは神が人に明らかにする領域である。人は、ある出来事がなぜ起こるのかを常に知っているわけではない。しかし神はご存知である。私たちは答えを求めたがる。なぜ問題が起こったのかを知りたいのである。しかし神の答えはいつも同じで単純明解である。「わたしはあなたを愛している。ただわたしを信じなさい。」ヨハネ福音書9章には、生まれつき目が見えない人についてイエスさまは「本人の罪でも両親の罪でもなく、神のわざがその人に現れるためである」語られた。私たちはそのような答えは求めていない。知りたいのは何故なのかという理由である。神がなされることを、私たちは常に理解できるわけではない。しかし神は誠実なお方で、私たちが待ち望むならば神ご自身の奥義を明らかにしてくださる日が必ずくる。そしていつの日か、今ある試練を神に感謝することになるのである。なぜなら神の奥義は試練を通して明らかになるからだ。天国に帰ったときには全ての全てが繋がり、神に感謝しかなくなるであろう。その鮮やかな計画に圧倒されるのである。
