礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2025年9月14日

 この世には色々な“法則”が存在している。宇宙の法則、自然の法則、道徳の法則、パレートの法則、マーフィーの法則など様々な分野においてそれは数知れない。今、礼拝で学んでいる新約聖書のローマ書の中にもいくつかの法則が紹介されている。先週は「行ないの法則」と「信仰の法則」が出てきた。ユダヤ人にとっての“行ない”とは、律法を守り行なうことが救いへの道だと考え、それを守り行なっている者は賞賛の対象になっていた。日本には「自己啓発」という「行ないの法則」がある。「こうすれば成功できる」「大きな夢を持ってビックになれ」などと教えられる。確かに私たちの気持ちの持ち方や言動次第によっては道が開かれたり閉ざされたりするものである。これは神がこの地上に与えた万民公平に与えている「行ないの法則」である。神を信じる者であっても、信じない者であっても関係なく、この法則に従えばこの世の中では報いを得ることは可能である。努力次第で様々な道は開かれるし、良い人間関係を築くこともできる。聖書にも「夫婦」「親子」「上司部下」などの人間関係を平和に過ごす法則がいくつも書かれている。これはこの世に神が与えた恵みである。しかしパウロは、魂の救いは「行ないの法則」によっては獲得できないことを説明している。それは誰も誇ることがないように、神の子イエス・キリストが十字架にかかり罪の代価を命をもって支払ってくださった“キリストの行ない”を信じる「信仰の法則」によってのみ救われ天国へ入れていただけるというのである。
 神を信じない者にとっての「行ないの法則」は、“自分のため”であるが、神を信じる者にとっては、神の愛に応答するために神が願い喜ばれる行ないをしていきたいという動機へと変化していくものである。自己実現なのか、神実現なのかで大きくその意味も変わってくる。「ヤベツの祈り」は、「私の領土を広げ、災いから遠ざけ、苦しむことがないようにしてください」という内容で自己中心的ととらえられるが、実は「神が誉れを受けるため」「神なしに私の幸せはない」という神への深い信仰と信頼の告白なのである。「信仰の法則」によって人生観は変わっていく。

心のオアシス 2025年9月7日

 今、私たちの教会内では不思議な波が来ているように思う。ここ数週間で何人もの方々から恵みの報告を受けた。「本当に〇〇の穏やかな心に親子共救われ毎日過ごしています。何十年という長い年月でした。やはり神さまの力だと毎日感謝の心で一杯です」この家族は一人の人物によって毎日涙しながら生活をしておられた方だが、教会に繋がり神を信じたことによって問題だった人に大きな変化が起こるようになったということだった。また関東から帰省中の家族が久々に親に会って、恵まれ変えられている様子に感謝の言葉をかけてくださった。またある方からは「小崎先生から全く私利私欲を感じることがなく、神が導かれていることがよくわかります」と牧師冥利に尽きる言葉をいただいた。勿論人間なので、肉的欲が起こらないわけではないが、教会開拓をするようになってから「恥は我がもの、栄えは主のもの」と願うようになり、自分を隠して主が前面に出てくださることを求めるようになった。なぜならそれが一番楽で楽しい人生であることがわかったからである。“自分”が前面に出ると、自分の思い通り上手くいっている時や賞賛されている間は嬉しいが、そうでなければ落ち込んだり、嫉妬したりするようになる。パウロはピリピ書3章で自分が誇りとしていたすべてのものを損と思うようになったばかりか、世的に誇ることの出来る一切のものを「糞土のようなもの」と表現し、「自分の弱さを誇る」(Ⅱコリント12)と言うようになった。それは世の誇りを盾にして生きるよりも、創造主が導かれる人生の方が数万倍良いということを悟ったからである。
 先日は“異言”の賜物が与えられ、霊によって祈る恵みを体験された方や、按手祈祷によって神の愛がリアルに注がれて涙が溢れて理屈で理解しようとしていたことが、もうどうでもよくなったと目が開かれた人たちも起こされた。牧師がどれだけ「神が共にいます」「神はあなたを愛しておられます」と語っても、見えない触れることもできないお方を信じることは難しい。しかし“神の霊”によってそれは可能となる。理屈や理性を超えた主の働きがすべてを明らかにしていくのである。

心のオアシス 2025年8月31日

 皆様にもご心配をおかけし祈っていただいていた尿管結石砕石手術後、腎臓から膀胱まで留置されていたステント(管)を先日無事抜去した。祈りに支えられて一週も休むことなくご奉仕できたことを感謝している。やはり異物が体内にあると不快感はある。抜去術は少々痛んだが抜けた瞬間「あースッキリした」と声を出してしまった。これで体内に異物は無くなった。三十代の時、週二で食べていた脂多めのラーメンと水分をあまり摂らなかったことが原因だと思われる。今食べている物が10年後体に影響を与えると言われているがまさに今回のそれが良い例である。
 食べ物だけではない。先日学生からこのような証を聞いた。周りのクリスチャンではない価値観の中に生きていると、神の存在に疑問を抱くようになっていたが、今回の学生キャンプで集会中に胸に何か(霊的に)つっかえているものがあり、それが出た瞬間に「神の存在がリアルになり、今は全く疑いもなくなり、福音を伝えたいと思った」と話していた。
 私たちの体は中に入れる食べ物などによって影響が出てくるが、私たちの心も、どのような環境の中にいるかによってそれなりの影響を受けてしまう。そういう意味でユダヤ人は食べ物に規定を設けたり、自分中心と人が作った偶像の神に仕える文化と、そこからくる乱れた道徳観を持った先住民の影響を避けるため他国人との結婚をしないように意識していた。しかしそれでも寄留者のようにしてカナンの地でもエジプトでも先住民と共存していかなければならなかった。これは今の世の中の価値観の中に生きている神を信じる者たちの姿を表しているように思う。今は人だけではなく様々なメディアからの影響も強くなってきている。
 私たちはこの世でどのようにして生きるべきなのか? 聖書にはこう書かれている。「神のすべての武具をとりなさい・・・腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6)

心のオアシス 2025年8月24日

 神が創造されたものには全て個性がある。花一つとってみても色も違えば形も違う。人にも個性があって、年齢を重ねるうちに多少の変化はあるかもしれないが、それは一生ものといっても過言ではない。しかし生き方の方向性は変えることはできる。例えば包丁には“切る”という目的の為に用いられる。これを擬人法で表現すると“個性”とでも言うことができると思う。メーカーがその個性を与えたわけであるが、その用い方はそれぞれである。人を殺めるために用いることもできれば、料理を作って人を喜ばせるために用いることもできる。人間も与えられた個性をどのように用いるかは、それぞれに委ねられている。歩んでいく方向性を指導することはいくらでもできるが、人はなかなか方向転換することは難しい。キリスト教会の中でも「他者を愛しなさい」「赦しなさい」「祈りなさい」「聖書を読みなさい」などと指導はされてきたが、それができないから人々は悩むのである。
 聖書の使徒行伝を読むと、パウロという人物はかつてクリスチャンを迫害することに熱心であった。しかし突然キリストに出会うことによって生き方が180度変わった。彼の“熱心”は福音宣教の働きに用いられるようになった。イエスの弟子たちも臆病で軟弱で、すぐ裏切ってしまう者たちであったが、殉教をも恐れない伝道者に変えられていった。
 私たちの教会にもキリストに出会ってからその生き方が変わったという方は何人もいらっしゃる。先週Zealキャンプに参加した学生たちの中にも神の存在も疑いかけたり、友人に福音を伝えることに行き詰まりを感じたり、他者のために祈ることなどしたことがなかった学生たちがそれぞれの思いで参加した。これらは人間業ではどうすることもできない。しかし参加した6名全員が聖霊に触れられて沢山の恵みが与えられ帰ってきた。福音を伝えたい思いが全員に与えられ、早速インスタなどを上げて大胆に教会やキャンプのことを紹介している者もいる。そして熱い思いをそれぞれが証してくれた。一体彼らの中に何が起こったのか? 明らかに「権勢によらず、能力によらず、神の霊の働き」である。

心のオアシス 2025年8月17日

 日曜日は午後礼拝後も残っている学生たちと話すことがあるが、中にはこの世の価値観を持った学校の友人たちとの話題の内容に共感できないことがあるという悩みのようなことを吐露している時もある。大学生になるとある意味親からの束縛もなくなり、知恵や知識も増えてできることが広がり、自立心が芽生え自分のしたいことをする、いわゆる自分ファーストの考えが強くなってくる。これはまるで聖書に描かれている人類最初の人であったアダムとエバが知恵の木の実を食べて、自分の夢をかなえ、自分の欲望に生き始めて堕落した姿のようである。他者ではなく、自分が得をするか損をするかで物事を決断していく様である。
 ある企業の経営者の本に「自分の儲けのために頑張ったら、一時的には儲かるかもしれないが長続きはしない。しかし自分のことより他者が必要とし得をすることを優先に考える商売は、結果的にはいつの間にかお金が入ってきたということに繋がり長続きする」と書かれていた。これは聖書の原則であって、自分中心主義は個人であっても国であっても長続きはしない。それは歴史が証明している。そのような意味において聖書によって養われている若者は遠回りせずに祝福された人生を歩むことができる。この世に生きる上では価値観や倫理観の違いでの葛藤は覚えるであろう。神の約束の土地カナンに入ったイスラエルの民は、自分中心と人が作った偶像の神に仕える文化と、そこからくる乱れた道徳観を持った先住民と共存しなければならないし、その影響を受けないように注意もしなければならなかった。しかしイスラエルは先住民に妥協し紀元前586年には国を失ってしまった。これは神を信じる者が世の中に片足を突っ込みながら生きていかなければならない危険性を描いている。
 “自己実現”とは自分で定めた目標を目指すことであり、“神実現”とは既に神があなたに与えている目的に向かって進むことである。どちらが得か?前者は、まだ成り得ていない自分に到達しなければならないが、後者は、神によって創造された最高の自分からスタートできるのである。 
 神が創造された本来の立場を回復するだけであなたは成功なのである。

心のオアシス 2025年8月10日

 先週、尿管結石砕石術を受けたが、入院初日に研修のため看護学生を一人付かせて欲しいとの要請があり承諾した。手術前日、緊張した面持ちの20歳の女学生が「10分程お話ししてもいいですか?」と話しかけてきた。学校で学んだであろうカウンセリング“傾聴”と“共感”などの実践を始めた。マニュアル通り話してネタが尽きると無言になってパニック状態。そこで患者の私が気を使って話題を提供し話を広げていった。しばらくすると「小崎さんは、どうしてそんなに色々な分野での話題ができるのですか?」と問われたので、待ってましたと言わんばかりに「実は私はキリスト教会の牧師をしてるんです。だから色々な分野の方々と繋がっているので・・・」と話しながら主導権を逆に握って当たり障りないよう福音を伝えた。1時間近く対話したが何かを感じ取った表情をしておられた。術後はそれどころではなかったので会話はしなかったが退院時に何か話したそうな表情をしながらお別れの挨拶をしてくれた。いつの日かどこかの教会で救いの恵みを味わって欲しいとお祈りした。
 榎本保郎先生がかつて同志社の神学生であった時、当時の教会の路傍伝道に参加し、前をちょろちょろしていた子供たちに「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかわれた経験があった。それから20年後のある日、先生の教会に同志社の神学部の献身者が派遣されてきた。彼と面接しながら当時の路傍伝道の苦労話をしていると、彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言った。「先生あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししている。
 祈りながら蒔いた福音の種はどこかで実を結んでいくことを確信している。なぜなら実を結ばせてくださるのは神のお働きだからである。
 術後、病棟を歩きながら各病室の人たちの癒しを心で祈ることができた。私の結石が自然排出されず入院の道へと神が導かれた意味がわかった。それは入院でしか届かない人たちのために祈るためであった。
本日私が10年以上お祈りしてきた方が受洗される。ハレルヤ!

心のオアシス 2025年8月3日

 この週報が出る日曜日には、私がどういう状況なのかはわかるのだが、実はこのコラムを書いているのは事前である。事前というのは手術を受けるということである。前からご心配をしていただいているが数ヶ月前に腎臓にあった6ミリ大の結石が尿管に落ちたのだが、それが全く動かなくて内視鏡手術を受けることになった。体験者などの動画を見ると壮絶な痛みが術後にもあるようなことを語っている人もいる。術後も数週間、尿管カテーテルを入れたままということで、それも痛みがあったり違和感があったりするらしい。また病院からの説明書には、合併症が起こった場合は死に至る可能性があることが記載されていて、けっこう脅されているように思う。これらのことから私は最初手術を受けることを躊躇していたが、イエスさまの十字架の苦しみや痛みのことを考えたら自分の悩みがいかに小さなことであるかを思い知らされ、もし痛みがあれば、その分、他の病や問題で苦しんでいる人たちの痛みを取り除いでくださいとお祈りしようと心に決めることができた。入院は最短で4日間であるが、熱が出たりすると集中治療室に入ることもあり入院も長引くと言われた。そのために早目に8月3日の週報を書いている。しかし万が一召されるようなことがあったとしても何の悔いもない。地上では主の道具にしていただいたことを感謝しながら天国に入ろうと思う。
 神を信じる者たちにとっての本番は肉体を脱いだ後の天国である。この地上は天国予備校のようなものである。それ考えるとこの地上での苦しみは、これから来る天国への希望へと繋がっていく。「神は、私たちが耐えられないような試練は与えない」(Ⅰコリント10:13)とあるのだから、この世における試練は必ず乗り越えられるように神さまのご配慮が必ずあるし、私たちのための最善のレッスンや訓練も含まれていることを考えると甘んじて受け留めることができるような気がする。
 先日大きな手術を受けた教会メンバーがおられるが、「周りがマズいと不平を言っている病院食を美味しいと感じたし感謝な気持ち」だとSNSで書いておられたが、私も置かれた場所で咲こうと思う。

心のオアシス 2025年7月27日

 私たちの教会では特に家族が未信者である場合、不和をもたらすような過激な信仰は推奨していない。なぜならその家族に誤解を与えたり、キリスト教会に対する悪いイメージを持って欲しくないからだ。社会にも悪い印象を与えた異端の宗教団体と同じように考えられては困る。世の中に証になる信仰が必要だと思っている。しかし歴史を調べると、命がけで信仰を守った人たちも大勢いる。今から二千年前のローマ帝国下でのクリスチャンへの弾圧があった。日本には約五百年前、現在の大阪府内の地域に高山右近をはじめとしてキリシタン大名が多数散在していた。信仰を持ち続けたことにより迫害され海外追放までされた人や殉教した人達も大勢いた。時代は変わったが命をかけてまで守り続けた信仰が、今の時代の私たちにまで引き継がれていることも忘れてはならない。
 先日「寺の中からキリストへ」という教会のクリスチャンの祖母様の自叙伝を読んだ。お寺の僧侶と結婚されたが、ある日、宣教師から福音を聞いてキリストの十字架は自分の罪の身代わりであったことを信じた。だがその後ご主人からの迫害や暴力によってその信仰が阻止されそうになったが、守り通して最終的にはご主人も救われ今現在そのお子様方は皆、恵まれたクリスチャンとして教会に集っておられる。一人の犠牲と信仰によって後の子孫が祝福されている姿を見る時に、今の信仰が後の時代にどのような影響を及ぼしていくのかを考えなければならない。
 もう2年間程ほぼ毎週教会を休まないでくる小学生がいる。先日その子に「お母さんから『そんなに教会行く必要ないやろ』とか言われない?」と聞くと、「言われる。でも『もし教会に行ってなかったら今頃登校拒否になってるで!』と言うと、お母さん何も言わなくなった」と教えてくれた。この子の複雑な家庭環境のことを考えると、ご両親の離婚、それに伴う転校。小学生なりに辛い経験をしてきている。しかし「それ故に神さまに出会うことができたから良かった」と本人に言わしめるほど、神さまとの出会いはその辛さに勝るものがあったようだ。
 “何があっても創造主にしがみつく信仰”これも大切にしていきたい。

心のオアシス 2025年7月20日

 先週の日曜日は開拓を始めてから一番充実した一日であった。朝2回と午後1回の計3回の礼拝は通常通りであるが、今回はそれにプラスアルファで午後礼拝の後入門講座を1時間、その後質疑応答などで1時間の計2時間。その後礼拝堂の掃除機をかけ、午後6時半ごろから大学生のピザ付バイブルスタディーに特別参加させていただき聖書や信仰、様々な人間関係などを話し合っていると、全員時を忘れ気が付けば午後10時になってしまっていた。全員クリスチャン家庭の子たちで親御さんは理解してくださっているが、預かる側も非常識にはならないよう気を付けなければならない。しかし若者たちが聖書や信仰の話をしながら恵まれている様子を見ていると、この時間を彼らから切り離してはいけないという気持ちにもなる。平日は世俗的な価値観の中に嫌でも居なければならない彼らが活き活きと話している姿に私も恵みをいただいた。
 イエスさまが昼時井戸のそばでサマリヤの女性に福音を伝えると、それを受け留めた彼女の中に大きな変化が起こった。弟子たちがランチを買ってきてイエスさまに渡そうとすると「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われた。疲れを覚え空腹であるはずなのに食べる必要がなくなるほど満たされるという経験を私もしたように思う。
 牧師の喜びは、人が変えられる姿を見ることである。「励まされて今週も何とかやっていけそうです!」「聖書を読むことが楽しくなりました」「癒されました」「暗い人生でしたが光を見い出しました」「現実はまだ問題はたくさん残っていますが、御言葉を握っていれば何とかなるような気がしてきました」「悩みが悩みでなくなりました」このような言葉を毎週聞かされると牧師を辞めることはできなくなる(辞める気はないが)。
 これらは全て神の霊の働きの実である。人間はみな「神の息が吹き入れられて生きるものとなった」とあるように、飲み食いだけではなく、神の霊によって生かされていることを知らなければならない。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)

心のオアシス 2025年7月13日

 私が8月にご奉仕させていただく京都朝祷会から「朝祷」というブロックだよりが送られてきた。何と東北で牧会する後輩牧師が証が掲載されていて、その内容に感動し励まされたので以下に要約したいと思う。
 「心に福音の種が蒔かれたのは、私が4歳の時でした。住んでいた町の人口増加でどこの幼稚園も入ることができませんでした。そのような時に開拓を始めたばかりの教会が幼児学園を開設し、そこに入園しました。そうは言っても古い民家の六畳二間を使用した粗末なものでした。しかし先生方は全員クリスチャンで、私は毎日聖書の話を聞きました。あるとき友達が投げた積み木が私の額に当たり血が出て、先生がすぐに応急処置をして額に手を置いて『イエス様、どうぞ額を癒してください』と祈るのです。私は内心『神さまがいたら医者はいらないだろ』とバカにしていましたが、真剣に祈る先生の姿が心に残りました。額の傷は跡形なく癒されました。そこを卒園した私は教会学校には一度も行きませんでした。やがてアメリカ留学し冬休みにニューヨークの家庭にホームスティしクリスマスイブの夜、ホストファミリーと教会の礼拝に参加しました。そこで歌われた讃美歌『きよしこの夜』を歌ったときに私の記憶の奥にずっとしまっていた何かが開きました。それは教会の幼児学園で歌った讃美歌の記憶でした。その時、私は言葉には言えない感動で震え、自分がずっと探していたものが“イエスさま”だったことを知りました。その日から私は変えられ聖書を読み、教会に通うようになりその半年後、アメリカの教会で洗礼を受けたのです。私たちはトラクト配布や集会で思った成果がないとガッカリします。
 先日私の教会に見知らぬ青年が来ました。集会後彼は『私を覚えていますか?』質問してきました。なんと彼は15年前に子どもの集会に来ていたS君でした。彼もまた留学先のパリでイエス様を信じたというのです。」(小西孝宏牧師述)
 私たちは成果を求めるが、主が求めておられることは時が良くても悪くても福音を伝え続けるということ。目に見える結果がなくても私たちの労は地に落ちることはない。主の時が来れば美しい花園になるだろう。