心のオアシス
心のオアシス 2024年11月17日
先日後輩牧師が訪問してくれた。会堂や大阪の街を案内している間中次から次へと質問攻めされた。そしてこのよう話してきた。「小崎先生は牧師としてこんなに成功しているのに、自分は全然ダメ。人も増えないし牧師を辞めたいと思ったことが何度もあります」私はこの言葉に違和感を覚えた。“牧師としての成功”とは何か?人が集まらないことがダメなのか? 私はとうの昔に世の価値観から解放されていて、人間の成功は金持ちになったとか、良い学校に入学できたとか、大きな企業に就職できたとかが“成功”だとは思っていない。もし大きな教会の牧師であったとしても、自己実現のために牧会していたら“大失敗”だと思っている。どんなに小さな教会であっても神実現のために労している牧師は大成功である。恐らく私が「100人教会に集まりますように」と祈り開拓をしていたら、なかなかそうならない現実に挫折していたであろう。しかし当初からの私の祈りはこうである。「どうぞ神さまがこの教会を必要としている人たちを送ってください。私はその人たちのためにベストを尽くします。私を神実現の道具として用いてください!」具体的な人数は一切挙げなかった。「必要であれば神さまが会堂を与えてくださるでしょう」と神の願うことと神の計画のみが成るよう祈り続けていた。だから目の前の人数は一人二人しかいなくても気にならない。公民館の小さな部屋で礼拝することも気にならなかった。何故なら今与えられている場所や人は神さまの願いであり計画として与えてくださったものだから。
そんな話をしながらその後輩に「目の前の人数とか状況に一喜一憂しているのは自己実現をしているからであって神実現を願えば楽になるよ。ただし何もしないのは怠惰なことだから自分のタラントをわきまえてベストを尽くして神実現を願うなら不思議が起こるよ。」彼が帰って次の日にLINEがきた。「今回は『全部配れますように』ではなく『主の御心がなりますように』とチラシを配ったら、いつも全然受け取ってくれない子どもたちが受け取り全部なくなりました!そして2人の子どもと2人の親御さんが来てくれました」神実現を願い始めると何かが起こる。
心のオアシス 2024年11月10日
私たちの教会は決して大きいわけではないが大変恵まれていると思う。何年か前まで私のギター一本だけでプレイズや聖歌を歌っていた時代のことを考えると、今は楽器に溢れ講壇に迫る勢いで牧師の立場が危うくなっている(笑)。特別音楽もこの二年間、週替わりで与えられているが、これは当たり前ではなく稀なことである。礼拝が終わると学生たちが会堂で賛美の練習をし、二階のダイニングではコーヒーを飲みながら談笑する人たちやコーヒーおじさんの監視の下に卵焼きやホットケーキを作って楽しみ、それを各テーブルに配って回る近所の小学生たちがいる。学校では体験することができない環境を気に入っているようで「教会の人たちは優しいし楽しい」とみんな口を揃えて言う。勿論、楽しむためにだけ教会に来ている人たちは圧倒的に少ないと思うが、どのような理由であっても、やがては良い地に落ちた種のように30倍、60倍、100倍の実を結んでいくことを信じて祈っている。
ニック・ブイチチさんは、四肢欠損症という障がいをもって生まれてきた。成長するにしたがって周りの友人には手足があるのに、どうして自分にはないのだろう?と苦しむようになり、「自分は将来学校へも行けないし一人で生活もできない。結婚もできない。」と絶望していたが、15歳の時に聖書の話を聴いて、「もし手足が生えてきたら神さまを信じます」と祈った。しかし彼は「自分は何か目的があって、このような姿で生まれてきたに違いない」と思えるようになった。それから彼は独立して生活するようになりサーフィンをして楽しみ、日系人と結婚もした。そればかりではない。彼はすでに30ヵ国以上の国々で講演を行なっている。彼の障がいの故に宣教師が入ることができない共産国にも招待されて何の制限もなく福音を伝えることができた。神には不可能はない。
先週、一か月ほど前から定期的に教会に来ている小学生がこんなことを言った。「〇〇ちゃんがゴミをそのままにして帰ったので腹が立ったけど、『イエスさまならどうするか?』と考えたら、許して私がゴミを捨てることができた。」神が働かれるとどんなことでも起こり得ると確信した。
心のオアシス 2024年11月3日
「生きてるだけで丸儲け」とは、ある大物芸人の言葉であるが、私もある意味同意する。何かができることが価値ありとされる世の中で、何もできなくても、その“存在”に価値ありと聖書は教えているからだ。
先日こんな体験談を読んだ・・・私の長女は知的障害を抱えています。この子は、努力もしないし、頑張りもしない。才能もないため「頑張らなければ、人間ではない」という価値観からすると、この子は価値がないことになってしまいます。ところが彼女が属しているクラスは生徒がみんなやさしい。彼女の存在が、クラスの子をやさしくしてしまうようです。どうしてかというと、この子は、ありとあらゆる場面において、争わないし、競わないし、戦わないからです。それどころか、自分よりも立場の弱い子を見つけては、その子を助けようとします。この子が、小学校6年生のとき、3学期の通知表に、校長先生が特別に書いてくださったメッセージがあります。こういう内容でした。「6年生全員の中で、〇○ちゃんほど心を込めて『ありがとう』を言う生徒はいませんでした」。彼女は「ありがとう」を言うとき、90度まで体を折ってお辞儀をします。このしぐさがとてもかわいくて、とても美しい。わが家でいちばん美しく「ありがとう」を言える人です。先日も、こんなことがありました。駐車場に戻ったとき、私たちがサッサと歩いていると、長女だけがトコトコと料金所まで行って、「ありがとう」と係の人にあいさつをしました。長女を見ていると、この子は、「人間が、生まれながらにして持ち合わせているやさしい心」を呼び起こすために生まれてきたのではないか、と思います。彼女は、ただひたすら、その役割で存在しているかのようです。この子がしていることは「ありがとう」と言ってニコッとする、ただそれだけです。でも、笑顔を見せることによって、クラスの子どもたちは、みんなやさしい子どもたちになっていったのです。(一部抜粋)
努力や頑張りだけが価値ではない。ゼロからの開拓をしてきた私にとって、ただその場に座っていてくださることがどれほど尊い奉仕であるかと思っている。なぜなら誰もいなければ礼拝は成立しないからである。
心のオアシス 2024年10月27日
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)これはイスラエルがバビロン捕囚から戻った民が神殿再建を行なった際、それを妨害する反対勢力の脅しに気力を失っている中、再建の指導者に語られた励ましの言葉である。権力や能力によって物事が成るのではなく全ては主によって成るという約束である。“権力”とか“能力”は神から与えられた賜物なので、それらを用いて私たちのベストは尽くさなければならない。しかし与えられた賜物の「大きい」「小さい」によって物事が上手くいったり、いかなかったりするわけではない。“神の霊”によって導かれているなら私たちの状況や環境は関係なく“成る”のである。私もこのみ言葉によって自分の考えを軌道修正してきた。
まだ教会建築の話題もなく借り物の会堂で礼拝を行なっていた時期の役員会で、今は亡き長老さんが「この会堂を出る時がきたら感謝の献金を沢山捧げましょうや」と提案され皆が同意していた。100万円捧げるつもりでいたが、いざ土地を買い会堂を建てることになった時、5千円でも1万円でも必要な状況になり私の心に「別に100万でなくても50万でも大きい額ではないか?」という迷いが生じた。その時、主が「『あなたの手持ちではなく私の霊によって教会を建てる』と言ったではないか?」とお叱りを受け、すぐに100万円の準備をした。その日の夜、東京のある会社の会長さんから電話があり「会堂のために1000万円献金させて欲しい」と連絡を受けた。10倍になって返ってきたのである。私は畏れがきてその場にひれ伏して自分の信仰のなさを恥じたのを覚えている。
箸にも棒にも掛らなかった大学生は、キャンプを境に今は自主的に全部の集会に出て奉仕もするようになった。消えてしまいたいと思っていた高校生は今は礼拝することが喜びとなった。小学生も子ども向けの集会をずっとやっているわけではなく相手をしているわけではないが朝から夕方まで日曜日は教会にいる。教会にいることが楽しいというのである。私ができることはただ祈るのみであった。明らかに“神の霊”の働きである。主に委ねる人生は楽です。私たちはただベストを尽くすのみ!
心のオアシス 2024年10月20日
ユダヤ人の人口は、世界人口の0.2%に過ぎない。しかしノーベル賞の授賞者や富豪の大多数がユダヤ人である。そしてその秘密は教育にあるという。ユダヤ人の家庭では、生まれたときから宗教教育が実施され3歳頃から文学や読み書きを習い、4歳からは「モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記……)」の暗唱が始まり、5歳からは「預言書」「聖文学」「タルムード(全30巻、律法集、歴史書、格言集、民話伝承集、……)」を学び始める。そして12歳の頃には、「モーセ五書」はほとんど暗記しているというのだ。
私たちの教会の礼拝は初心者を意識してわかりやすく、平日の聖書セミナーは中級以上向けにお話しするようにしている。しかし礼拝だけに来ている人たちが一生離乳食ばかりだと成長もできないし聖書の深みを知ることはできない。そこでたまにではあるが礼拝でも小難しい箇所も取り扱うことにしている。クリスチャンであっても一体何が書いてあるのかもわからない箇所からメッセージするのは至難の業である。勿論、解説は初心者にも極力わかりやすいようにして人生論的にもアプローチするよう努力はする。聖書が好きな方々からはそれなりの評価はいただくが、全体的にどれほど伝わっているかはわからない。近所の小学生が数人、朝10時半からの礼拝の裏で行なっているキッズクラスにも参加しているのだが、その前に行なっている朝9時からの奉仕者向けの礼拝に来て毎週大人しく座って話を聴いているのである。一人の男の子は説教中、うつむいてノートに何か書いているので学校の宿題でもやっているのかと思っていた。聖書箇所からして難しいので仕方ないし、日曜日の朝早くから大人の礼拝に来ていることだけでも良しと寛容に受け止めていた。しかし先週、恵先生が本人の許可を得て私にそのノートを見せてくれた。なんと大学ノート1ページに小さな文字でびっしり士師記のメッセージの内容が書かれていたのである。求める心があれば子どもであっても聖書の難易度は関係なく、聖霊さまが助けて理解力を与えてくださることがわかった。将来どんな大物になるのか楽しみだ。
心のオアシス 2024年10月13日
21歳の特攻隊が後輩兵士に残した最後の深い言葉がある。
「お前たち知ってるか?牛や馬は『一頭』、鳥は『一羽』、魚は『一尾』と数える。何故だと思う?実は動物の数え方は“死んだ後に何が残るか?”で決まるんだ。ではここで一つ聞きたい。俺たち人間はどう数える?『一名、二名』、そう『名前』なんだ。俺たち人間は死んでも「名前」は残るんだ。お前たちは自分の大事な“名”に恥じない“生き方”ができているか?一回きりの人生、後悔せぬよう意識すべき事は“能力”ではなく“生き方”であり“知識”ではなく“行動”なんだ。読むべきものは“空気”でも“本”でもない。“自分の心”だ。明日人生が終わると思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。それでは元気に征きます。」・・・考えさせられ、学ばされる内容である。
“名に恥じない生き方”は、誰が評価するのだろうか?“自分”ではない。勿論聖書的には“造り主なる神”であるが、この地上においては“周りの人たち”も審査員ある。自分では満足していても他者からは評価されない人もいる。「〇〇さんは最初は良い人だと思っていたのに、付き合ってみると我がままな人でした」という言葉を聞くことがある。自分では悔いのない生き方をしていたとしても、それは自己満足にしか過ぎないこともある。
しばらく礼拝ではヨシュア記~士師記を学んできた。ここに出てくるイスラエルの民は、“自己満足的生活”を続け、それが自分の首を絞めることになっていった。客観的に見ると明らかに「危険」だとわかるが、当の本人たちは、その土地のモラル観、風習や文化に慣れてしまって、それが自分の中で“正しいこと”として受け入れてしまっている。彼らに何が足りなかったのか? それは「神の願いや御心を問いながら生きる」ということだった。自分の持てるものに頼り、自分の願いだけに生きるのは、この世の人たちと何も変わらない。そして“神”を自己実現するためのツールとしているならば残念な結末が待っているであろう。「あなたならどうされますか?」と問いながら進んでいきたい。
心のオアシス 2024年10月6日
先日、近所の高校の文化祭と小学校の運動会に参加させていただいた。いずれも教会に出入りする子どもたちが所属している学校で、招待を受けて行った。関係者がいなければなかなか行く気は起こらないだろうが、“知っている子がいる”からこそ出演時間をめがけて行くものである。結局小学校の方は各学年の子どもたちがチャペルを出入しているので最初から最後までいることとなった。
パウロはピレモンに「年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです」とお願いしている箇所がある。オネシモのことを「獄中で生んだわが子」と呼んでいるが、これは獄中でパウロが福音を伝えオネシモが救われたことを表している。実子ではないが、パウロはわが子のように思っているのである。私は最近、この気持ちがよくわかるようになってきた。救われた人に対する親近感は、失礼かもしれないが大人であっても“我が子”のような気持ちになる。ましてや小学生や高校生は私の年齢からすると“孫”のような存在であるが、その子がいるだけで嬉しくなる。“わが子”を見つける度に何度も手を振ってしまう。“わが子”がパフォーマンスをしていても競技をしていても、上手い下手、勝ち負けは全く関係ない。見ているのは“わが子”の存在である。創造主なる神さまもそのような気持ちで私たちを見ていてくださっているのであろう。この地上で「勝った」とか「負けた」とか一喜一憂しながら人は生きているが、神さまの目には「高価で尊い存在」としてしか映っていない。パウロは「キリストにある絶大な価値の故に、この地上で価値あるものと思っていたものや誇りも塵あくたと見なしている」と表現した。
まさに主の視線を感じると、毎日が輝いて見えるようになる。状況や環境ではなくなる。おめでたい人になることができる。そしてこれはただの気休めではないことがわかるようになった。
「わたしの目には,あなたは高価で尊い。」(イザヤ43:4)
心のオアシス 2024年9月29日
堺チャペルが花園チャペルへ合流してから、急いで夕拝のために出かける必要がなくなったので、午後礼拝の後ゆっくりできるかと思いきや、色々とスケジュールが入るようになった。次なる神さまの計画が進められていることを実感している。先週の日曜日は早速学生たちが恵先生と聖書の学びをするようになった。待っている間、私は他の残っていた人たちとフェローシップルームで雑談をしていた。時間をとってお話しすることによって相手のことをより深く知ることができる。先週は琵琶湖での洗礼式に来られた方々と親交を深めることができたし、何人かの牧師先生方ともお交わりする機会があり、それも恵みの時間となった。
私たちの教会名は、「教会」「チャーチ」ではなく「フェローシップ」となっている。この名称になった経緯は割愛するが、そんなに深く考えて付けたものではなかった。しかし今となっては良い名を付けさせていただいたと思っている。「フェローシップ」とは「共同体」とか「付き合い」「交わり」の意がある。聖書の中では初代教会での交わりやⅡコリント13:13の「聖霊の交わり」には、ギリシャ語では「コイノニア」が使われている。これが英語ではフェローシップと訳されているが、これは「同じ心」、「一致した心」、「同じ目的」を持たなくては成立しないものである。世間の付き合いでは、なかなか味わえない「フェローシップ」が教会にはある。それは“自分が受けるための交わり”ではなく、“与える交わり”であるからだ。前者は自分が受けることができないと不平不満が残るが、後者は相手が満たされることが喜びとなる。
人と対話することが苦手な人もいることを配慮して私たちの教会では礼拝後のフェローシップは自由で、強くお勧めしていない。しかし、どのような人でも最低限していただきたいフェローシップがある。それは造り主なる神さまとの交流である。私たち生きる上での生命線である。どうやって神とのフェローシップをすることができるだろうか? 話し(祈り)、聴き(御言葉)、与える(神の願いのために行動する)時に私たちの人生は豊かになります。本当です。是非試してみてください。
心のオアシス 2024年9月22日
各キリスト教会はそれぞれの特徴や強調する部分は違うが、聖書を土台としているなら、キリストの体のどこかの肢体を支えているということになる。パウロ風に表現するならば、目が手に向かって「あなたは必要ない」とは言えないし、頭が足に向かって「あなたは必要ない」とも言えないように、個性の違う相手を批判することは愚かなことである。すべての教会を集めるとキリストの体になるということであろう。
関西カルバリーフェローシップの礼拝の特徴は、教会初心者にとって居心地の良い環境を作るよう努力することである。それは第一コリント9章を要約すると「ユダヤ人を得るためにユダヤ人のようになり、未信者には未信者のようになり、弱い人には弱い者となった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。私も共に福音にあずかるためである」とあるが、聖書のメッセージは語りつつも初心者の立場に立って違和感を与えないようにする。その工夫については以前にも書いたことがあるので割愛するが、その努力の甲斐あってか、ある方から「初心者を連れて行きやすい教会」と評価してくださった。あるメンバーからは「もう開拓を始めて10年以上も経過し、ある程度の人数も加えられてきたのに、まだ“開拓”と言うのですか?」と問われたことがある。私の答えは「はい」である。“初心者を得るために初心者に配慮する”というのは何年経過しても人数が増えても同じであって、それは開拓当時の心構えをいつまでも持っていたいということの表れである。牧師が変われば、また違う個性の教会になっていくであろう。それも受け留めていく必要がある。
先日、琵琶湖で洗礼式を行なった。実は浸礼(全身を水に沈める)は、礼拝後会衆を解散した後で行なわれることが多いが、滴礼(頭に水をつける)は礼拝の中で短時間に行えるので新来会者もそこに立ち合うことができ洗礼式を見る良い機会にもなる。私たちの教会では滴礼と潅水礼(頭に水を注ぐ)をミックスして行なっている。先日は川か湖での受洗を希望する方がいたので琵琶湖まで行った。「福音のためなら何でもする。」
心のオアシス 2024年9月15日
夏休みが終わり小学校の新学期が始まり、朝の登校時の旗振りの配置移動があった。これからは花園チャペルの前の広い道路から裏の倉庫に入るための抜け道付近に立つことになった。そこには横断歩道もなく前々から小学生が横断するのは危険だと感じていた場所である。旗振りの初日、一人の3年生位の男の子が私の前を通り過ぎてから振り向いて「この場所に立っていてくれると安心できます!」と敬語でお礼を言ってくれた。私は小学生からそのような言葉をかけられることを想定していなかったので驚きと共に感動しながら「そう言ってくれるからここに立っていて良かったよ~」と返答した。後で校長先生にそのことを報告したら「それってウチの子が言ったんですか?!」と驚いておられた。
私たちは人生の不安や心配な道に立って「恐れないでいいよ。心配しなくていいよ。何とかなるから!」と声をかけて支えてくれたら、また何も言わなくても共に歩き身を挺して危険から回避させてくれる方がいたら、あるいは歩けなくなり倒れ込んでしまう時、抱き上げて代わりに歩いてくれる方がいたらどんなに励ましになるだろうか?
詩篇121篇に「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」とある。これは表題が「都上りの歌」となっているのでエルサレムに巡礼の旅の途中で歌われたものである。エルサレムは天の御国の型として表現されるが、私たちも天の御国に向かって歩む旅人である。この地上での歩みをしっかりと支えてくださる方がいるなら安心できる。創造主を信じる者は、たとえ死の陰の谷を歩むとも恐れる必要はない。