礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2025年3月30日

 毎週土曜日は、恵先生と会堂の椅子に手を置きながら日曜日のためにお祈りしている。その中でも欠かしたことのない祈りは「神さまによる救いと癒しと解放と驚きと不思議を見させてください!」である。先週も突然受洗の申し出があり驚いた。癒しや問題解決の報告も受けた。また驚きと不思議は、アメリカからいつも私たちの教会のYouTubeをご視聴くださっている方が、わざわざ山梨県から未信者の甥っ子さんと姪っ子さんを連れて礼拝に出てくださった時に起こった。甥っ子さんは4月から京都の大学へ進学するという。聞けば何と花園チャペルの学生と同じ大学なのである。不思議な繋がりを感じた。もう一つの驚きは、毎週日曜日欠かさず礼拝に来ている近所の小学生がいるが、その母親が花園チャペルのメンバーと同じ小学校の幼馴染で同じクラスにもなったことがあり、家族ぐるみでユニバにも行ったことがあるという。母親は教会には一度も顔を出したことがないので、わからなかったようであるが、もう一年以上もそうとは知らずその幼馴染の娘と教会で顔を合わせていたことになる。まさに“It’s a small world!”(世間は狭い)である。
 この世界は天地宇宙を造られた神の緻密な計算の元で成り立っている。私たちはそれに気付いていないだけであって、神の偉大さは計り知れない故に我々の頭が追い付いていないだけである。宇宙一つとってみても、偉大な遠心力と求心力で支え合い、絶妙な距離によって保たれ、地球も絶妙な角度で傾いているので四季がある。そして全ての生き物の生や死にも意図的な神のご介入があることを感じる。
 もしこの全て計算され尽くされた神の手に委ねるなら安全安心しかない。何も小さな我々の頭で悩み心配するよりも神の手に委ねた方がずっと良い。起こっている神の不思議を見つけて、毎日が驚きと恵みの連続であるよう祈ろう。
 「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」(Ⅰコリント2章9節) 

心のオアシス 2025年3月23日

 ある経営者が、自分の会社の従業員に一般常識が身についていないことに気付き、プロとしてお客様に対する印象を上げるために社会人として最低限のマナーを教え組織改革を行なったが、その年から離職率が65%に達し、それから10年間で150人以上の社員が会社から去っていったそうだ。そして離れていった人たちのほとんどが“自分”のやり方を変えたくない人たちであったとのこと。その社長が気づいたことは、「教育では人は変わらない」ということだった。マナーやスキルを高めるための色々な研修を実施してきたそうだが、相手に変わる気がない限り、どんなに教育しても人は変わらなかったという。中には社長が借金の肩代わりをしたり、家庭問題のフォローをしたりしても、恩を仇で返すような形で去っていく人もいたようだ。
 先日ある他教会の人と話したときに、所属している教会には規則とかルールとか訓練みたいなものがありすぎて疲れたという話題があった。ガンバリズムが前面に出ていて神の愛とか恵みが見えなくなってしまい、頑張っていないと罪責感に陥るようになったそうだ。私は異端以外は、それぞれがキリストの体のどこかの部分を担っていると考えているので、それぞれの個性はあって良いと思っているが、“頑張る”ことが優先してしまって“神の愛と恵”が見えなくなってしまったら、世の中の会社とか学校と変わらなくなってしまう。「教育」とは教え育てると書くが、誰が教えるかによって、その方向性も変われば考え方も変わってしまう。本人が教育されたい気持ちがなければ無駄な時間になってしまうこともある。私はそのようなことを色々と考えながら牧会してきたが、やはり一番健全なのは神の愛によって“愛育”されることが一番だと信じている。神に愛されることがわかったら、それに反応したくなる。
 聖書の中のザアカイは、イエスさまと出会ってから劇的に変化した。それはイエスさまに教育されたからではない。罪人と食事などしてくれるわけがないと思っていたイエスさまが家に入ってきてくださった愛と赦しによって自発的に“騙す者”から“与える者”になったのである。

心のオアシス 2025年3月16日

 私にとっては神学校の後輩であり年齢的には28歳年上の人生の大先輩、そして教会では同労者であった高木國男先生が先週老衰のため88歳で天に召された。32年前私たち家族が南カルフォルニアで日系人教会を開拓していたが母教会に呼び戻されたときに後任として高木先生ご夫妻が来られた。その後、献身した息子さん夫婦が引き継ぎ母教会の会計担当牧師として戻ってこられ、一緒に教会に仕えさせていただいた。健康管理のために定期的にテニスをして一緒に汗を流した思い出もある。
 高木先生は日本IBMで長年お仕事をされ、突然55歳の時に退職して献身して神学校に入ってこられた。私はある時に、どうして早期に退職されたのかを聞いてみるとこのような答えが返ってきた。「実は当時IBMでは人件費を抑えるために人員削減が大規模に行われて、その波が私の部署にもきたんだよ。私はその部署の長だったので何十人もいる部下を、会社が決めた人数の早期退職を促すよう業務命令が出て、私に彼らの何人かを辞めさせる任務が与えられてしまってね・・・でも部下たちはまだ家庭を養っていかなければならない年齢の人たちばかりで私は良心が痛んでそれができなかったので会社にこう言ったんだよ。『私には子どもたちを育てている最中の彼らを路頭に迷わすことはできません。給料の高い私自身が代わりに辞めます。それでいいでしょ? その代わり私の部署の部下は一人も辞めさせないでください!』それで辞めたんだよ」それを聞いて私は先生の男気と愛の大きさに感動したのを覚えている。
 これがイエス・キリストの十字架の犠牲と繋がった。私たちは罪の故に滅び行く定めになったが、イエスさまは「父よ、彼らを赦してください!彼らは何をしているのかわからずにいるのです。私自身が十字架にかかって彼らの罪の身代わりになりますから、信じるだけで救われる道を彼らの与えてください!」
 高木先生は言葉で表現するのが苦手な方であったが、十分にその生き方を通して神の愛を表しておられた。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」(Ⅰペテロ3:18)

心のオアシス 2025年3月9日

 先週、平成生まれの若者たちに「小崎先生のジョークのセンス、ウチのお父さんと全く一緒で、昭和を感じます。」と言われた。たまにメッセージ前にジョークの掴みから入ることがある。先日は小学生も大爆笑するだろうと自信満々で話したが無反応だった。平成後期の子どもたちの笑いのツボは違ってきているようだ。ある若者がその時の礼拝動画を自分のおばあちゃんに送ったそうだが、返ってきた反応が「牧師先生のジョーク笑えた~」。やはり私の感覚は“昭和”なんだと思わされた瞬間だった。その前にメッセージの感想も欲しかったところだが・・・💦
 なんだかんだと言いながら私は日曜日の礼拝の最初の賛美の時間が恵まれる。勿論賛美で恵まれるのは言うまでもないが、そこには令和から昭和生まれの様々な世代の男女いて、共に神さまを礼拝している姿は天国を思わせられる。またランチ時間のダイニングルームの様子も楽しい。大人はコーヒーを飲みながら談笑し、学生は寝ている子もいれば中学生に勉強を教えている人もいる。小学生はベビーカステラや卵焼きを作って各テーブルに配って回ったり別室で楽器の練習をしたりして楽しんでいる。混沌としているが不思議な時間が流れている。天国の一部分を垣間見させていただいているようである。これは他所では体験することができない光景であり教会のフェローシップ(交わり)の特権だと思う。
 恐らく「天国」はこのような場所で、天地宇宙を造られた神を信じる者は、肉体を脱ぎ去ってしまえば(別の言葉で表現すると)召されてしまえば、自己実現することなく、嫉妬も憎しみや争いもなく疲れることもストレスもない、年齢も立場も経験も関係なく、何のわだかまりも無くなってしまう永遠の「天国」で王なるイエスさまを礼拝しフェローシップすることが究極の喜びとなる。完全な“神実現”が再現される場所で私たち本来のあるべき姿になることができる場所であると想像できる。
 「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章4節)

心のオアシス 2025年3月2日

 朝の旗振りをしていると、毎回「いつもありがとう」と言って挨拶する低学年の男の子が、先日何を思ったのか「いつもありがとう」と言いながら私にハグしてきた。私は突然の行動に驚きつつ「いつも感謝してくれてありがとね。嬉しいよ。気を付けて学校行っておいで」と抱きつかれている状態でキュンキュンしながら頭ポンポンしてあげた。すると一緒に登校していた他の友達が笑いながら「お前、何やってんねん~」と突っ込んでいた。この男の子は友達の笑いを取るためではなく、毎回お礼を言ってくることから本心からの行動だったと思っている。ボランティアでやっていることなので、特に寒い朝は休みたいという思いも出てくるが、ベストを尽くそうと立ち上がる。そしてこのような感謝をされたら労が報いられる思いと同時に、みな平等に挨拶して守ってあげたい気持ちではいるが、愛想の良い子には、もし自動車でも飛び込んで来ようものなら、自ら飛び込んででも阻止して守ってあげたい気持ちでいっぱいになる。それが人情というものではないかと思う。
 神さまも創造したすべての人に対して、無条件に一方的に愛してくださっていることは確かなことであるが、主に感謝しながら歩む人に対しては、もっとその恵みが流れていくようにされている。それを裏付ける聖書箇所にローマ書8章28節「万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあるが“万事が益”となるのはどのような人なのかということがその前に記されている。それは「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事が益となる」ということである。決して自分勝手に生きていても万事が益になるというのではない。神は私たちの自己中さえも用いて神の計画を進められるが、義なるお方でもある。罪や悪に対する裁きは必ず行われる。しかし「神を愛する者たち」すなわち神に信頼して、神の願いや計画に自分の身を委ねることを召しとし喜びとする人の人生は、どんなことがあっても益になるよう神さまが助けてくださるということである。ハグしてくれた男の子を通して色々なことを悟らせられた。感謝。

心のオアシス 2025年2月23日

 私は聖書66巻すべてを連続講解説教していくことを目標にして教会開拓を進めてきた。勿論、まだ聖書を知らない方々のことも意識しながら平易な言葉で説明しながらも深い世界を語り、必ず人生論的アプローチをするよう工夫してきた。聖書セミナーなど非公開になっている講義を含めると、レビ記を除いてあと1年ほどで全部を話したことになる。どんな説教法が良いかは牧師の考え方によって違うので断言はできないが、こうやって私自身が全体を学ぶことによって発見したことは、聖書はただの書物ではないということ。神の存在、血の犠牲によって神の前に出ることができること、罪の贖い(救い)がキリストによって与えられること、それを“信仰”によって受け取ることができることが創世記の初めから“前提”となって書かれている。そしてそれは最後の黙示録まで一本の線で繋がっている。旧約から新約まで約1500年もの開きがあり時代や文化、当然著者も違うにもかかわらず、お一方の意志によって書かれたことがわかる。明らかに「聖書は神の霊感によって書かれた」(Ⅱテモテ3:16)とある通り時代を超えた神の奇跡の書である。
 最近、学生を含めた教会メンバーの方々の中には聖書通読を始められた方が多くいらっしゃる。先ほど書いた“前提”を頭に入れて読み始めると腑に落ちることが多くなる。理解できないことも沢山あるかもしれないが、ふわっと全体に何が書いてあるかを理解するだけでも価値がある。飢え乾く心を持って読み始めると聖霊さまが助けてくださり、その中で輝く言葉を見つけて慰めや励ましや勇気が与えられることもある。深い内容は牧師のメッセージを通して理解していけばいい。
 先日あるお店に行ったときに「とにかくやってみよう。何とかなるから」など励まされる紙が壁に何枚か貼ってあった。心に響く名言やことわざは巷に溢れているが、その言葉の出所がどこなのか、誰が言ってそれを保証してくれるのかを知ることによって大きな違いが生まれる。
 天地宇宙を造られた神の言葉には間違いはないという確信から聖書の言葉を握ると鬼に金棒。本当に私も支えられ今日に至る。聖書を読もう!

心のオアシス 2025年2月16日

 渡辺和子さんの著書の中に「愛と祈りで子どもは育つ」というのがある。このタイトルを見たときに全くその通りだと思った。そしてこれは親子だけの関係ではなく教会も同じことが言えると考えてきた。しばしば親のエゴが強すぎると子供は反発するようになる。教会の牧師も高い理想を押し付けると人々はついていけなくなる。もちろん神が我々に与えられたこの世での使命や存在目的は伝えていかなければならないが、それができていないからと言って咎めるのは指導者の仕事ではない。
 私の信念は、神の愛を体験した人は強制しなくてもイエスさまに何らかの形でお仕えしたい、捧げたいという願いが起こるようになるということ。そしてそのために牧師としてできることは、神の道具として主の愛を伝え続け、聖霊さまが一人一人の心にリアルに働きかけてくださることを祈るのみである。
 先週の日曜日の夕方、チャペルに残っていた高校生と話す時間が与えられた。お互いが受けた“神さまからの恵み”や教会に繋がっておられる人たちの不思議な変化を語り合ったのであるが、まさに神が様々な人間関係の絡みも用いながら、あらゆる手段でご自分が創造された愛する一人一人を最善に導いておられることを実感しつつ時間を忘れて2時間も証合戦していた。3回のメッセージの後であったが全く疲れはないどころか、ますます元気が与えられた。エマオの途上でイエスさまとは気付かずに一緒に話していた弟子たちが後になって「お互いの心が燃えた」と同じ経験をさせていただいた。“神の恵”を語り合うと恵みが満ち溢れる。これが本当のコイノニア(フェローシップ)であり交わりである。「今、関西カルバリーはリバイバルが起こっているのではないですか?」と質問されたが「アーメン」である。確実に神さまがどの年齢層にも触れていてくださっている。ただこの波の乗れていない人もいるかもしれないが心配する必要はない。それぞれの成長の度合いは違うが、神の流れのほとりにいる限り、確実に主の手の中にある。「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:6)

心のオアシス 2025年2月9日

 先週の「心のオアシス」にも書いたが、人には“魂”(心・精神)と“肉”と“霊”の部分があって、それぞれは違うが切り離すことはできなくて、一人の人間を形成している。魂と肉の部分は、この世の中でもある程度一時的には満たすことはできると考えている。リラックスしたり趣味をしたり飲食することによってそれが可能となるであろう。しかし、霊の部分の補給をしていない人がほとんどである。牧師はこの“霊”の補給をしていただくために労することが勤めだと思っている。 
 私は牧師になる前に「伝道者は言葉で福音を伝えているが、障がいがあったり、言葉を理解することができない人たちは一生救いにあずかることはできないのではないか?」と疑問に思ったことがあった。しかし牧師となってからは、その考えは全くなくなった。たとえ牧師の説教が理解できなくても礼拝の中で、その“霊”の部分が理解し喜んでいる世界があることを悟ったからである。私自身も中学2年生の時に初めて教会の門をくぐった。説教は全く理解できなかったが“霊”の部分が喜び神の存在を認めたことを覚えている。それ故に教会に繋がった。
 一昨年の大晦日に病床洗礼を受けたSさんは、キリスト教に強い抵抗し家族の洗礼にも強く反対していた方であった。晩年に身体を弱められ入院されてからも反発しておられた。しかし気力も失せて肉体も力を失ったときに、その“霊”の部分が発動したのである。すなわち「神を求めるしか救いはない」ことを“霊”が感じ取り、イエスさまを求め信じ受け入れられたのである。誰からか説教されたわけではない。ただクリスチャンの家族と教会の祈りがあっただけである。そして奥様の「イエスさま信じて洗礼受けたら?」との言葉に応答されたのである。
 先日はある方が目を腫らしておられ花粉症かと思いきや、礼拝中ずっと感動で涙が出ていたという。最近は教会の前を通るだけで涙が出てくるという人もおられた。私も説教中に涙目になり声を詰まらせることがある。それは悲しいからではない。神の恵みと愛が“霊”の部分に共鳴して感動するのである。礼拝は霊のタンクを満たす唯一の方法である。

心のオアシス 2025年2月2日

 ヨハネによる福音書 4章24節に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。という御言葉がある。これはサマリヤの女性が「私のご先祖さまは、礼拝すべき場所はゲリジム山だと言っていましたが、ユダヤ人はエルサレムだと言っている。どちらが正しいのですか?」という話題の中でのイエスさまの答えだった。要約すると「礼拝は霊と真実とをもってするべきものであるから場所は関係ない」と言われたのである。ここでは“礼拝すべき場所”に関しての問答だったが、これを深めるとある世界が開かれていく。創世記1章26節に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とあるが、“我々”と複数であることから聖書に現れる神の形である“父”“御子”“聖霊”であると考えることができる。神は魂・肉・霊によって一つである。ということは私たちもその部分を持ち合わせて一人の人間として生きているということであろう。魂とは“心・精神”のことであることは私たちも感覚的に分かるだろう。肉の部分に関しても実際に見て触れているので認めることはできる。霊の部分に関しては実際に見えるものではないので分からないかもしれないが、聖書には「神の息(霊)が吹き入れて土が生きるものとなった」(創世記2章)と書かれていることから“霊”の部分も持ち合わせていると考えられる。実際、人はどんなに文明科学が進歩しても、無神論者であっても窮地に追い込まれると祈るという。“何か偉大な存在”を感じていることは確かである。そしてこの“霊”には子どもとか大人とか関係なく与えられているものである。子どもだから、知識がないから、経験が浅いから“神”を感じないわけではない。神は誰でも神を感じることができるように造られた。
 先日の賛美集会に参加していた小学生が終り頃に泣いていた。私は心配して「悲しいことや嫌なことがあったの?」と問うと首を横に振りながら「イエスさまを感じた」と答えが返ってきた。その子も新しい賛美が多くて歌えなかったが、それでも主が“霊”の部分に触れておられる様子に驚いた。霊が満たされて人は安息を得ることができるのである。

心のオアシス 2025年1月26日

 マズローの欲求5段階説とは、一番下が「生理的欲求」(衣食住)。その上が「安全の欲求」(集団に属することでリスクや危険から身を守る)。その上が「社会的欲求」(他者からの評価)。この上に「承認欲求」(他者からの尊敬)が出てきて「自己実現」(自己の存在意義を実現)と言われていて、更に上には「自己超越」という概念がある。この理論は一番下の基本的欲求が満たされることで、次の欲求が行動を支配するというのだ。
 ある政治家が講演会でこの理論を用いてこんな話をしていた。「ここにおられる方の多くは政治に関わっておられますが、皆さんはこの5大欲求のどのあたりの欲求で政治と向き合っておられますか? もしかしたら承認欲求とかなのかなと思います。国会議員の方々を見ているとそう思います。できれば自己実現であってほしいですし、理想はそれを超えた所(自己超越)の欲求で政治をして欲しいなというのが個人的な思いです。この欲求の中にテイカー(Taker)とギバー(giver)という言葉があって、テイカーというのは、もらって初めて喜びを得るという方だそうです。だから見返りがないと頑張れないのです。普通と言えば普通です。でも政治においては究極的にギバーの方がいいんじゃないかと思います。それは無責任なことをしろという意味ではなくて、誰かに褒めてもらいたい、評価してもらいたいではなく、これをしなきゃいけないんだという志しで、得るものがなく、逆に失うものばかりでも自分がやるんだと、ギバーになるんだという心構えがあった方がいいんじゃないかなという思いです。」この方はクリスチャンではないが共感できる部分も少しある。
 この理論の“自己超越”というのは、“神実現”を当てはめるのが私にとってスッキリする。そしてこの方の後半のギバーのくだりは、政治家だけではなく、すべての人がそうであれば、もっとスムーズに世の中は進んでいくのではないかと思わされる。そしてマズローの理論では、下の層の欲求が満たされると次のステージ欲求に上がるというのであるが、“自己超越(神実現)”の領域は段階を踏まなくても飛び越えることができる。何故なら私たちはその為に造られているからである。