礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2025年4月27日

 現在、礼拝では創世記を順番に学んでいてアブラハムの人生から色々なことを学ぶことができる。今から4千年前の人物であるが、これはただの昔話ではなく、現代に生きる私たちとは関係のない話でもない。今の私たちと重ね合わせることができる。そうすることによってより良い歩み方のヒントにもなる。人の弱さや罪深さは昔も今も変わっていない。その一つが「時」に関してである。新旧約聖書に出てくる人たちの失敗の多くは焦りや急ぐことによって引き起こされてきた。“信仰の父”と呼ばれるアブラハムも例外ではなかった。「あなたの子孫を通してすべての国民を祝福する」との約束を神さまからいただいても、10年間妻のサラから子が与えられないのを見て自分の僕を後継者にしようした。しかし「あなたから生まれ出る子が約束の子だ」と言われてから更に13年待った。年齢も進んでいくし、サラも月のものは止まってしまっている状況の中で彼らが考え出した計画は、女奴隷であったハガルからアブラハムの子を産ませることであった。それによって生まれたのがイシマエルであるが、実はこの焦りによる失敗が、今の中東問題を引き起こすきっかけとなった。神の「時」はまだきていなかったのである。
 私たちは、どうしても急いでしまう傾向にある。早く癒されたい。早く問題が解決されたい。それ故に感情面が先だってしまって問題をさらに大きくしてしまうことだってある。勿論、早く対策を練らなければならないことは早急に対処するべきであろう。しかしどう頑張ってみてもどうにもならないことに関しては祈って待つことの大切さを学ばされている。神の「時」は私たちには手遅れに見えることもあるが、神の「時」は私たちにとって最善なのである。信仰をもって“神の時”を待ちたい。
 私はラインホルド・ニーバーの祈りをして待つことにしている。「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知を与えてください。アーメン」

心のオアシス 2025年4月20日

 先週は受難週に相応しく“石”が動く週であった。教会のメンバーはご存知の方が多いが、私の腎臓には結石があり、10年以上もそこに居座ったままで、もう動かないものだと思っていたが先週の日曜日の夜にその時は来た。何度か尿管結石をしているので、その痛み方は知っている。しかし今回は鎮痛剤を使っても痛みが治まらない。明け方に救急搬送され病院へ。検査の結果は今まで動く気配のなかった6ミリ大にもなる“石”が尿管に移動していたのである。自然排出の可能性は60%で、経過観察して出なければステントを入れて内視鏡による除去手術をすることになった。まだ石持ちであって、いつ痛みが出るかはわからない、ある意味爆弾を抱えているような状態であるがお祈りいただきたい。
 心配してくださっている方もいるのであえて私事を書いてしまったが、それとは比べ物にならないほど重要で世界の歴史を変えてしまった“石”は2千年前のイエス・キリストの“墓石”である。私たちの醜い罪・汚れをすべて背負って十字架につけられ死んで墓に葬られた。ユダヤ人の安息日直前であったので遺体を降ろして香料や防腐剤を入れる時間がなく墓に入れられてしまった。当時は岩に穴が開けられた墓で、入口は、大きな石によって塞がれ、盗まれないように封印までされ、門番まで立っていた。日曜日の朝、女性たちは遺体の処理を完了するため墓に向かいながら「誰があの大きな石を動かしてくれるのでしょうか?」と思案していた。しかし目を上げてみるとすでに石は転がしてあった。
 これは私たちにとって大きな励ましとなる。私たちに能力がなくても、手持ちがなくても、若くなくても、主のために生きる選択をしている人たちには奇跡を見せてくださるし、何とか成るようにしてくださる。神はそのような人たちを用いてご自身の栄光を現わすお方なのである。
 私が尿管結石の激痛の中で与えられた言葉は「神は不可能を可能にする」である。相変わらず他者の癒しを求めながら恵まれていた。
 「人間にとって出来ないことでも、神にとって不可能はない」(マタイ19:26) これを握って今週も歩みたい。ハッピー・イースター(復活祭)!

心のオアシス 2025年4月13日

 マクドウェル氏が回想録でこう書いている。12歳の時にリトルリーグに所属していて初試合が始まる前に、彼の父親がコーチにアイスクリーム券を渡しながら「コーチ、子どもたちにアイスクリームを食べさせてあげてください」と言った。するとコーチは「どうもありがとうございます。初勝利を上げたら食べさせましょう」と答える。すると父親は頭を横に振りながら言った。「最初の試合に負けたら食べさせてください。私は子どもたちが勝つより努力したことを認めてあげたいのです。何よりも子どもたちが神の似姿に造られた存在であることを喜びたいのです。それは野球の勝敗とは何の関係もないことです。息子が一生勝てなかったとしても、私は息子を変わりなく愛して受け入れるつもりなのです。」その時自分の父親が無条件に受け入れてくれていることを悟ったという。
 世の価値観から考えると勝利することが褒美をいただくことができる条件だと思うが、そうではなく無条件に愛を与えるとは天地宇宙を造られた神のやり方に似ている。私は無条件の愛が与えられなければ人間は恐れや不安しか育まれないと考えている。なぜなら条件を満たさなければ受け入れられないからである。
 先日一人の小学生が3年ほど前から動悸があり最近胃に違和感を覚え病院でストレス性のものであるとの診断をされたと話してくれた。3年前というとその子の親が離婚して転校を余儀なくされ見知らぬ土地に引っ越してきた時期である。小さな心で起こっている様々な状況を我慢しながらストレスを溜め込んできたのであろう。恐らく誰にも甘えることができなくて、幼い妹もいるので我慢しながら生活しているのであろう。私はそれを察知して「先生には遠慮なく甘えてもいいんだよ。何でも言って」と話すと、しばらくして躊躇しながらも「こんなこと頼んだことないんやけどサーティーワンのアイスが食べたい」「わかった買ってあげる!」と約束すると「何もしてないのに、どうして買ってくれるん?」と問うてくる。「何かしたからではなく、あなたの存在が大切で大好きだからだよ」と答えた。「あなたはわたしの目には高価で尊い」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2025年4月6日

 「他人が夢をかなえるのを手伝いなさい。そうすれば、あなた自身の夢もかなうでしょう」そう言ったのは、アメリカの作家レス・ブラウン氏。人が喜ぶ夢、しかも喜ぶ人が多ければ多いほど夢は叶いやすくなり、もしまだ夢が見つからないのなら、人の夢を応援してみたら良いという。
 ドイツの画家であり版画家であるアルブレヒト・デューラー氏の描いた「祈りの手」のエピソードが良い例であろう。ドイツのニュルンベルグという町に「デューラー」と「ハンス」という若者がいた。二人とも貧しい家の生まれで画家になりたいという夢を持っていた。二人は版画を彫る見習いとして働いたが、仕事が忙しいだけで絵の勉強ができない。ある日、ハンスがデューラーに提案をした。「このままでは二人とも夢を捨てなければならないので、僕がまず働いて君のためのお金を稼いで助けるから勉強して欲しい。それが終わったら交代しよう」デューラーは感謝してイタリアのベネチアへ絵の勉強に行き、ハンスは沢山稼げる鉄工所で勤めるようになった。デューラーは寝る時間も惜しんで勉強し、ハンスは早朝から深夜までハンマーを振り上げ働きお金を送り続けた。年月は過ぎていったが、ハンスは「自分が納得するまでしっかり勉強してほしい」と手紙を書き送金し続けた。
 数年後ようやくデューラーは高い評価を受けるようになり故郷へ戻ってきた。今度はハンスに勉強に行ってもらおうと再会して彼の手を握った時、呆然とした。なんとハンスの両手は長い力仕事のためにゴツゴツになり、絵筆が持てない手になってしまっていた。自分の成功が友人の犠牲の上に成り立っていることを知り涙が溢れた。後日どうにかしてハンスに償いたいと思い家を訪ねた時に目撃したのは、彼が歪んでしまった手を合わせてデューラーの祝福を願い祈る姿であった。祈りが終わった後、デューラーは彼に懇願した。「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだ。君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」こうして1508年に友情と感謝の心がこもった有名な「祈りの手」が生まれた。他者の祝福と夢のために仕え祈っていきたい。

心のオアシス 2025年3月30日

 毎週土曜日は、恵先生と会堂の椅子に手を置きながら日曜日のためにお祈りしている。その中でも欠かしたことのない祈りは「神さまによる救いと癒しと解放と驚きと不思議を見させてください!」である。先週も突然受洗の申し出があり驚いた。癒しや問題解決の報告も受けた。また驚きと不思議は、アメリカからいつも私たちの教会のYouTubeをご視聴くださっている方が、わざわざ山梨県から未信者の甥っ子さんと姪っ子さんを連れて礼拝に出てくださった時に起こった。甥っ子さんは4月から京都の大学へ進学するという。聞けば何と花園チャペルの学生と同じ大学なのである。不思議な繋がりを感じた。もう一つの驚きは、毎週日曜日欠かさず礼拝に来ている近所の小学生がいるが、その母親が花園チャペルのメンバーと同じ小学校の幼馴染で同じクラスにもなったことがあり、家族ぐるみでユニバにも行ったことがあるという。母親は教会には一度も顔を出したことがないので、わからなかったようであるが、もう一年以上もそうとは知らずその幼馴染の娘と教会で顔を合わせていたことになる。まさに“It’s a small world!”(世間は狭い)である。
 この世界は天地宇宙を造られた神の緻密な計算の元で成り立っている。私たちはそれに気付いていないだけであって、神の偉大さは計り知れない故に我々の頭が追い付いていないだけである。宇宙一つとってみても、偉大な遠心力と求心力で支え合い、絶妙な距離によって保たれ、地球も絶妙な角度で傾いているので四季がある。そして全ての生き物の生や死にも意図的な神のご介入があることを感じる。
 もしこの全て計算され尽くされた神の手に委ねるなら安全安心しかない。何も小さな我々の頭で悩み心配するよりも神の手に委ねた方がずっと良い。起こっている神の不思議を見つけて、毎日が驚きと恵みの連続であるよう祈ろう。
 「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」(Ⅰコリント2章9節) 

心のオアシス 2025年3月23日

 ある経営者が、自分の会社の従業員に一般常識が身についていないことに気付き、プロとしてお客様に対する印象を上げるために社会人として最低限のマナーを教え組織改革を行なったが、その年から離職率が65%に達し、それから10年間で150人以上の社員が会社から去っていったそうだ。そして離れていった人たちのほとんどが“自分”のやり方を変えたくない人たちであったとのこと。その社長が気づいたことは、「教育では人は変わらない」ということだった。マナーやスキルを高めるための色々な研修を実施してきたそうだが、相手に変わる気がない限り、どんなに教育しても人は変わらなかったという。中には社長が借金の肩代わりをしたり、家庭問題のフォローをしたりしても、恩を仇で返すような形で去っていく人もいたようだ。
 先日ある他教会の人と話したときに、所属している教会には規則とかルールとか訓練みたいなものがありすぎて疲れたという話題があった。ガンバリズムが前面に出ていて神の愛とか恵みが見えなくなってしまい、頑張っていないと罪責感に陥るようになったそうだ。私は異端以外は、それぞれがキリストの体のどこかの部分を担っていると考えているので、それぞれの個性はあって良いと思っているが、“頑張る”ことが優先してしまって“神の愛と恵”が見えなくなってしまったら、世の中の会社とか学校と変わらなくなってしまう。「教育」とは教え育てると書くが、誰が教えるかによって、その方向性も変われば考え方も変わってしまう。本人が教育されたい気持ちがなければ無駄な時間になってしまうこともある。私はそのようなことを色々と考えながら牧会してきたが、やはり一番健全なのは神の愛によって“愛育”されることが一番だと信じている。神に愛されることがわかったら、それに反応したくなる。
 聖書の中のザアカイは、イエスさまと出会ってから劇的に変化した。それはイエスさまに教育されたからではない。罪人と食事などしてくれるわけがないと思っていたイエスさまが家に入ってきてくださった愛と赦しによって自発的に“騙す者”から“与える者”になったのである。

心のオアシス 2025年3月16日

 私にとっては神学校の後輩であり年齢的には28歳年上の人生の大先輩、そして教会では同労者であった高木國男先生が先週老衰のため88歳で天に召された。32年前私たち家族が南カルフォルニアで日系人教会を開拓していたが母教会に呼び戻されたときに後任として高木先生ご夫妻が来られた。その後、献身した息子さん夫婦が引き継ぎ母教会の会計担当牧師として戻ってこられ、一緒に教会に仕えさせていただいた。健康管理のために定期的にテニスをして一緒に汗を流した思い出もある。
 高木先生は日本IBMで長年お仕事をされ、突然55歳の時に退職して献身して神学校に入ってこられた。私はある時に、どうして早期に退職されたのかを聞いてみるとこのような答えが返ってきた。「実は当時IBMでは人件費を抑えるために人員削減が大規模に行われて、その波が私の部署にもきたんだよ。私はその部署の長だったので何十人もいる部下を、会社が決めた人数の早期退職を促すよう業務命令が出て、私に彼らの何人かを辞めさせる任務が与えられてしまってね・・・でも部下たちはまだ家庭を養っていかなければならない年齢の人たちばかりで私は良心が痛んでそれができなかったので会社にこう言ったんだよ。『私には子どもたちを育てている最中の彼らを路頭に迷わすことはできません。給料の高い私自身が代わりに辞めます。それでいいでしょ? その代わり私の部署の部下は一人も辞めさせないでください!』それで辞めたんだよ」それを聞いて私は先生の男気と愛の大きさに感動したのを覚えている。
 これがイエス・キリストの十字架の犠牲と繋がった。私たちは罪の故に滅び行く定めになったが、イエスさまは「父よ、彼らを赦してください!彼らは何をしているのかわからずにいるのです。私自身が十字架にかかって彼らの罪の身代わりになりますから、信じるだけで救われる道を彼らの与えてください!」
 高木先生は言葉で表現するのが苦手な方であったが、十分にその生き方を通して神の愛を表しておられた。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」(Ⅰペテロ3:18)

心のオアシス 2025年3月9日

 先週、平成生まれの若者たちに「小崎先生のジョークのセンス、ウチのお父さんと全く一緒で、昭和を感じます。」と言われた。たまにメッセージ前にジョークの掴みから入ることがある。先日は小学生も大爆笑するだろうと自信満々で話したが無反応だった。平成後期の子どもたちの笑いのツボは違ってきているようだ。ある若者がその時の礼拝動画を自分のおばあちゃんに送ったそうだが、返ってきた反応が「牧師先生のジョーク笑えた~」。やはり私の感覚は“昭和”なんだと思わされた瞬間だった。その前にメッセージの感想も欲しかったところだが・・・💦
 なんだかんだと言いながら私は日曜日の礼拝の最初の賛美の時間が恵まれる。勿論賛美で恵まれるのは言うまでもないが、そこには令和から昭和生まれの様々な世代の男女いて、共に神さまを礼拝している姿は天国を思わせられる。またランチ時間のダイニングルームの様子も楽しい。大人はコーヒーを飲みながら談笑し、学生は寝ている子もいれば中学生に勉強を教えている人もいる。小学生はベビーカステラや卵焼きを作って各テーブルに配って回ったり別室で楽器の練習をしたりして楽しんでいる。混沌としているが不思議な時間が流れている。天国の一部分を垣間見させていただいているようである。これは他所では体験することができない光景であり教会のフェローシップ(交わり)の特権だと思う。
 恐らく「天国」はこのような場所で、天地宇宙を造られた神を信じる者は、肉体を脱ぎ去ってしまえば(別の言葉で表現すると)召されてしまえば、自己実現することなく、嫉妬も憎しみや争いもなく疲れることもストレスもない、年齢も立場も経験も関係なく、何のわだかまりも無くなってしまう永遠の「天国」で王なるイエスさまを礼拝しフェローシップすることが究極の喜びとなる。完全な“神実現”が再現される場所で私たち本来のあるべき姿になることができる場所であると想像できる。
 「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章4節)

心のオアシス 2025年3月2日

 朝の旗振りをしていると、毎回「いつもありがとう」と言って挨拶する低学年の男の子が、先日何を思ったのか「いつもありがとう」と言いながら私にハグしてきた。私は突然の行動に驚きつつ「いつも感謝してくれてありがとね。嬉しいよ。気を付けて学校行っておいで」と抱きつかれている状態でキュンキュンしながら頭ポンポンしてあげた。すると一緒に登校していた他の友達が笑いながら「お前、何やってんねん~」と突っ込んでいた。この男の子は友達の笑いを取るためではなく、毎回お礼を言ってくることから本心からの行動だったと思っている。ボランティアでやっていることなので、特に寒い朝は休みたいという思いも出てくるが、ベストを尽くそうと立ち上がる。そしてこのような感謝をされたら労が報いられる思いと同時に、みな平等に挨拶して守ってあげたい気持ちではいるが、愛想の良い子には、もし自動車でも飛び込んで来ようものなら、自ら飛び込んででも阻止して守ってあげたい気持ちでいっぱいになる。それが人情というものではないかと思う。
 神さまも創造したすべての人に対して、無条件に一方的に愛してくださっていることは確かなことであるが、主に感謝しながら歩む人に対しては、もっとその恵みが流れていくようにされている。それを裏付ける聖書箇所にローマ書8章28節「万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあるが“万事が益”となるのはどのような人なのかということがその前に記されている。それは「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事が益となる」ということである。決して自分勝手に生きていても万事が益になるというのではない。神は私たちの自己中さえも用いて神の計画を進められるが、義なるお方でもある。罪や悪に対する裁きは必ず行われる。しかし「神を愛する者たち」すなわち神に信頼して、神の願いや計画に自分の身を委ねることを召しとし喜びとする人の人生は、どんなことがあっても益になるよう神さまが助けてくださるということである。ハグしてくれた男の子を通して色々なことを悟らせられた。感謝。

心のオアシス 2025年2月23日

 私は聖書66巻すべてを連続講解説教していくことを目標にして教会開拓を進めてきた。勿論、まだ聖書を知らない方々のことも意識しながら平易な言葉で説明しながらも深い世界を語り、必ず人生論的アプローチをするよう工夫してきた。聖書セミナーなど非公開になっている講義を含めると、レビ記を除いてあと1年ほどで全部を話したことになる。どんな説教法が良いかは牧師の考え方によって違うので断言はできないが、こうやって私自身が全体を学ぶことによって発見したことは、聖書はただの書物ではないということ。神の存在、血の犠牲によって神の前に出ることができること、罪の贖い(救い)がキリストによって与えられること、それを“信仰”によって受け取ることができることが創世記の初めから“前提”となって書かれている。そしてそれは最後の黙示録まで一本の線で繋がっている。旧約から新約まで約1500年もの開きがあり時代や文化、当然著者も違うにもかかわらず、お一方の意志によって書かれたことがわかる。明らかに「聖書は神の霊感によって書かれた」(Ⅱテモテ3:16)とある通り時代を超えた神の奇跡の書である。
 最近、学生を含めた教会メンバーの方々の中には聖書通読を始められた方が多くいらっしゃる。先ほど書いた“前提”を頭に入れて読み始めると腑に落ちることが多くなる。理解できないことも沢山あるかもしれないが、ふわっと全体に何が書いてあるかを理解するだけでも価値がある。飢え乾く心を持って読み始めると聖霊さまが助けてくださり、その中で輝く言葉を見つけて慰めや励ましや勇気が与えられることもある。深い内容は牧師のメッセージを通して理解していけばいい。
 先日あるお店に行ったときに「とにかくやってみよう。何とかなるから」など励まされる紙が壁に何枚か貼ってあった。心に響く名言やことわざは巷に溢れているが、その言葉の出所がどこなのか、誰が言ってそれを保証してくれるのかを知ることによって大きな違いが生まれる。
 天地宇宙を造られた神の言葉には間違いはないという確信から聖書の言葉を握ると鬼に金棒。本当に私も支えられ今日に至る。聖書を読もう!