モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーであったにも関わらず、神がかつて与えると言われたカナンに入ることができなかった。エジプトから民を引き連れ脱出し40年かけて辿り着いたカナンの地を目前にして召され、次世代の人たちが入っていったのです。入れなかった理由は民数記に、モーセは信仰によってではなく自分の感情まかせに言動してしまったことが原因だとされている。本来ならばモーセの功績からいくと無事にカナンの土地に入れてあげることが人間の情であるが、神さまの情と人間の情には違いがあることがわかる。非情に思えるが、それが神の栄光を表さない罪に対する裁きの実体なのです。私たちは襟を正していかなければならない。モーセがネボ山からカナンの土地を見渡している時に、「あなたはそこに入ることはできない」と神さまからの声がありました。しかしそこにはモーセが言い訳したり、情状酌量を求めたりはしている姿は見受けられない。私の想像であるが、恐らくモーセは自分の言動を反省しつつ、この壮大な歴史は自分だけで完結するものではないことを意識するようになり、自分はあくまで脇役であり神が主役だと考え、神がなさることにただ粛々と従っていこうと覚悟を決めたのだと思われる。私はこの“信仰の潔さ”はこの地上での人生で大きな助けになるのではないかと考えている。
昨年までの9年間の石切での伝道では、神さまは遠方の方々を集めてくださった。しかし地元の人たちはほぼ来なかった。花まるキッズクラブなど楽しいイベントを知恵と労力を尽くしてしてきたが、日曜学校の子どもたちも集まらなかった。しかし花園の地では奉仕者を募らなければならないほど真逆のことが起こっている。では石切での9年間は無駄であったのか? 私はそうは考えない。難しい時期があっての今であり、神さまはそれぞれの季節を各個人にも教会にも与えられておられるのだと確信している。もっと“人生の季節”を楽しもうではありませんか!