私たちが生きているこの世は、過去よりも確かに豊かにはなりましたが、では過去より幸せになったでしょうか? 誰もが自分の権利を主張し、それらを手放そうとしません。できるだけ多くの物を所有し、この世が求める価値に合わせて、自分と家族が魅力的な人生を生きることで、成功した人だと評価されることを願っています。しかし、創造主なる神さまは、ご自身の権利をすべて捨ててこの世に来られました。これがキリスト教なのです。自分を軽んじる人の鼻をへし折るために神さまを信じ、自己実現するために、力を与えて欲しいので神さまを信じ、この世で生き延びるためにキリストを信じるのではありません。もしそうならば、それはシャーマニズム(超自然的・霊的存在との交渉を中心とする宗教様態。占・予言・病気治療などを行う宗教現象。)と同じです。
 ファ・ジョンブ牧師が、ある神学校でのメッセージの中で、このように献身者たちに呼びかけました。「昨今、誰もが牧会に成功したがります。大きな教会、有名な牧師、多くの著書、影響力のある人になることを、誰もが望みます。しかし、私たちが知っている福音の中に、私たちが知っているイエスさまの人生のどこに、そんなものがあるでしょうか?!」
 これは、すべての献身者や教会、信徒たちが肝に銘じておかなければならないメッセージだと思います。勿論、目標を持ったり、欲しい物を手にいれることを願ってはいけないわけではありません。それも神さまがこの世に与えられた恵みです。しかし、求める事柄の優先順位とその目的が、“自分”が中心になると間違った方向へ進むことになります。
 新約聖書の13の書簡を書いたパウロは、学歴においては当時最高の学者であったガマリエルの門下生であり、文学都市であったキルキヤのタルソ出身で、幼い時からエルサレムに留学した優れた人材でした。経歴でも最高のグループに属した律法学者であり、特権階層であったパリサイ人であり、ローマの市民権も所有していた出世街道まっしぐらのエリートでした。このような彼が福音を受けてから、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの方が勝る故に、自分が今まで持って味わっていたすべての特権を、“塵あくた”だ(ピリピ3:8)と言いました。
 福音の価値は、信じて体感しないとなかなかわかりません。しかし、不足があってもなくても満たされることは確かです。あなたも是非!