私が約30年の牧師としての歩みの中で感じることがあります。それは多くの人たちが間違った信仰観を持っているということです。その一つが、「問題がある人、弱さを覚える人が教会へ行く」という考えです。それらのことが教会へ行くキッカケになることは否定しませんが、本来は、それが教会へ行く目的ではないのです。教会へ人々が行くのは、ズバリ神さまが私たち人間を、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするように造られたからです。ですから、神さまを礼拝するのは人間として当たり前のことなのです。決して問題や弱さがあるからではありません。
コップが作られる目的は何でしょうか? それは飲み物を入れるためであります。製作者は、コップに使命を与えています。たとえそのコップが大きくても、小さくても、陶器であっても、紙であっても、プラスチックであっても、それぞれは同じ使命が与えられています。自分はステンレス製の丈夫なコップだから水を入れる必要はない、などとは言えないのです。同じように人間も、強いとか、弱いとか、能力があるとか、ないとか、そのようなことは関係なく、それぞれがそれぞれの形で、神さまを礼拝し、賛美し、お従いするために造られているのですから、それ以外の使用目的はないと考えても良いでしょう。使用目的を間違っていると、その個人に、やがては社会に歪みが出てくるようになるのです。
もう一つの勘違いは、「奇跡が起こったら信じよう」という考えです。クリスチャンの信じている神さまは、私たちの願いや計画を実現するために存在しているのではありません。むしろ、神さまの願いや計画が実現されるために、私たちの方が用いられている立場なのです。人間が造ったものには、それぞれの目的があり、製作者が意図した目的のために使用される時に、その物の価値が出てきます。もし目的以外に用いられ始めると、それは凶器にもなりえます。私たちが、「他人に迷惑をかけなければ、自分の好きなように生きて何が悪い?」と言って、創造主が与えてくださった目的に生きないことを、聖書は「罪」と呼んでいます。
「たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。」(ヘブル6:7・8)
神の目的のために生かされたいですね。