仲むつまじく暮らしている家族がいた。この家族は、3坪ほどの狭い部屋に住んでいた。ある晩、家具があちこちに置かれている狭い部屋に、家族4人がやっとからだを重ねながら横になっていた。ところが、縦に並んで寝ると、背の高い父親はまっすぐにからだを伸ばして寝ることができるがひどく狭い。横に寝ると3人はゆったりと眠れるが、父親はえびのように背中を丸めて寝なければならない状態であった。家族は丸くなって座り、皆が楽に寝られる方法を模索した。しばらく悩んだ末、流し台とオーディオの間にある、33センチの空間を発見した。父親がそこに足を伸ばして寝れば、えびのように寝なくても大丈夫であった。父親は足を伸ばして寝ることができる空間があることに感謝した。
今は広い家に引越し、そのようなことで悩む必要はなくなったが、その父親は、小さなことでも簡単に不平を言う自分の姿を省みて、小さなことに感謝しながら幸せに暮らしていたそのころが懐かしいと言う。本当の感謝とは、環境によるのではなく、心がへりくだっている時にささげることができるものなのである。(ジョン・クゥアン著より引用)
私たちはある意味、苦労している時の方が、幸せなのかもしれない。たったの33センチの空間ができただけで、感謝して喜んでいることができるのですから・・・同じように私たちがどん底にいる時には、這い上がるのみなので実は希望があります。小さな光に喜ぶことができます。でも、光が大きくなってくると、それが当たり前になってしまい、光があること自体に感謝をする機会が少なくなってしまいます。そうなると、自分が持っていないことに対する不満ばかりが出てくるようになります。
以前、年配の女性の集まりに参加させていただいた時に、口々に自分の旦那さんと喧嘩した話しをして盛り上がっている最中に、一人の未亡人の方が、心に残りました。「あなたたちには、喧嘩する相手がいていいね~」失ってみて、そのありがたさがわかることが多いでしょう。毎日当たり前だと思っていることに、感謝する心が与えられたらと願います。