「ひとりぼっちでない ひとりぼっちになってみたい」。数年間の結婚生活が破れ、その後、都会に出て一人で生活しながら働いている卒業生からの手紙にそう書いてあった。「今の私は、本当の『ひとりぼっち』なのです。」この人が言いたいことは、人間というものは結局ひとりぼっちなのだ、ということは良くわかっているのだけれども、そのような理解、そのような諦めを、愛し、愛されている状況の中で味わってみたいということのようだ。これは一種の贅沢というものだろう。しかしながら、このような願いを誰もが多かれ少なかれ抱いているということも、また事実である。自分を無条件に受け留めてくれる大きな手の中での安定感を持ちながら、人間の本質的孤独にひたれる人は、だから、幸せな人と言わねばなるまい。それはあたかも、喫茶店なりレストランに入って、人を待っている時の気持ちにも似ている。遅れて来るかもしれないが確実にやって来て、自分の正面に腰をおろすであろう人を待っている時には、周囲がどれほどさんざめいていようが、カップルが楽しげに食事をしていようが、うらやましいとも思わず、みじめな気持ちにもならない。なぜなら、やがてそこに座る人がある空席は、心理的には実は空席ではないからなのだ。卒業生が今味わっている淋しさは、そこに座る人のない空席を前にしている一人身の淋しさといってもよいだろう。この種の淋しさも大切にしたいと思う。なぜなら、淋しさは孤独という人間の本来の姿に眼を開かせるために、通らねばならない道程におかれている飛び石のようなものだからである。私たち一人ひとりは、今日も「ひとりぼっち」の淋しさを味わいながら生きている。「ひとりぼっちでない ひとりぼっち」を味わいたいと願いながら生きている。レストランの片隅に腰をおろして、前の空席にやがて座るであろう人を待っている。「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」と約束した同伴者が、実はすでにその空席に来て、私たちを待っていたことに気付かないで・・・
(「愛をつかむ」渡辺和子著より抜粋)
あなたはひとりぼっちではありません。愛されています。