新約聖書13の書簡を書いたパウロの手紙は、学べば学ぶほど、奥の深さと説得力の強さを感じる。彼はエルサレムにて高名なラビであるガマリエルの門下で学び、当時のギリシア哲学にも触れていますが、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったため、当初、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。しかしやがて、むしろ哲学を積極的に利用しながら教義を理論化・体系化することによって、キリスト教の真理性や正当性を効果的に教えるようになりました。
それによって、当時はびこっていた異端や異教と対決する立場が優勢になったと言われています。
先週の聖書箇所であったⅠコリント15章では、「肉の体と霊の体」について、様々な手法を用いて説明している。イエスさまがヨハネ福音書12章で言われた「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という言葉を、深く掘り下げています。神さまを信じ受け入れたら、この肉と霊の部分の葛藤が始まる。これはⅡコリントでパウロが語っている「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋(肉体)の中で苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからである」ということであろう。この地上での人生は、“肉と霊”の部分の共存を神さまは私たちに求めておられるが、一粒の麦ならぬ肉が死んだなら、“霊”の部分が100%生きるようになるのです。それを巷では“死”と呼びますが、創造主を信じる人たちにとって、“死”は恐ろしいものではなく、“永遠に霊に生きる世界”(天国)への入り口にしかすぎなくなるのです。そして肉によって生きている時には分からないことも、「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(Ⅰコリント15:58)と確信することができるから、この地上でのあらゆる苦労や涙を乗り越えていくことができるのです。
やがて永遠の霊の世界に移された時、今までの全てのことが、神さまの愛であり、神さまの計画の緻密な計算だったのだと悟ることでしょう。