石切チャペルの午前礼拝の後、80代の長老さんの後を継いで、自発的に一階から二階の入口まで掃除機をかけてくれる小学生たちがいる。その姿に歓心しつつ、微笑ましく思っていたのですが、先日、都合で教会に来られなかった時に、その親が代わりに掃除機をかけておられた。それを見ながら、神の人との関係と連想して恵まれました。子どもたちは、親が自分のできない部分のフォローをしてくれているとは思ってもいないでしょう。歩き始めたばかりの子は、倒れそうになる時に親がその手を引き上げていたからこそ倒れずに歩いているという自覚はないかもしれません。しかしながら、実際には親の手助けがあるからこそ安全に歩くことができているのです。同じように天の父なる神さまも、私たちの弱い部分、出来ない部分を、フォローしてくださっているからこそ歩んでいくことができるのです。
現在、教会の礼拝では申命記から学んでいます。それはイスラエルがエジプトによる奴隷としての束縛から解放されて40年間荒野を旅した道中を回想しながらモーセが語っているメッセージであります。8章でこう言っています。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(申命記8:2-4)
実は毎日の日常が奇跡の連続なのです。当たり前が当たり前になると不平へと繋がります。荒野でマナを食べることは当たり前だと感じ始めたときに不平が出てきました。でも当たり前が奇跡だと思えるようになると、感謝が溢れるようになります。私たちは奇跡の中にいるのです!