巡礼中の二人の僧侶が川にさしかかり浅瀬を渡ろうとすると、着飾った娘に出会った。娘は、水かさが増した川を前に途方に暮れている様子だ。きれいな服を汚したくないのだろう。そこで、僧侶の一人が手間もなく、娘を背負うと川を渡り、向こう岸の乾いた土手におろしてやった。そして再び二人は旅を続けた。一時間ほど経った頃、もう一人の僧が文句を言い始めた。「女に触れるなんて、何てことだ。戒律に反するぞ。修行僧の掟を破るなんて、まったくお前はどうかしている」先ほど娘を背負った修行僧は並んで黙々と歩いていたが、とうとうこう言った。「わたしはもう1時間も前に娘をあの土手においてきたというのに、何でおまえはまだあの娘を背負っているのだ?」(「弾師の知恵」より)
 悔しい思いや、許せない出来事があると、相手や出来事によって心が縛られてしまうことがあります。実際には縛られていなくても、心が縛られてしまって、四六時中そのことによって自分が振り回されてしまうのです。悔しいと思いませんか? そこから脱する方法に関しては、積極思考や啓発的な読み物の中にいくつか紹介されています。しかし、そこには根本的な解決はなく、ただ自分に言い聞かせて説き伏せるしかないので、また思い出す度に苦い思いがフツフツと湧いてきます。私がこれまでに実践した中で、これを解決する最も効果的な方法は、神がすべての主権を持っておられることと、そして神が必ず公平にさばかれる時が来ると信じることです。そして自分自身も、本来は神の目には赦されるはずのない罪人なのに、赦されていることを自覚することです。
 ヤコブの11番目の子であるヨセフは、嫉妬からエジプトに売り飛ばした兄弟たちに対する苦々しい思いがいつもあったでしょう。それは、ヨセフが後の日にエジプトの大臣になり、それとは知らずに飢饉のために食料を求めにきた兄弟たちに対する態度からも分かると思います。すなわちヨセフは自分を明かさず、何度もいじわるとも言える言動を兄弟たちに行なっているのです。しかしそんな中で、四男ユダの犠牲的な姿に神の愛を見ました。ヨセフは、ようやく神の主権を悟り、自身を明かして言いました。「私を売ったことを嘆くことも悔やむこともありません。命を救うために、あなたがたより先に神が私をエジプトに送り込まれたのです。」 “神は私に最善しかされない”という信仰が解放の鍵です。