神が私たちの人生を導かれ、それぞれに計画を持っておられ、私たちは、どうあがいても神の意思通りになっているのであれば、もう何も成す術がないと諦め、人生を運命論的にとらえる人がいます。しかし、それは間違った聖書理解です。私たちには自由意思が与えられていて、自分自身を良いことのためにも、悪いことのためにも用いることができます。良い決断(選択)をすることもあれば、悪い決断(選択)をすることもできます。そしてこの地上では、蒔いたものを刈り取る法則に従って、喜びを得たり、悲しみを得たりしていくのです。しかしながら、神さまは、全体の時間・歴史を用いて、着々とご自身の計画を遂行しておられます。神さまにとっては、私たちが神に従ったとしても反抗したとしても、関係なく神の“時”に事を成されるのです。遅れることもなく、早まることもありません。人々が行なう悪さえも用いながら神さまは計画を神さまのタイムスケジュール通りに進めていかれるのです。これが神の主権と人間の自由意思の関係なのです。
救いに関しても同じことが言えます。救いは神さまの側の主権によって完成されました。しかし、特定の人たちだけが救われるのではありません。聖書に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)とあるように、救いに入る選択権は“すべての人”に与えられています。どちらの選択をするかは、私たちの自由意思に委ねられているということです。全能の神さまは、どう決断するかはご存知ですが・・・
神さまのご意志が進められるのであれば、私たちがこの地上でジタバタ神さまに抵抗したところで、何の得にもなりません。無駄な抵抗です。ただ蒔いたものの刈り取りはしなければならないのです。どうせなら、神さまに従う選択をして、安心できる喜びの人生を歩んだ方が良いのではないでしょうか?
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)