ある方の文章です。20年前ぐらいの前の話。当時、私の家はいわゆる片親ってやつで、すごく貧乏だった。子供3人養うために、母親は夜も寝ないで働いていました。それでも、どん底でした・・・。私は中学を卒業してすぐ働きに出た。死ぬほど働いた。遊んでいる暇なんてなかった。1年ぐらいして、同級生に久しぶりに会い飯食いに行こうという話になった。ところが私はメニューの漢字が読めなかった。読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。同級生は「焼きそばと、ごはん」と注文した。無知な私は「じゃあ、俺はオムライスとごはん」って店員に言った。店員、固まっていた。周りでクスクスと笑い声も聞こえてきた。そうすると、同級生「あっ、さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」・・・店出た後、同級生が一言「うまかったな。仕事がんばれよ!」って言ってくれた。泣けてきた。心の底から人に「ありがとう」って思った。そいつは、今でも親友です。
この話しを読みながら、新約聖書・ヨハネ福音書に出てくる罪の女性を思い出しました。人々が彼女を姦淫現場で捕らえてイエスさまの前に引き出しました。人々はイエスさまに「モーセの律法では、このような女性は石で打ち殺せとありますが、あなたはどう思いますか?」と問いました。この女性は、ほとんど何も身にまとわない状態で人々の前に出され、人々の恥ずかしい痛い視線を浴びていたことでしょう。しかし、イエスさまは、突然その場にスッと身をかがめて、地面に何かを書き始められました。人々の興味は、イエスさまが何を書いておられるのか?ということに興味が向けられ、女性に向けられていた視線が、イエスさまの指先に移っていったことで、女性の恥が軽減されたことでしょう。これを“視線の肩代わり”と呼ぶことができるでしょう。
イエスさまは、私たちの罪や恥、弱さを全部請け負ってくださいました。十字架の醜さは、まさに私たちの恥であり、隠しておきたい私たちの罪の姿そのものなのです。心の底から「ありがとう!」と叫びたい。