羊は山道を歩いている時に、自分の好きな草を見つけると、1メートルの絶壁であっても、飛び降りてそれを得ようとするそうです。ところが、降りて喜んで草を食べるのですが、問題は食後です。その1メートルの高さから降りることはできても、上がることができないのです。その下にはもっと恐ろしい断崖があるので、まったく身動きができない状態になってしまいます。もし羊飼いが網を下ろして羊を引き上げようとするならば、羊は自分を捕獲するために来たのだと思い、後ずさりして、崖から落ちて死んでしまいます。そこで羊飼いは、羊が疲れ果てて気を失うまで手を出さないで見守り続けます。そして完全に気力を失って倒れた時に、羊の身体に網を巻きつけて引き上げるそうです。
私たち人間と神さまとの関係も似たようなところがあると思います。神さまに「委ねます」と宣言しお願いしながら、自分が持っている可能性や能力で何とかしようと計算してしまいます。ですから、能力のある人や力のある人は、委ねるとは言いながら、ジタバタしてしまうのです。それは自分の中にまだ力があるからです。そうなると神さまの出番はありません。私たちがまだ倒れてしまうほど飢えていないので、神さまが助けてくださらないのです。神さまは、私たちの力が完全に尽きるまで待っておられます。力尽きて神さまに抵抗できなくなるまで見守っておられるのです。イスラエルの民は律法を守り行うことに必死でしたが、結局神さまは、彼らが守りきることができないことを知って力尽きて神を求めるようになることを待っておられたのです。ここで言う「力尽きる」とは、必ずしも現実に力尽きて倒れてしまうということではありません。私たちの中には、手放せない夢とか、計画とか、願いごとがありますが、それらの自己実現に生き続けようとする思いをある意味「諦める」ということなのです。では、何も夢も希望も持ってはいけないのでしょうか? そんなことはありません。神実現に生きる願望を持つのです。そうすることによって、驚くべき神さまの助けを得ることができるようになりますし、人生の悩みが軽減します。私もそれを体感中です!