私たちは何かしら目標とか目的をもって生きています。なぜならそれが様々な原動力になるからです。働くことも、学ぶことも、生きることも、ゴールが見えないと、虚しくなってきます。ある国の拷問の中で、バケツの水を右から左に移し替える作業をずっと繰り返させると、やがて発狂してしまうという話を聞いたことがあります。人間は無意味だと自覚していることを継続することはできないのです。逆に他者から見て無意味に見えても、本人の中にゴールが見えているならば、それを続ける活力が与えられます。しかしながら成功できた人も失敗ばかりの人も、友人に恵まれた人も、孤独な生涯であった人も、みな同じゴールが最後には待っています。それは、人は死んでいくということです。それで全てが終わりであれば、人の一生というものは実に空しいことでしょうか。
聖書は、私たちの最終ゴールは、「天のふるさと」に帰ることであると明確に記しています。旧約に出てくるアブラハムも、この地上では報われることが何もなくても、「天のふるさと」を望みみて喜びながら生きることができたとあります。イエスさまは、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍ことができたとも書かれています。この地上での目標設定も大切ですが、それはこの地上のみで終わってしまうものです。でも永遠の世界(肉体の死の向こう側)におけるゴールを知っているならば、鬼に金棒です。この地上では孤独であっても、弱者であっても、負け組と呼ばれたとしても、希望が与えられます。
この希望は、私たちの罪の身代わりのために十字架で死に、3日後に甦られ、今も生きて働いておられるイエスさまを心にお迎えするだけで与えられます。苦行を行なうこと、律法を守ること、さまざまな努力をすることによって救われるのではありません。イエスさまが全部してくださるのです。そこに安定した安心が与えられるのです。心にお迎えすることによって、私たちの生き方が自然と変えられていくのです。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)