1975年にアメリカで行われた、ある集会で、病気の癒しが沢山起こりました。多くの車椅子の人達が立ちあがり、ガンが癒され、目や耳の不自由な人達が癒され、主の御名が崇められました。その場所は、神様の臨在が濃厚でした。ある青年もその会衆の中にいて、神様がなさっておられることに感動していました。そしてその集会が終わって、その会場の出口から沢山の人々が出始めました。その青年も帰ろうとしてドアに近づいた時、母親に押されている車椅子の少女が見えました。ところが、驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、体は異常に小さく、すぐに奇形児だとわかりました。青年は、そのような子供を初めて見て驚き、悲しく思いました。そして神様にこう訴えました。「主よ、何故、この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今癒しを必要としているのです!」そして神さまが、その子を癒されなかったことに憤りを覚えながら、長距離バスに乗り込みました。その2時間後、バスの中で夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆、あの場面でした。ドアの辺りに、車椅子の少女とそれを押している母親がいました。そこには、この親子を見ながら「主よ、何故、この子を癒してくださらなかったのですか?…」と訴えている自分自身の姿もそこにありました。しかしそのシーンを見ていると、イエス様がその少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえておられました。そして言われたのです「私はこの子を忘れているのではありません。一度も忘れたことはありません」夢から目覚めた青年は震えました。そしてそれが訴えに対する答えだったのです。
「どうして?」と思える現実の中でも、主は忘れておられるのではなく、ご不在になっておられるのでもなく、100%、全ては神さまの手の中にあるということなのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(Ⅰテサロニケ5章16~18節)