ピカソの作品の中に、1942年作の「雄牛の頭」という造形物があります。数十億円にもなる作品ですが、驚いたことに、この作品は捨てられていた自転車で造られたものです。あるよく澄んだ冬の日、ピカソは一人で家の近くを散歩していました。ところが、突然、周囲の風景に全く合わないものが彼の目に留まりました。一台の壊れた自転車でした。古くなって使えなくなったものを、だれかが捨てていったのです。彼はその自転車を家に持ち帰り、サドルとハンドルをはずし、サドルを逆さまにしてハンドルを付けました。そして、それを「雄牛の頭」と名付けました。ピカソはこの作品を完成させた後、満足して「ゴミでも偉大な可能性を発見すれば、それは芸術品の材料になる」と語りました。捨てられて、だれの目もくれなかった自転車が、ピカソの手によって偉大な芸術品に生まれ変わったのです。
神様はどんな人でも変えることがおできになります。「あの人は絶対変わらない」とむやみに断言してはなりません。あなたがキリストにあって変えられたことを経験したなら、ほかの人もいくらでも崩され、砕かれて、神さまの尊い働き人として用いられるのです。神様は、ある人、ある民族を必要な器として造られるために、その人や民族を崩し、壊して、そこに新しい霊を注ぎ、回復させてくださいます。これが恵みなのです。             (「神の満たし」キム・ビョンテ著)

 車が壊れたら、車屋さんへ持っていきます。時計が壊れたら、時計屋さんへ持っていきます。それぞれのメーカーの所へ持っていかなければ、何の解決にもなりません。私たち自身は、どこへ持っていけばいいのでしょうか? 天地を造られた神が、私たち人間をも造られたメーカーであるなら、そこへ持っていかなければ、本当の解決はないということでしょう。
 「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ書)